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第77話 芋を残して

 芋は、まだ隅の机にあった。


 食べられていない。


 盗まれてもいない。


 ミアが何度も近づいたが、そのたびにマルタの視線で止まった。


 芋は、帰ってきてから食べるもの。


 そう決まったからだ。


 赤猫亭の朝。


 鍋が鳴る。


 かん。


 皿が鳴る。


 こと。


 床が鳴る。


 こつ。


 普通の音が、今日は少しだけ大きく聞こえた。


 アルトは真ん中寄りの卓に座り、水を飲んだ。


 端末は棚。


 手帳は布の中。


 金属片は隅の机。


 芋の横に置いたまま。


 昨日、そこから入口が変わった。


【参照入口:赤猫亭側】


 その一行は、朝になっても消えていない。


 ブルーノは紙に状態を書き写している。


【旧待機区画:参照要求】


【状態:保留】


【参照継続中】


【戻る場所:確認】


【参照入口:赤猫亭側】


【参照開始待機】


 ここまで来た。


 来てしまった。


 アルトは紙を見る。


 それから、隅の机を見る。


 芋がある。


 水がある。


 塩がある。


 黒パンの欠片がある。


 金属片がある。


 戻る場所は、空ではない。


「今日、見るんだよね」


 ミアが言った。


 芋の前で立っている。


 見張り役らしい。


 本人はかなり真剣だ。


「ああ」


 アルトは答えた。


「帰ってくる?」


「帰ってくる」


「芋、食べる?」


「食べる」


「よし」


 ミアは頷いた。


 その単純さが、今はいちばん強い。


 マルタが鍋を混ぜながら言う。


「帰ってきたら食べるんだよ。行く前に食べるんじゃない」


「分かってる」


「分かってる顔じゃないね」


「どんな顔だよ」


「難しい顔だ」


 アルトはスープを飲んだ。


 熱い。


 今日も、ちゃんと熱い。


 ◇


 久しぶりに、神々のコメント欄を開いた。


 普通の配信ではない。


 赤猫亭側の入口を使う準備。


 ブルーノは配信扱いにするかどうか迷ったが、完全に閉じるのも危ないと判断した。


 神々に見せるためではない。


 だが、神々の視線を完全に外すと、逆に別のものだけが濃くなる可能性がある。


 そういう嫌な理由だった。


 コメント欄が流れる。


『赤猫亭定点?』


『芋ある』


『芋に投げ銭できる?』


『今日戦闘なし?』


『なんか空気重くね?』


『ミアが芋を見張ってるの草』


『女神、皿割ってない?』


『レオン案件の後から雰囲気変わったな』


 久しぶりの賑やかさだった。


 うるさい。


 軽い。


 少し安心する。


 そして、少し腹が立つ。


 神々は何も知らない。


 いや、見ている。


 見ているのに、分かっていない。


 それが神々らしい。


 ミアがコメント欄を覗き込む。


「芋に投げ銭できるって」


「するな」


「芋、人気」


「芋を人気者にするな」


 コメントが流れる。


『芋神誕生』


『芋に一〇〇神貨』


『芋は帰還報酬』


『帰還報酬って何?』


『急に重い単語出すな』


 その一行で、アルトの手が少し止まった。


 帰還報酬。


 誰かが冗談で言った言葉。


 たぶん意味はない。


 でも、今は少し近い。


 ブルーノがそのコメントを見て、少しだけ眉を寄せる。


「消しますか」


「いや」


 アルトは首を横に振った。


「冗談だろ」


「はい」


「冗談まで消すと、息が詰まる」


「分かりました」


 コメントは流れていく。


 残らない。


 たぶん。


 残らないでほしい。


 ルナは水を飲んでいる。


 今日は、手は震えていない。


 ただ、赤猫亭の奥ではなく、隅の机を見ている。


 金属片と芋。


 その横に、端末の参照入口。


 普通ではない。


 でも、赤猫亭の中にある。


 ◇


 開始前の手順を確認した。


 ミナが紙を読む。


「手を洗う」


 全員が手を洗った。


 ミアも洗った。


 少し不満そうだった。


「水を飲む」


 全員が水を飲んだ。


 ルナは少し多めに飲んだ。


 マルタが頷いた。


「座る」


 アルトは座った。


 ブルーノも座る。


 ミナも。


