第75話 保留のまま
端末には、まだ残っていた。
【旧待機区画:参照要求】
【送信者:――】
【状態:保留】
朝になっても消えていない。
それが、まず嫌だった。
通知なら消える。
履歴なら流れる。
コメントなら沈む。
投げ銭なら数字に混じる。
だが、それは端末の奥に残ったままだった。
画面を開くたびに出るわけではない。
音も鳴らない。
光もしない。
ただ、確認しようとすれば、そこにある。
保留。
止めているはずのもの。
でも、止まっている感じがしない。
アルトは朝食の席で端末を伏せた。
スープは熱い。
黒パンは少し焦げている。
芋は、まだ隅の机には置かれていない。
ミアがそれを不満そうに見ている。
「まだ?」
「まだだ」
ガルドが答える。
「聞く前に答えた」
「顔に出ている」
「みんな顔で分かりすぎ」
「お前は特にな」
「ひどい」
ミアは芋を両手で持っている。
昨日のより少し大きい。
明らかに置く気だ。
ガルドは机の脚を叩いた。
こつ。
こつ。
昨日より音はいい。
アルトにも分かる。
机はかなり戻っている。
でも、ガルドは首を横に振った。
「まだだ」
「今日も?」
「今日も」
「芋、待ってるよ」
「待たせろ」
ミアは芋を見た。
「待つの得意じゃない」
「知ってる」
「机も得意じゃないかも」
「机はお前より得意だ」
ミアは少し傷ついた顔をした。
マルタが笑いながら鍋を混ぜる。
「芋に待たされる日が来るとはね」
「重いんだろ」
アルトが言う。
「ここではな」
マルタは当然のように答えた。
隅の机には、水の入ったコップ、小皿、塩、布巾、黒パンの欠片、湯気だけの皿がある。
そして、空いた場所がある。
そこに芋が置かれるのだろう。
いつか。
たぶん、近いうちに。
だが、まだ。
◇
ブルーノは端末を見ないまま紙を書いていた。
いや、見ないようにしていた。
その顔は、見ている時より疲れている。
「消えないな」
アルトが言う。
ブルーノはすぐに分かった。
「参照要求ですね」
「ああ」
「消えません」
「確認済みか」
「はい。ただし、直接は開いていません」
「どうやって確認した」
「通知一覧ではなく、端末の処理状態だけを見ました」
「それは見たに入らないのか」
「入ります」
「入るのか」
「なので、疲れています」
正直だった。
ブルーノは紙に短く書く。
【保留は停止ではない】
アルトはそれを見た。
「嫌なことを書くな」
「事実に近いです」
「またそれか」
「保留は、拒否ではありません。承認でもありません。ただ、処理を決めずに残している状態です」
「つまり?」
「こちらが保留している間、向こうも参照し続けている可能性があります」
店の音が、少しだけ遠くなった。
ルナが水を飲む手を止める。
ミアも芋を抱えたまま黙る。
ガルムが入口で外を見る。
ガルドは机の脚から手を離さない。
「向こうも待ってるってことか」
アルトが聞く。
「待っている、で済めばいいですが」
「済まない言い方をするな」
「旧待機区画は、待つための場所だった可能性があります」
ブルーノは紙に書きかけて、やめた。
ルナが静かに言う。
「待つことには、慣れているかもしれません」
アルトはルナを見る。
「旧待機区画が?」
「はい」
「場所が待つのか」
「場所というより、そこに残った処理が」
ルナは少しだけ言葉を選ぶ。
「待つために作られたものは、待たされても壊れないとは限りません」
「壊れるのか」
「待つものは、時々、形を変えます」
それ以上は言わなかった。
アルトも追わなかった。
追わない代わりに、スープを飲んだ。
熱い。
ちゃんと熱い。
保留という文字が、少しだけ遠くなる。
少しだけだ。
◇
レオンから連絡が来たのは、昼前だった。
短かった。
《横になった》
それだけ。
アルトは画面を見て、しばらく黙った。
眠れた、とは書いていない。
水を飲んだ、とも今回は書いていない。
