第67話 神様のいないコメント欄
普通の配信をする。
それが、思ったより難しい。
黒鐘門救助の後。
神回認定の後。
名前のない神貨と、履歴にない一秒と、外部視線という嫌な言葉が増えた後。
アルトは奈落の浅い層にいた。
浅い。
比較的安全。
採取依頼。
戦闘は最小限。
ブルーノが言うには、配信リズムを戻すための軽い案件だった。
軽い。
その言葉を信じたかった。
目の前では、ミアが草むらに顔を突っ込んでいる。
「これ?」
「違う」
ミナがすぐに言った。
「じゃあ、これは?」
「それは食べないでください」
「食べる前提じゃない」
「口に近かったので」
「匂いを見てた」
「匂いは嗅ぐものです」
「似たようなもの」
「似ていません」
ミアは不満そうに鼻を鳴らした。
それを見て、コメント欄が流れる。
『猫草じゃん』
『ミア、食うなよ?』
『食うなよって言われると食うやつ』
『アルト止めろ』
『ミナ先生の即答助かる』
いつもの流れだった。
軽い。
くだらない。
少しうるさい。
それが今は、ありがたかった。
アルトは端末を見る。
視聴者数は増えている。
黒鐘門救助の後だから当然だ。
新しく見に来た神々も多い。
コメントも速い。
だが、今日はブルーノが監視を絞っている。
旧名。
黒鐘門。
神回。
そのあたりの単語が出ると、自動ではなく手動で確認する。
ブルーノは赤猫亭に残っている。
いつもの監視台。
端末越しの声だけが届く。
《今のところ、問題ありません》
「その言い方、問題が来る前振りみたいで嫌だな」
《言わなくても来る時は来ます》
「もっと嫌なことを言うな」
《軽い案件なので》
「軽い案件でその声を出すな」
《軽くしたいんです》
ブルーノの声は、いつもより少し硬い。
寝不足は少しましになっているはずだ。
それでも、硬い。
たぶん、普通の配信が普通で終わるかどうか、誰も信じ切れていない。
アルトもそうだった。
腰袋には金属片がある。
端末は開いている。
手帳は持ってきていない。
全部を持ち歩くのは嫌だった。
赤猫亭に置いてきた。
戻る場所に置いてきた。
そのことが少しだけ安心になる。
「アルトさん」
ミナが呼ぶ。
「何だ」
「これです」
ミナが白い小さな花を指した。
薬草の一種らしい。
葉の裏に細い銀色の線がある。
採取対象。
アルトはしゃがみ込む。
「これを取ればいいんだな」
「根を傷つけないように」
「了解」
アルトは手を伸ばす。
その時、コメント欄が一瞬だけ止まった。
止まった、気がした。
一拍。
本当に短い。
流れていたコメントが、その一拍だけ空白を作った。
すぐに戻る。
『丁寧に取れよ』
『アルト草むしり配信』
『元社畜、採取も真面目』
『ミナ先生チェック入りまーす』
何も変わっていない。
視聴者数もそのまま。
通知もない。
投げ銭もない。
だが、アルトは指を止めた。
「今」
《はい》
ブルーノの声が、ほぼ同時に返った。
「見たか」
《見ました》
「何だ」
《分かりません》
「出たな」
《便利に使っていません》
「今回は早かったな」
《今回は、嫌な感じがしました》
ブルーノは短く言った。
ミアが草むらから顔を上げる。
「何?」
「今、コメント止まったか?」
「止まった?」
「一瞬」
「私、草見てた」
「だろうな」
ミナも首を横に振る。
「私は気づきませんでした」
ガルムは周囲を見ている。
「敵意はない」
「敵意以外は?」
「ない、と言いたいが、分からん」
「お前までそれ言うな」
ガルムは肩をすくめた。
「見えないものは、見えん」
正しい。
正しいが、困る。
アルトは薬草から手を離した。
「ブルーノ」
《はい》
