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第76話 芋を置く日

 保留は、止まっていなかった。


 朝になっても、端末の奥には同じ表示が残っていた。


【旧待機区画:参照要求】


【送信者:――】


【状態:保留】


【参照継続中】


 返事はしていない。


 承認もしていない。


 拒否もしていない。


 それなのに、参照は続いている。


 ブルーノは朝から、いつもより口数が少なかった。


 紙には、すでに短い一文が書かれている。


【保留は停止ではない】


 昨日も見た言葉だ。


 今日は、その横にもう一行増えていた。


【選ばないことも、選択になる】


 アルトはそれを見て、嫌な顔をした。


「朝から重いな」


「軽く書く方法がありませんでした」


「確かに軽くはならないな」


 ブルーノは筆を置いた。


「保留を続けることはできます。ただし、向こうが参照を続けている以上、こちらが何も選んでいない状態ではなくなっています」


「選ばないことを選んでる?」


「はい」


「嫌な理屈だ」


「私も嫌です」


 赤猫亭の朝は、それでもいつも通り始まっている。


 マルタが鍋を火にかける。


 ミナが薬草籠を整理する。


 ガルムが入口に立つ。


 ルナが水を飲み、皿を拭く。


 ミアが芋を抱えている。


 その芋は、昨日より少し小さい。


 だが、昨日よりずっと重く見えた。


「今日?」


 ミアが聞いた。


 誰に、ではない。


 店全体に聞いたような声だった。


 ガルドは隅の机の前にしゃがんでいた。


 机には、水の入ったコップ、小皿、塩、布巾、黒パンの欠片、湯気だけの皿。


 そして、昨日子どもが黒パンを食べた跡。


 見えない跡。


 でも、たぶん残っている。


 ガルドは机の脚を叩いた。


 こつ。


 少し間を置く。


 もう一度。


 こつ。


 店の中が静かになった。


 鍋の音だけが、小さく続いている。


 ガルドは芋を見た。


 ミアを見た。


 それから、机を見た。


「置け」


 ミアの目が丸くなった。


「いいの?」


「ああ」


「ほんとに?」


「今のうちに置け。気が変わる前に」


「机の?」


「俺のだ」


 ミアは両手で芋を持ち直した。


 いつもの雑さがない。


 盗む時より慎重だった。


 赤猫亭の隅の机。


 通り道にされた机。


 店の道へ戻している机。


 そこに、ミアが芋を置いた。


 こと。


 小さな音だった。


 ただの芋が机に置かれた音。


 それだけなのに、店の空気が少しだけ変わった。


 端末は震えない。


 画面も光らない。


 神界通知もない。


 だが、アルトには分かった。


 何かが、収まった。


 マルタが鍋を混ぜながら言う。


「やっと置けたね」


 ミアは芋から手を離した。


 少し寂しそうだった。


「食べないの?」


「今日は置くだけだ」


 ガルドが言う。


「置くだけ」


「そうだ」


「芋、偉い」


「偉いな」


 アルトが言うと、ミアは嬉しそうに笑った。


 芋は、そこにあった。


 隅の机の上に。


 水と塩と黒パンと布巾と湯気の隣に。


 赤猫亭の食卓として、最後のものが置かれた。


 ◇


 芋が置かれた後、端末の表示はすぐには変わらなかった。


 それが少し意外だった。


 アルトは、どこかで期待していたらしい。


 芋を置けば、何かが動く。


 旧待機区画が反応する。


 参照要求が変わる。


 そういう分かりやすいことを。


 だが、何も起きない。


 ミアが芋を見つめる。


「……何も起きない」


「起きない方がいいだろ」


 アルトが言う。


「でも、こういう時って光るじゃん」


「光らなくていい」


「芋、光らない?」


「光らない」


「ちょっと見たい」


「やめろ」


 ルナが小さく笑った。


 その笑いは、昨日よりも自然だった。


 水は飲んでいる。


 皿も落としていない。


 床の「こつ」も、ここ数日は強い。


 それだけで、少し安心する。


 ミナは棚から【帰ってきた後のこと】の紙を取った。


 ブルーノは【旧待機区画を見る前の準備】の紙を広げる。


 芋が置かれたことで、紙の上の空白が少し狭くなった気がした。


 アルトは聞く。


「準備は、これで足りるのか」


 ブルーノは答えない。


 ミナも答えない。


 ガルドも机を見ている。


 ルナも水のコップを両手で包んでいる。


 誰も、足りるとは言わない。


 足りないとも言わない。