 ルナは迷ったが、椅子に座った。


 ガルムは立ったままがいいと言った。


 ミナが少し考え、「ガルムさんは立つのが戻る姿勢なら、それで」と許可した。


 ミアは芋の前に立つ。


 これは見張り役だかららしい。


「端末をすぐ見ない」


 もう見ている気がする。


 だが、今日は処理だけを見る。


 コメント欄は少しだけ開ける。


 深くは読まない。


「名前をつけない」


 全員が黙った。


 ここは重い。


 旧待機区画。


 送信者なし。


 参照要求。


 参照入口。


 全部、名前になりかけている。


 でも、まだ名前ではない。


「誰かの声を聞く」


 マルタが言った。


「帰ってきたら、まず私の声を聞きな」


 強い。


 誰も反論しなかった。


「必要なら床を叩く」


 アルトは二階を見る。


 ルナは少しだけ目を伏せた。


「帰ってきたら、何か食べる」


 ミアが芋を見る。


「芋」


「帰ってきたらね」


 マルタが言う。


「うん」


 ミアは頷いた。


「じゃあ帰ってくる」


 昨日と同じ言葉。


 でも、今日はさらに重かった。


 ブルーノが最後に紙を読む。


「できなければ、一つでいい」


 アルトは頷いた。


「一つでいい」


 それだけ言って、金属片に触れた。


 冷たい。


 ちゃんと冷たい。


 赤猫亭の中にあるのに、少しだけ冷たい。


 だから、ここにある。


 持っていく。


 ◇


 参照開始は、承認ではなかった。


 ブルーノが何度も確認した。


 承認ボタンは押さない。


 参照要求には返事をしない。


 赤猫亭側の入口から、こちらの手順で見る。


 ブルーノが端末を机の端に置く。


 芋の横ではない。


 金属片の横でもない。


 少し離す。


 近づけすぎない。


 アルトは金属片を持つ。


 隅の机を軽く叩く。


 かん。


 金属片が鳴る。


 厨房から、マルタが鍋を鳴らす。


 かん。


 二階から、床の音が返る。


 こつ。


 ルナは下にいる。


 なのに、二階から返った。


 全員が一瞬止まる。


 ルナも顔を上げた。


「今の」


「二階だな」


 アルトが言う。


「私ではありません」


「分かってる」


 こつ。


 もう一度、二階から鳴った。


 誰もいないはずの廊下。


 いや、赤猫亭の床だ。


 何かが勝手に鳴ったのではない。


 床が返した。


 そう思いたかった。


 端末の表示が変わる。


【参照開始待機】


【赤猫亭側入口:応答】


【参照深度:一】


 ブルーノが息を呑む。


「始まります」


「見るだけだ」


 アルトが言う。


「入るんじゃない」


「はい」


 コメント欄が流れる。


『何今の音』


『床?』


『誰かいた?』


『こつって鳴った』


『赤猫亭こわ』


『いや、なんか神気じゃなくね?』


 次の瞬間、コメント欄の流れが遅くなった。


 止まったわけではない。


 流れている。


 だが、一行一行が遠い。


 声が、水の中から聞こえるみたいに薄くなる。


『……見えてる?』


『コメント届いてる?』


『おい』


『これ配信か?』


 ブルーノが画面を見る。


「コメントは届いています。ただ、こちらへの反映が遅い」


「神々が遠いのか」


「分かりません」


 ルナが静かに言った。


「ここから先は、神々の視聴が届きにくいのかもしれません」


「視聴じゃないものの方が近い?」


 アルトが聞く。


 ルナは答えなかった。


 答えない方がいい顔だった。


 アルトは金属片を握る。


「見るぞ」


 端末の画面が、暗くなった。


 ◇


 最初に見えたのは、白だった。


 壁。


 床。


 天井。


 全部が白い。


 明るいのに、温度がない。


 赤猫亭の灯りとは違う。


 焚き火とも違う。


 神殿の光とも違う。


 ただ、均一に明るい。


 影が薄い。


 音がない。


 それが、いちばん嫌だった。


 旧待機区画。


 記録上は場所。


 名前はある。


 座標もある。


 用途もある。


 でも、音がない。


 鍋が鳴らない。


 皿が鳴らない。


 床が返事をしない。


 空間の中央には、椅子のようなものが並んでいた。


 椅子に見える。


 だが、座るための椅子には見えない。