「何が残ってる」
《今見ます。ただし、直接は追いません》
「穴の形か」
《はい》
通信の向こうで、ブルーノが端末を操作する音がかすかに入る。
コメント欄は普通に流れている。
『何かあった?』
『止まった?』
『俺の方は普通』
『採取してくれ』
『ミアが草食べるか見たい』
誰も気づいていない。
神々も、ほとんど気づいていない。
なら、何が止まったのか。
ブルーノの声が戻る。
《視聴者数は変わっていません》
「コメント数は」
《増えています。通常通り》
「じゃあ何だ」
《読了数が一つ増えています》
アルトは眉を寄せた。
「読了数?」
《コメント欄を読んだ回数です。正確には、神界側の表示に対して閲覧処理が走った数です》
「つまり、誰かがコメント欄を読んだ?」
《はい》
「視聴者じゃなく?」
《視聴者としては数えられていません》
「神としても?」
《神名はありません》
アルトは黙った。
嫌な線が、また一本増えた。
名前のない神貨。
履歴にない一秒。
外部視線。
そして今度は、神様のいないコメント欄。
《読んだ跡だけがあります》
ブルーノが言った。
《コメントはしていません。視聴者数にも入っていません。投げ銭もない。ただ、読んだ跡だけ》
「足跡か」
《たぶん》
「今、俺たちの配信を読んだのか」
《コメント欄を、です》
コメント欄を読んだ。
誰かが。
いや、誰かと呼ぶのは危ない。
何かが。
コメント欄だけを読んだ。
アルトは端末を見る。
神々のくだらないコメントが流れている。
『どうした?』
『止まってるぞ』
『採取配信で緊張感出すな』
『ミア草食べて空気変えろ』
『無茶振りで草』
その文字列を、アルトは急に別のもののように見た。
軽口。
神々の声。
いつもの賑やかさ。
その間を、何かが通った。
誰にも混ざらず。
名前も持たず。
読んで、通り過ぎた。
◇
「戻るか」
ガルムが聞いた。
アルトは少し考えた。
近づいたら、戻る。
ルナの言葉。
だが、今はまだ採取依頼の途中だ。
危険はない。
敵意もない。
ただ、読まれた跡がある。
「ブルーノ、続けて大丈夫か」
《大丈夫とは言いません》
「だろうな」
《ただ、今すぐ撤退が必要な反応ではありません》
「近づきすぎか」
《まだ、足元を見たくらいです》
「嫌な表現だな」
《私も言っていて嫌です》
アルトは息を吐いた。
それから、薬草を見る。
白い小さな花。
葉の裏の銀色の線。
この依頼に関係のない大きなものが、勝手に入り込んできている。
だが、依頼は依頼だ。
薬草はそこにある。
ミナが言った。
「採りましょう」
「いいのか」
「はい。今、目の前にあるのはこれです」
ミナは静かだった。
「近づきすぎたら戻る。でも、何もかも置いて戻るわけではないと思います」
「治療っぽいな」
「たぶん、そうです」
ミナは少しだけ笑った。
「怖いものがあるからといって、包帯を巻く手を止めるわけにはいきません」
アルトは頷いた。
「分かった」
薬草を採る。
根を傷つけないように。
余計な力を入れないように。
砕くのではなく、逃がす。
地面を少しゆるめ、根の周りの土をほぐす。
手元の作業に集中すると、コメント欄のざわめきが少し遠くなる。
遠くなっても、消えはしない。
それでいい。
「取れた」
ミナが確認する。
「大丈夫です」
ミアが横から覗く。
「食べられる?」
「薬です」
「薬も食べるじゃん」
「そういう問題ではありません」
コメント欄がまた笑う。
『ミア理論』
『薬も食べる、確かに』
『ミナ先生困らせるな』
『アルト、採取うまくなってる』
『砕打で草を採る男』
いつもの配信に見える。
だが、ブルーノだけは黙っていた。
