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第80話 黒い染みは文字ではない

 ルナは、水を二杯飲んだ。


 一杯目は、朝食の前。


 二杯目は、皿を拭く前。


 それを見て、ミアが首を傾げた。


「女神、今日は水多い」


「手順です」


「手順なら仕方ない」


「はい」


「お腹ちゃぷちゃぷにならない?」


「神なので」


「便利」


「少し便利です」


 ルナは少しだけ笑った。


 笑ったが、薄い。


 昨日の音声ログを聞いた後の顔が、まだ少し残っている。


 聞いたことがあります。


 声ではありません。


 言い方を。


 その言葉が、アルトの中にも残っていた。


 聞きたい。


 どこで聞いたのか。


 誰が使った言い方なのか。


 神である前から持っているものと、関係があるのか。


 全部聞きたい。


 でも、聞かない。


 今聞けば、たぶん近づきすぎる。


 ルナも、それを分かっている顔をしていた。


 アルトはスープを飲む。


 熱い。


 熱いものを飲むと、聞きたい言葉が少しだけ奥へ下がる。


 完全には消えない。


 だが、今はそれでいい。


「昨日の」


 アルトは言いかけた。


 ルナの手が少し止まる。


 皿は落ちない。


 ミアがすぐに見る。


「女神、皿」


「落としません」


「よし」


 アルトは続きを変えた。


「昨日の音、今日は聞かない」


 ルナは少しだけ目を伏せた。


「はい」


「白い扉も見ない」


「はい」


「黒い染みだけだ」


 ルナは水のコップを見る。


 もう空に近い。


「それも、近いです」


「だろうな」


「でも」


「必要か」


「はい」


 ルナは小さく頷いた。


「必要かもしれません」


「便利な言い方だな」


「便利ではありません」


「知ってる」


 ルナは少しだけ笑った。


 その笑いは、昨日より少しましだった。


 ◇


 隅の机の芋は、まだ残っている。


 昨日より少しだけ表面が乾いていた。


 マルタが朝のうちに布をかけた。


「芋にも布?」


 ミアが驚く。


「乾くからね」


「食べないのに?」


「食べるために残してるんだよ」


「なるほど」


 ミアは真剣に頷いた。


 芋は、まだ帰ってきた後のものだ。


 その横に、金属片。


 水の入ったコップ。


 塩。


 黒パンの欠片。


 小皿。


 布巾。


 隅の机は、もう完全に赤猫亭の机に戻っていた。


 それでも、誰も普通には使わない。


 今は入口でもある。


 戻る場所でもある。


 危ない場所でもある。


 必要な場所でもある。


 嫌なことに、全部が同時に正しい。


 ブルーノは紙を広げる。


【今日見るもの】


 その下に、一つだけ。


【黒い染み】


 さらに下。


【音声ログは聞かない】


【白い扉は開けない】


【拡大は一度だけ】


【名前をつけない】


【見た後、水を飲む】


【帰ってきたら芋はまだ残す】


 ミアが最後の行を見て、不満そうにする。


「今日も食べない?」


「今日は黒い染みを見るだけだからな」


 アルトが言う。


「帰ってきたら食べるって言った」


「まだ帰ってくる用だ」


「何回帰ってくるの」


「必要なだけ」


 ミアは芋を見た。


「芋、大変」


「そうだな」


「でも偉い」


「偉いな」


 アルトは素直に言った。


 芋は偉い。


 そういうことになっている。


 もう、深く考えない方がいい。


 ◇


 神々のコメント欄は、今日も少しだけ開いた。


 芋の話題はまだ続いている。


『芋まだ残ってる?』


『帰還芋、布かけられてて草』


『芋の待遇が神より上』


『女神より水飲んでる?』


『昨日の白い場所、続きある?』


『投げ銭できなかったの何だったんだ』


『こつの意味考察班いる?』


 ブルーノが顔をしかめる。


「こつの意味考察が増えています」


「止めろ」


「完全には難しいです」


「芋で流せ」


「芋で全部を解決しようとしていますね」


「解決じゃない。ごまかしだ」


「正直ですね」


 ブルーノは短い告知を流した。


《赤猫亭の芋はまだ食べません》


 コメント欄がまた流れる。


『まだかよ』


『芋、焦らすな』


『帰ってきたら食べるやつだろ』


『帰ってきたらってどこから?』


『深読みやめろ』


『芋は芋』


 アルトは最後のコメントを見て、少しだけ助かった。


 芋は芋。


 それでいい時もある。


 神々の中にも、たまに役に立つ軽さがある。


 たまにだが。


 ◇


 レオンからは、昼前に連絡が来た。


《少し眠った》


 昨日と同じ。


 その下にもう一文。


《水を先に飲むと、眠りやすい》


 アルトは画面を見て、少しだけ息を吐いた。


 それは、良い報告だった。


 大きくはない。


 解決でもない。


 でも、一つ増えている。


 水を飲む。


 横になる。


 少し眠る。