 マルタが厨房から言った。


「足りるかどうかは、帰ってきてから分かるんだよ」


「怖いこと言うな」


「本当のことだよ」


「そうか」


「でも、空っぽで行くよりはましだ」


 アルトは隅の机を見る。


 芋がある。


 空ではない。


 満ちてもいない。


 だが、空っぽではない。


「まし、か」


「そうだよ」


 マルタは鍋を鳴らした。


 かん。


 それで、店の空気が少し戻った。


 ◇


 ブルーノは、旧待機区画の準備紙に書き足した。


【机:芋まで確認】


 アルトはそれを見る。


「何だその項目」


「重要です」


「重要か」


「重要です」


 ミアが横から言う。


「重要」


 ルナも小さく頷いた。


「重要だと思います」


 アルトは反論するのをやめた。


 この店では、芋は重要なのだ。


 たぶん、もうそういうものになっている。


 ブルーノは続けて書く。


【戻る場所:赤猫亭】


【机が戻ってから】


【帰還後の手順を先に決める】


【端末をすぐ見ない】


【金属片を持つ】


【ルナは水を飲む】


【できなければ、一つでいい】


【机:芋まで確認】


 書き終えると、ブルーノは筆を置いた。


「準備としては、かなり整いました」


「行けるってことか」


「違います」


「違うのか」


「行っても戻る準備はできた、ということです」


 アルトは黙った。


 その違いは大きい。


 行ける。


 戻れる。


 似ているようで、違う。


 今までずっと、帰る条件を探してきた。


 だが今は、戻る準備をしている。


 元の世界へ帰ることと、赤猫亭へ戻ること。


 似ている。


 似ていてほしくない。


 でも、もう並んでしまっている。


 アルトは、その二つをまた離そうとした。


 うまくいかなかった。


 代わりに、スープを飲んだ。


 熱い。


 熱いものは、考えすぎた頭を少しだけ黙らせる。


 ◇


 昼前、レオンから連絡が来た。


《横になった》


 昨日と同じ。


 アルトは画面を見た。


 続きが来る。


《少し眠った》


 アルトは、そこで息を止めた。


 少し。


 眠った。


 たったそれだけの言葉だ。


 だが、重かった。


 水を飲んだ。


 横になった。


 少し眠った。


 戻る手順は、少しだけ機能している。


 アルトは返信を考える。


 よかった。


 違う。


 もっと寝ろ。


 違う。


 続けろ。


 昨日と同じ。


 少し考えて、短く打った。


《一つ増えたな》


 送信。


 既読。


 しばらくして、返事。


《ああ》


 それだけ。


 アルトは端末を閉じた。


 今回はすぐに見続けなかった。


 配信者用の手順に従うなら、端末を閉じる。


 水を飲む。


 座る。


 数字をすぐ見ない。


 神回という言葉をすぐ読まない。


 戻る行動を一つ決める。


 レオンは、たぶん自分で一つ増やした。


 アルトはそれでいいと思った。


 ブルーノが聞く。


「レオン様ですか」


「ああ」


「何と」


「少し眠った」


 ミナが静かに微笑んだ。


「よかったです」


「まだ少しだぞ」


「少しでいい時があります」


 ブルーノが紙に書き足す。


【少し眠る】


「それ、手順か」


「結果ですが、目標にもなります」


「硬いな」


「眠るのは難しいので」


 マルタが厨房から言った。


「少し眠ったら上等だよ」


 強い。


 今日も強い。


 ミアが隅の机を見る。


「机も少し眠る?」


「また机にするな」


 アルトが言う。


「でも戻ってきた」


「机は眠らない」


「分からないじゃん」


 ミアは芋を見た。


「芋は寝てる」


「寝てない」


「置かれて静か」


「それは置かれてるだけだ」


「じゃあ私も置かれたら寝る?」


「知らん」


 ルナが笑った。


 今度は、ちゃんと声が出た。


 ◇


 午後、ブルーノは参照要求の状態を確認した。


 確認する前に、水を飲んだ。


 座った。


 紙を横に置いた。


 端末はアルトが持たず、ブルーノが処理状態だけを見る。


 全員が見守る中で、ブルーノは息を吸った。


「読みます」


 アルトは頷く。


 ブルーノが紙に写す。


【旧待機区画:参照要求】


【送信者:――】


【状態:保留】


【参照継続中】


 変わっていない。


 そう思った。


 だが、ブルーノの筆は止まらなかった。


 さらに一行。


【戻る場所:確認】


 アルトは眉を寄せた。


