第74話 芋はまだ重い
隅の机に、湯気が乗った。
正確には、湯気の出る皿が置かれた。
中身はスープではない。
薄く温めた水に、香草を少し落としただけのものだ。
食事ではない。
でも、冷たいものでもない。
ガルドが机の脚を叩き、少し考えてから頷いた。
「これならいい」
ミアが覗き込む。
「スープじゃない」
「まだ早い」
「でも湯気出てる」
「湯気だけだ」
「湯気のリハビリ?」
「そうだ」
ミアは真剣に頷いた。
「机、大変」
「お前が分かった顔をすると不安になる」
アルトが言うと、ミアは胸を張った。
「私は机の気持ちが分かる」
「絶対分かってない」
「分かる。芋が欲しい」
「それはお前の気持ちだ」
ミアは少し考えた。
「机もそうかも」
「巻き込むな」
赤猫亭の朝は、いつも通りだった。
マルタが鍋を見ている。
ミナが薬草を束ねている。
ブルーノが紙を広げている。
ルナが皿を拭き、水を飲んでいる。
ガルムが入口近くに立ち、外を見ている。
そして隅の机には、水、塩、小皿、布巾、黒パンの欠片、湯気だけの皿。
少しずつ、食卓に近づいている。
だが、まだ誰も座らない。
芋もない。
それだけで、この机がまだ完全ではないことが分かった。
◇
レオンから連絡が来たのは、朝食の途中だった。
アルトは端末を見た。
《水は飲んでいる》
それだけだった。
眠れたとは書いていない。
端末を閉じたとも書いていない。
ただ、水は飲んでいる。
アルトは画面を見て、少しだけ息を吐いた。
それでいいのかどうかは分からない。
でも、昨日より何もないよりはましだ。
アルトは返信する。
《続けろ》
送ってから、少し言い方が偉そうだったかと思った。
すぐに既読がつく。
返事はない。
それでいい。
水を飲んでいるなら、端末を見続けなくてもいい。
アルトは端末を伏せた。
ブルーノが気づく。
「レオン様ですか」
「ああ」
「眠れたと?」
「書いてない」
「そうですか」
「水は飲んでるらしい」
ブルーノは小さく頷いた。
「一つ続いているなら、いいと思います」
「お前までそれを言うのか」
「必要なので」
ミナも頷く。
「戻る手順は、一度で完成するものではありません」
「リハビリみたいだな」
「はい」
ミアが隅の机を見る。
「机と同じ?」
「近いかもしれません」
「レオンも机?」
「違う」
アルトが即答した。
ミアは残念そうだった。
「剣聖机」
「やめろ」
ルナが少し笑った。
昨日より、笑いが戻っている。
水の効果か。
赤猫亭の効果か。
皿道の効果か。
どれでもいい。
ルナが少し戻っているなら、それでいい。
◇
ブルーノは配信者用の戻る手順を少しずつ整えていた。
棚には二種類の紙が置かれている。
【帰ってきた後のこと】
これは赤猫亭用。
もう一つ。
【配信後に戻る手順】
これは配信者用。
アルトはその二枚を見る。
似ているが、同じではない。
赤猫亭用には、皿を割らないとか、ルナは水を飲むとか、かなり個人的なことが入っている。
配信者用はもう少し硬い。
一、端末を閉じる。
二、水を飲む。
三、座る。
四、数字をすぐ見ない。
五、神回という言葉をすぐ読まない。
六、温かいものを食べる。芋でも可。
七、誰かの声を聞く。
八、自分で一つ、戻る行動を決める。
九、できなければ、一つでいい。
十、寝る。
最後だけ、やけに雑だ。
「寝るって命令形なんだな」
アルトが言う。
ブルーノは少し困った顔をした。
「マルタさんが」
「強いな」
「強いです」
マルタは厨房から言った。
「寝るもんは寝るんだよ」
「眠れない時は」
アルトが言いかける。
マルタは鍋を混ぜながら答えた。
「横になる」
短い。
強い。
「眠れなくても?」
「横になって、目ぇ閉じて、息をする。眠れない日もある。でも立ったまま寝ようとするんじゃないよ」
アルトは黙った。
レオンのことを思った。
水は飲んでいる。
でも眠れたとは書いていない。
なら、次に必要なのは、眠ることではなく、横になることかもしれない。
アルトは端末を見る。
送るか迷った。
やめた。
今すぐ送ると、見ろと言っているようになる。
端末を閉じる手順に反する。
あとでいい。