ただ、横になった。
昨日送った言葉への返事だろう。
アルトは返信を考える。
よくやった。
違う。
寝ろ。
違う。
水も飲め。
うるさい。
少し考えて、短く返した。
《それでいい》
既読。
返事はない。
アルトは端末を閉じた。
ミナがそれを見ていた。
「レオンさんですか」
「ああ」
「眠れたと?」
「横になった」
ミナは少しだけ頷いた。
「大事です」
「眠れてなくてもか」
「はい。立ったままでは戻れません」
マルタが厨房から言う。
「そういうことだよ」
「マルタ式が正式化してきたな」
「いいことだね」
ミアが真面目な顔で言う。
「剣聖机、横になった?」
「机から離れろ」
「でもリハビリ」
「人だ」
「人もリハビリするじゃん」
言われて、アルトは少しだけ言葉に詰まった。
ミアは時々、雑に正しい。
「そうだな」
ミアは嬉しそうにした。
「勝った」
「勝負じゃない」
「でも勝った」
ルナが小さく笑った。
今日は水をちゃんと飲んでいる。
こつも昨日は強かった。
そのことを、アルトはまだ覚えている。
聞かなくていい確認が増えていく。
◇
午後、ブルーノは保留状態の記録を紙に写した。
端末の画面は開かない。
処理状態だけ。
それでも、紙には嫌な行が増える。
【状態:保留】
【経過:継続】
【参照:未確定】
アルトはそれを見る。
「増えてないか」
「増えています」
「保留なのに?」
「はい」
「保留って何だ」
「決めていないだけで、存在しないことにはなりません」
ブルーノは言った。
それは、どこか黒鐘門の話にも似ていた。
見えないから、いないことにはならない。
決めていないから、止まっていることにはならない。
嫌な世界だ。
「拒否したらどうなる」
アルトが聞く。
ブルーノはすぐには答えない。
ルナも答えない。
その沈黙が答えに近い。
「分からない、か」
「はい」
ブルーノが言う。
「承認したら」
「旧待機区画への参照が始まる可能性が高いです」
「入るってことか」
「見る、かもしれません。入る、とは限りません」
「その違いが命取りになりそうだな」
「同感です」
アルトは隅の机を見る。
まだ芋はない。
ミアが時々、芋を持って近づく。
そのたびにガルドに止められている。
机は戻っている。
だが、まだ決めていない。
アルトも同じだ。
拒否も承認もしていない。
保留。
机と同じくらい、こちらもまだ途中だった。
◇
夕方前、店に小さな客が来た。
近所の子どもだった。
手には銅貨が一枚。
マルタに黒パンを一切れだけ買いに来たらしい。
マルタはいつもの顔で黒パンを切った。
少し大きめに。
子どもは嬉しそうに受け取る。
その帰り際、隅の机を見た。
「ここ、座っていい?」
全員が止まった。
ミアでさえ止まった。
子どもは不思議そうな顔をしている。
ただ座りたいだけ。
たぶん、窓の近くで黒パンを食べたいだけ。
ガルドが机を見た。
コップ。
小皿。
塩。
布巾。
黒パンの欠片。
湯気だけの皿。
芋はない。
ガルドは少し考えた。
「短くなら」
子どもは首を傾げる。
「短く?」
「食べ終わるまで」
「うん」
子どもは椅子に座った。
机の上の黒パンの欠片を見て、自分の黒パンを横に置いた。
本物の黒パン。
買った黒パン。
食べるための黒パン。
店の中が静かになる。
子どもはそれを気にせず、黒パンを食べた。
普通に。
何も起きない。
端末は震えない。
机は鳴らない。
空気も硬くならない。
ただ、子どもが黒パンを食べる。
マルタが鍋を混ぜる。
ミアが羨ましそうに見る。
ルナが水を飲む。
ガルドが机の脚に手を添える。
アルトは、それを見ていた。
短い時間。
でも、机は食卓になっていた。
芋ではない。
スープでもない。
それでも、誰かがそこで食べた。
子どもは食べ終わると、椅子から降りた。
「ありがとう」
マルタに言う。
それから、机を軽く撫でた。
