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第79話 音が一つだけ残っている

 朝、二階の床は鳴らなかった。


 こつ。


 それがない。


 ないだけで、少し落ち着かなかった。


 昨夜は二回鳴った。


 戻れ。


 そのあと、一回。


 いるか。


 アルトは木枠を叩いて返した。


 いる。


 それで終わった。


 朝になっても、意味は残っている。


 一回は、いるか。


 二回は、戻れ。


 三回は、開けるな。


 決めたばかりの合図。


 決めたからこそ、鳴らないことも気になる。


 赤猫亭の朝は、いつも通り始まっていた。


 マルタが鍋を火にかける。


 ミナが水を並べる。


 ブルーノが紙を出す。


 ルナが水を飲む。


 ガルムが入口を見る。


 ガルドが二階の階段を見上げる。


 ミアは芋の前に立っている。


 芋はまだある。


 金属片も横にある。


 昨日、部屋には持っていかなかった。


 戻る場所に置いておく。


 そう決めた。


 だから、今朝もそこにある。


 芋と金属片。


 変な組み合わせだ。


 でも、赤猫亭ではもうそれほど変ではない。


「今日、聞くの?」


 ミアが聞いた。


 アルトは水を飲む手を止める。


「何を」


「音」


 ミアは隅の机を見た。


「昨日、聞かなかったやつ」


 アルトは黙った。


 白い場所に一つだけ残っていた音声ログ。


 音のない場所の、ただ一つの音。


 昨日は聞かなかった。


 聞くな、と言った。


 正しい判断だったと思う。


 でも、残っている。


 音声ログがある。


 その事実だけが、昨日からずっと残っている。


「聞くかどうかは、まだ決めてない」


 アルトは答えた。


 ミアは芋を見る。


「じゃあ芋はまだ?」


「まだ」


「長い」


「長くていい」


「芋、我慢強い」


「見習え」


「ひどい」


 ミアは芋を見張りながら頬を膨らませた。


 それだけで、少しだけ空気が戻る。


 ◇


 ブルーノは、旧待機区画の紙を出した。


 ただし、一番上に別の紙を重ねている。


【音を聞く前の手順】


 新しい紙だった。


 アルトは嫌な顔をした。


「また増えたのか」


「必要です」


「紙で店が埋まりそうだな」


「そのうち整理します」


「そのうちって、やらないやつの言い方だぞ」


「分かっています」


 ブルーノは少しだけ笑った。


 その笑いは疲れているが、折れてはいない。


 紙には、短い項目が並んでいる。


 一、先に赤猫亭の音を聞く。

 二、金属片を持つ。

 三、鍋の音を確認する。

 四、床の合図を確認する。

 五、音声ログは一度だけ。

 六、途中で二回鳴ったら止める。

 七、三回鳴ったら即時終了。

 八、聞いた後、名前をつけない。

 九、水を飲む。

 十、芋は帰ってきてから。


 最後の行でミアが頷いた。


「重要」


「お前のためだけじゃないぞ」


「でも重要」


「重要なのは否定しない」


 ミナが紙を見る。


「良いと思います」


「治療っぽいか」


「はい。刺激を入れる前に、戻れる感覚を確認しておくのは大事です」


「音声ログを刺激って言うのか」


「今は、それくらいの扱いでいいと思います」


 ミナは静かに言った。


 ルナは紙を見ている。


 今日は皿を持っていない。


 水のコップだけを両手で包んでいる。


「ルナ」


 アルトが呼ぶ。


「はい」


「今日、無理そうなら言え」


 ルナは少し驚いた顔をした。


 それから、ゆっくり頷く。


「言います」


「本当にか」


「勝手に黙っていたら、皿道師匠に怒られます」


 ミアが胸を張る。


「怒る」


「強いな」


「師匠だから」


 ルナは少し笑った。


 それで、少しだけ水を飲んだ。


 ◇


 神々のコメント欄は、今日も少しだけ開けた。


 ただし、直接は読まない。


 ブルーノが流れだけを見る。


 白い部屋という言葉は、昨日より減っていた。


