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第70話 使われない場所

 場所には、使われている場所と、使われていない場所がある。


 当たり前の話だ。


 だが、神界の記録では、そこが少し違うらしい。


 ブルーノがそう言った時、アルトは朝のスープを飲んでいた。


 赤猫亭の真ん中寄りの卓。


 最近の定位置。


 隅の机には、昨日の木片の代わりに小さな空のコップが置かれている。


 水は入っていない。


 ガルドが「今日は空でいい」と言ったからだ。


 マルタは「水くらい入れたいね」と言ったが、結局従った。


 机を、店の道に戻すため。


 少しずつ使うため。


 空のコップは、そのために置かれている。


 何も入っていないのに、置かれているだけで少しだけ机が店に戻ったように見える。


 変な話だ。


 でも、最近は変な話ばかりだ。


「使われていない場所?」


 アルトが聞く。


 ブルーノは紙を出した。


 また紙だ。


 端末ではない。


 本人いわく、端末で見すぎると近づきすぎるらしい。


 紙には、赤猫亭の図ではなく、四角い枠が一つ描かれていた。


 中は空白。


 端に小さく、記号だけがある。


【旧待機区画】


 アルトは眉を寄せた。


「待機区画?」


「神界側の配信者用待機空間です。正確には、神々が配信者を観測する前後に、記録を整理するための区画……だったものです」


「だったもの」


「今は使われていません」


「何でそんなものを見つけた」


「赤猫亭の帰還地点ログのずれを見ていたら、場所分類の比較対象として出ました」


「つまり、また穴の横にあったのか」


「はい」


 ブルーノは素直に頷いた。


「この旧待機区画は、神界記録上は場所として残っています。座標もあります。名称もあります。用途もあります」


「じゃあ、場所じゃないのか」


「記録上は」


「嫌な言い方だな」


「実際には、誰も使っていません」


 ブルーノは紙の空白を指で叩いた。


「神々の来訪記録なし。配信者の滞在記録なし。会話ログなし。投げ銭履歴なし。食事なし。作業なし。修理なし。皿もありません」


「最後のはいるのか」


「最近、場所を判断する基準が皿に寄っています」


 厨房からマルタが言った。


「いい基準だよ。皿が出ない場所は店じゃない」


「神界の待機区画は店じゃないだろ」


「なら、なおさら場所として弱いね」


 マルタは迷いなく言った。


 ブルーノが少し困った顔をする。


「すごく雑ですが、今の話に近いです」


「近いのか」


「はい」


 ルナは皿を拭く手を止めずに聞いていた。


 今日はかなり上達している。


 皿を拭く速度はまだ遅いが、落とさない。


 ミアが隣で監督している。


「今の、どういうこと?」


 ミアが聞く。


 ブルーノが説明しようとして、言葉に詰まる。


 代わりに、ルナが言った。


「名前はあるのに、誰も戻らない場所、ということです」


 アルトはルナを見た。


 ルナは皿を拭いたまま、視線を上げない。


 言葉を選んだ気配があった。


 でも、今回は言った。


「名前はあるのに、誰も戻らない場所」


 アルトは繰り返す。


 嫌な言葉だった。


 ◇


 赤猫亭は、その反対だった。


 名前がどう記録されているかは知らない。


 神界がどう分類しているかも知らない。


 でも、朝から人が戻ってくる。


 マルタは厨房に戻る。


 ミアは芋袋に戻る。


 ミナは薬草籠の横に戻る。


 ガルムは入口に戻る。


 ガルドは机の前に戻る。


 ブルーノは紙に戻る。


 ルナは皿に戻る。


 アルトは、いつの間にかこの卓に戻っている。


 誰かに言われたわけではない。


 足が勝手にそこへ行く。


 それは、記録より強い気がした。


「その旧待機区画ってのは、昔は使われてたんだな」


 アルトが聞く。


「はい」


 ブルーノは紙の端を指す。


「古い来訪記録があります。ただ、ある時期から急に途切れています」


「いつ」


「第七層到達者の旧配信記録と、時期が近いです」


 店の音が少し遠くなった。


 ただし、消えはしない。


 鍋の音。


 皿の音。


 ミアが芋を袋に戻す音。


 ちゃんと聞こえる。


 アルトはその音を頼りに、息をした。


「名前は出すな」


「出しません」


「その同行者も」


「出しません」


 ブルーノは紙に名前を書いていない。


 ただ、二つの空白がある。


 一つは第七層到達者。


 一つは同行者欠落。


 そして今回の旧待機区画。


「そいつらが使ってた場所なのか」


「可能性はあります」


「使われなくなった理由は」


「分かりません」


「分からないが増えたな」


「増えています」


 ブルーノは疲れたように言った。


「ただ、変なことがあります」


