表示調整
閉じる
挿絵表示切替ボタン
▼配色
▼行間
▼文字サイズ
▼メニューバー
×閉じる

ブックマークに追加しました

設定
0/400
設定を保存しました
エラーが発生しました
※文字以内
ブックマークを解除しました。

エラーが発生しました。

エラーの原因がわからない場合はヘルプセンターをご確認ください。

ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
PR
75/102

第75話 保留のまま

 端末には、まだ残っていた。


【旧待機区画:参照要求】


【送信者:――】


【状態:保留】


 朝になっても消えていない。


 それが、まず嫌だった。


 通知なら消える。


 履歴なら流れる。


 コメントなら沈む。


 投げ銭なら数字に混じる。


 だが、それは端末の奥に残ったままだった。


 画面を開くたびに出るわけではない。


 音も鳴らない。


 光もしない。


 ただ、確認しようとすれば、そこにある。


 保留。


 止めているはずのもの。


 でも、止まっている感じがしない。


 アルトは朝食の席で端末を伏せた。


 スープは熱い。


 黒パンは少し焦げている。


 芋は、まだ隅の机には置かれていない。


 ミアがそれを不満そうに見ている。


「まだ?」


「まだだ」


 ガルドが答える。


「聞く前に答えた」


「顔に出ている」


「みんな顔で分かりすぎ」


「お前は特にな」


「ひどい」


 ミアは芋を両手で持っている。


 昨日のより少し大きい。


 明らかに置く気だ。


 ガルドは机の脚を叩いた。


 こつ。


 こつ。


 昨日より音はいい。


 アルトにも分かる。


 机はかなり戻っている。


 でも、ガルドは首を横に振った。


「まだだ」


「今日も?」


「今日も」


「芋、待ってるよ」


「待たせろ」


 ミアは芋を見た。


「待つの得意じゃない」


「知ってる」


「机も得意じゃないかも」


「机はお前より得意だ」


 ミアは少し傷ついた顔をした。


 マルタが笑いながら鍋を混ぜる。


「芋に待たされる日が来るとはね」


「重いんだろ」


 アルトが言う。


「ここではな」


 マルタは当然のように答えた。


 隅の机には、水の入ったコップ、小皿、塩、布巾、黒パンの欠片、湯気だけの皿がある。


 そして、空いた場所がある。


 そこに芋が置かれるのだろう。


 いつか。


 たぶん、近いうちに。


 だが、まだ。


 ◇


 ブルーノは端末を見ないまま紙を書いていた。


 いや、見ないようにしていた。


 その顔は、見ている時より疲れている。


「消えないな」


 アルトが言う。


 ブルーノはすぐに分かった。


「参照要求ですね」


「ああ」


「消えません」


「確認済みか」


「はい。ただし、直接は開いていません」


「どうやって確認した」


「通知一覧ではなく、端末の処理状態だけを見ました」


「それは見たに入らないのか」


「入ります」


「入るのか」


「なので、疲れています」


 正直だった。


 ブルーノは紙に短く書く。


【保留は停止ではない】


 アルトはそれを見た。


「嫌なことを書くな」


「事実に近いです」


「またそれか」


「保留は、拒否ではありません。承認でもありません。ただ、処理を決めずに残している状態です」


「つまり?」


「こちらが保留している間、向こうも参照し続けている可能性があります」


 店の音が、少しだけ遠くなった。


 ルナが水を飲む手を止める。


 ミアも芋を抱えたまま黙る。


 ガルムが入口で外を見る。


 ガルドは机の脚から手を離さない。


「向こうも待ってるってことか」


 アルトが聞く。


「待っている、で済めばいいですが」


「済まない言い方をするな」


「旧待機区画は、待つための場所だった可能性があります」


 ブルーノは紙に書きかけて、やめた。


 ルナが静かに言う。


「待つことには、慣れているかもしれません」


 アルトはルナを見る。


「旧待機区画が?」


「はい」


「場所が待つのか」


「場所というより、そこに残った処理が」


 ルナは少しだけ言葉を選ぶ。


「待つために作られたものは、待たされても壊れないとは限りません」


「壊れるのか」


「待つものは、時々、形を変えます」


 それ以上は言わなかった。


 アルトも追わなかった。


 追わない代わりに、スープを飲んだ。


 熱い。


 ちゃんと熱い。


 保留という文字が、少しだけ遠くなる。


 少しだけだ。


 ◇


 レオンから連絡が来たのは、昼前だった。


 短かった。


《横になった》


 それだけ。


 アルトは画面を見て、しばらく黙った。


 眠れた、とは書いていない。


 水を飲んだ、とも今回は書いていない。