もしくは、送らなくてもいい。
全部をこちらが決める必要はない。
「難しい顔」
ミアが言った。
「出てたか」
「うん」
「最悪だ」
「レオン机のこと?」
「違う」
「剣聖机?」
「違う」
アルトはスープを飲んだ。
熱い。
少しだけ助かった。
◇
昼前、ガルドは隅の机に手を置いた。
湯気だけの皿は、まだ少し温かい。
水の入ったコップ。
塩。
黒パンの欠片。
布巾。
小皿。
机はそれらを受け止めている。
ガルドは音を聞いた。
こつ。
こつ。
しばらく黙る。
店の中も、少しだけ静かになる。
ミアでさえ黙っていた。
ガルドが言う。
「だいぶ戻った」
その一言で、赤猫亭の空気が少し変わった。
だいぶ戻った。
完全ではない。
でも、戻っている。
「座れるのか」
アルトが聞く。
「短くなら」
「誰が」
「軽いやつ」
全員がミアを見た。
ミアが目を丸くする。
「私?」
「軽い」
ガルドが言う。
「褒めた?」
「事実だ」
「じゃあ褒めた」
ミアは嬉しそうにした。
マルタが念を押す。
「暴れるんじゃないよ」
「座るだけ?」
「座るだけ」
「食べない?」
「食べない」
「つまんない」
「嫌なら座らなくていいよ」
「座る」
ミアは慎重に椅子を引いた。
珍しく慎重だった。
隅の机。
通り道にされた机。
そこに、ミアが座る。
一瞬、店の空気が硬くなる。
アルトも、ブルーノも、ルナも、ミナも、ガルムも、見ていた。
ガルドだけが机の脚に手を添えている。
ミアは座った。
何も起きない。
端末は震えない。
机は割れない。
空気も硬くならない。
ミアは少しだけ得意そうに言った。
「座れた」
マルタが言う。
「よし、立ちな」
「もう?」
「今日はそれでいい」
「短い」
「リハビリは地味だろ」
ミアはしぶしぶ立った。
でも、少し嬉しそうだった。
机は、少しだけ場所に戻った。
誰かが座った。
短い時間でも。
それは、黒パンの欠片より重かった。
◇
ルナは、その机を見ていた。
皿を持ったまま。
今日は落とさない。
ただ、見ている。
「どうした」
アルトが聞く。
「座れる場所は、強いですね」
「そうなのか」
「はい」
ルナは小さく頷く。
「神界には、座る必要のない場所が多いです」
「便利そうだな」
「便利です」
「便利は」
「危ない、ですね」
ルナが先に言った。
少し笑う。
だが、その目は隅の机から離れない。
「旧待機区画にも、座る場所はあったのか」
アルトは聞いた。
聞いてから、少し近づきすぎたかと思った。
ルナはすぐには答えない。
ブルーノも顔を上げる。
店の音が遠くなる前に、マルタが鍋を叩いた。
かん。
「飯時の前に難しい話を始めるんじゃないよ」
強い。
本当に強い。
ルナは少し息を吐いた。
「おそらく、あったと思います」
「おそらく」
「でも、座るための椅子ではなかったかもしれません」
アルトは眉を寄せる。
「どういう意味だ」
「待つための形です。休むためではなく」
ルナの声は静かだった。
「そこにいるためではなく、次の処理を待つための場所」
ブルーノが紙に手を伸ばしかけて、止めた。
書かない。
今は書かない。
アルトもそれ以上は聞かなかった。
待つための形。
休むためではない場所。
名前はあるのに、誰も戻らない場所。
帰還準備。
未完了。
それらがまた近づく。
近づきすぎる前に、ミアが口を開いた。
「じゃあ、芋ないね」
全員がミアを見る。
「何が」
「その場所。芋ないでしょ」
ルナは少し目を瞬いた。
それから、ゆっくり頷いた。
「たぶん、ありません」
「じゃあ弱い場所」
ミアは断言した。
マルタが笑った。
「雑だけど、今回は当たってるかもね」
ブルーノが小さく頷く。
「食べるものがない場所は、戻る場所として弱い」
「芋は強い」
ミアが言う。
「芋は強いですね」
ミナが微笑んだ。
アルトは隅の机を見る。
黒パンの欠片はある。
塩もある。
湯気もある。
でも、芋はまだない。
だから、まだ完全ではない。
◇
午後、レオンへ連絡を送るかどうか、アルトは少し迷った。
端末を開く。
閉じる。
また開く。
ブルーノに見られる。
「迷っていますね」
「顔に出てたか」
「端末に出ています」
