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第69話 もう場所になっている

 赤猫亭の隅の机は、まだ使われていなかった。


 使うな、とガルドが言ったからだ。


 理由は分かるようで、分からない。


 端末が震えた時、そこを何かが通った。


 机の鳴りが変わった。


 木が覚えている。


 そう言われても、アルトにはただの古い机に見える。


 傷があり、染みがあり、脚が少し歪んでいる。


 赤猫亭に来た時からある机だ。


 マルタは朝、その机に布巾をかけた。


 何も置かない。


 椅子も上げたまま。


 まるで、そこだけ店の中に小さな空白ができたようだった。


「邪魔だな」


 アルトが言う。


 ガルドは机の前でしゃがみ込んでいた。


 木の表面を指で叩いている。


 こつ。


 こ。


 こつ。


「邪魔なら動かせ」


「動かしていいのか」


「今は駄目だ」


「どっちだよ」


「邪魔なのと、動かしていいのは別だ」


「職人の言葉ってたまに腹立つな」


「よく言われる」


 ガルドは顔を上げない。


 細い金属棒で、机の端を軽く叩く。


 音が違うらしい。


 アルトには、まだ分からない。


 ブルーノは少し離れた卓で紙を広げている。


 今日も端末ではなく紙だ。


 空白と丸と線。


 神名のない神貨。


 履歴にない一秒。


 外部視線。


 神様のいないコメント欄。


 帰還地点のずれ。


 言葉にすると嫌になるものばかりだ。


 なので、ブルーノは最近、あまり言葉にしない。


 紙の上に穴の形だけを描いている。


 それはそれで、嫌な地図になっている。


「ガルドさん」


 ブルーノが言った。


「この机は、場所として危険なんですか」


「場所として?」


「はい。昨日、帰還地点の記録にずれが出ました。赤猫亭の横に、場所になる前のもの、のような反応があった」


 その言葉で、ルナが皿を拭く手を少し止めた。


 ほんの少し。


 アルトは見た。


 追わない。


 今日は追わない。


 ガルドは机をもう一度叩いた。


「危険かは知らん」


「では」


「ここは、使われすぎている」


「使われすぎている?」


「飯を置く。肘を置く。喧嘩する。泣く。寝る。酒をこぼす。熱い皿を置く。冷めた皿を下げる」


 ガルドは机の染みを指でなぞった。


「場所は、そうやってできる」


 アルトは黙った。


 ブルーノも黙った。


 ルナが皿を持ったまま、こちらを見る。


「神界の座標とは違う意味ですね」


「座標は知らん」


 ガルドは短く言った。


「だが、誰も使わない床はただの床だ。毎日踏まれる床は、店になる」


 厨房からマルタの声が飛ぶ。


「いいこと言うじゃないか」


「事実だ」


「それをいいことって言うんだよ」


 ガルドは返事をしなかった。


 照れているのかもしれない。


 分かりにくいが。


 ◇


 赤猫亭は、朝から場所だった。


 マルタが鍋を火にかける。


 ミナが薬草の籠を棚の横に置く。


 ミアが芋の入った袋を自然に覗く。


 ガルムが入口近くに立ち、外の気配を見る。


 ブルーノが紙を広げる。


 ルナが皿を拭く。


 アルトが椅子に座る。


 誰かが決めたわけではない。


 それぞれが、勝手にいつもの場所へ行く。


 それで店が始まる。


 神界通知はない。


 配信もしていない。


 それでも、動きはある。


 ガルドの言う「使われている」というのは、たぶんこういうことだ。


「アルト」


 マルタが皿を置いた。


「手、空いてるなら水運びな」


「俺か」


「他に誰がいるんだい」


「いっぱいいますけど」


「目が合った」


「最悪の選出理由だな」


 アルトは立ち上がる。


 水桶を持つ。


 重い。


 ちゃんと重い。


 神貨でも加護でもない重さ。


 厨房から店の端まで運ぶ。


 床板が少し鳴る。


 こつ。


 いや。


 ぎし、に近い。


 木の音。


 名前を呼ばずにそこにいる音とは違う。


 ただ、使われている音。


 ミアが横から言う。


「こぼすなよ」


「お前に言われたくない」


「私はこぼさない。盗むだけ」


「もっと悪い」


「正直」


「正直で許されると思うな」


 ルナがそれを聞いて、皿を拭きながら小さく笑った。


 昨日より、皿の扱いはましになっている。


 泡もない。


 水も跳ねない。


 ただ、時々確認しすぎて遅い。


 ミアが師匠面で言う。


「見すぎ」


「はい」


「皿は見るものじゃなくて、拭くもの」


「深いですね」


「深い?」


「たぶん違う」


 ミナが小さく笑った。


 マルタも笑った。


 笑い声が店の梁に当たって、どこかへ消える。


 記録には残らない。


 でも、場所には残るのかもしれない。


 ◇


 昼前、ブルーノが紙を一枚裏返した。


 最近よく見る動きだ。


 近づきすぎた時の合図。