◇
採取は予定より早く終わった。
戦闘は二回。
どちらも小型魔物。
ガルムが前に出て、アルトが横を止め、ミアが背後を取り、ミナが位置を整える。
特別なことは何もない。
神々はそれなりに沸いた。
投げ銭も少し来た。
名前のある神から。
普通の神貨。
普通のコメント。
普通の加護なし。
普通という言葉が、今は少し貴重だった。
赤猫亭に戻る道で、アルトは端末を閉じた。
配信終了。
視聴者数がゆっくり落ちる。
コメントも止まる。
それでも、さっきの一拍だけ空いた感じが残っている。
読まれた跡。
コメント欄を読んだ何か。
神々のいないコメント欄。
ミアが歩きながら言う。
「今日、軽い案件だった?」
「戦闘は軽かった」
「じゃあ軽い?」
「配信は重かった」
「配信って重いんだ」
「最近な」
「じゃあ、配信も筋トレ?」
「違う」
「違うの?」
「たぶん」
「自信ないじゃん」
ミアは笑った。
その笑いで、少しだけ肩の力が抜けた。
ミナが後ろから言う。
「戻ったら、手を洗ってくださいね」
「薬草を触ったからか」
「それもあります」
「それ以外は」
「変なものを触ったかもしれない顔をしています」
「顔で分かるのやめろ」
「分かります」
アルトは顔をしかめた。
ガルムが低く笑う。
「お前は顔で戦況を出す」
「最悪だ」
「分かりやすい隊長は助かる」
「隊長じゃない」
「では、分かりやすい荷物持ち」
「格下げがひどい」
少しだけ、笑いがあった。
それで足は止まらなかった。
◇
赤猫亭に戻ると、ルナが皿を拭いていた。
洗うのはまだ危ない、とマルタに判断されたらしい。
今は拭く係に降格している。
本人は真剣だった。
皿を一枚拭いて、光にかざす。
ミアがいないのに、昨日のミアみたいな確認をしている。
「何やってる」
アルトが聞く。
「皿を見ています」
「見れば分かる」
「見すぎない練習です」
アルトは黙った。
冗談のようで、冗談ではなかった。
ルナは皿を棚に戻す。
「おかえりなさい」
その言葉に、アルトの足が止まった。
店の音が、一瞬だけ遠くなる。
鍋。
椅子。
水。
誰かの声。
全部が遠くなる。
ルナも気づいた。
自分が何を言ったか。
顔から血の気が引いたように見えた。
「あ」
小さな声。
マルタが厨房から顔を出す。
「帰ってきた相手に言う言葉だろ」
普通に言った。
本当に普通に。
それで、少しだけ世界が戻る。
ルナは皿を持ったまま固まっている。
アルトは息を吐いた。
「ただいま、でいいのか」
言ってから、自分でも変な感じがした。
ルナは、ゆっくり頷いた。
「はい」
「ただいま」
ルナは皿をぎゅっと持ちすぎて、マルタに怒られた。
「割るんじゃないよ」
「す、すみません」
「神でも皿は割るからね」
「はい」
ミアが横から戻ってきた。
「女神、また減点?」
「減点です」
「私、採取した」
「食べませんでしたか」
「食べてない」
「では、加点です」
「やった」
いつもの声が戻ってくる。
アルトは席に座った。
膝の力が、少しだけ抜けていた。
ただの「おかえりなさい」。
帰ってきた者に向けた言葉。
迎えの言葉。
でも、手帳にはあった。
迎えではない。
その違いが、胸の奥でまだ噛み合わない。
ルナは皿を棚へ戻し、何も言わずに水を汲んだ。
アルトの前に置く。
「どうぞ」
「ありがとう」
「今のは」
ルナが言いかける。
アルトは首を横に振った。
「今のは、赤猫亭のやつだ」
ルナは口を閉じた。
それから、少しだけ頷いた。
「はい」
その返事は、小さかった。
でも、少しだけ助かったようにも聞こえた。
◇
ブルーノは、配信後の記録を紙に写した。
