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第72話 帰ってきた後のこと

 ルナの皿拭きが遅かった。


 昨日までも速くはなかった。


 むしろ遅い方だった。


 だが、今日は少し違う。


 一枚の皿を拭き終えるまでに、何度か手が止まる。


 皿を見ている。


 汚れを見ているのではない。


 皿の表面に映る光を、少し長く見ている。


 ミアが横から覗き込んだ。


「女神、今日遅い」


「昨日も遅かったです」


「今日はもっと遅い」


「成長が逆行していますね」


「退化?」


「言葉が強いです」


 ルナは少し笑った。


 笑ったが、いつもより薄かった。


 アルトはそれを見ていた。


 昨日の夜。


 廊下の向こうから返ってきた音。


 こつ。


 弱かった。


 かなり遅れて、弱く返ってきた。


 アルトは、それを覚えていた。


 聞くべきか。


 聞かない方がいいのか。


 考えて、結局何も言わなかった。


 代わりに、水を汲んだ。


 赤猫亭の水。


 神界の水ではない。


 コップに半分ほど入れて、ルナの近くに置く。


 ルナが顔を上げた。


「これは」


「皿拭き見習いへの支給品」


「待遇が良いですね」


「倒れられると皿が割れる」


「そちらが理由ですか」


「主に」


 ルナはコップを見た。


 それから、アルトを見る。


 何かを言いかけて、やめた。


「ありがとうございます」


「飲め」


「はい」


 ルナは水を飲んだ。


 一口。


 それだけ。


 でも、皿を持つ手は少しだけましになった。


 ミアがじっと見ている。


「女神、回復した?」


「少し」


「水属性効くんだ」


「赤猫亭属性です」


「強そう」


「はい」


 ルナは、今度は少しだけ本当に笑った。


 アルトは何も言わなかった。


 昨日の「こつ」が弱かったことも。


 今朝、皿拭きが遅かったことも。


 水を置いた理由も。


 言わないまま、少しだけ届けばいい。


 ◇


 その日の朝、隅の机には小皿が置かれた。


 昨日のコップの隣だ。


 水は、昨日より少しだけ増えている。


 底を濡らす程度ではない。


 浅く、しかし確かに水がある。


 小皿には何も乗っていない。


 空の小皿。


 水の少ないコップ。


 木片はもうない。


 机の上だけ見ると、誰かが食事の準備を途中でやめたようにも見える。


「今日は小皿」


 ミアが言った。


「明日は芋?」


「まだ早い」


 ガルドが答える。


「芋は重い?」


「意味が重い」


「芋に?」


「ここではそうだ」


 アルトは思わず頷きかけた。


 頷きたくないが、少し分かる。


 赤猫亭で芋は重い。


 ミアが小皿を覗き込む。


「何も乗ってない」


「今日は乗せない」


「寂しい」


「寂しいくらいでいい」


「机のリハビリ、地味」


「リハビリは地味だ」


 ミナが横で頷いた。


「本当にそうです」


「ありがたい人たちも地味?」


「かなり地味です」


「へえ」


 ミアは感心したようだった。


 ミナは少し笑い、布を広げた。


 そこには紙が一枚ある。


 ブルーノの穴の紙ではない。


 ミナの紙だ。


 字は丁寧だが、ところどころ丸く、読みやすい。


 上にこう書かれている。


【帰ってきた後のこと】


 アルトはその文字を見た。


「作ったのか」


「はい」


「本当に作るとは思わなかった」


「必要だと思ったので」


 ミナは少しだけ真面目な顔になる。


「旧待機区画を見るなら、見に行く前の準備だけでは足りません。戻ってきた後に何をするかを、先に決めておく必要があります」


 ブルーノが紙を覗き込む。


「かなり実務的ですね」


「実務です」


「助かります」


 アルトも紙を見る。


 そこには、箇条書きがあった。


 一、手を洗う。

 二、水を飲む。

 三、座る。

 四、温かいものを食べる。

 五、端末をすぐ見ない。

 六、名前をつけない。

 七、誰かの声を聞く。

 八、必要なら床を叩く。


 最後の行で、アルトは少し止まった。


「八」


 ミナが頷く。


「はい」


「誰が書いた」


「私です」


「いや、そうじゃなくて」


「必要だと思ったので」


 ミナはまっすぐ言った。


 ルナが皿を拭く手を止めた。


 今回はミアが注意しなかった。


 ルナは紙を見ている。


 八、必要なら床を叩く。


 そこに、少しだけ救われたような顔をした。


 アルトは見なかったふりをした。


 だが、覚えた。


 ◇


 ミアは当然のように手を挙げた。


「追加」


「何をですか」


 ミナが聞く。


「九、芋を食べる」


「四の温かいものに含まれます」


「芋は別枠」


「別枠ですか」


「重要」


