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第78話 誰もいない二階

 芋は、まだ隅の机にあった。


 昨日と同じ場所。


 水の入ったコップ。


 塩。


 黒パンの欠片。


 布巾。


 金属片。


 その隣に、芋。


 誰も食べていない。


 ミアも食べていない。


 かなり偉い。


 ただ、本人は朝からその前に立っていた。


「まだ食べない?」


「まだだ」


 アルトが答える。


「帰ってきたら?」


「帰ってきたら」


「昨日帰ってきたよ」


「昨日は見ただけだ」


「見て帰ってきた」


「……そうだな」


 少し困った。


 確かに、昨日は帰ってきた。


 旧待機区画を見た。


 音のない場所を見た。


 白い机を見た。


 白い扉を見た。


 帰還準備。


 未完了。


 そこまで見て、戻ってきた。


 そして芋を食べた。


 ただし、隅の机の芋ではなく、別の芋を食べた。


 マルタが「次も帰ってくるためだよ」と言って、残した。


 だから芋はまだある。


 次も帰ってくるために。


 変な話だ。


 でも、今はそれが一番分かりやすい。


 赤猫亭の朝は、いつも通りだった。


 マルタが鍋を火にかける。


 ミナが水差しを並べる。


 ブルーノが紙を広げる。


 ルナが水を飲む。


 ガルムが入口を見る。


 ガルドが、二階へ上がる階段の下に立っている。


 そこだけが、いつもと違った。


「やるのか」


 アルトが聞く。


「やる」


 ガルドは短く答えた。


 手には細い金属棒。


 木を見る時の道具。


 昨日の夜。


 旧待機区画を見た時。


 ルナは下にいた。


 それなのに、二階から「こつ」が返った。


 床が返した。


 そう思いたかった。


 だが、思いたかった、という時点で、まだ何も分かっていない。


 だから、今日は二階を見る。


 旧待機区画は見ない。


 音声ログも聞かない。


 白い染みも見ない。


 白い扉にも近づかない。


 まず、赤猫亭側の音を見る。


 ◇


 二階の廊下は、いつも通りだった。


 古い床。


 少し軋む板。


 客間の扉。


 壁の染み。


 窓から入る朝の光。


 神界の白い光とは違う。


 ちゃんと埃が見える。


 ちゃんと影がある。


 アルトはそれだけで少し安心した。


 ルナも一緒に上がってきている。


 今日は皿を拭いていない。


 水は飲んだ。


 コップは下に置いてきた。


 ミアも来ようとしたが、マルタに止められた。


「芋の見張りはどうしたんだい」


 その一言で、ミアは階段下に残った。


 かなり迷っていたが、芋が勝った。


 ガルドは廊下の中央にしゃがむ。


 床板を指で叩く。


 こつ。


 普通の音。


 もう一度。


 こつ。


 少し場所をずらす。


 こん。


 またずらす。


 こつ。


 アルトには、違いが少ししか分からない。


 だが、ガルドの顔は変わった。


「どうだ」


「変わっている」


「悪い方か」


「まだ分からん」


「分からんが増えたな」


「増える時は増える」


 ガルドは床に耳を近づける。


 職人というより、床と話しているように見えた。


 ルナは壁際に立っている。


 いつもより静かだ。


「昨日の音」


 アルトが言う。


「お前じゃないんだよな」


「はい」


 ルナはすぐに答えた。


「私は下にいました」


「だよな」


「でも、音は聞こえました」


「どう聞こえた」


 ルナは少し考える。


「返事のように」


「誰への」


「分かりません」


 便利に使っていない。


 本当に分からない顔だった。


 ガルドが床をもう一度叩く。


 こつ。


 その音が、廊下の奥へ少し伸びた気がした。


「床が返した、で半分は合ってる」


 ガルドが言った。


 アルトは眉を寄せる。


「半分?」


「床は鳴った」


「ああ」


「だが、床だけの音じゃない」


「じゃあ何だ」


「借りられた」


 ルナの肩が少しだけ動いた。


 アルトは息を止める。


「また通り道か」


「通り道にされたほどではない」


 ガルドは廊下の板を撫でる。


「ここは、まだ店の道だ」


「じゃあ」


「音だけを借りられた」


 アルトは黙った。


 床が返した。


 でも、床だけではない。


 向こうが、床の音を借りた。


 それはかなり嫌な言い方だった。


 ◇


 下へ戻ると、ミアが芋の前で待っていた。


「どうだった?」


「床だった」


 アルトが言う。


「床?」