「端末に出るのは嫌だな」
「開閉が多いので」
アルトは端末を見た。
レオンから新しい連絡はない。
水は飲んでいる。
そこまで。
アルトは、マルタの言葉を思い出す。
眠れないなら、横になる。
端末を閉じろと言った相手に、端末で言うのもどうかと思う。
だが、必要な時もある。
少し考えて、短く打った。
《眠れなくても横になれ》
送信。
すぐには既読にならない。
それで少し安心する。
端末を見ていないのかもしれない。
しばらくして、既読がついた。
返事は来ない。
それでいい。
返事を要求する言葉ではない。
アルトは端末を閉じた。
ブルーノが何も言わず、配信者用の手順に書き足した。
【眠れなくても横になる】
「俺の言葉じゃない」
「マルタさんの言葉ですね」
「ならいい」
厨房からマルタが言った。
「いいよ」
許可が出た。
強い。
◇
夕方、ミアがとうとう芋を持ってきた。
小さい芋。
本当に小さい。
それを両手で持って、隅の机の前に立つ。
「これなら?」
ガルドは見た。
マルタも見た。
ミナも。
ブルーノも。
ルナも。
アルトも。
小さい芋。
赤猫亭では、なぜか重いもの。
ガルドはしばらく黙った。
机を叩く。
こつ。
椅子を引く。
脚を見る。
湯気だけの皿をどかす。
小皿を見る。
そして、首を横に振った。
「まだだ」
ミアは肩を落とした。
「小さいのに」
「大きさじゃない」
「芋だから?」
「そうだ」
ミアは少し悔しそうに芋を抱えた。
「芋、重い」
「ここではな」
アルトが言う。
ミアは芋を見る。
「じゃあ、明日?」
ガルドはすぐには答えなかった。
「机が決める」
「また机」
「そうだ」
ミアは小さく唸った。
「机、厳しい」
マルタが笑う。
「大事なものを置く時は、それくらいでいいんだよ」
ルナはその言葉を聞いていた。
アルトも聞いていた。
芋はまだ置かれなかった。
それで、少しだけ安心した。
急がないで済んだ。
旧待機区画も、まだだ。
机が決める。
それくらいでいい。
◇
夜。
棚には、手順の紙が三枚になっていた。
【帰ってきた後のこと】
【配信後に戻る手順】
【旧待機区画を見る前の準備】
三枚目はまだほとんど白い。
書かれているのは、少しだけ。
【戻る場所:赤猫亭】
【机が戻ってから】
【帰還後の手順を先に決める】
【端末をすぐ見ない】
【金属片を持つ】
【ルナは水を飲む】
【できなければ、一つでいい】
アルトはそれを見る。
準備は進んでいる。
進んでしまっている。
まだ行かない。
でも、行かないままではいられない。
その間に、机は少しずつ戻っている。
レオンは水を飲んでいる。
ルナも水を飲んでいる。
隅の机に芋はまだ置かれていない。
全部が、少しずつ同じ方向を向いている。
アルトは二階へ上がった。
客間の前で、今日は先に音がした。
こつ。
はっきりした音。
アルトは返す。
こつ。
すぐに返る。
こつ。
今日は強い。
それだけで、アルトは少しだけ安心した。
部屋に戻る。
端末は棚。
手帳は布の中。
金属片は机。
配置は同じ。
端末が短く震えたのは、その直後だった。
音はない。
画面も光らない。
ただ、棚の上で一度だけ震えた。
アルトは動かなかった。
すぐには見ない。
手順。
端末をすぐ見ない。
水を飲む。
座る。
名前をつけない。
誰かの声を聞く。
アルトは水を飲んだ。
座った。
金属片を指で押さえた。
かん、と鳴らしたい気持ちを抑える。
まず、戻る。
それから見る。
下の階で鍋が鳴る。
かん。
廊下の向こうから、床が鳴る。
こつ。
アルトは息を吐いた。
それから、端末を見た。
通知は一つだけだった。
【旧待機区画:参照要求】
【送信者:――】
【状態:保留】
アルトは画面を見た。
芋はまだ置かれていない。
机はまだ決めていない。
だから、今は保留でいい。
アルトは端末を閉じた。
返事はしない。
名前もつけない。
棚に戻す。
旧待機区画は、向こうから少しだけ近づいてきた。
でも、まだ入らない。
アルトは灯りを落とした。
暗くなる直前、机の上の金属片が、小さく光った気がした。
気がしただけかもしれない。
今日は、それでいい。
芋はまだ重い。