 代わりに、芋が増えていた。


『芋まだ?』


『帰還芋どうなった』


『赤猫亭の芋、神貨投げられないの?』


『芋に戻る手順ある?』


『昨日の床音こわかった』


『こつ二回って何?』


『アルト、今日は何するんだ?』


 ブルーノが眉を寄せる。


「こつ二回、拾われています」


「まずいか」


「まだ意味までは拾われていません」


「拾われたら?」


「面倒です」


「面倒で済むか」


「済まないかもしれません」


 アルトは少し考えた。


「合図の意味は、コメント欄に出すな」


「はい」


「神々に合図を覚えられるのは嫌だ」


「同意します」


 ミアが首を傾げる。


「でも、神様は見てるよ?」


「見てるのと、使えるのは別だ」


 ガルドが言った。


 全員が少し驚いてガルドを見る。


 ガルドは机を叩いている。


「道具は、使い方を知っているやつが使う。見ているだけのやつは、使っているようで使っていない」


 アルトは少しだけ頷いた。


「神々は見てるだけか」


「多くはな」


 ルナが静かに言う。


「だからこそ、危ないのです。見ているだけのものが、使っているつもりになる時があります」


 コメント欄が少し流れる。


『何か重い話してる?』


『芋の話しろ』


『神々の悪口?』


『聞こえてるぞー』


『芋まだ?』


 ブルーノが一部を流し、一部を見ない。


 それも戻る手順になりつつあった。


 ◇


 昼前。


 レオンから短い連絡が来た。


《少し眠った》


 昨日と同じ。


 その下に、もう一文。


《夢は覚えていない》


 アルトは画面を見た。


 少し考える。


 覚えていないことを、わざわざ送ってきた。


 たぶん、覚えていないのが気になるのだろう。


 覚えていない夢。


 それも嫌だ。


 だが、今聞くことではない。


 アルトは返信する。


《水を飲め》


 少し考えて、もう一文。


《覚えてないなら、今日はそれでいい》


 送信。


 既読。


 返事はない。


 アルトは端末を閉じた。


 ブルーノが見る。


「レオン様ですか」


「ああ」


「夢ですか」


「覚えてないらしい」


「それは」


「言うな」


 アルトが止める。


 ブルーノは口を閉じた。


 近い。


 夢。


 音声ログ。


 帰還準備。


 未完了。


 白い場所。


 全部が、妙に近い。


 でも、今日はレオンの夢を追わない。


 旧待機区画の音声ログを聞くかどうかだけで十分だ。


 十分すぎる。


 ◇


 音声ログを聞く準備は、夕方から始めた。


 営業中にはしない。


 マルタがそう決めた。


「客に飯を出してからだよ」


「旧待機区画の音より飯か」


「当たり前だろ」


 やはり強い。


 客が来た。


 黒パンを食べる人。


 スープを飲む人。


 水をこぼして謝る人。


 ミアが芋を守りながら、それを見ている。


 隅の机には誰も座らない。


 芋があるからだ。


 誰も座らないのに、空いている感じはしない。


 芋がある。


 金属片がある。


 帰ってくるためのものがある。


 それだけで、そこは使われている気がした。


 白い旧待機区画の机を思い出す。


 傷がない。


 染みがない。


 何も置かれていない。


 使われた跡がない。


 音声ログだけが一つある。


 アルトはそのことを考えないようにした。


 考えないようにすると、余計に考える。


 だから水を飲んだ。


 座った。


 スープを飲んだ。


 熱い。


 まだ赤猫亭にいる。


 ◇


 夜。


 営業が終わった。


 赤猫亭の扉が閉まる。


 鍋が下ろされる。


 皿が洗われる。


 ルナは今日は皿を拭かなかった。


 ミアが「今日は師匠休み」と言った。


 ルナは「助かります」と答えた。


 全員が、隅の机の周りに集まる。


 芋。


 金属片。


 水。


 塩。


 黒パン。


 布巾。


 湯気はもうない。


 だが、机は冷たくないように見えた。