「ここ、あったかい」
そう言って出ていった。
誰もすぐには喋らなかった。
ガルドが机を叩く。
こつ。
かなりいい音がした。
「戻った?」
ミアが小さく聞く。
ガルドは少し考えた。
「だいぶ」
「まだ?」
「まだだ」
「芋?」
「芋だ」
ミアは芋を抱きしめた。
「やっぱり芋」
アルトは息を吐いた。
子どもが黒パンを食べた机。
そこに、まだ芋はない。
だが、もうほとんど戻っている。
◇
その後、保留状態に変化が出た。
ブルーノが気づいた。
端末は音を鳴らしていない。
光ってもいない。
ただ、処理状態が変わった。
ブルーノの顔が少しだけ強張る。
「アルトさん」
「何だ」
「表示が変わりました」
アルトは端末を開かない。
まず水を飲む。
座る。
金属片に触れる。
棚の紙を見る。
【帰ってきた後のこと】
今は帰ってきた後ではない。
でも、戻る手順は今にも使える。
「読め」
アルトが言う。
ブルーノは頷いた。
「はい」
そして紙に写す。
【旧待機区画:参照要求】
【送信者:――】
【状態:保留】
【参照継続中】
店の音が止まりかける。
マルタが鍋を鳴らした。
かん。
止まらせない音。
アルトはそれを聞いて、息をした。
「継続中」
「はい」
「保留なのに」
「はい」
ブルーノの声は硬い。
「こちらが承認していなくても、向こうは参照を続けています」
ルナが小さく言う。
「待っているだけではなく、見ている」
「視聴者か」
アルトが言う。
「違います」
ルナは即答した。
「視聴ではありません。これは……」
言葉が止まる。
名前になる前で止めた。
アルトも聞かなかった。
代わりに、隅の机を見る。
子どもが黒パンを食べた机。
芋はまだない。
保留は続いている。
向こうは参照を続けている。
こちらは、まだ置くべきものを置いていない。
◇
夜の前に、ミアはもう一度芋を持ってきた。
今度は何も言わなかった。
ただ、隅の机の前に立つ。
ガルドは机を叩く。
こつ。
かなり良い。
もう一度。
こつ。
マルタが鍋を止める。
ミナが息を潜める。
ブルーノが紙を持つ手を止める。
ルナが水のコップを両手で包む。
アルトは見ている。
ガルドは長く黙った。
それから言った。
「今日はまだだ」
ミアは何も言わなかった。
ただ、少しだけ芋を下げた。
怒らない。
文句も言わない。
珍しい。
「明日?」
ミアが聞く。
ガルドは机を見た。
「たぶん」
たぶん。
その言葉が、今日はとても重かった。
芋はまだ置かれない。
でも、明日かもしれない。
旧待機区画も、たぶん、明日かもしれない。
アルトは端末を見なかった。
見なくても、保留が続いていることは分かる。
分かってしまう。
◇
夜。
赤猫亭の二階。
客間の前で、今日は先に音がした。
こつ。
はっきりしている。
アルトは返す。
こつ。
すぐに、もう一度返る。
こつ。
今日は強い。
それでいい。
部屋に戻る。
端末は棚。
手帳は布の中。
金属片は机。
配置は同じ。
端末は震えない。
だが、保留は続いている。
参照も続いている。
見ていなくても来る。
見ないでいても、向こうは見ている。
アルトは水を飲んだ。
座った。
下の階の鍋の音を聞く。
かん。
金属片を軽く叩く。
かん。
少し遅れて、廊下から。
こつ。
戻る音はある。
まだある。
アルトは端末を開かなかった。
今日はもう見ない。
保留のまま寝る。
それも手順の一つだと、勝手に決めた。
灯りを落とす前に、棚の方を一度だけ見る。
端末は黙っている。
でも、その奥にあるものは黙っていない。
【参照継続中】
その文字を思い出す。
芋はまだ置かれていない。
だから、まだ行かない。
でも、明日かもしれない。
アルトは灯りを落とした。
暗くなる直前、下の階で誰かが椅子を引く音がした。
隅の机かどうかは分からない。
分からないままでよかった。
今日は、保留のまま眠る日だった。