「まだあるのか」


「はい」


 ブルーノは紙を一枚めくった。


 そこには、短い記録だけが写されていた。


【旧待機区画:最終使用記録】


【処理状態:帰還準備】


【結果:未完了】


 アルトは、文字を見たまま動かなかった。


 帰還準備。


 未完了。


 嫌な組み合わせだ。


「帰還準備って何だ」


「分かりません」


「便利だな」


「本当に分からないんです」


 ブルーノは珍しく、少し苛立っていた。


「通常の配信者には、こんな処理はありません。少なくとも私が見られる範囲にはない。帰還条件通知とは別の処理です」


「別?」


「はい。あなたの【帰還条件への接近を確認】とは違う形式です」


 ルナの皿を拭く手が止まった。


 ミアがすぐ言う。


「女神、手が止まった」


「……はい」


「減点」


「受け入れます」


 ルナは皿を置いた。


 拭き終えていない皿。


 それを棚へ戻さず、卓に置く。


 真剣な顔だった。


「その記録は、あまり見ない方がいいです」


「近いのか」


 アルトが聞く。


「はい」


「何に」


 ルナは答えない。


 アルトは追わなかった。


 追わないことにも慣れてきた。


 嫌な慣れだ。


 ◇


 旧待機区画の記録は、場所としては整っていた。


 名称がある。


 座標がある。


 用途がある。


 履歴がある。


 だが、今は誰も使っていない。


 ブルーノが言うには、神界側でも半分忘れられたような場所らしい。


 完全に消えてはいない。


 だが、誰も訪れない。


 誰も話さない。


 誰も座らない。


 誰も皿を置かない。


 誰も机を直さない。


 だから、場所としては弱い。


 神界の記録上は強いのに、場所としては弱い。


 赤猫亭とは逆だ。


「見るだけならできるのか」


 アルトが聞いた。


 ブルーノは嫌な顔をした。


「できます」


「できるのか」


「できますが、おすすめしません」


「言うと思った」


「外から輪郭を見るくらいなら。中に入るのは論外です」


「入れるのか」


「たぶん」


「言ったな」


「言いました。忘れてください」


「無理だろ」


「ですよね」


 ブルーノは紙を裏返しかけた。


 だが、今回は裏返さなかった。


 見すぎではない。


 見たい。


 でも、見てはいけない。


 その手前で止まっている顔だった。


「見に行くのか」


 ガルムが入口から言った。


 店の中にいた全員が、少しだけ止まった。


 ガルムは淡々としている。


 いつも通り。


 だが、言葉は重い。


「今すぐは行かない」


 アルトは答えた。


「そうか」


「行くとしても、準備してからだ」


「正しい」


「行く前提みたいに言うな」


「違うのか」


 アルトは黙った。


 違う、と言いたかった。


 だが、言えない。


 使われていない場所。


 帰還準備。


 未完了。


 第七層到達者。


 同行者欠落。


 名前のない神貨。


 全部が、旧待機区画の周りに集まっている。


 行かない、と言い切れるほど、関係ない場所ではない。


 だが、近づきすぎれば見つかる。


 ルナがこちらを見る。


 その目が、行くなと言っているわけではない。


 ただ、戻れるようにしてから行けと言っている。


 たぶん。


「行くなら、戻る場所を決めてからですね」


 ミナが言った。


 静かな声だった。


「治療と同じか」


「はい。深く触る時は、戻せるところを確認してからです」


「ありがたい人たちっぽいな」


「またその元の世界の人ですか」


「ああ」


「では、ありがたいことを言いました」


 ミナは少しだけ笑った。


 アルトも少しだけ笑った。


 重い話の中に、少しだけ隙間ができる。


 ◇


 午後、赤猫亭の隅の机には、水の入っていないコップが置かれていた。


 そのままだった。


 誰も触らない。


 ただ、時々ミアが見に行く。


「水入れたくなる」


「入れるな」


 ガルドが言う。


「ちょっとだけ」


「駄目だ」


「けち」


「段階がある」


「机のリハビリ?」


「そうだ」


 ミアは目を丸くした。


「机もリハビリするんだ」


「する」


「へえ」


 ミナが横から微笑む。


「たしかに、少しずつ負荷をかけるのはリハビリに近いですね」


「ミナまで乗るな」


 アルトが言う。


「でも、分かりやすいです」


「そうか?」


「はい。急に元通りにはしない。少しずつ、戻る道を思い出す」


 ルナが皿を持ったまま、その言葉を聞いていた。


 戻る道を思い出す。


 それは机の話だ。


 机だけの話にしておいた方がいい。


 ルナはそういう顔をしていた。


 アルトは何も言わなかった。


 言わないことが増えた。


 だが、黙ることと、なかったことにすることは違う。