「何だ、それ」


「新しい行です」


「承認してないぞ」


「はい」


「芋を置いたからか」


「可能性はあります」


「芋で確認される戻る場所って何だよ」


 ミアが胸を張った。


「芋は重要」


「そういう話じゃない」


「そういう話かも」


 マルタが言った。


 アルトは厨房を見る。


「マルタまで」


「場所ってのは、何を置くかで分かるもんだよ」


「そういうものか」


「皿と飯が置けるなら、そこは戻れる場所だよ」


 雑だ。


 でも、強い。


 ルナは表示を見て、少しだけ顔を硬くした。


「向こうが、赤猫亭を戻る場所として認識したのかもしれません」


「それは危ないのか」


「危ないです」


 即答だった。


 店の空気が硬くなる。


 ルナは続ける。


「でも、必要でもあります」


「どっちだ」


「旧待機区画を見るなら、戻る場所がない方が危険です。けれど、戻る場所が確認されたということは、向こうにもそれが見えたということです」


 アルトは端末を見る。


 承認していない。


 拒否もしていない。


 ただ、芋を置いた。


 机が戻った。


 赤猫亭が戻る場所として確認された。


 それが、向こうにも見えた。


 見たら見られる。


 見なくても見られている。


 戻る場所を作れば、それも見られる。


「最悪の仕組みだな」


 アルトが言う。


「はい」


 ブルーノも同意した。


 それでも、芋は机にある。


 取り上げる気にはならなかった。


 ◇


「承認しますか」


 ブルーノが聞いた。


 声は硬い。


 アルトは端末を見た。


【状態:保留】


【参照継続中】


【戻る場所:確認】


 確かに、ここまで来た。


 芋も置いた。


 戻る手順もある。


 レオンは少し眠った。


 ルナは水を飲んでいる。


 机は戻った。


 赤猫亭は、もう場所になっている。


 それでも、承認という言葉が嫌だった。


 向こうの要求に頷く。


 向こうの形式で入る。


 それは何か違う。


 アルトは少し考えた。


 それから、端末を閉じた。


「承認はしない」


 ブルーノが目を上げる。


「拒否でもありませんね」


「ああ」


「では」


「こっちから見る」


 アルトは隅の机を見た。


 芋。


 水。


 塩。


 黒パン。


 布巾。


 湯気。


 そこにあるもの。


「向こうの参照要求に入るんじゃない。赤猫亭から、こっちの手順で見る」


 ミナが静かに頷いた。


「戻る手順を使って」


「ああ」


 ブルーノは少しだけ息を吐いた。


「それは、可能かどうか分かりません」


「だろうな」


「でも、承認よりはましな気がします」


「なら、ましで行く」


 ルナが水のコップを持ったまま言う。


「それなら、私も」


「水を飲め」


 アルトが言う。


 ルナは少し驚き、それから小さく頷いた。


「はい」


「まず水だ」


「はい」


 ミアが芋を見る。


「私は?」


「芋を見張れ」


「重要任務」


「食べるなよ」


「見張るだけ?」


「見張るだけ」


「難しい」


「頑張れ」


 ミアは真剣な顔で芋の前に立った。


 たぶん、この中で一番危ない任務だ。


 ◇


 準備は、夜にすることになった。


 昼では赤猫亭が普通に店だからだ。


 マルタがそう言った。


「店の仕事が終わってからだよ」


「旧待機区画より店優先か」


 アルトが言う。


「当たり前だろ」


「当たり前か」


「飯を出してから、変な場所を見に行きな」


 強い。


 その順番が、妙に安心した。


 旧待機区画を見る前に、赤猫亭は店をする。


 客が来る。


 皿を出す。


 水を注ぐ。


 黒パンを切る。


 芋を蒸す。


 その芋の一つは、隅の机に置かれたまま。


 誰も食べない。


 ミアも食べない。


 かなり偉い。


 時々、じっと見ているが。


 夕方、子どもがまた来た。


 昨日の子どもだ。


 隅の机を見て、芋を見て、笑った。


「今日は芋だ」


 マルタが言う。


「今日は見るだけだよ」


「食べちゃ駄目なの?」


「駄目だね」


「大事な芋?」


「そうだよ」


 子どもは納得した。


「じゃあ、あったかいままだといいね」


 そう言って、黒パンを買って帰った。


 アルトはその言葉を聞いた。


 あったかいまま。


 戻る場所。


 芋。


 何もかもが少しずつ重い。


 でも、重いから置けるのかもしれない。


 ◇


 夜。


 赤猫亭の営業が終わった。