 ミナは少し悩んだ。


 本当に悩んでいる。


 アルトは言う。


「悩むな」


「でも、本人が大事だと思うものは」


「ミナ先生、優しい」


 ミアが嬉しそうに言う。


 ブルーノが横から口を挟む。


「では、四を『温かいもの、または芋を食べる』に」


「芋だけ冷遇されてる」


「優遇では?」


「もっと上」


「どこまで上げる気だ」


 マルタが厨房から言った。


「芋は飯の一部だよ。別枠にするんじゃない」


「マルタが言うなら」


 ミアは引いた。


 強い。


 マルタは芋より強い。


 ガルムが紙を見る。


「七、誰かの声を聞く、は誰でもいいのか」


 ミナは考える。


「できれば、知っている声がいいと思います」


「敵の声は」


「駄目です」


「当然だな」


「ガルムさんは時々確認が怖いです」


「危険を除外した」


 ガルムは平然と言った。


 ガルドが紙を見て、短く言う。


「九、寝る」


 ミナはすぐに書き足した。


「それは大事ですね」


「大事なのか」


 アルトが言う。


「大事です」


 ミナ、ガルド、マルタが同時に言った。


 強い。


 寝るは強い。


 ルナが小さく手を挙げた。


「十、皿を割らない」


「帰還後の手順に必要ですか」


 ブルーノが聞く。


「私には必要かもしれません」


「個別項目ですね」


「はい」


 ミアが真面目に頷く。


「女神専用」


「専用ですね」


 ルナは少しだけ照れたように笑った。


 紙の上に、変な手順が増えていく。


 怖い場所へ行くための準備のはずなのに、途中から赤猫亭の注意書きみたいになっている。


 だが、それでよかった。


 たぶん、これくらい雑で、これくらい具体的でないと戻れない。


 帰ってきた後のこと。


 手を洗う。


 水を飲む。


 座る。


 食べる。


 声を聞く。


 床を叩く。


 寝る。


 皿を割らない。


 どれも、神界の記録には残らないかもしれない。


 でも、戻るには必要なことだった。


 ◇


 ブルーノは、旧待機区画の紙を出さなかった。


 今日は出さないと決めているらしい。


 その代わり、別の紙を出した。


 白紙。


 何も書かれていない紙。


「何だそれ」


 アルトが聞く。


「見に行く前の準備を書きます」


「今度は行く前か」


「はい。ただし、旧待機区画そのものは書きません」


「じゃあ何を書く」


「戻る条件」


 ブルーノは筆を持った。


 少し考え、こう書いた。


【戻る場所:赤猫亭】


 それだけ。


 アルトは、その文字を見た。


 今度は嫌な感じはしなかった。


 重い感じはある。


 だが、嫌ではない。


「場所として書いていいのか」


「名前をつけるのとは違います」


「どう違う」


「神界に呼ぶためではなく、こちらが戻るために書いています」


 ブルーノは言った。


「呼び出す名前ではなく、帰ってくる目印です」


 ルナがその言葉に反応した。


 だが、何も言わなかった。


 アルトも追わない。


 呼び出す名前。


 帰ってくる目印。


 同じ言葉でも、使い方で違う。


 それは、最近少しずつ分かってきた。


「他には」


 アルトが聞く。


 ブルーノは書く。


【端末:戻るまで開かない】


【手帳:持ち込まない】


【金属片:持つ】


【床の合図:使用可】


【帰還後:ミナの手順に従う】


 ミアが横から言う。


「芋は?」


「ミナさんの手順に含まれます」


「含まれがち」


「重要項目です」


「ならよし」


 ミアは満足した。


 ルナが紙を見る。


「私は」


 小さく言った。


 アルトが見る。


「私は、どうすればいいのでしょう」


 店の音が少しだけ静かになる。


 皿。


 水。


 鍋。


 全部、少し遠くなる。


 ルナは続ける。


「見られている時、私はたぶん、皆さんを安全な方へ引く役には立てません。むしろ、近づけてしまうかもしれません」


 昨日の弱い「こつ」。


 今朝の遅い皿拭き。


 水を一口飲んだ時の手。


 それらが、アルトの中で一つにつながる。


 ルナも疲れている。


 いや、疲れだけではない。


 見られている。


 まだ。


 たぶん。


 アルトは、少し考えた。


 それから言う。


「水を飲め」


 ルナが目を瞬いた。


「はい?」


「今日みたいに。まず水を飲め」


「それが役割ですか」


「役割じゃない。手順だ」


 アルトはミナの紙を指す。


「帰ってきた後のことに入れろ。ルナは水を飲む」


 ミナがすぐに書き足した。


【ルナさん:水を飲む】


 ルナは紙を見る。


 少し困ったような、少し安心したような顔をした。


「それだけでいいのですか」


「今は」


「今は」


「皿も割るな」


「それもですね」


 ルナは小さく笑った。