 最近、その違いも少しだけ分かってきた。


 ◇


 夕方、レオンから連絡が来た。


 またか、とアルトは思った。


 だが、内容は短かった。


《ユラ本人に確認した》


 次。


《旧名流出を損失項目として残すことに、本人は同意しなかった》


 アルトは眉を寄せた。


 続き。


《ただし、なかったことにするなと言われた》


 アルトはしばらく画面を見た。


 ユラらしい。


 いや、ユラのことをよく知っているわけではない。


 それでも、あの時の「まだ嫌です。でも、生きています」と同じ場所にある言葉だと思った。


 残すことには同意しない。


 でも、なかったことにするな。


 面倒だ。


 とても面倒だ。


 だが、人の傷は、たぶんそれくらい面倒でいい。


 レオンからもう一文。


《記録形式を変える》


 アルトは短く返した。


《本人に見せろ》


 既読。


《そうする》


 それだけ。


 アルトは端末を閉じた。


 今日は震えなかった。


 記録にも残らない。


 ただ、レオンが少しだけやり方を変えた。


 それは派手ではない。


 神々はたぶん褒めない。


 でも、ましだった。


 いや。


 悪くはない。


 アルトはその言葉を、口には出さなかった。


 ◇


 夜になる前、ブルーノは旧待機区画の紙を畳んだ。


「今日はここまでです」


「珍しく早いな」


「近いので」


「どのくらい」


「扉の前まで来た感じです」


 アルトは嫌な顔をした。


「比喩か?」


「比喩です」


「本当にも聞こえる」


「私もそう思いました」


「最悪だ」


 ブルーノは紙を布に包む。


 端末には保存しない。


「この場所を見るなら、準備が必要です」


「何の」


「戻る準備」


 ブルーノは言った。


「もし中を見るなら、見た後に戻る場所を固定しておかないと危ない気がします」


「赤猫亭か」


「はい」


「それで足りるのか」


「分かりません」


「またそれ」


「ただ、他にありません」


 それは、重いようで、少しだけ安心する言葉だった。


 他にない。


 つまり、ここしかない。


 アルトは隅の机を見る。


 空のコップ。


 まだ水は入っていない。


 でも、そこにある。


 少しずつ戻す。


 店の道に戻す。


 使われる場所に戻す。


「行くなら、あの机が戻ってからだな」


 アルトが言うと、ガルドが顔を上げた。


「急ぐな」


「急いでない」


「ならいい」


「どれくらいかかる」


「机が決める」


「机に任せるのか」


「そうだ」


 マルタが厨房から笑った。


「うちの机は偉いね」


「偉いかは知らん。古い」


「古いのは偉いんだよ」


 ルナが、小さく笑った。


 その笑いには、少しだけ別の意味が混じっていた。


 古い。


 最古。


 神である前。


 アルトは気づいたが、何も言わなかった。


 今は、机の話だ。


 ◇


 夜。


 赤猫亭の二階。


 今日は廊下で、先に音がした。


 こつ。


 アルトは足を止める。


 客間の方から。


 ルナだ。


 たぶん。


 名前は呼ばない。


 アルトは床を叩く。


 こつ。


 すぐに返事はない。


 少しして、もう一度。


 こつ。


 これは、呼び止める音だろうか。


 アルトは迷った。


 扉を開けるか。


 声をかけるか。


 やめた。


 代わりに、床をもう一度叩く。


 こつ。


 客間の中で、小さく息を吐く音がした。


 それで十分だったらしい。


 アルトは自分の部屋に戻った。


 端末は棚。


 手帳は布の中。


 金属片は机。


 配置は同じ。


 少し考えて、今日は金属片を鳴らさなかった。


 下の階から、鍋の音が聞こえる。


 かん。


 少し遅れて、もう一度。


 かん。


 赤猫亭は、今日も使われている。


 名前があるだけの旧待機区画とは違う。


 ここでは、誰かが皿を置く。


 誰かが机を直す。


 誰かが戻る。


 誰かが、こつ、と返す。


 アルトは寝台に座った。


 旧待機区画。


 帰還準備。


 未完了。


 使われない場所。


 行くのは、たぶんまだ先だ。


 でも、行かないままではいられない。


 その前に、戻る場所をもっと確かにしなければならない。


 アルトは灯りを落とした。


 暗くなる直前、下の階で誰かが笑った。


 神界には届かない笑い。


 記録には残らないかもしれない笑い。


 でも、場所には残る。


 そう思えた。


 その日、赤猫亭の隅の机には、空のコップが一つだけ置かれていた。


 何も入っていない。


 それでも、少しだけ使われていた。


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