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第68話 ただいまの場所

 昨日、ただいまと言った。


 朝になっても、その感触が残っていた。


 赤猫亭の食卓。


 いつものスープ。


 少し焦げた黒パン。


 芋。


 皿を拭く女神。


 芋を狙うミア。


 紙に穴の形を書き続けるブルーノ。


 それを見ながら、アルトは匙を止めていた。


 昨日、ただいまと言った。


 何に対して言ったのかは、まだ分からない。


 赤猫亭か。


 ルナか。


 あの文字か。


 それとも、帰ってきた自分自身にか。


 分からないまま、朝飯は出た。


 マルタが皿を置く。


「食べな」


「ああ」


「朝から難しい顔をするんじゃないよ。飯が冷める」


「飯は冷めるな」


「考え事は冷めてもいい」


「それは困る」


「困るくらいなら食べてから考えな」


 正しい。


 だいたい、マルタの言うことは正しい。


 アルトはスープを飲んだ。


 熱い。


 ちゃんと熱い。


 昨日の「ただいま」は、まだ喉の奥に残っている。


 熱さで消えるかと思ったが、消えなかった。


 消えないなら、今は置いておくしかない。


 ルナは向かいで皿を拭いている。


 朝食の席なのに、皿を拭いている。


 食べ終わった皿ではない。


 これから使う皿だ。


「それ、今やることか」


「昨日より上達したいので」


「飯を食え」


「女神は同時進行ができます」


 その瞬間、ルナの肘が小皿に当たった。


 小皿が傾く。


 ミアが素早く押さえた。


「できてない」


「……練習中です」


「女神、まだ皿拭き見習い」


「精進します」


 ミアは満足そうに頷いた。


「よし」


 アルトは少しだけ笑った。


 笑ってから、自分で気づいた。


 昨日より、少しだけ戻っている。


 どこに戻っているのかは、まだ分からない。


 でも、戻っている感じはある。


 ◇


 その違和感を持ってきたのは、ブルーノだった。


 朝食後。


 赤猫亭の隅ではなく、真ん中寄りの卓。


 最近、隅の席は空いている。


 ガルドが「しばらく使うな」と言ったからだ。


 あの机は、まだ使われていない。


 使われていない机の上には、誰も何も置かない。


 店の中で一つだけ空いた場所になっていた。


 ブルーノは紙を持ってきた。


 端末ではない。


 紙。


 丸と線と空白。


 昨日より、少しだけ書き込みが増えている。


 アルトは嫌な顔をした。


「また穴か」


「今回は、穴というより、ずれです」


「もっと嫌な言い方を覚えるな」


「こちらも嫌です」


 ブルーノは紙を置く。


「昨日の通常配信後、帰還地点のログを確認しました」


「帰還地点?」


「配信終了後、奈落から赤猫亭へ戻った記録です。正確には転移ではなく、移動経路の最終位置確認ですが、神界側では帰還地点として処理されます」


「それを見て大丈夫なのか」


「直接の名前は追っていません。場所の記録だけです」


「場所にも名前はあるだろ」


「なので、地名ではなく座標のずれを見ました」


「また面倒なことを」


「面倒にしないと危ないので」


 最近の合言葉みたいになっている。


 あまり嬉しくない。


 ブルーノは紙の中央を指す。


 そこには簡単な図があった。


 奈落浅層。


 帰り道。


 赤猫亭。


 最後の記録。


 その横に、小さな空白。


「昨日の配信終了後、アルトさんの帰還地点だけが一瞬、別の座標に触れています」


 アルトは黙った。


「別の座標?」


「はい」


「どこだ」


「分かりません」


「出たな」


「便利に使っていません」


 ブルーノは紙を少しだけ回す。


「記録上は赤猫亭です。最終位置も赤猫亭。配信終了後の処理も正常。ただ、一秒未満だけ、帰還地点の参照先が揺れている」


「また一秒か」


「はい」


「その別の座標は」


「表示名なし。地名なし。階層なし。神界側の場所コードもありません」


「場所なのに、名前がない?」


「あるいは、場所として登録されていない」


 アルトは紙を見る。


 赤猫亭の横に描かれた小さな空白。


 それは穴というより、影のようだった。


「俺は昨日、ここに帰ってきたよな」


「はい」


「歩いて戻った」


「はい」


「途中で変な場所には行ってない」


「配信上は」


「嫌な付け足しをするな」


「事実なので」


 ブルーノは少しだけ疲れた顔をした。


「ただ、アルトさんが『ただいま』と言ったタイミングの前後で、帰還地点参照が揺れています」


 アルトの喉が重くなった。


 昨日の言葉。


 おかえりなさい。


 ただいま。


 赤猫亭。


 迎えではない。


 全部が、少しずつ同じ場所へ寄ってくる。


 寄りすぎると危ない。


 アルトはスープの器を見た。


 空だった。


 戻るものがない。


 代わりに、腰袋の金属片に触れた。


 鳴らさない。


 触れるだけ。


