第73話 戻る手順
赤猫亭の棚に、一枚の紙が置かれている。
【帰ってきた後のこと】
そう書かれた紙だ。
神界通知ではない。
古い手帳でもない。
旧待機区画の記録でもない。
ミナが清書した、ただの紙。
ただの紙なのに、朝から妙に目に入る。
アルトはスープを飲みながら、その紙を見ていた。
一、手を洗う。
二、水を飲む。
三、座る。
四、温かいもの、または芋を食べる。
五、端末をすぐ見ない。
六、名前をつけない。
七、誰かの声を聞く。
八、必要なら床を叩く。
九、寝る。
十、皿を割らない。
十一、ルナは水を飲む。
最後の二つだけ、どう見てもおかしい。
だが、誰も消さなかった。
ミアは何度も見に行っては、満足そうに頷いている。
「芋が入ってる」
「温かいものに含まれてるだけだろ」
アルトが言う。
「または芋、って書いてる」
「よかったな」
「重要項目」
「はいはい」
ルナは棚の前で、水を飲んでいた。
昨日より皿拭きは速い。
少なくとも、皿の光を見つめて止まる時間は減っている。
それだけで、少し安心する。
本人には言わない。
言うと、たぶん気にする。
「ルナさん、水を飲む」
ミアが読み上げた。
「はい、飲んでいます」
ルナがコップを掲げる。
「よし」
「師匠の確認は厳しいですね」
「皿道だから」
「皿道は水も含むのですね」
「たぶん」
たぶんなのか。
アルトは突っ込まなかった。
赤猫亭の朝は、こういう変な言葉が増えていく。
増えても、嫌ではない。
むしろ、増えた方が戻れる気がした。
◇
隅の机には、今日は小皿と水の少ないコップと、少しの塩が置かれていた。
そして、新しく布巾が一枚。
畳まれている。
真っ白ではない。
赤猫亭で使われている、少し古い布巾だ。
「今日は布巾か」
アルトが聞く。
ガルドは机の脚を叩きながら頷く。
「柔らかいものを置く」
「硬いとか重いとか、そういうの関係あるのか」
「ある」
「分からん」
「分からんでいい」
「いいのか」
「使えば分かる」
職人の答えは、いつも少し遅れて効いてくる。
今はまだ分からない。
でも、机の音は昨日よりさらにましになっている気がした。
こつ。
こつ。
まだ完全ではない。
だが、店の中の音に戻りつつある。
通り道にされた机。
それを、店の道に戻す。
旧待機区画へ行くなら、あの机が戻ってから。
誰が決めたわけでもないが、もうそういう流れになっていた。
ブルーノはそれを見ながら紙を広げていた。
今日は旧待機区画の紙ではない。
ミナの手順の写し。
それと、もう一枚の白紙。
「何を書いてる」
アルトが聞く。
「配信者用の戻る手順です」
「配信者用?」
「はい。昨日の話を考えていました」
ブルーノは少し言いにくそうにした。
「神界配信者には、配信後に自分を戻す手順がない」
「全員か」
「全員とは言いません。ただ、少なくとも配信システムは用意していません」
「神界は見せる方だけか」
「はい。始める手順、映す手順、投げ銭を受ける手順、評価する手順はあります。でも、終わった後に戻る手順はない」
アルトは黙った。
嫌なほど納得できた。
神々は始める。
見る。
沸く。
評価する。
神回と呼ぶ。
だが、その後に人がどう戻るかまでは、たぶん見ない。
レオン。
ユラ。
トマ。
ブルーノ。
そして自分。
戻る手順を持っていない配信者は、多いのかもしれない。
「書いてどうする」
「まだ分かりません」
「出た」
「ただ、誰かに必要になるかもしれません」
ブルーノはそう言って、白紙に一行だけ書いた。
【配信後、端末を閉じる】
それだけ。
だが、その一行は妙に重かった。
◇
昼前、レオンから連絡が来た。
最近はもう、レオンから連絡が来ると店の空気が少しだけ変わる。
嫌なわけではない。
警戒に近い。
アルトは端末を見る。
《ユラ本人に記録案を確認した》
次。
《旧名は残さない》
次。
《ただし、救助中に本人の望まない個人情報が流出した、と記録する》
アルトは画面を見た。
なるほど、と思った。
旧名そのものは残さない。
でも、流出があったことは残す。
なかったことにはしない。
本人に見せた。
本人が同意したかどうかは、まだ書いていない。
次の文が来る。
《本人は、嫌だけどそれならいい、と言った》