 ただ、横になった。


 昨日送った言葉への返事だろう。


 アルトは返信を考える。


 よくやった。


 違う。


 寝ろ。


 違う。


 水も飲め。


 うるさい。


 少し考えて、短く返した。


《それでいい》


 既読。


 返事はない。


 アルトは端末を閉じた。


 ミナがそれを見ていた。


「レオンさんですか」


「ああ」


「眠れたと?」


「横になった」


 ミナは少しだけ頷いた。


「大事です」


「眠れてなくてもか」


「はい。立ったままでは戻れません」


 マルタが厨房から言う。


「そういうことだよ」


「マルタ式が正式化してきたな」


「いいことだね」


 ミアが真面目な顔で言う。


「剣聖机、横になった?」


「机から離れろ」


「でもリハビリ」


「人だ」


「人もリハビリするじゃん」


 言われて、アルトは少しだけ言葉に詰まった。


 ミアは時々、雑に正しい。


「そうだな」


 ミアは嬉しそうにした。


「勝った」


「勝負じゃない」


「でも勝った」


 ルナが小さく笑った。


 今日は水をちゃんと飲んでいる。


 こつも昨日は強かった。


 そのことを、アルトはまだ覚えている。


 聞かなくていい確認が増えていく。


 ◇


 午後、ブルーノは保留状態の記録を紙に写した。


 端末の画面は開かない。


 処理状態だけ。


 それでも、紙には嫌な行が増える。


【状態:保留】


【経過:継続】


【参照:未確定】


 アルトはそれを見る。


「増えてないか」


「増えています」


「保留なのに?」


「はい」


「保留って何だ」


「決めていないだけで、存在しないことにはなりません」


 ブルーノは言った。


 それは、どこか黒鐘門の話にも似ていた。


 見えないから、いないことにはならない。


 決めていないから、止まっていることにはならない。


 嫌な世界だ。


「拒否したらどうなる」


 アルトが聞く。


 ブルーノはすぐには答えない。


 ルナも答えない。


 その沈黙が答えに近い。


「分からない、か」


「はい」


 ブルーノが言う。


「承認したら」


「旧待機区画への参照が始まる可能性が高いです」


「入るってことか」


「見る、かもしれません。入る、とは限りません」


「その違いが命取りになりそうだな」


「同感です」


 アルトは隅の机を見る。


 まだ芋はない。


 ミアが時々、芋を持って近づく。


 そのたびにガルドに止められている。


 机は戻っている。


 だが、まだ決めていない。


 アルトも同じだ。


 拒否も承認もしていない。


 保留。


 机と同じくらい、こちらもまだ途中だった。


 ◇


 夕方前、店に小さな客が来た。


 近所の子どもだった。


 手には銅貨が一枚。


 マルタに黒パンを一切れだけ買いに来たらしい。


 マルタはいつもの顔で黒パンを切った。


 少し大きめに。


 子どもは嬉しそうに受け取る。


 その帰り際、隅の机を見た。


「ここ、座っていい?」


 全員が止まった。


 ミアでさえ止まった。


 子どもは不思議そうな顔をしている。


 ただ座りたいだけ。


 たぶん、窓の近くで黒パンを食べたいだけ。


 ガルドが机を見た。


 コップ。


 小皿。


 塩。


 布巾。


 黒パンの欠片。


 湯気だけの皿。


 芋はない。


 ガルドは少し考えた。


「短くなら」


 子どもは首を傾げる。


「短く?」


「食べ終わるまで」


「うん」


 子どもは椅子に座った。


 机の上の黒パンの欠片を見て、自分の黒パンを横に置いた。


 本物の黒パン。


 買った黒パン。


 食べるための黒パン。


 店の中が静かになる。


 子どもはそれを気にせず、黒パンを食べた。


 普通に。


 何も起きない。


 端末は震えない。


 机は鳴らない。


 空気も硬くならない。


 ただ、子どもが黒パンを食べる。


 マルタが鍋を混ぜる。


 ミアが羨ましそうに見る。


 ルナが水を飲む。


 ガルドが机の脚に手を添える。


 アルトは、それを見ていた。


 短い時間。


 でも、机は食卓になっていた。


 芋ではない。


 スープでもない。


 それでも、誰かがそこで食べた。


 子どもは食べ終わると、椅子から降りた。


「ありがとう」


 マルタに言う。


 それから、机を軽く撫でた。


「ここ、あったかい」


 そう言って出ていった。


 誰もすぐには喋らなかった。


 ガルドが机を叩く。


 こつ。


 かなりいい音がした。


「戻った?」


 ミアが小さく聞く。


 ガルドは少し考えた。


「だいぶ」


「まだ?」


「まだだ」


「芋?」


「芋だ」


 ミアは芋を抱きしめた。