 休むためではない。


 姿勢を固定するための形。


 待つための形。


 ルナが言っていた言葉が、頭の中で重なる。


 待つための場所。


 休むためではない場所。


 机もある。


 白い机。


 傷がない。


 染みがない。


 肘の跡もない。


 水の輪もない。


 パンくずもない。


 何も置かれていない。


 何もこぼされていない。


 使われた跡がない。


 なのに、そこは待機区画として記録されている。


 意味だけがある場所。


 生活がない場所。


 アルトは息を吸った。


 赤猫亭の匂いがない。


 芋の匂いもない。


 スープの匂いもない。


 水の匂いすらない。


 空気があるのかも分からない。


 画面越しなのに、喉が乾いた。


 ミナが水のコップを差し出す。


「飲んでください」


 アルトは飲んだ。


 水が喉を通る。


 赤猫亭の水。


 それで、自分の体が少し戻る。


「音がない」


 アルトが言った。


 ブルーノが頷く。


「音声ログ、ほぼ空です」


「ほぼ?」


「一つだけあります」


 店の空気が硬くなる。


「再生するな」


 アルトは即座に言った。


 ブルーノの手が止まる。


「はい」


「今は見るだけだ」


「はい」


 音がない場所に、一つだけ音声ログがある。


 それは、たぶん近い。


 近すぎる。


 今日は聞かない。


 アルトはそう決めた。


 ◇


 旧待機区画の奥には、扉があった。


 扉のような形。


 開くためではなく、閉じていることを示すための形。


 その上に、文字が浮かんでいる。


【帰還準備】


 その下。


【結果:未完了】


 見た。


 見てしまった。


 アルトは息を止める。


 帰還条件への接近。


 帰還準備。


 未完了。


 並べるな。


 並べるな。


 並べるな。


 頭の中でそう思っても、文字は並んでいる。


 ブルーノが何か言いかけた。


 言わない。


 ミナが水を近づける。


 マルタが鍋を鳴らす。


 かん。


 遠い。


 でも、聞こえる。


 赤猫亭の音だ。


 アルトは金属片を机に当てる。


 かん。


 音が返る。


 赤猫亭では返る。


 画面の向こうでは返らない。


 それだけで、どちらが戻る場所か分かった。


 ルナが小さく言う。


「戻ってください」


「まだいる」


「見すぎています」


 ルナの声は震えていない。


 でも、強い。


 アルトは画面から目を離す。


 水を飲む。


 座り直す。


 金属片を握る。


 手順。


 戻る手順。


 まだ戻れる。


 画面の中、白い机の上に、一点だけ黒いものが見えた。


 アルトは見ないようにした。


 見ない。


 だが、目に入る。


 黒い小さな染み。


 汚れではない。


 焦げでもない。


 文字の欠片のようにも見える。


 ブルーノが低く言う。


「拡大しません」


「しなくていい」


「はい」


 ミアが芋の前で言った。


「帰ってきてる?」


 アルトは画面から目を離したまま答える。


「まだ途中」


「じゃあ芋まだ?」


「まだ」


「分かった」


 ミアは芋を守っている。


 それでいい。


 ◇


 コメント欄は、かなり遅くなっていた。


『何も見えない』


『白い?』


『音ない?』


『コメント届いてる?』


『アルト、戻れ』


『戻れって何』


『いやなんかやばい』


『投げ銭できない』


『投げ銭ボタン消えてる?』


 ブルーノが画面の端を見る。


「投げ銭受付が止まっています」


「止まるのか」


「初めて見ました」


 神々の投げ銭が届かない。


 加護も来ない。


 コメントは遅れる。


 視聴は薄い。


 神々が遠い。


 それなのに、旧待機区画は近い。


 嫌な場所だ。


 白い扉の前に、何かが残っている。


 人ではない。


 影でもない。


 処理の跡。


 そうとしか言えないもの。


 ブルーノが息を飲む。


「帰還準備の、残骸かもしれません」


「名前をつけるな」


 アルトが言う。


「すみません」


「今のは、近い」


「はい」


 ルナが水を飲んだ。


 自分で。


 その手が少しだけ震えていた。


 アルトはそれを見た。