「つまり、俺はどこにただいまって言ったことになってるんだ」


 ブルーノは答えなかった。


 答えないことが、答えに近かった。


 ◇


 ルナは、その話を聞いて皿を落としかけた。


 今度はミアが止めなかった。


 ガルドが横から手を伸ばし、皿の端を指で押さえた。


 皿は割れなかった。


「ありがとうございます」


 ルナが小さく言う。


「皿は割るな」


 ガルドはそれだけ言った。


 ルナは頷いた。


 それから、ブルーノの紙を見た。


 顔色は変わっていない。


 でも、皿を持つ指が少し白い。


「知ってるのか」


 アルトが聞く。


「知っている、とは言えません」


「その返し、そろそろ禁止にしたい」


「私も禁止したいです」


「じゃあ、違う言い方をしろ」


 ルナは少し考えた。


 言葉を選んでいる。


 最近、ルナはずっと言葉を選んでいる。


 神なのに、言葉を怖がっている。


「帰る場所は、ひとつとは限りません」


 アルトは眉を寄せた。


「それは普通の話か」


「普通の話です」


「本当に?」


「普通の話として聞いてください」


 ルナは皿を置いた。


 今度は、両手を空けるために。


「たとえば、アルトさんにとって元の世界は帰る場所です」


「ああ」


「赤猫亭も、今は戻る場所になっています」


「……まあ」


「言いにくそうですね」


「うるさい」


「言いにくくても、そうです」


 ルナは少しだけ笑った。


 笑いはすぐ消える。


「ただ、神界の記録は、そういう曖昧さが苦手です」


「神界が?」


「はい。神々は名前をつけ、場所をつけ、意味をつけます。どこから来た。どこへ戻った。誰に迎えられた。何を失った。何を得た。そういう形にしたがる」


「コメント欄みたいだな」


「かなり似ています」


 ルナは紙の空白を見る。


「でも、人の中の帰る場所は、記録より複雑です」


「それで揺れた?」


「かもしれません」


「かもしれません、か」


「断言すると、形になります」


「便利な逃げ方だ」


「今日は少しだけ、逃げます」


 アルトはそれ以上追わなかった。


 追えば近づきすぎる。


 今は分かる。


 分かってきたことが、少し嫌だった。


 ブルーノが紙を指で押さえた。


「この別座標は、赤猫亭ではありません。元の世界でもありません。奈落の階層でもない」


「じゃあ何だ」


「だから、ずれです」


「ずれ」


「はい。帰還地点として処理されかけたけれど、場所として成立していない」


 ルナが小さく言った。


「場所になる前のもの」


 店の音が、一瞬だけ遠くなった。


 アルトはルナを見る。


「何だって?」


 ルナは自分の言葉に驚いたような顔をした。


 言ってしまった。


 そういう顔。


「今のは」


「今のは聞いた」


「忘れてください」


「無理だろ」


「では、名前をつけないでください」


 アルトは黙った。


 場所になる前のもの。


 帰る場所。


 ただいま。


 迎えではない。


 それらが、まだ形を持たないまま、足元に集まってくる。


 ミアが横から言った。


「場所になる前って、何?」


 誰も答えられなかった。


 ミアは少し考える。


「まだ店じゃない建物みたいな?」


 マルタが厨房から言った。


「店になる前でも、飯が出れば店だよ」


「雑」


「雑でいいんだよ」


 ルナが、少しだけ息を吐いた。


 救われたようにも見えた。


 マルタは何も知らない。


 たぶん、全部は。


 でも、時々いちばん正しい場所に鍋を置く。


 ◇


 昼過ぎ。


 アルトは赤猫亭の外に出た。


 逃げたわけではない。


 たぶん。


 店の前の通り。


 石畳。


 荷車。


 小さな露店。


 誰かの笑い声。


 子どもが走る音。


 赤猫亭の看板。


 ここは場所だ。


 ちゃんと場所だ。


 地図に載るかは知らない。


 神界の座標にどう記録されるかも知らない。


 でも、ここに立てる。


 足の裏に石の固さがある。


 それで十分なはずだった。


 なのに、胸の奥に別の空白がある。


 ただいま。


 その言葉を言った時、何が揺れたのか。


 赤猫亭か。


 元の世界か。


 それとも、場所になる前の何かか。


 アルトは考えるのをやめようとした。


 やめられない。


 腰袋の金属片を取り出す。


 指で弾く。


 かん。


 通りの音に混じって、小さく鳴った。


 誰も振り返らない。


 それがありがたかった。


 神々も、たぶん意味をつけない。


 少なくとも今は。


「何してる」


 ガルムが後ろにいた。


「出た」


「気配を消したつもりはない」


「十分消えてる」


「癖だ」


 ガルムは隣に立った。


 赤猫亭の看板を見る。


「落ち着かないのか」


「顔に出てるか」


「背中に出ている」


「最悪だ」


「顔よりましだ」


「そうか?」


「敵には読まれにくい」


「味方には?」


「丸見えだ」


 アルトはため息をついた。