端末で見すぎないためだ。
視聴者数。
コメント数。
投げ銭。
読了数。
その中に、一つだけずれがある。
視聴者として数えられていない読了。
コメントをしない読者。
神名のない閲覧。
ブルーノはその横に、名前を書かなかった。
代わりに、小さな空白を四角で囲った。
「増えましたね」
アルトが見る。
「空白がな」
「はい」
「嫌な地図だ」
「地図ではありません」
「じゃあ何だ」
「穴の一覧です」
「もっと嫌だ」
ブルーノは紙を伏せた。
「でも、今日分かったことがあります」
「何だ」
「普通の配信にも来ます」
アルトは黙った。
「黒鐘門や手帳や帰還条件に近づいた時だけではない。通常配信中のコメント欄にも、跡が出た」
「それ、悪化してないか」
「悪化と言うと形になります」
「じゃあ」
「距離が近い」
ブルーノは言った。
「向こうから、ではなく、こちらが近づいたせいかもしれません」
「俺たちが?」
「はい。名前のない神貨を見た。履歴にない一秒を見た。外部視線という分類を見た。それで、こちらの輪郭も少し見えたのかもしれません」
「見たら、見られる」
「はい」
ブルーノは紙の上に手を置く。
「でも、見ないと分からない」
「最悪の仕組みだな」
「ええ」
アルトは水を飲んだ。
冷たい。
さっきルナが置いた水。
赤猫亭の水。
神界のものではない。
「戻るしかないな」
「はい」
「で、また見る」
「はい」
「嫌な仕事だ」
「最近、そればかりです」
ブルーノは少しだけ笑った。
疲れた笑いだった。
でも、折れてはいない。
◇
夜。
赤猫亭の二階。
ルナは客間に戻った。
今日は皿洗いではなく、皿拭きで宿代を払ったことになった。
ミアは不満そうだった。
「皿洗いの方が面白かった」
「明日は上達します」
「面白くなくなるじゃん」
「それは困りますね」
「困るの?」
「皿が割れるよりは」
「真面目」
そんな会話を聞きながら、アルトは自分の部屋に入った。
端末は棚。
手帳は布の中。
金属片は机。
配置は同じ。
今日は少しだけ迷って、端末をさらに奥へ置いた。
意味があるかは分からない。
でも、近くに置きたくなかった。
机に座る。
金属片を指で軽く叩く。
かん。
すぐには返らない。
少し間があった。
それから、廊下の向こうで小さく鳴る。
こつ。
アルトは息を吐いた。
今日は、返ってきた。
それだけでいい。
いや。
それだけでいいと思える日があるなら、使うべきだ。
名前のない読者。
神様のいないコメント欄。
おかえりなさい。
ただいま。
迎えではない。
言葉が多い。
名前をつけたら危ない言葉が、多すぎる。
だから、今は音だけでいい。
かん。
こつ。
記録に残らない音。
神々が意味をつけないかもしれない音。
それでも、こちらには届く音。
アルトは金属片から手を離した。
今日は、端末は震えなかった。
だが、コメント欄には一つ、読まれた跡が残った。
視聴者ではないものが、コメント欄を読んだ。
その事実だけが、紙の上の空白として残っている。
アルトは寝台に横になった。
天井を見る。
神界は見えない。
見えないのに、どこかで読まれている気がする。
その感覚が嫌だった。
嫌だったが、赤猫亭の床は今も足の下にある。
廊下の向こうには、床を叩けば返す女神がいる。
下の階には、鍋を鳴らすマルタがいる。
それで全部が解決するわけではない。
でも、戻る場所にはなる。
アルトは目を閉じた。
眠る直前、廊下の向こうで小さく音がした。
こつ。
今度は、向こうからだった。
アルトは起き上がらなかった。
指だけで、寝台の木枠を叩く。
こつ。
返事。
それだけで、夜は少しだけ静かになった。