 水を先に飲むと、眠りやすい。


 戻る手順が、少しずつレオンのものになっている。


 アルトは返信する。


《それを続けろ》


 少し考え、もう一文。


《眠れない日は横になれ》


 既読。


 返事は少し遅れて来た。


《分かった》


 それだけ。


 アルトは端末を閉じた。


 ミナが言う。


「よかったですね」


「まだ少しだぞ」


「少しが続くのは、大きいです」


「そうか」


「はい」


 ミナは静かに頷いた。


 少しが続く。


 それは、机のリハビリにも似ている。


 木片。


 コップ。


 水。


 塩。


 黒パン。


 湯気。


 子ども。


 芋。


 一つずつ。


 戻るものは、たぶん一気には戻らない。


 ◇


 黒い染みを見るのは、営業が終わってからになった。


 当然のように、マルタがそう決めた。


「飯を出してからだよ」


「もう誰も逆らわないな」


 アルトが言う。


「逆らう理由がないからね」


 強い。


 客が来る。


 スープを飲む。


 黒パンを食べる。


 近所の子どもも来た。


 芋を見て、また言った。


「まだ食べてない」


「まだだね」


 マルタが答える。


「いつ食べるの?」


「帰ってきたらだよ」


「どこから?」


 子どもは普通に聞いた。


 全員が少し止まる。


 マルタだけが止まらなかった。


「変なところからさ」


「ふーん」


 子どもは納得した。


 強い。


 子どもとマルタは、時々いちばん強い。


 アルトは水を飲んだ。


 夜まで待つ。


 待てる。


 保留ではない。


 今日は、こちらが決めて待っている。


 ◇


 夜。


 赤猫亭の営業が終わる。


 扉が閉まる。


 鍋が下ろされる。


 皿が洗われる。


 ルナは今日は皿を拭かない。


 水を飲む役。


 ミアは芋の見張り役。


 ガルムは階段の近く。


 ガルドは床に手を置く。


 ミナは水を用意する。


 ブルーノは端末を置く。


 マルタは鍋の前。


 アルトは隅の机に手を置く。


 金属片を持つ。


 手順を確認する。


「音声ログは聞かない」


 ブルーノが言う。


「ああ」


「白い扉は開けない」


「ああ」


「黒い染みだけ。一度だけ拡大します」


「一度だけだ」


 ルナが水を飲む。


 一口。


 もう一口。


 アルトはそれを確認した。


 床の合図。


 アルトが一回叩く。


 こつ。


 二階から一回返る。


 こつ。


 いる。


 今日はそれだけ。


 マルタが鍋を鳴らす。


 かん。


 アルトが金属片を鳴らす。


 かん。


 赤猫亭の音を確認する。


 それから、ブルーノが参照を開始した。


 ◇


 旧待機区画は、昨日と同じ白だった。


 壁。


 床。


 天井。


 机。


 椅子。


 扉。


 全部が明るい。


 全部が冷たい。


 音はない。


 やはり、音がない。


 分かっていても嫌だった。


 画面の中の白い机。


 傷のない机。


 染みのない机。


 いや。


 ひとつだけ、黒い染みがある。


 昨日は見ないようにしたもの。


 今日はそれを見る。


 ブルーノが息を整える。


「拡大します」


「一度だけ」


「はい」


 画面が寄る。


 白い机の上。


 黒い小さな染み。


 焦げではない。


 汚れでもない。


 血でもない。


 インクでもない。


 文字の欠片のように見える。


 だが、文字ではない。


 形になりきっていない。


 何かが書かれようとして、途中で止まった跡。


 何かが名前になろうとして、名前になれなかった跡。


 そんなものに見えた。


 ルナが息を呑む。


 アルトは振り返らない。


 見れば聞きたくなる。


 だから画面を見る。


 黒い染みは、ゆっくり揺れているように見えた。


 実際には動いていない。


 でも、見ていると、こちらの目の中で形を変える。


 ブルーノが低い声で言う。


「文字ではありません」


「ああ」


「でも、文字になりかけています」


「名前か」


 言ってしまってから、アルトは舌打ちしそうになった。


 近い。


 ブルーノも分かっている。


「名前とは限りません」


 ルナが、小さく言った。


「では何だ」


 アルトは聞く。


 ルナは水のコップを持つ。


 手が少しだけ震えている。


「呼び方になる前のもの」


 店の空気が硬くなる。


 ルナはすぐに首を横に振った。


「違います。今の言い方は、近すぎます」


「でも言った」


「はい」


「忘れられないぞ」


「分かっています」


 黒い染みは、画面の中でまだそこにある。


 白い机の上。


 何も置かれていない机の上。


 唯一の汚れ。


 唯一の未完成。


 ブルーノが紙に書く。


【黒い染み:文字ではない】


 少し迷い、もう一行。


【呼び方になる前のもの】


 アルトは止めようとした。


 だが、止めなかった。


