第66話 女神の皿洗い
女神は、皿洗いが下手だった。
それが、赤猫亭の朝に分かったことだった。
ルナは厨房の隅に立ち、袖をまくり、真剣な顔で皿を洗っていた。
真剣だった。
とても真剣だった。
だからこそ、余計に危なかった。
「泡が多い」
ミアが言った。
腕を組んでいる。
なぜか先輩の顔をしている。
「泡は清めの象徴です」
ルナが答える。
「皿洗いでは邪魔」
「そうなのですか」
「そう」
「ミアさんは詳しいですね」
「昨日から教えてるから」
「師匠ですね」
「ふふん」
ミアは胸を張った。
マルタが横から言う。
「ミア、あんたはまず芋を盗まないところから覚えな」
「今は皿洗いの話」
「逃げるんじゃないよ」
ミアは視線を逸らした。
ルナはその隙に、泡だらけの皿を水桶へ沈める。
沈めた。
沈めすぎた。
水が跳ねた。
ミアの袖にかかる。
「冷たっ」
「すみません」
「女神、攻撃した?」
「していません」
「今のは水属性」
「皿洗い属性です」
「弱そう」
「まだ初級なので」
アルトは店の入口近くの席で、それを見ていた。
朝の赤猫亭。
鍋の匂い。
水の音。
皿の音。
神界コメントではない声。
昨夜の外部視線や、履歴にない一秒や、神である前という言葉が、全部嘘のように遠く見える。
もちろん、嘘ではない。
遠く見えるだけだ。
それでも、遠く見える時間があるのは助かる。
ブルーノは卓で紙を広げている。
端末ではない。
紙だ。
そこに丸と線と空白を書いている。
名前はない。
神名もない。
ただ、欠けた場所の形だけ。
アルトはそれをちらりと見た。
「まだやってるのか」
「端末を開かない範囲で」
「それ、休んでるって言うのか」
「昨日よりは休んでます」
「基準が崩壊してる」
「最近、全部そうです」
ブルーノはそう言って、紙の端に小さな丸を描いた。
その横に、何も書かない。
空白だけが増える。
空白を増やす作業。
見ているだけで疲れる。
「名前はつけてないんだな」
「はい」
「偉い」
「子ども扱いですか」
「皿洗いしてる女神よりは大人扱いだ」
「比較対象がひどいですね」
厨房からルナの声が飛んだ。
「聞こえていますよ」
「聞こえるように言った」
「神は傷つきます」
「皿は傷つけるなよ」
ルナは手元を見た。
皿の縁に、小さく泡が残っている。
それを慌てて洗い流す。
ミアが横から頷いた。
「まあまあ」
「ありがとうございます、師匠」
「その呼び方は悪くない」
「悪くないを勝手に使うな」
アルトが言うと、ミアはにやりとした。
「言えたじゃん」
アルトは黙った。
ルナの手も、少しだけ止まる。
ブルーノの筆も止まる。
ミアは、言ってから気づいた顔をした。
「あ」
静かになる。
皿の水が一滴、桶に落ちた。
ぽた。
アルトは息を吐いた。
「今のは違う」
「違う?」
「皿洗いの話だ」
ミアは少し考えた。
「じゃあ、皿限定?」
「皿限定だ」
「便利」
「便利にするな」
ミアは笑った。
ルナも、少しだけ笑った。
ブルーノは筆を動かし直した。
空気が戻る。
戻るまでに少し時間がかかったが、それでも戻った。
戻れるなら、今はそれでいい。
◇
朝食は、少し遅れた。
理由は、女神の皿洗いだった。
洗った皿をマルタが確認し、半分ほどやり直しになった。
ルナは真面目に受け止めた。
ミアはなぜか偉そうに頷いた。
その結果、店の空気は少しだけ軽くなった。
食卓には、黒パンとスープと芋。
ルナの前にも同じものが置かれている。
供物ではない。
飯だ。
ルナはそれを両手で包むように見ていた。
「神界の食事よりいいのか」
アルトが聞く。
「神界に食事はあります」
「あるのか」