 アルトは水桶を置きながら聞く。


「また見すぎたか」


「はい」


「今日は何を」


「赤猫亭の神界記録です」


 アルトは嫌な顔をした。


「それ、見るなって話じゃなかったか」


「直接は見ていません。外から輪郭だけです」


「その説明、どんどん信用できなくなってるぞ」


「私も言いながらそう思っています」


 ブルーノは紙を押さえる。


「神界側で、赤猫亭は場所として記録されています。店名、位置、来訪記録、配信内登場回数、食事提供回数、投げ銭発生場面との関連」


「嫌なほど細かいな」


「ただ、その記録よりも、実際の赤猫亭の動きの方が安定しています」


「どういうことだ」


「神界記録では、赤猫亭は時々ずれています。配信中の背景。イベント発生地。帰還地点。休息場所。観測対象。いくつもの分類に分かれている」


「まあ、神界っぽい」


「でも、ここにいる人たちの使い方は一つです」


 ブルーノは顔を上げた。


「店です」


 マルタが厨房から言った。


「当たり前だよ」


「はい」


「ずいぶん遠回りして当たり前のことに戻ってきたね」


「その通りです」


 ブルーノは素直に頷いた。


「でも、その当たり前が強いんです」


 アルトは赤猫亭を見回した。


 机。


 椅子。


 厨房。


 棚。


 入口。


 窓。


 水桶。


 まだ使えない隅の机。


 そこに誰かが座った記憶。


 そこに皿が置かれた記憶。


 何も見えない。


 でも、全部使われてきた。


「神界が何と分類しようが、ここは店ってことか」


 アルトが言う。


「はい」


 ブルーノは頷いた。


「そして、アルトさんは昨日、ここにただいまと言った」


 アルトは口を閉じた。


 来た。


 昨日の言葉。


 また戻ってきた。


 だが、今日は少しだけ違う。


 紙の上の空白ではなく、店の中の音と一緒に来た。


「言ったな」


「はい」


「変だった」


「どの意味で?」


「それが分からない」


「でしょうね」


「納得するな」


「私も、昨日から考えています」


 ブルーノは紙を裏返したまま続ける。


「ただ、少なくとも神界記録は揺れました。赤猫亭という記録と、もう一つの未分類座標の間で」


「その未分類を追うなよ」


「追いません」


「本当か」


「今は」


「信用ならない」


「信用は、半分くらいでお願いします」


「少ないな」


「多すぎると危ないので」


 最近、何でも危ない。


 だが、たぶん本当に危ない。


 ◇


 昼食後、ガルドは隅の机の脚を外した。


 店の真ん中で作業を始める。


 かなり邪魔だ。


 ミアが隣で覗き込む。


「壊すの?」


「直す」


「直すのに壊すの?」


「外す」


「壊してるじゃん」


「外している」


「違うの?」


「違う」


 ミアは分かったような顔をした。


「職人語」


「そうだ」


「便利」


「便利ではない」


 ガルドは脚の接合部を見せた。


 アルトにも分からない。


 ミアにもたぶん分かっていない。


 ルナは真剣に見ている。


「ここが、通り道になった場所ですか」


 ルナが聞く。


 ガルドは少し考えた。


「違う」


「違うのですか」


「通り道にされた場所だ」


 ルナの顔が少しだけ固まる。


 アルトもその違いを考えた。


 通り道になった。


 通り道にされた。


 前者は自然に見える。


 後者は、誰かの意図があるように聞こえる。


「言い方を選べ」


 アルトが言う。


「選んだ」


「余計悪い」


「事実に近い方を選んだ」


 ブルーノが紙に何かを書きそうになり、やめた。


 書かない方がいいと思ったらしい。


 ガルドは外した脚の穴を見た。


「古い机は、使われた道を覚える。皿を置いた場所。腕を置いた場所。こぼした場所。力が抜ける場所」


「人みたいだな」


「道具も、使えば少し似る」


 ガルドはそう言って、別の木片を合わせる。


「ここは、店の道と違うものを通された。だから鳴りが変わった」


「直せるのか」


「完全には無理だ」


「そうか」


「でも、店の道に戻すことはできる」


 アルトはその言葉を聞いて、少しだけ息を止めた。


 店の道に戻す。


 それは修理の話だ。


 机の話だ。


 それ以上の意味はない。


 たぶん。


 でも、ルナが静かに目を伏せた。


 ブルーノが筆を置いた。


 ミナが薬草を仕分ける手を止めた。


 ガルムが入口から少しだけこちらを見る。


 みんな、たぶん同じことを思った。


 戻す。


 通されたものを、店の道へ。


 名前をつけるのは危ない。


 だから、誰も口にしない。


 ガルドだけが、何も気にせず作業を続けた。


 ◇


 午後、店が少し落ち着いた頃、レオンから連絡が来た。


 最近、レオンからの連絡を見る時、アルトは少し構える。


 嫌いになったわけではない。


 好きでもない。


 味方かと聞かれれば、たぶん味方だ。