「やっぱり芋」


 アルトは息を吐いた。


 子どもが黒パンを食べた机。


 そこに、まだ芋はない。


 だが、もうほとんど戻っている。


 ◇


 その後、保留状態に変化が出た。


 ブルーノが気づいた。


 端末は音を鳴らしていない。


 光ってもいない。


 ただ、処理状態が変わった。


 ブルーノの顔が少しだけ強張る。


「アルトさん」


「何だ」


「表示が変わりました」


 アルトは端末を開かない。


 まず水を飲む。


 座る。


 金属片に触れる。


 棚の紙を見る。


【帰ってきた後のこと】


 今は帰ってきた後ではない。


 でも、戻る手順は今にも使える。


「読め」


 アルトが言う。


 ブルーノは頷いた。


「はい」


 そして紙に写す。


【旧待機区画:参照要求】


【送信者:――】


【状態:保留】


【参照継続中】


 店の音が止まりかける。


 マルタが鍋を鳴らした。


 かん。


 止まらせない音。


 アルトはそれを聞いて、息をした。


「継続中」


「はい」


「保留なのに」


「はい」


 ブルーノの声は硬い。


「こちらが承認していなくても、向こうは参照を続けています」


 ルナが小さく言う。


「待っているだけではなく、見ている」


「視聴者か」


 アルトが言う。


「違います」


 ルナは即答した。


「視聴ではありません。これは……」


 言葉が止まる。


 名前になる前で止めた。


 アルトも聞かなかった。


 代わりに、隅の机を見る。


 子どもが黒パンを食べた机。


 芋はまだない。


 保留は続いている。


 向こうは参照を続けている。


 こちらは、まだ置くべきものを置いていない。


 ◇


 夜の前に、ミアはもう一度芋を持ってきた。


 今度は何も言わなかった。


 ただ、隅の机の前に立つ。


 ガルドは机を叩く。


 こつ。


 かなり良い。


 もう一度。


 こつ。


 マルタが鍋を止める。


 ミナが息を潜める。


 ブルーノが紙を持つ手を止める。


 ルナが水のコップを両手で包む。


 アルトは見ている。


 ガルドは長く黙った。


 それから言った。


「今日はまだだ」


 ミアは何も言わなかった。


 ただ、少しだけ芋を下げた。


 怒らない。


 文句も言わない。


 珍しい。


「明日?」


 ミアが聞く。


 ガルドは机を見た。


「たぶん」


 たぶん。


 その言葉が、今日はとても重かった。


 芋はまだ置かれない。


 でも、明日かもしれない。


 旧待機区画も、たぶん、明日かもしれない。


 アルトは端末を見なかった。


 見なくても、保留が続いていることは分かる。


 分かってしまう。


 ◇


 夜。


 赤猫亭の二階。


 客間の前で、今日は先に音がした。


 こつ。


 はっきりしている。


 アルトは返す。


 こつ。


 すぐに、もう一度返る。


 こつ。


 今日は強い。


 それでいい。


 部屋に戻る。


 端末は棚。


 手帳は布の中。


 金属片は机。


 配置は同じ。


 端末は震えない。


 だが、保留は続いている。


 参照も続いている。


 見ていなくても来る。


 見ないでいても、向こうは見ている。


 アルトは水を飲んだ。


 座った。


 下の階の鍋の音を聞く。


 かん。


 金属片を軽く叩く。


 かん。


 少し遅れて、廊下から。


 こつ。


 戻る音はある。


 まだある。


 アルトは端末を開かなかった。


 今日はもう見ない。


 保留のまま寝る。


 それも手順の一つだと、勝手に決めた。


 灯りを落とす前に、棚の方を一度だけ見る。


 端末は黙っている。


 でも、その奥にあるものは黙っていない。


【参照継続中】


 その文字を思い出す。


 芋はまだ置かれていない。


 だから、まだ行かない。


 でも、明日かもしれない。


 アルトは灯りを落とした。


 暗くなる直前、下の階で誰かが椅子を引く音がした。


 隅の机かどうかは分からない。


 分からないままでよかった。


 今日は、保留のまま眠る日だった。


評価をするにはログインしてください。
ブックマークに追加
ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
― 新着の感想 ―
このエピソードに感想はまだ書かれていません。
感想一覧
+注意+

特に記載なき場合、掲載されている作品はすべてフィクションであり実在の人物・団体等とは一切関係ありません。
特に記載なき場合、掲載されている作品の著作権は作者にあります(一部作品除く)。
作者以外の方による作品の引用を超える無断転載は禁止しており、行った場合、著作権法の違反となります。

↑ページトップへ