「形としては」
「形としては?」
「味は、信仰の濃さに左右されます」
「嫌な仕組みだな」
「神なので」
「神なので、で済ませるな」
ルナは芋を割る。
湯気が上がる。
それを見て、少しだけ目を細めた。
「こちらの芋は、信仰に左右されません」
「まあ、芋だからな」
「そこが良いのです」
ルナは芋を食べた。
昨日より、ずっと普通に食べた。
それを見て、アルトは少しだけ安心した。
安心したことが、少し嫌だった。
安心するほど気にしていたらしい。
「昨日のことは」
ルナが言いかけた。
アルトはスープを飲む手を止める。
ルナも止まる。
言いかけたまま、口を閉じた。
「やめます」
「いいのか」
「今、話すと近づきすぎます」
「そうか」
「それに」
ルナは芋を見る。
「今は、芋が熱いので」
「理由が雑だな」
「赤猫亭式です」
「誰が教えた」
マルタが厨房から答えた。
「うちのせいにするんじゃないよ」
ルナは少し笑った。
「すみません」
「謝る暇があるなら食べな」
「はい」
ルナは食べた。
アルトも食べた。
昨日の「神である前」という言葉は、卓の上には出なかった。
出さない。
聞かない。
それが、今は約束に近かった。
言葉にしない約束。
名前をつけない約束。
ただ、同じ卓で飯を食う。
それだけで済む時間があるなら、済ませた方がいい。
◇
昼前、ブルーノが紙を裏返した。
アルトはそれを見る。
「終わったのか」
「終わってません」
「裏返しただけか」
「見すぎました」
ブルーノは目元を揉んだ。
端末ではなく紙なのに、疲れるらしい。
紙には、名前のない神貨の三つの丸が描かれている。
アルト。
第七層到達者。
同行者欠落。
それぞれを直接結ぶ線はない。
ただ、三つの周囲に同じ形の空白がある。
穴の形。
ブルーノはそれを見ていた。
見すぎた。
だから裏返した。
「近づきすぎたか」
「はい」
「戻るか」
「戻ります」
「飯か」
「さっき食べました」
「皿洗いか」
「もっと疲れそうです」
厨房からミアが顔を出した。
「弟子入りする?」
「遠慮します」
「今なら女神と同期だよ」
「魅力が独特ですね」
ルナが水桶の前で振り返る。
「同期ですか」
「そう」
「では、ブルーノさんも泡から」
「本当に遠慮します」
ブルーノは即答した。
少し笑いが起きる。
それで紙の重さが少しだけ軽くなった。
アルトは紙には触らなかった。
触ると、また考え始める。
今は考えない方がいい。
そういう時間もある。
窓の外に目を向ける。
通りでは、子どもが二人走っている。
片方が転び、もう片方が戻る。
手を貸す。
泣かない。
また走る。
ただそれだけ。
神界には流れない。
たぶん誰も切り抜かない。
でも、見えている。
アルトには見えている。
それで十分なものもある。
◇
午後、レオンから短い連絡が来た。
アルトは少しだけ嫌な顔をした。
ブルーノがそれを見る。
「レオン様ですか」
「顔で分かるな」
「分かります」
「嫌だな」
「慣れてください」
「慣れたくない」
アルトは端末を開く。
レオンからの文章は短かった。
《黒鐘門救助の事後記録を提出した》
次。
《ユラの旧名流出を、救助成功の損失項目に入れた》
アルトは画面を見たまま、しばらく動かなかった。
レオンは本当に数えた。
救助成功の記録に、損失として入れた。
それが十分かどうかは分からない。
十分なはずがない。
でも、入れた。
アルトは返信を考える。
礼は違う。
褒めるのも違う。
許すのはもっと違う。
結局、一言だけ送った。
《見た》
すぐに既読がついた。
返事は来なかった。
それでよかった。
ルナが横から見ていた。