アルトは少しだけ息を吐いた。
嫌だけどそれならいい。
かなりユラらしい。
いや、勝手にユラらしいと言うほど知ってはいない。
でも、あの黒鐘門の後の言葉と似ている。
まだ嫌です。
でも、生きています。
嫌だけど、それならいい。
嫌なまま、少しだけ進む。
それでいいのかもしれない。
アルトは返信を打つ。
《ましだ》
送信。
すぐ既読。
少し間があって、レオンから返事。
《そうか》
それだけ。
アルトは端末を閉じようとした。
その直前、もう一文が届く。
《配信後に眠れない日が増えた》
アルトは指を止めた。
店の音が、一瞬だけ遠くなる。
レオンからそんな言葉が来るとは思わなかった。
剣聖。
最短を選ぶ者。
見続ける者。
正しさを記録に入れる者。
そのレオンが、配信後に眠れないと送ってきた。
アルトは画面を見たまま、少し動けなかった。
ブルーノが気づく。
「どうしました」
「レオンが」
「はい」
「眠れないって」
ブルーノは表情を変えた。
ミナも顔を上げる。
ルナは皿を拭く手を止めた。
ミアは、何も言わなかった。
珍しく。
アルトは返信欄を見る。
何を書けばいい。
大丈夫か。
違う。
休め。
違う。
飯を食え。
急すぎる。
端末を閉じろ。
たぶん正しいが、それだけでは足りない。
アルトは棚の紙を見た。
【帰ってきた後のこと】
変な手順。
手を洗う。
水を飲む。
座る。
温かいものを食べる。
端末をすぐ見ない。
名前をつけない。
誰かの声を聞く。
必要なら床を叩く。
寝る。
皿を割らない。
ルナは水を飲む。
アルトは、少しだけ迷った。
そして、写真ではなく、文字で打った。
《配信後の手順を作れ》
送信。
すぐ既読。
返事は来ない。
アルトは続けて打つ。
《手を洗う。水を飲む。座る。温かいものを食う。端末をすぐ見るな。誰かの声を聞け。寝ろ》
少し考えて、もう一文。
《できなければ、一つでいい》
送信。
既読。
長い沈黙。
それから、短い返事。
《水を飲む》
アルトは画面を見た。
それだけ。
たぶん、今はそれでいい。
アルトは返信する。
《それでいい》
端末を閉じた。
今回は震えなかった。
神界通知もない。
ただ、レオンが水を飲むと返してきただけ。
それだけなのに、少しだけ重いものが動いた気がした。
◇
「送ったんですね」
ミナが言った。
「ああ」
「戻る手順を」
「かなり雑に」
「雑でも、具体的ならいいと思います」
「ミナが言うと安心するな」
「ありがたい人たちなので」
ミナは少しだけ冗談の顔で言った。
ミアが棚の紙を見ながら言う。
「皿を割らないは送った?」
「送ってない」
「大事なのに」
「レオンはたぶん皿を割らない」
「分からないじゃん」
「剣聖だぞ」
「剣で皿割るかも」
「嫌な剣聖だな」
ルナが小さく笑った。
笑えている。
昨日より、少し戻っている。
アルトはそれを横目で見て、少しだけ安心した。
言わない。
水を置いたことも、こつの弱さも、今の安心も。
言わなくても、少しは残る。
ブルーノは配信者用の紙に書き足した。
【一つでいい】
アルトはそれを見る。
「俺の言葉を入れるな」
「必要です」
「そうか?」
「全部できない人の方が多いと思います」
ブルーノは静かに言う。
「だから、一つでいい、は必要です」
アルトは反論できなかった。
全部はできない。
戻ることも。
眠ることも。
忘れないことも。
許すことも。
帰ることも。
全部はできない。
なら、一つでいい日がある。
今日のレオンは、水を飲む。
それでいい。
◇
午後、ブルーノは配信者用の戻る手順を少しずつ書いた。
【配信後、端末を閉じる】
【水を飲む】
【座る】
【数字をすぐ見ない】
【神回という言葉をすぐ読まない】
【自分で一つ、戻る行動を決める】
【できなければ、一つでいい】
マルタがそれを見て言った。
「飯が抜けてる」
「入れます」
ブルーノはすぐ書き足す。
【できれば食べる】
「できればじゃなく、食べるだよ」
「配信者全員に強制すると」
「食べるだよ」
「……食べる」
書き直した。
マルタは強い。
ミアが横から言う。
「芋は?」
「またですか」
「また」
「温かいものに」
「芋は別」