 でも、同じ顔で成功を見られない相手。


 端末を開く。


《黒鐘門の損失項目について、救助組合から確認が入った》


 次。


《旧名流出を正式記録に残すかどうかで揉めている》


 アルトは眉を寄せた。


 正式記録。


 残す。


 消す。


 増やさない。


 数える。


 全部が絡んでくる。


 さらに次。


《私は残すべきだと答えた》


 アルトは画面を見た。


 そのまま少し動かない。


 レオンは、数える方を選んだ。


 残せば、ユラの旧名にまた触れることになる。


 残さなければ、踏んだものがなかったことになる。


 どちらも嫌だ。


 どちらも正しくない。


 でも、選ぶしかない。


 アルトは返信欄を開いた。


 何を書けばいいのか分からない。


 礼ではない。


 文句でも足りない。


 結局、短く打った。


《本人に聞け》


 送信。


 すぐに既読。


 少しして返信。


《そうする》


 それだけだった。


 アルトは端末を閉じた。


 今回は震えない。


 履歴にも何もない。


 ただ、嫌な問題が普通の連絡として来ただけ。


 それが少しだけ、ましだった。


 ブルーノが横から聞く。


「レオン様ですか」


「ああ」


「何と」


「本人に聞けって返した」


 ブルーノは頷いた。


「正しいと思います」


「正しいかどうかは知らん」


「では、ましです」


「便利だな」


「危ないですけど」


 二人とも少しだけ笑った。


 ◇


 夕方には、隅の机が戻った。


 正確には、机の形には戻った。


 ただ、まだ使うな、とガルドは言った。


「直ったんじゃないのか」


「戻しただけだ」


「また分かりにくい」


「直るには、使う時間がいる」


「使うなって言っただろ」


「少しずつ使う」


「面倒だな」


「場所は面倒だ」


 ガルドは机の上に小さな木片を置いた。


 それから、何も乗せない。


「今日はこれだけだ」


「木片?」


「重しだ」


「軽くないか」


「最初は軽くていい」


 ルナがそっと見る。


「使われる道を、少しずつ戻すのですね」


「そうだ」


 ガルドは頷いた。


 ルナは何か言いかけて、やめた。


 アルトも聞かなかった。


 机の上の小さな木片。


 それだけ。


 皿でも端末でも手帳でもない。


 ただの木片。


 それが、今日は机の上に置かれている。


 場所を戻すために。


 マルタがそれを見て言った。


「明日はコップでも置くかね」


 ガルドは少し考えた。


「軽いやつなら」


「じゃあ水は少なめだ」


「そうしろ」


「うちの机に指示するんじゃないよ」


「机にじゃない。水にだ」


「もっと変だよ」


 店に小さな笑いが起きた。


 その笑いが、机の上を通った。


 何かが少し戻った気がした。


 ◇


 夜。


 アルトは自分の部屋に戻る前に、隅の机を見た。


 木片が一つ置かれている。


 小さい。


 軽い。


 意味がないように見える。


 でも、ガルドは意味があると言った。


 マルタは明日、コップを置くと言った。


 誰かが、少しずつ使う。


 そうやって、店の道に戻す。


 アルトは腰袋の金属片に触れた。


 鳴らさない。


 今日は、店の中に十分音があった。


 皿の音。


 鍋の音。


 水の音。


 ミアの文句。


 ルナの皿拭き。


 ガルドの木を叩く音。


 ブルーノの紙を裏返す音。


 全部、神界記録には残らないかもしれない。


 でも、場所には残るのだろう。


 階段を上がる。


 客間の前で立ち止まる。


 今日は、先に音がした。


 こつ。


 アルトは返す。


 こつ。


 昨日より少し短い。


 それだけでいい。


 部屋に戻る。


 端末は棚。


 手帳は布の中。


 金属片は机。


 配置は同じ。


 ただ、今日は机の上に金属片を置く前に、少しだけ考えた。


 机も、場所なのか。


 使い続けたものは、場所になるのか。


 なら、この小さな机も、自分の何かを覚えているのか。


 考えすぎだ。


 アルトは金属片を置いた。


 かん。


 小さく鳴る。


 下の階から、遅れて鍋の音がした。


 かん。


 同じ音ではない。


 でも、近い。


 アルトは少しだけ笑った。


 赤猫亭は、もう場所になっている。


 神界がどう記録しても。


 どんな未分類座標が横に揺れても。


 ここは、誰かが飯を食い、皿を洗い、机を直し、ただいまと言いそこねたり、言ってしまったりする場所だ。


 名前をつけなくても、もう場所になっている。


 アルトは灯りを落とした。


 端末は震えなかった。


 手帳も開かなかった。


 ただ、下の階で鍋がもう一度だけ鳴った。


 かん。


 もう場所になっている音だった。


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