 今度は、少しだけ力が戻った笑いだった。


 ◇


 昼過ぎ、ミナは手順の紙を清書した。


 ブルーノはそれを見ながら、何度か頷いている。


「これは、かなり良いです」


「そうですか」


「はい。怖いものを見る時、見方ばかり決めていました。でも、見た後の戻り方を決めていなかった」


「大事です」


「ええ」


 ブルーノは少し考える。


「これ、配信者にも必要ですね」


「配信者?」


「神界配信者は、配信後に自分を戻す手順を持っていない人が多いのかもしれません」


 アルトは、その言葉を聞いてレオンを思い出した。


 神回。


 最短。


 数字。


 救助成功。


 損失項目。


 見続ける者。


 レオンは、戻る手順を持っているのだろうか。


 戦いから。


 数字から。


 正しさから。


 アルトは端末を見た。


 レオンからの連絡はない。


 ないなら、今は送らない。


 急に「飯を食え」と送るのも変だ。


 いや、少し送ってもいいかもしれない。


 やめた。


 まだその段階ではない。


「どうしました?」


 ミナが聞く。


「いや」


「レオンさんですか」


「顔に出すぎだろ」


「少し」


「最悪だ」


 ミナは笑った。


「でも、いつか必要かもしれませんね」


「何が」


「戻る手順を伝えることです」


 アルトは答えなかった。


 ただ、その言葉を覚えた。


 ◇


 夕方、隅の机に、ミアが勝手に芋を置いた。


 置いた瞬間、ガルドに首根っこを掴まれた。


「早い」


「ちょっとだけ」


「早い」


「机、喜ぶかも」


「早い」


「三回言った」


「大事だからだ」


 ミアはしぶしぶ芋を引っ込めた。


 だが、その芋を食べようとしたところで、マルタに止められた。


「それは夕飯用だよ」


「置いただけなのに」


「置いたら自分のものになると思うんじゃない」


「厳しい」


「当たり前だよ」


 代わりに、マルタは小皿に塩を少しだけ乗せた。


 そして、隅の机に置いた。


 ガルドを見る。


「これなら?」


 ガルドは少し考えた。


「いい」


「塩はいいんだ」


 ミアが言う。


「軽い」


「芋より?」


「芋より」


「芋、重いんだ」


 ルナが小さく言った。


「ここでは、そうなのですね」


 アルトは頷いた。


「ここではな」


 小皿。


 少しの水。


 少しの塩。


 隅の机は、昨日よりもさらに店に戻っていた。


 食事そのものではない。


 でも、食事の周りにあるものが置かれ始めている。


 戻る準備。


 机のリハビリ。


 旧待機区画へ行く準備。


 全部が、妙な形でつながっている。


 ◇


 夜。


 ミナの清書した紙は、赤猫亭の棚に置かれた。


 布に包まれた手帳とは少し離して。


 ブルーノの旧待機区画の紙とも離して。


 でも、見える場所に。


【帰ってきた後のこと】


 その文字は、神界の通知よりずっと地味だった。


 だが、今はその地味さが必要だった。


 アルトは二階へ上がる。


 客間の前で足を止める。


 今日は、先に音はしない。


 アルトは少し待った。


 昨日の弱い音を思い出す。


 今朝のルナの皿拭き。


 水を飲んだ手。


 紙に書かれた【ルナさん:水を飲む】。


 アルトは床を軽く叩いた。


 こつ。


 少し待つ。


 返事が来る。


 こつ。


 昨日より早い。


 昨日より、少し強い。


 アルトは息を吐いた。


 それだけで十分だった。


 扉は開けない。


 声もかけない。


 でも、今日は少しましだと分かった。


 アルトは自分の部屋へ戻った。


 端末は棚。


 手帳は布の中。


 金属片は机。


 配置は同じ。


 今日は、金属片を鳴らさない。


 鳴らさなくても、返事はもらった。


 寝台に座る。


 未完了。


 帰還条件。


 その二つは、まだ頭の中で近い。


 似ていてほしくない。


 だが、今日はその横に、別の紙がある。


【帰ってきた後のこと】


 手を洗う。


 水を飲む。


 座る。


 温かいものを食べる。


 端末をすぐ見ない。


 名前をつけない。


 誰かの声を聞く。


 必要なら床を叩く。


 寝る。


 皿を割らない。


 ルナは水を飲む。


 変な手順だ。


 かなり変だ。


 でも、帰るための準備ではなく、帰ってきた後の準備だ。


 それが今は必要だった。


 アルトは灯りを落とした。


 暗くなる直前、廊下の向こうから、もう一度だけ音がした。


 こつ。


 今度は向こうからだった。


 アルトは寝台の木枠を軽く叩く。


 こつ。


 返事。


 それだけで、夜は少しだけ戻った。


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