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第71話 未完了を見ない

 隅の机に、水が入った。


 ほんの少しだけだった。


 コップの底に、指一本分にもならないくらい。


 水と言うより、濡れた跡に近い。


 それでも昨日とは違う。


 昨日は空だった。


 今日は水がある。


 それだけで、机の上の空気が少し変わって見えた。


「少なっ」


 ミアが言った。


「もっと入れればいいのに」


「今日はこれでいい」


 ガルドが答える。


「机、喉乾いてるかも」


「机は飲まん」


「分からないじゃん」


「分かる」


「職人だから?」


「そうだ」


 ミアは納得したような顔をした。


「職人ずるい」


「ずるくない」


 ガルドは隅の机の脚を軽く叩いた。


 こつ。


 昨日より、少しだけ音が鈍くない。


 アルトにも、それは何となく分かった。


 何となく分かるようになっていることが、少し嫌だった。


 木の音まで気にする生活。


 普通ではない。


 だが、この世界に来てから、普通の方が少ない。


 赤猫亭の朝は、いつも通りだった。


 マルタが鍋を火にかける。


 ミナが薬草の束を仕分ける。


 ミアが芋袋の近くに寄りすぎて怒られる。


 ガルムが入口で外を見る。


 ブルーノが紙を広げる。


 ルナが皿を拭く。


 アルトは真ん中寄りの卓に座っていた。


 目の前にはスープ。


 黒パン。


 芋。


 そして、見ないようにしている紙。


 ブルーノの紙だ。


 布で半分隠されている。


 隠されていても、何が書いてあるかは覚えている。


【処理状態:帰還準備】


【結果:未完了】


 思い出さないようにしても、思い出す。


 読んでしまったものは、なかったことにならない。


 アルトは匙を持ったまま止まっていた。


「食べな」


 マルタが言う。


「ああ」


「匙を持って考え込むんじゃないよ。スープに失礼だ」


「スープに感情があるのか」


「あるよ」


「あるのか」


「冷めると怒る」


「それはこっちの問題だろ」


「だから怒るんだよ」


 マルタは当然のように言った。


 アルトはスープを飲んだ。


 熱い。


 ちゃんと熱い。


 未完了という文字を、少しだけ奥へ押しやる。


 消えはしない。


 でも、熱いものを飲んでいる間だけは、少し遠ざかる。


 ◇


 ブルーノは、今日はあまり喋らなかった。


 紙の上に手を置いたまま、何かを書きそうになっては止める。


 書かない。


 それを繰り返している。


「見すぎたのか」


 アルトが聞く。


「見ないようにしています」


「見ない努力って疲れるな」


「はい」


「なら、裏返せ」


「裏返すと、裏返したことを意識します」


「面倒だな」


「かなり」


 ブルーノは苦笑した。


 それから、紙に何も書かず、筆を置いた。


「昨日の記録を、何度も考えています」


「旧待機区画か」


「はい」


「帰還準備」


 言ってしまった。


 アルトは自分で言って、少しだけ嫌になった。


 ブルーノの目も、少しだけ動いた。


 ルナの皿を拭く手が止まりかける。


 ミアがすぐ見る。


「女神、止まった?」


「止まっていません」


「怪しい」


「今日は皿を落としません」


「昨日もそう言ってた」


「成長しています」


「見てる」


「はい」


 ミアの監視で、空気が少しだけ横へ逸れた。


 助かった。


 たぶん、みんなそう思った。


 ブルーノは声を低くする。


「その言葉と、アルトさんの帰還条件を並べないようにしています」


 アルトは匙を置いた。


「お前もか」


「はい」


「並べたらどうなる」


「分かりません」


「またそれか」


「ただ、並べた瞬間に形になる気がします」


 ブルーノは紙の上の布を少しだけ直した。


「帰還条件への接近。帰還準備。未完了。この三つを同じ線上に置くのは、まだ早い」


「早いだけか」


「危ない、の方が近いです」


 アルトは黙った。


 早い。


 危ない。


 近い。


 最近、その言葉ばかりだ。


 でも、今回は分かる。


 並べたくない。


 自分の通知。


【帰還条件への接近を確認】


 旧待機区画の記録。


【処理状態:帰還準備】


【結果:未完了】


 似ている。


 似ていてほしくない。