ブルーノは少し悩み、書き足した。
【芋でも可】
ミアは満足した。
ミナは少し笑いながら、配信者用の紙と、赤猫亭用の紙を見比べている。
「似ていますね」
「同じようなものですか」
ブルーノが聞く。
「同じではないと思います。でも、戻るために体を使うところは似ています」
「体」
「はい。手を洗う。水を飲む。食べる。座る。寝る。声を聞く。全部、体を今の場所に戻すためのものです」
アルトはその言葉を聞いて、自分の手を見た。
この世界に来てから、何度も戦った手。
投げ銭を受けた手。
端末を閉じた手。
金属片を握った手。
床を叩いた手。
戻るには、頭だけでは足りない。
体も戻さなければならない。
旧待機区画へ行く時。
帰還準備、未完了。
その文字を見た後に戻るには。
たぶん、体が必要になる。
◇
夕方、隅の机に小さな黒パンの欠片が置かれた。
ミアが勝手に置いたのではない。
マルタが置いた。
ガルドに確認してから。
「これくらいなら?」
マルタが聞く。
ガルドは机の音を確認する。
こつ。
少し待つ。
もう一度。
こつ。
「いい」
「よし」
「食べ物だ」
ミアが目を輝かせる。
「食べるな」
全員が言った。
ミアは少し傷ついた顔をした。
「信用ない」
「あると思ってたのか」
アルトが言う。
「少し」
「その少しが怖い」
隅の机には、水の少ないコップ、小皿、塩、布巾、黒パンの欠片が置かれた。
芋ではない。
スープでもない。
でも、食べ物が乗った。
机が、少しだけ食卓に戻った。
ガルドは何も言わなかった。
だが、少しだけ満足そうだった。
ルナはその机を見ていた。
「戻っていますね」
「机が?」
「はい」
「お前は?」
言ってから、アルトは少しだけしまったと思った。
直接すぎたかもしれない。
だが、ルナは目を伏せて、それから小さく頷いた。
「少し」
「水は」
「飲みました」
「ならいい」
「はい」
それだけ。
それ以上は聞かなかった。
ルナも話さなかった。
机に黒パンが乗る。
ルナが水を飲む。
レオンが遠くで水を飲む。
変な一日だった。
でも、戻る手順は、少しずつ増えている。
◇
夜になる前、レオンからもう一度だけ連絡が来た。
《水を飲んだ》
アルトは少しだけ笑った。
笑うようなことではない。
でも、笑ってしまった。
続きが来る。
《端末は閉じた》
さらに少し間がある。
《まだ眠れない》
アルトは画面を見る。
それから返信する。
《一つできたならいい》
少し考えて、付け足す。
《二つできてる》
送信。
既読。
返事はしばらく来なかった。
それでよかった。
寝たのかもしれない。
寝ていないかもしれない。
でも、端末を閉じたなら、返事は来なくていい。
アルトは端末を棚に置いた。
自分も少しだけ、手順に従う。
端末をすぐ見ない。
水を飲む。
座る。
声を聞く。
下の階では、マルタが鍋を片づけている。
かん。
かん。
その音を聞く。
誰かの声ではないが、赤猫亭の音だ。
それでも、少し戻る。
◇
夜。
アルトは二階へ上がった。
客間の前で足を止める。
今日は、先に音がした。
こつ。
昨日より、はっきりしている。
アルトは床を叩く。
こつ。
すぐに返る。
こつ。
少し笑いそうになった。
元気になったか、と聞く必要はない。
今日は、それで分かる。
部屋に戻る。
端末は棚。
手帳は布の中。
金属片は机。
配置は同じ。
今日は金属片を鳴らした。
かん。
下の階から鍋の音が返る。
かん。
さらに、廊下の向こうから。
こつ。
金属。
鍋。
床。
全部違う音なのに、今日は少しだけ同じ方向を向いている気がした。
戻る手順。
手を洗う。
水を飲む。
座る。
食べる。
端末をすぐ見ない。
名前をつけない。
声を聞く。
床を叩く。
寝る。
一つでいい。
レオンは水を飲んだ。
ルナも水を飲んだ。
隅の机には黒パンが乗った。
旧待機区画には、まだ行かない。
でも、行くためのものは少しずつ増えている。
アルトは灯りを落とした。
暗くなる前に、寝台の木枠を軽く叩く。
こつ。
返事はない。
返事がなくてもいい時もある。
今日はもう、十分返ってきた。
アルトは目を閉じた。
未完了は、まだ見ない。
でも、戻る手順は、少しだけ見えるようになっていた。