「ルナ」


「はい」


「水」


「飲みました」


「もう一口」


 ルナは少し驚いた顔をした。


 それから、もう一口飲んだ。


「はい」


「よし」


 ミアが言う。


「女神、戻った?」


 ルナは少しだけ笑った。


「少し」


 その少しでいい。


 今日は、少しでいい。


 ◇


 旧待機区画の映像が、一瞬だけ揺れた。


 白い壁。


 白い机。


 白い椅子。


 扉。


 帰還準備。


 未完了。


 その全部が、ほんの一瞬、赤猫亭の隅の机と重なった。


 水。


 塩。


 黒パン。


 芋。


 金属片。


 赤猫亭の机が、画面の中に映ったわけではない。


 だが、アルトには重なって見えた。


 使われない白い机。


 使われて戻った赤猫亭の机。


 帰還準備が未完了の場所。


 帰ってきたら芋を食べる場所。


 アルトは、そこではっきり決めた。


「今日はここまでだ」


 ブルーノがすぐに頷く。


「切ります」


 端末の画面が暗くなる。


 コメント欄が一気に戻る。


『戻った?』


『急にコメント流れた』


『投げ銭ボタン戻った』


『何だった今の』


『白い部屋?』


『アルト大丈夫か』


『芋は?』


 最後のコメントで、ミアが少し誇らしげにする。


「芋、守った」


「偉い」


 アルトが言う。


 ミアは笑った。


 マルタがすぐに言う。


「手を洗いな」


 アルトは立ち上がる。


 少し足が重い。


 だが、立てる。


 手を洗う。


 水を飲む。


 座る。


 温かいものを食べる。


 端末をすぐ見ない。


 名前をつけない。


 誰かの声を聞く。


 必要なら床を叩く。


 寝る。


 皿を割らない。


 ルナは水を飲む。


 帰ってきたら、何か食べる。


 芋。


 手順通りに、アルトは水を飲んだ。


 座った。


 マルタが小さな皿を持ってくる。


 蒸した芋。


 隅の机に置かれていた芋ではない。


 別の芋だ。


「先にこっちを食べな」


「残したやつは?」


「まだ残しとく」


「何で」


「次も帰ってくるためだよ」


 強い。


 今日も、マルタは強い。


 ミアは少し不満そうだったが、すぐに納得した。


「予備芋」


「違う」


「帰還芋」


「変な名前をつけるな」


 アルトは芋を受け取った。


 熱い。


 湯気が出ている。


 旧待機区画にはなかったもの。


 アルトは一口食べた。


 味がした。


 それだけで、少し戻った。


 ◇


 夜。


 旧待機区画の映像は、もう開かなかった。


 音声ログも聞いていない。


 黒い染みも拡大していない。


 白い扉も開いていない。


 今日は見ただけ。


 それで十分だった。


 いや、十分すぎた。


 レオンから短い連絡が来ていた。


《少し眠った》


 同じ報告。


 アルトは返信した。


《続けろ》


 少し考え、もう一文。


《できなければ一つでいい》


 既読。


 返事はない。


 それでいい。


 端末を棚に置く。


 手帳は布の中。


 金属片は机。


 今日は金属片を手元に置いたまま、寝台に座った。


 二階の廊下から、先に音がした。


 こつ。


 アルトは寝台の木枠を叩く。


 こつ。


 すぐに返る。


 こつ。


 今日は、強い。


 アルトは息を吐いた。


 下の階で鍋が鳴る。


 かん。


 隅の机には、まだ芋が残っている。


 帰ってくるための芋。


 変な言葉だ。


 名前をつけるなと言われそうだ。


 でも、赤猫亭の中なら、それくらい雑でもいい気がした。


 旧待機区画は、音が返らない場所だった。


 意味だけがある場所だった。


 そこには、帰還準備と未完了が並んでいた。


 でも、赤猫亭には鍋が鳴る。


 床が返る。


 芋が残っている。


 アルトは灯りを落とした。


 今日は眠れるかどうか分からない。


 だが、横にはなる。


 それも手順だ。


 目を閉じる直前、白い部屋を思い出した。


 音のない場所。


 その記憶を、鍋の音で上から押さえる。


 かん。


 まだ、こちらの音の方が強かった。


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