「半分な」


「半分床?」


「そう」


「残り半分は?」


「聞くな」


「えー」


 ミアは不満そうだったが、芋を見て気を取り直した。


「芋は無事」


「偉い」


「食べてない」


「偉すぎる」


「すごい?」


「すごい」


 ミアはかなり満足した。


 マルタが鍋を混ぜながら言う。


「で、床はどうだったんだい」


 ガルドが答える。


「壊れてはいない」


「それはよかった」


「だが、入口になった影響はある」


 ブルーノが顔を上げる。


「赤猫亭側入口の副作用ですか」


「名前は知らん」


「すみません」


「ただ、外から何かが入ったわけじゃない。音の向きが少し変わった」


「音の向き」


 ブルーノが紙に書こうとして、止めた。


 書くと近くなる。


 それでも必要そうで、迷っている。


 ルナが言った。


「入口は、片側だけではありません」


 店の音が少しだけ静かになる。


 ルナは水のコップを持つ。


 飲む。


 それから続ける。


「こちらから見るために入口を作った。けれど、入口である以上、向こうからも縁ができる」


「こっちが扉を作ったから、向こうも叩けるってことか」


 アルトが言う。


「はい。ただし、まだ叩いたというより」


 ルナは言葉を探した。


「こちらの音を、覚えたのだと思います」


「覚えた」


「昨日、金属片と鍋と床の音が揃いました。その音で経路が変わった。なら、向こうはその音を入口の形として覚えた可能性があります」


 アルトは隅の机を見る。


 金属片。


 芋。


 そこにある。


「最悪だな」


「でも、必要でもあります」


 ルナは昨日と同じことを言った。


 危ない。


 でも、必要。


 それが最近いちばん困る。


 ◇


 神々のコメント欄は、今日は開かなかった。


 昨日の遅れが残っていたからだ。


 ブルーノは通常表示だけ確認している。


 直接読まない。


 配信もしていない。


 だが、神々は勝手に騒いでいるらしい。


 赤猫亭定点を求める声。


 芋の続報を求める声。


 昨日の白い部屋を切り抜こうとする声。


 投げ銭ボタンが止まった件を話題にする声。


 全部、外側にある。


 ブルーノはそれを見て、かなり嫌な顔をしていた。


「何かあったか」


 アルトが聞く。


「白い部屋という言葉が増えています」


「消せるか」


「一般語としては消しにくいです」


「名前になるか?」


「まだです。ただ、危険です」


 白い部屋。


 旧待機区画。


 音がない場所。


 意味だけがある場所。


 神々が勝手に名前をつけようとしている。


 アルトは舌打ちしそうになった。


 しなかった。


 ミナが静かに言う。


「名前に近づけたくないなら、別の話題を出すのも方法です」


「別の話題?」


「はい」


 ミナは隅の机を見る。


 ミアがぱっと顔を上げる。


「芋?」


「芋にするな」


 アルトが言う。


「でも、芋なら神々もそっち見るかも」


 ミアは真剣だった。


 ブルーノが少し考える。


「……ありかもしれません」


「ありなのか」


「白い部屋の切り抜きより、芋の話題で流した方がましです」


 アルトは頭を抱えそうになった。


 神界の危険語を芋で流す。


 正気とは思えない。


 だが、この作品では時々それが一番正しい。


 マルタが鍋を鳴らした。


 かん。


「芋は強いからね」


「本当に強いな」


 アルトはため息をついた。


 ブルーノは短い告知だけ出した。


《赤猫亭の芋は帰ってきてから食べます》


 コメント欄が一気に反応したらしい。


 ブルーノが画面を見て、少しだけ顔をしかめる。


「流れました」


「何が」


「白い部屋の話題が、芋に押されています」


「神々って本当に」


 アルトは言いかけて、やめた。


 ありがたい時もある。


 腹立つ時の方が多いが。


 ◇


 午後、二階の廊下をもう一度調べた。


 今度はブルーノも来た。


 端末は持っていない。


 紙だけ。


 ガルドが床を叩く。


 こつ。


 ブルーノが耳を澄ます。


「赤猫亭側の音ですね」


「当たり前だろ」


 アルトが言う。


「でも、昨日はそう言い切れませんでした」


「今日は?」


「まだ少し混じっています」


「嫌だな」


「はい」


 ガルドは頷く。


「だが、弱い」


「弱いならいいのか」


「強くなる前に、使い方を決める」


「床の?」


「音の」


 ルナが少し緊張した顔で聞いている。


 ガルドは床を指す。


「ここから先、こつを合図に使うなら、誰が鳴らしたか分かるようにしろ」