「レオン様ですか」
「ああ」
「何と?」
「数えた」
ルナは一度だけ頷いた。
「そうですか」
「それだけか」
「それだけです」
「もっと神っぽいこと言わないのか」
「今は言わない方がいい気がします」
「それは正しい」
アルトは端末を閉じた。
今回は、変な震えはない。
通知履歴にも何もない。
ただ、レオンからの連絡があっただけ。
普通の連絡。
普通の既読。
それが妙にありがたかった。
◇
夕方になる前に、ルナはまた皿を洗った。
今度は少し上達していた。
泡は少ない。
水は跳ねない。
ミアが厳しい顔で確認する。
「まあまあ」
「ありがとうございます」
「でも遅い」
「神は時間の感覚が長いので」
「皿は冷めるよ」
「深いですね」
「たぶん違う」
ミアは皿を一枚受け取った。
光にかざす。
どこで覚えたのか、やたら職人ぽい。
「よし」
ルナは少し嬉しそうにした。
アルトはそれを見ていた。
神が皿を洗って、獣人の少女に合格をもらっている。
かなり変な光景だった。
でも、悪くはない。
今度は、その言葉を最後まで考えた。
悪くはない。
悪くない、ではなく。
悪くはない。
少し逃げ道がある言い方だ。
それでも、昨日よりは近い。
アルトは口には出さなかった。
出さなくても、ルナがこちらを見た。
「何ですか」
「何でもない」
「何でもない顔ではありません」
「お前もそれを言うのか」
「赤猫亭にいると、覚えます」
「嫌な学習だな」
「便利です」
「便利な言葉は」
「危ない、ですね」
ルナが先に言った。
アルトは少しだけ笑った。
◇
夜、赤猫亭が閉まった後。
ルナはまた二階の客間に向かった。
昨日と同じ。
皿洗いの分、宿代は払ったらしい。
マルタが「半人前だけどね」と言い、ルナが「明日は一人前になります」と返した。
神の目標としては、だいぶ低い。
でも、それでいい気がした。
アルトは自分の部屋に戻る前に、廊下で足を止めた。
客間の前。
中は静かだ。
今日は、息を整える音も聞こえない。
昨日のことを思い出す。
こつ。
床を叩いた。
返ってきた。
名前を呼ばずに、そこにいることを確かめた。
今日は、叩く必要があるのか。
迷った。
迷っていると、中から先に音がした。
こつ。
小さな木の音。
アルトは目を少しだけ見開いた。
呼ばれてはいない。
名前もない。
ただ、そこにいるという音。
アルトは床を指で軽く叩いた。
こつ。
返事。
それだけ。
扉は開けない。
声もかけない。
しばらくして、中からもう一度だけ音がした。
こつ。
昨日より、少しだけ軽い音だった。
アルトは何も言わず、自分の部屋に戻った。
◇
部屋では、端末は棚に置いた。
手帳は布に包んだまま。
金属片は机の上。
全部、昨日と同じ場所。
ただ、今日は端末が少し遠く見えた。
良いことなのか、悪いことなのかは分からない。
アルトは金属片を指で軽く叩いた。
かん。
すぐに、廊下の向こうから小さな音が返った。
こつ。
アルトは動きを止めた。
偶然かもしれない。
たまたまルナが床を鳴らしただけかもしれない。
でも、返ってきた。
金属の音に、木の音が返った。
名前はない。
通知もない。
記録にも残らない。
それでも、そこにいる。
アルトは息を吐いた。
今日は端末は震えなかった。
履歴にも、何も残らなかった。
外部視線も、たぶん近づいていない。
たぶん。
それで今は十分だった。
神である前のことは聞かなかった。
名前のない神貨のことも追わなかった。
履歴にない一秒も増えなかった。
ただ、女神が皿を洗い。
芋を食べ。
床を叩いた。
それだけの日だった。
それだけの日が、今は必要だった。