 アルトは、その二つを頭の中で並べないようにした。


 並べた瞬間、何かがこちらを向く気がした。


 ◇


 午前中、赤猫亭には客が来た。


 珍しいことではない。


 赤猫亭は店だ。


 店には客が来る。


 ただ、アルトたちにとっては、最近それだけのことがありがたかった。


 旅人が二人。


 荷運びの男が一人。


 近所の老人が一人。


 マルタは当たり前のように注文を聞き、鍋からスープをよそい、黒パンを切った。


 皿が机に置かれる。


 音がする。


 こと。


 かた。


 かん。


 いろんな音が重なる。


 神界記録には残らないかもしれない。


 でも、机には残る。


 床にも残る。


 場所には残る。


 隅の机には、まだ誰も座らない。


 水の少し入ったコップだけがある。


 それでも昨日より、店の中に戻っている。


 ミアはそれを見に行くたびに、コップの中を覗いた。


「増えてない」


「増えるわけないだろ」


 アルトが言う。


「机が飲んでたら減るじゃん」


「飲まない」


「ガルドはそう言うけど」


「俺も言う」


「アルトは職人じゃない」


「職人じゃなくても分かる」


 ミアは不満そうだった。


 その隣で、ルナもコップを見ていた。


 アルトは少し気になった。


「何だ」


「水があると、場所に見えます」


「昨日は見えなかったのか」


「昨日も見えました。でも、今日は少し違います」


「どう違う」


 ルナは少し考える。


 言葉を選んでいる。


 まただ。


「置かれているだけではなく、待っているように見えます」


「誰を」


「分かりません」


「便利に使うな」


「本当に分からないのです」


 ルナは小さく笑った。


 だが、その笑いはすぐに薄くなる。


「でも、使われるのを待っている場所は、使われない場所とは違います」


 アルトは隅の机を見た。


 水の少し入ったコップ。


 誰も座らない椅子。


 でも、明日は何かが置かれるかもしれない。


 明後日は誰かが少し座るかもしれない。


 それは、旧待機区画とは違う。


 名前も座標も用途もあるのに、誰も戻らない場所とは違う。


「未完了の場所とは違う、か」


 言ってしまった。


 ルナの顔が少しだけ固まる。


 アルトはすぐに首を振った。


「今のは違う」


「違う?」


「机の話だ」


 ルナは少しだけ目を伏せた。


「はい」


「机の話にしておく」


「それがいいです」


 ミアが横から言う。


「机の話、多いね」


「最近な」


「机が主役?」


「違う」


「でも、机のリハビリしてる」


「主役ではない」


「準主役?」


「格上げするな」


 ミアは笑った。


 空気が少し戻る。


 机の話にしておく。


 それが今は必要だった。


 ◇


 昼過ぎ、レオンから連絡は来なかった。


 来ないことに、アルトは少しだけ安心した。


 それもどうかと思う。


 黒鐘門の件は、まだ終わっていない。


 ユラの記録形式をどうするか。


 トマの声は戻るのか。


 レオンは次も最短を選ぶのか。


 全部、残っている。


 残っているが、今日は来ない。


 来ないなら、今日は食う。


 それくらいでいい。


 ブルーノは旧待機区画の紙を畳んでいた。


 完全にはしまわない。


 布に包むだけ。


 触れられる距離に置く。


 見ないようにするには遠すぎず、近づきすぎるには遠い場所。


「中途半端だな」


 アルトが言う。


「今は中途半端が一番安全です」


「名言っぽく言うな」


「言っていて嫌です」


 ブルーノは布を結んだ。


「ただ、見ないだけでは進みません」


「分かってる」


「でも、見るには戻る準備が足りません」


「机か」


「机もです」


「他にもあるのか」


「アルトさん自身も」


 アルトは黙った。


 ブルーノも、それ以上は言わない。


 言いすぎる前に止めた。


 最近、みんな止まるのがうまくなっている。


 良いことなのか、悪いことなのかは分からない。


 ミナが薬草の束を結びながら言った。


「見に行く時は、帰ってきた後のことも決めておきましょう」


「たとえば」


「食べるもの」


 ミアが即答した。


 ミナが少し笑う。


「それも大事です」


「本当に?」


「はい」


 ミナは真面目だった。


「怖い場所に行く前より、帰ってきた後に何をするかの方が大事な時があります。手を洗う。水を飲む。座る。食べる。誰かの声を聞く」