 扉が閉まる。


 鍋が下ろされる。


 皿が洗われる。


 ルナは今日は一枚も割らなかった。


 ミアが合格を出した。


「よし」


「ありがとうございます、師匠」


「水も飲んだ?」


「飲みました」


「よし」


 ルナは少しだけ笑った。


 それから、真面目な顔に戻る。


 棚には三枚の紙。


【帰ってきた後のこと】


【配信後に戻る手順】


【旧待機区画を見る前の準備】


 ブルーノが三枚目を読み上げる。


「戻る場所、赤猫亭。机、芋まで確認。帰還後の手順を先に決める。端末をすぐ見ない。金属片を持つ。ルナ様は水を飲む。できなければ、一つでいい」


「追加」


 マルタが言った。


「帰ってきたら、何か食べる」


 ブルーノはすぐ書き足す。


【帰ってきたら、何か食べる】


 ミアが言う。


「芋」


「その時は食べていい」


 マルタが言った。


 ミアの目が輝いた。


「ほんと?」


「帰ってきたらね」


「じゃあ帰ってくる」


 単純だ。


 でも、強い。


 アルトは少しだけ笑った。


 帰ってきたら芋を食べる。


 それは、かなり強い手順だった。


 ブルーノは端末を準備する。


 ただし、参照要求の承認画面は開かない。


 処理状態だけを横に置く。


 アルトは金属片を持つ。


 ミナは水を用意する。


 ガルムは入口ではなく、階段の近くに立つ。


 ガルドは隅の机に手を置く。


 ルナは水を飲み終え、コップを置いた。


 ミアは芋の前に立っている。


 マルタは厨房の入口で腕を組んでいる。


 全員が、赤猫亭の中にいる。


 旧待機区画へ行くのに、誰もまだ店を出ていない。


 それが少し変で、少し正しい。


 アルトは端末を見た。


【旧待機区画:参照要求】


【送信者:――】


【状態:保留】


【参照継続中】


【戻る場所:確認】


 承認はしない。


 拒否もしない。


 アルトは金属片を隅の机の上、芋の横に置いた。


 かん。


 小さく鳴る。


 下の厨房で、鍋が返すように鳴った。


 かん。


 廊下の上から、床の音がした。


 こつ。


 赤猫亭の音が揃った。


 その瞬間、端末の表示が変わった。


【旧待機区画:参照要求】


【状態:保留】


【参照継続中】


【戻る場所:確認】


【外部参照経路:変更】


 ブルーノが息を呑む。


「経路が変わりました」


「承認してないぞ」


「はい」


「じゃあ」


「こちらの経路を拾ったのかもしれません」


 ルナが小さく言う。


「赤猫亭から」


 アルトは芋の横の金属片を見る。


 金属。


 鍋。


 床。


 水。


 芋。


 戻る場所。


 全部が、そこにある。


 端末の画面に、新しい一行が滲む。


【参照入口:赤猫亭側】


 アルトは息を吸った。


 旧待機区画は、まだ見えていない。


 だが、入口が変わった。


 向こうの要求に飲まれるのではなく。


 赤猫亭から入る。


 アルトは金属片に触れた。


「見るのは、こっちからだ」


 端末は震えなかった。


 画面も光らなかった。


 ただ、表示だけが静かに変わる。


【参照開始待機】


 ブルーノが声を抑えて言う。


「開始できます」


 アルトは隅の机を見る。


 芋はまだそこにある。


 帰ってきたら食べる。


 そう決めた。


「今日は、ここまでだ」


 全員が少しだけ驚いた顔をした。


 ブルーノも。


 ミアも。


 ルナも。


 アルトは端末を閉じる。


「入口は作った。でも、入るのは明日だ」


「今じゃないの?」


 ミアが聞く。


「ああ」


「なんで」


「帰ってきた後の芋を、今食べたら困る」


 ミアは真剣に考えた。


「確かに」


 納得した。


 それでいいのかは分からない。


 でも、今はそれでいい。


 マルタが笑った。


「いい判断だよ」


 アルトは水を飲んだ。


 座った。


 端末を棚に戻した。


 今日は、入口を作った。


 入らなかった。


 それも手順の一つだと、勝手に決めた。


 芋は机の上にある。


 金属片はその横にある。


 赤猫亭は、もう場所になっている。


 旧待機区画への入口は、赤猫亭側に変わった。


 明日、見る。


 たぶん。


 でも今日は、見ない。


 アルトは下の階の鍋の音を聞いた。


 かん。


 少し遅れて、二階から床の音。


 こつ。


 戻る音は、ちゃんとあった。


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