 ガルムは笑わない。


 ただ、隣にいる。


 それだけで、少し楽だった。


「帰る場所が増えるのは、変か」


 アルトは、自分でも意外なことを聞いた。


 ガルムはすぐには答えない。


 獣人らしい耳が、少しだけ動く。


「変ではない」


「そうか」


「ただ、増えれば守る場所も増える」


「重いな」


「そうだ」


「軽く言え」


「無理だ」


「だろうな」


 ガルムは赤猫亭を見る。


「だが、守る場所がないよりはましだ」


 まし。


 最近、よく聞く言葉。


 便利で、危ない言葉。


 でも、今はそれくらいがちょうどよかった。


「元の世界に帰りたいってのは、変わってない」


 アルトは言った。


「ああ」


「でも、ここに戻ってきた時に、少し安心した」


「ああ」


「それは、まずいのか」


 ガルムは少しだけアルトを見る。


「誰にとって」


 アルトは黙った。


 誰にとって。


 自分にとってか。


 元の世界にとってか。


 赤猫亭にとってか。


 神々にとってか。


 帰還条件にとってか。


 分からない。


「分からん」


「なら、今はまずいと決めるな」


「それでいいのか」


「まずい時は、たぶん誰かが怒る」


「雑だな」


「マルタ式だ」


「強いな」


 ガルムは少しだけ笑った。


 ◇


 夕方、ブルーノは別座標の紙を裏返した。


 その上に皿が置かれた。


 マルタが置いた。


「紙ばっかり見てると飯がまずくなるよ」


「まだ何も食べてません」


「だから置いたんだよ」


「ありがとうございます」


 ブルーノは皿を見る。


 芋。


 黒パン。


 少しだけ肉。


 紙の上に皿を置くのは雑だ。


 でも、その雑さで、空白が見えなくなった。


 今はそれでいい。


 ルナは皿を拭き終わり、卓についた。


 今日は水をこぼさなかった。


 ミアが評価する。


「昨日よりいい」


「ありがとうございます、師匠」


「でもまだ遅い」


「明日は速くなります」


「速いと雑になる」


「難しいですね」


「皿道は深い」


「皿道」


 ブルーノが小さく笑った。


 マルタがため息をつく。


「変な道を作るんじゃないよ」


「場所になる前の道ですね」


 ルナが言って、すぐに口を閉じた。


 アルトが見る。


 ルナもこちらを見る。


 言ってしまった。


 でも、今のは冗談に近い。


 近いはずだ。


 ミアが首を傾げる。


「皿道?」


「皿を割らずに棚へ戻す道です」


 ルナが真顔で言った。


 ミアは納得した。


「なるほど」


「納得するのか」


 アルトが言う。


「割らずに戻すの大事」


「それはそう」


 笑いが少しだけ起きた。


 場所になる前のもの。


 その言葉はまだ残っている。


 でも、皿道という変な言葉が少しだけ上からかぶさった。


 完全には消えない。


 消えないが、今はそれくらいでいい。


 ◇


 夜。


 赤猫亭の二階。


 アルトは廊下で立ち止まった。


 客間の前。


 今日は、先に音はしない。


 アルトもすぐには叩かなかった。


 昨日の「ただいま」。


 今日の「帰還地点のずれ」。


 場所になる前のもの。


 それらが頭の中で、まだ名前を持たないまま回っている。


 アルトは床を軽く叩いた。


 こつ。


 少し待つ。


 返事はない。


 眠っているのかもしれない。


 神が寝るのかは知らないが。


 もう一度叩くか迷った。


 その時、中から小さな音がした。


 こつ。


 遅れた返事。


 アルトは息を吐いた。


 それだけで、少し戻る。


 扉は開けない。


 声もかけない。


 ただ、そこにいる。


 それだけを確かめる。


 自分の部屋に戻る。


 端末は棚。


 手帳は布の中。


 金属片は机。


 配置は変えない。


 変えないことが、少しだけ意味を持ち始めている。


 アルトは寝台に座った。


 今日は金属片を鳴らさなかった。


 鳴らしたくなかったわけではない。


 鳴らさなくても、床から返事があったからだ。


 端末は震えない。


 画面も光らない。


 通知もない。


 だが、ブルーノの紙には、赤猫亭の横に小さな空白が描かれている。


 帰還地点ではない。


 元の世界でもない。


 奈落でもない。


 場所になる前のもの。


 アルトは横になった。


 目を閉じる。


 ただいま。


 その言葉が、まだ胸の奥にある。


 どこに帰ったのかは分からない。


 でも、今日も赤猫亭には戻った。


 スープを飲んだ。


 芋を食った。


 皿道とかいうよく分からない言葉を聞いた。


 廊下で、こつ、と返ってきた。


 それだけは、記録に残らなくても分かる。


 眠る直前、下の階で鍋が鳴った。


 かん。


 場所になる前のものではない。


 もう場所になっている音だった。


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