 ブルーノが端末を置く。


 承認画面は開かない。


 赤猫亭側入口の処理だけを使う。


 アルトは金属片を持った。


 手順を確認する。


 一、先に赤猫亭の音を聞く。


 マルタが鍋を鳴らした。


 かん。


 二、金属片を持つ。


 アルトは握る。


 三、鍋の音を確認する。


 もう一度。


 かん。


 四、床の合図を確認する。


 アルトは床を一回叩いた。


 こつ。


 二階から、一回返った。


 こつ。


 いる。


 ルナは下にいる。


 まただ。


 だが、今日は決めている。


 一回は、いるか。


 返事が一回。


 いる。


 それ以上は追わない。


 五、音声ログは一度だけ。


 ブルーノが深く息を吸った。


「再生します」


 アルトは頷いた。


「一度だけだ」


「はい」


 ミナが水を用意する。


 ルナも水を飲む。


 ミアは芋を見張る。


 ガルムは階段を見る。


 ガルドは床に手を置く。


 マルタは鍋の前に立つ。


 そして、音声ログが再生された。


 ◇


 最初は、何も聞こえなかった。


 無音。


 旧待機区画の音と同じ。


 音がない音。


 それだけで喉が乾く。


 アルトは金属片を握る。


 そして、かすかなノイズが入った。


 ざ。


 遠い。


 かなり古い音。


 誰かの息。


 いや、息に似た処理音。


 それから、声がした。


『――迎えではない』


 アルトの背中が冷えた。


 ルナが水のコップを強く持つ。


 ブルーノの手が止まる。


 ミナが水を差し出しかける。


 声は続く。


『帰還は、迎えではない』


 男か女か分からない。


 若いのか古いのかも分からない。


 ただ、疲れている声だった。


 人の声のようで、人だけの声ではない。


『場所がなければ、戻れない』


 ざ。


 音が乱れる。


『名前だけでは、場所にならない』


 アルトは息を止める。


 赤猫亭の棚。


 芋。


 水。


 塩。


 黒パン。


 鍋。


 床。


 全部が頭の中でつながりそうになる。


 つなげるな。


 まだ早い。


 声は途切れながら続いた。


『――待機区画は、場所ではなかった』


 ブルーノが小さく息を呑む。


『待つ形だけがあり、戻る音がなかった』


 マルタが鍋を鳴らした。


 かん。


 声が一瞬遠のく。


 まるで、その音に押し戻されたように。


 だが、ログは続く。


『帰還準備、未完了』


 アルトの手が強くなる。


 金属片が掌に食い込む。


『……未完了ではない』


 店の空気が止まった。


 声が、ひどく近くなる。


『帰還先、未成立』


 そこで、ログは切れた。


 ◇


 誰もすぐには喋らなかった。


 赤猫亭の音だけが戻る。


 鍋の余熱。


 水の揺れ。


 ミアが小さく息をする音。


 ルナがコップを置く音。


 こと。


 アルトは水を飲んだ。


 ミナが差し出した水。


 飲む。


 喉を通る。


 味がある。


 水に味があるように感じるくらい、喉が乾いていた。


「もう一度」


 ブルーノが言いかけた。


 アルトは首を横に振った。


「一度だけだ」


「はい」


 ブルーノはすぐに端末を閉じた。


 手順通り。


 端末をすぐ見ない。


 名前をつけない。


 水を飲む。


 座る。


 誰かの声を聞く。


 マルタが言った。


「座りな」


 アルトは座った。


 座っていた気もする。


 でも、改めて座った。


 ミアが芋の前から動かずに聞く。


「帰ってきた?」


 アルトは少しだけ考えた。


「まだ途中」


「じゃあ芋まだ?」


「まだ」


「分かった」


 ミアは頷いた。


 本当に偉い。


 ルナは水を飲んだ。


 一口。


 もう一口。


 そして言った。


「聞いたことがあります」


 店の空気がまた硬くなる。


 アルトはルナを見る。


「今の声か」


「声ではありません」


「じゃあ何を」


「言い方を」