 紙の上に置く。


 机の上に芋を置くように。


 頭の中だけに残すよりは、まだましだ。


 ◇


 コメント欄は遅れていた。


 昨日よりはましだ。


 だが、やはり遠い。


『黒い?』


『何あれ』


『文字?』


『焦げ?』


『拡大もっと』


『投げ銭できないんだが』


『これ見ていいやつ?』


 ブルーノがコメント欄を閉じる。


「これ以上は見せません」


「いい」


 アルトはすぐに言う。


「神々に名前をつけられる」


「はい」


 画面の中、黒い染みは少しだけ濃くなったように見えた。


 気のせいかもしれない。


 気のせいであってほしい。


 アルトは金属片を握る。


 かん、と鳴らしたい。


 でも鳴らさない。


 今鳴らすと、向こうに拾われる気がした。


 マルタが鍋を鳴らした。


 かん。


 赤猫亭側から。


 その音で、黒い染みが少し遠くなる。


 やはり、音は効く。


 アルトは息を吐いた。


「今日はここまでだ」


 ブルーノは即座に画面を閉じる。


 白い机。


 黒い染み。


 白い扉。


 全部が消える。


 赤猫亭の灯りが戻る。


 芋。


 水。


 塩。


 黒パン。


 鍋。


 床。


 ルナが水を飲む音。


 こと。


 アルトは座った。


 ミナが水を出す。


 飲む。


 マルタが言う。


「食べな」


 今日は小さな黒パンだった。


 芋ではない。


 芋はまだ残す。


 アルトは黒パンを食べた。


 硬い。


 ちゃんと硬い。


 白い場所にはなかった硬さだった。


 ◇


 ルナは、少し遅れて座った。


 水のコップは空になっている。


 ミアが見て言う。


「女神、水終わった」


「飲みました」


「追加?」


「お願いします」


 ミアが水を汲みに行く。


 珍しく自分から動いた。


 ルナはそれを見て、少しだけ目を細める。


 アルトは聞いた。


「さっきの言い方」


「はい」


「今は聞かない」


 ルナは顔を上げる。


「……はい」


「でも、覚えておく」


「はい」


「それでいいか」


 ルナは少しだけ考えた。


「今は、それが一番いいと思います」


「便利に使うなよ」


「少しだけ使っています」


「正直だな」


「嘘をつく余裕がありません」


 ルナは小さく笑った。


 その笑いは弱い。


 だが、消えてはいない。


 ミアが水を持って戻る。


「女神、水」


「ありがとうございます、師匠」


「よし」


 ミアは満足した。


 アルトは黒い染みのことを考える。


 文字ではない。


 呼び方になる前のもの。


 名前ではない。


 名前になる前でもない。


 もっと手前。


 誰かを呼ぶための形になる前。


 それが、白い机の上に残っていた。


 帰還先、未成立。


 場所がなければ戻れない。


 名前だけでは場所にならない。


 呼び方になる前のもの。


 全部がつながりかける。


 つなげるな。


 今日はここまで。


 ◇


 夜。


 旧待機区画は開かなかった。


 音声ログも聞かなかった。


 白い扉も開けなかった。


 今日は黒い染みだけを見た。


 それだけで十分だった。


 アルトは二階へ上がる。


 客間の前で一回叩く。


 こつ。


 中から一回返る。


 こつ。


 いる。


 今日はそれだけでいい。


 自分の部屋に戻る。


 端末は棚。


 手帳は布の中。


 金属片は隅の机。


 芋の横。


 その配置も、もう慣れてきた。


 慣れていいのかは分からない。


 でも、戻る場所に置いてある方が今は楽だ。


 寝台に座る。


 下の階で鍋が鳴る。


 かん。


 少し遅れて、二階の床。


 こつ。


 一回。


 いるか。


 アルトは木枠を叩く。


 こつ。


 いる。


 それで終わると思った。


 だが、少しして、また床が鳴る。


 こつ、こつ、こつ。


 三回。


 開けるな。


 アルトは息を止めた。


 今日は、白い扉を開けていない。


 開けていないのに、三回。


 開けるな。


 誰に。


 何を。


 答えは出ない。


 出さない。


 アルトは端末を見なかった。


 水を飲む。


 横になる。


 三回鳴ったら即時終了。


 決めた。


 だから、今日はもう終わりだ。


 白い扉は開けない。


 黒い染みも見ない。


 音声ログも聞かない。


 アルトは灯りを落とした。


 暗くなる直前、隅の机の方から、かすかに金属が鳴った気がした。


 かん。


 芋の横に置いた金属片。


 気のせいかもしれない。


 でも、今日は確かめない。


 三回鳴った。


 だから、終わり。


 アルトは目を閉じた。


 呼び方になる前のもの。


 その言葉を、鍋の音で覆う。


 かん。


 まだ、赤猫亭の音で覆える。


 今は、それでいい。


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