「どうやって」


「回数を決めろ」


 アルトは少し考えた。


「一回は確認」


 ガルドが頷く。


「二回は?」


 ミナが言う。


「戻ってください、でしょうか」


「三回は?」


 ミアが階段下から叫んだ。


「芋食べたい!」


「却下」


 アルトが即答した。


「何で!」


「緊急合図にするな」


 ルナが少し笑った。


 それから、自分で言う。


「三回は、開けないでください、がいいと思います」


 店の空気が少しだけ変わる。


 開けないでください。


 扉。


 白い扉。


 帰還準備。


 未完了。


 近い。


 かなり近い。


 だが、必要な合図だった。


 アルトは頷いた。


「一回は、いるか」


 こつ。


「二回は、戻れ」


 こつ、こつ。


「三回は、開けるな」


 こつ、こつ、こつ。


 ブルーノが紙に書いた。


 今度は書いていい。


 これは名前ではない。


 戻るための手順だ。


 合図。


 音の使い方。


 向こうに借りられた音を、こちらのものに戻すための決めごと。


 ガルドが床を叩いた。


 こつ。


「そうだ」


「何が」


「使い方を決めると、道具に戻る」


 アルトはその言葉を聞いて、少しだけ息を吐いた。


 向こうに借りられた音を、道具に戻す。


 悪くない。


 いや。


 悪くはない。


 ◇


 夕方、レオンから連絡が来た。


《横になった》


 少し間を置いて。


《少し眠った》


 また少し間。


《夢は見た》


 アルトは画面を見た。


 夢。


 嫌な単語だ。


 すぐに聞き返したくなる。


 何の夢だ。


 黒鐘門か。


 ユラか。


 神回か。


 帰還準備か。


 だが、聞きすぎると近づく。


 相手にも、自分にも。


 アルトは少し考えた。


《水を飲め》


 送信。


 既読。


 すぐ返事。


《飲む》


 それだけ。


 アルトは端末を閉じた。


 夢の内容は聞かなかった。


 今は、それでいい。


 ミナが横から静かに言う。


「聞かなかったんですね」


「ああ」


「よかったと思います」


「そうか」


「夢は、話す準備ができてからでいいです」


 アルトは頷いた。


 それも手順に近い。


 話す前に、水を飲む。


 戻ってから、話す。


 順番がある。


 ◇


 夜になっても、旧待機区画は開かなかった。


 今日はもう見ない。


 音声ログも聞かない。


 白い染みも見ない。


 白い扉にも近づかない。


 その代わり、二階の床の合図が決まった。


 一回は、いるか。


 二回は、戻れ。


 三回は、開けるな。


 ミアはまだ三回を「芋食べたい」にしたそうだったが、マルタに止められた。


 隅の机の芋はそのまま。


 金属片も横にある。


 今日は芋を食べない。


 だが、赤猫亭の夕飯には別の芋が出た。


 アルトはそれを食べた。


 熱い。


 ちゃんと味がする。


 旧待機区画にはなかったもの。


 白い部屋にはなかったもの。


 意味だけではなく、腹に落ちるもの。


 夜、二階へ上がる。


 客間の前で、アルトは床を一回叩いた。


 こつ。


 中から一回返る。


 こつ。


 いる。


 それだけ。


 自分の部屋に戻る。


 端末は棚。


 手帳は布の中。


 金属片は、今日は隅の机に置いたまま。


 芋の横にある。


 少し迷ったが、そのままにした。


 戻る場所に置いておく。


 それも必要な気がした。


 寝台に座る。


 下の階で鍋が鳴る。


 かん。


 少しして、二階の床が鳴った。


 こつ、こつ。


 二回。


 戻れ。


 アルトは動きを止めた。


 客間からではない。


 廊下の奥。


 誰もいないはずの場所。


 向こうが鳴らしたのか。


 床が鳴らしたのか。


 それとも、赤猫亭が返したのか。


 分からない。


 でも、意味は決めた。


 二回は、戻れ。


 アルトは立ち上がらなかった。


 端末も見なかった。


 水を飲む。


 横になる。


 今日は戻れと言われた。


 なら、戻る。


 灯りを落とす。


 暗くなる直前、もう一度だけ床が鳴った。


 こつ。


 一回。


 いるか。


 アルトは寝台の木枠を叩いた。


 こつ。


 いる。


 それだけ返して、目を閉じた。


 白い部屋は、今日は見ない。


 音声ログも聞かない。


 扉も開けない。


 今日は、音の使い方を決めた日だった。


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