 ルナはコップを両手で包む。


「帰還先、未成立。その言い方を、私は知っています」


 アルトは聞きたかった。


 どこで。


 誰が。


 いつ。


 でも、今聞くと近すぎる。


 ルナの顔も、そう言っている。


 アルトは水を飲んだ。


「今日は、そこまでだ」


 ルナは少しだけ目を伏せた。


「はい」


 ブルーノも頷く。


「音声ログは閉じます」


「次は?」


 ミアが聞く。


 誰も答えなかった。


 次。


 黒い染み。


 白い扉。


 帰還先、未成立。


 聞きたくない言葉が増えた。


 だが、聞いてしまった。


 ◇


 手順に従って、全員が一度赤猫亭へ戻った。


 いや、赤猫亭にいる。


 それでも、戻る必要があった。


 手を洗う。


 水を飲む。


 座る。


 温かいものを食べる。


 マルタが小さな椀を出した。


 芋の入ったスープ。


 ただし、隅の机の芋ではない。


 また別の芋だ。


 ミアが少し複雑な顔をした。


「予備芋多い」


「多くて悪いかい」


「悪くない」


 ミアは素直に言った。


 アルトは椀を受け取る。


 スープの中に小さな芋が沈んでいる。


 食べる。


 熱い。


 味がある。


 旧待機区画の音声ログにはなかったもの。


 帰還先、未成立。


 その言葉を、スープの熱で少しだけ沈める。


 沈みきらない。


 でも、表面からは少し遠ざかる。


 ブルーノは紙に一行だけ書いた。


【帰還先、未成立】


 そして、その下にもう一行。


【名前をつけない】


 アルトはそれを見る。


「書いたな」


「書かないと、頭の中で勝手に大きくなります」


「書いても大きいだろ」


「はい。でも、紙の上に置きます」


 紙の上に置く。


 机の上に芋を置くように。


 そういう置き方もあるのかもしれない。


 ◇


 夜。


 旧待機区画は開かなかった。


 音声ログも再生しなかった。


 黒い染みも見なかった。


 白い扉にも近づかなかった。


 今日は、音を聞いた。


 一度だけ。


 それで十分だった。


 十分すぎた。


 アルトは二階へ上がる。


 客間の前で、一回叩く。


 こつ。


 中から一回返る。


 こつ。


 いる。


 それだけ。


 自分の部屋に戻る。


 端末は棚。


 手帳は布の中。


 金属片は、また隅の机に置いた。


 芋の横に。


 今日は持っていかない。


 戻る場所に残しておく。


 寝台に座る。


 下の階から鍋の音。


 かん。


 少し遅れて、床が一回鳴った。


 こつ。


 いるか。


 アルトは寝台の木枠を叩く。


 こつ。


 いる。


 それで終わるかと思った。


 だが、少しして、床が二回鳴った。


 こつ、こつ。


 戻れ。


 アルトは目を閉じた。


 もう戻っている。


 赤猫亭にいる。


 それでも、戻れと言われた。


 たぶん、頭の中がまだ白い場所に残っている。


 アルトは水を飲んだ。


 横になる。


 目を閉じる。


 帰還は、迎えではない。


 場所がなければ、戻れない。


 名前だけでは、場所にならない。


 待機区画は、場所ではなかった。


 戻る音がなかった。


 帰還先、未成立。


 言葉が並ぶ。


 並べるな。


 でも、もう聞いた。


 だから、上から鍋の音を置く。


 かん。


 記憶の中で鳴らす。


 もう一つ。


 こつ。


 床の音も置く。


 芋はまだある。


 帰ってきたら食べる芋。


 だから、ここはまだ場所だ。


 アルトは灯りを落とした。


 今日は眠れるか分からない。


 だが、横にはなる。


 それも手順だ。


 暗くなる前に、廊下の向こうで一回だけ音がした。


 こつ。


 いるか。


 アルトは小さく返した。


 こつ。


 いる。


 その返事だけは、白い部屋には持っていかれなかった。


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