「治療だな」


「はい」


「ありがたい人たちの?」


「たぶん、ありがたい人たちのです」


 ミナは少し照れたように笑った。


 アルトは、その言葉を覚えておくことにした。


 帰ってきた後に何をするか。


 旧待機区画へ行く前に、戻った後のことを決める。


 変な話だ。


 でも、必要な気がした。


 ◇


 夕方、隅の机のコップに、マルタが水を一滴だけ足した。


 本当に一滴だった。


 ミアが見て叫ぶ。


「少なっ」


「今日はこれでいいんだろ」


 マルタがガルドを見る。


 ガルドは頷いた。


「いい」


「水一滴で何が変わるの」


 ミアが聞く。


「変わる」


「どう?」


「明日分かる」


「ずるい」


「明日まで待て」


 ミアは頬を膨らませた。


 ルナはその一滴を見ていた。


 水面がほんの少し揺れる。


 揺れて、すぐ止まる。


「波を立てない探し方に似ています」


 ルナが言った。


 ブルーノが顔を上げる。


「水面の波だけを見る」


「はい」


「石を投げずに」


「でも、今日は一滴だけ落としました」


 ルナは水面を見る。


「一滴なら、場所は壊れません」


「そういうものか」


 アルトが聞く。


「たぶん」


「便利に」


「使っていません」


 ルナが少しだけ先に言った。


 アルトは笑いそうになった。


 笑った。


 少しだけ。


 水一滴。


 机のリハビリ。


 旧待機区画。


 帰還準備。


 未完了。


 重いものと軽いものが同じ店の中にある。


 それが赤猫亭だった。


 ◇


 夜。


 ブルーノは旧待機区画の紙を棚にしまった。


 端末ではなく、紙のまま。


 棚の上には、布に包まれた手帳がある。


 その隣ではない。


 少し離して置く。


「近すぎると嫌なので」


 ブルーノが言った。


「物理的な距離に意味あるのか」


「あると思いたいです」


「思いたい、か」


「はい」


 アルトも、そういう距離を最近信じている。


 端末は棚。


 手帳は布。


 金属片は机。


 全部を離す。


 それで何かが変わるかは分からない。


 でも、近すぎないようにする。


 それだけで呼吸が少し楽になる。


 ルナは二階へ上がる前に、隅の机を見た。


 コップの底に少しの水。


 一滴増えた水。


 何も言わない。


 ただ、少しだけ頭を下げた。


 机に。


 それとも、そこに戻ろうとしている場所に。


 アルトは聞かなかった。


 聞くと、名前になる。


 夜になり、赤猫亭の灯りが落ちる。


 アルトは二階へ上がった。


 客間の前で、今日は音がない。


 少し待つ。


 それでも音はない。


 アルトは床を軽く叩いた。


 こつ。


 返事はすぐに来なかった。


 待つ。


 もう一度叩くか迷う。


 すると、かなり遅れて音が返った。


 こつ。


 弱い。


 昨日より、少し弱い音だった。


 アルトは扉を見た。


 開けない。


 声もかけない。


 でも、その弱さは覚えておく。


 明日、何かあれば聞けばいい。


 聞けるように、今は閉じる。


 アルトは自分の部屋に戻った。


 端末は棚。


 手帳は布の中。


 金属片は机。


 配置は同じ。


 今日は、金属片を鳴らした。


 かん。


 下の階から鍋の音は返らない。


 代わりに、廊下の向こうから、もう一度だけ弱い音がした。


 こつ。


 アルトは金属片を指で押さえた。


 鳴らさない。


 ただ、押さえる。


 未完了。


 その文字が浮かぶ。


 帰還条件。


 その文字も浮かぶ。


 並べない。


 並べるな。


 アルトは目を閉じる。


 似ている。


 似ていてほしくない。


 そう思っている時点で、もう少しだけ並んでいる。


 それでも、今日は見ない。


 未完了を見ない。


 見ないまま、明日の机の水を少しだけ思い出す。


 空ではない。


 満ちてもいない。


 底に少しだけある。


 それくらいが、今の赤猫亭にはちょうどよかった。


 アルトは灯りを落とした。


 暗くなる直前、下の階で小さく水が揺れた気がした。


 気がしただけかもしれない。


 それでよかった。


 今日は、未完了を見ない日だった。


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