表示調整
閉じる
挿絵表示切替ボタン
▼配色
▼行間
▼文字サイズ
▼メニューバー
×閉じる

ブックマークに追加しました

設定
0/400
設定を保存しました
エラーが発生しました
※文字以内
ブックマークを解除しました。

エラーが発生しました。

エラーの原因がわからない場合はヘルプセンターをご確認ください。

ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
PR
65/115

第65話 見られていた女神

 ルナは、遅れて来た。


 呼んでいない。


 だから遅れるも何もない。


 それでも、アルトはそう思った。


 赤猫亭の窓の外が夕方の色に変わり、マルタが鍋の火を弱め、ミアが芋を一つ盗んで一つ戻した頃になって、ようやく白い光が店の前に落ちた。


 いつものように、店の中ではない。


 扉の外。


 道の端。


 赤猫亭の明かりが届く、ぎりぎりの場所。


 ルナはそこに立っていた。


 入ってこない。


 アルトは窓越しにそれを見た。


「来たぞ」


 ブルーノが端末から顔を上げる。


「ルナ様ですか」


「ああ」


「呼びました?」


「呼んでない」


「なら、来たんですね」


「そうなるな」


 ブルーノは立ち上がりかけて、やめた。


 何かに気づいたように、端末を見る。


 画面を指でなぞる。


「……変ですね」


「何が」


「ルナ様の視聴ログが、今、一瞬欠けました」


 アルトは眉を寄せた。


「視聴ログ?」


「神界側で、どの神がどの配信を見ているかの記録です。完全には見えませんが、配信に関わる範囲なら輪郭は取れます」


「それが欠けた?」


「はい。来る直前に、一秒弱」


「また一秒か」


「ええ」


 ブルーノの声は軽くなかった。


 アルトは立ち上がった。


 端末は持たない。


 腰袋に金属片があることだけを確かめる。


 それから、扉へ向かった。


 マルタが厨房から言う。


「外で喧嘩するんじゃないよ」


「まだしてない」


「まだ、ならする顔だ」


「顔に出るやつが多すぎる」


 アルトは扉を開けた。


 夕方の風が入る。


 芋とスープの匂いが、外へ少し逃げた。


 ルナは道の端に立ったまま、こちらを見ていた。


 いつもの笑みはある。


 ただ、薄い。


 笑っているというより、笑う形を覚えているだけに見えた。


「入らないのか」


 アルトが聞く。


「入っていいですか」


「昨日も聞いたな」


「今日も聞いた方がいい気がしました」


「いい。入れ」


 ルナはすぐには動かなかった。


 赤猫亭の扉を見る。


 その奥の明かりを見る。


 マルタの鍋の音を聞く。


 それから、一歩だけ近づいた。


 そこで止まる。


「何だよ」


「少し、重いですね」


「何が」


「見られた後は、扉が重く感じます」


 アルトは返事をしなかった。


 冗談にして流せる声ではなかった。


 ルナは自分で扉の敷居を越えた。


 店の中に入る。


 その瞬間、ブルーノの端末が小さく震えた。


 通知音はない。


 画面も光らない。


 ただ、ブルーノの手の中で、短く震えた。


 ブルーノの顔が固まる。


「またか」


 アルトが言う。


「いえ」


 ブルーノは端末を見る。


「これは……私の端末です」


「お前の?」


「はい。アルトさんのではなく」


 店の空気が、少しだけ止まった。


 ルナは振り返らない。


 ただ、扉の前に立ったまま、目を伏せた。


「すみません」


「お前がやったのか」


「いいえ」


「じゃあ、何で謝る」


「私が、連れてきたのかもしれません」


 その言い方が、嫌だった。


 何かを連れてきた。


 名前はない。


 形もない。


 でも、通った後だけがある。


 アルトは扉を閉めた。


 音がした。


 普通の木の扉の音。


 それでも、少し安心した。


 ◇


 ルナは、いつもの席には座らなかった。


 店の真ん中に近い席。


 昨日、アルトが移った席の隣。


 隅ではない。


 扉にも窓にも近すぎない。


 マルタが何も聞かず、スープを置いた。


 ついでに芋も置いた。


「食べな」


 ルナはスープを見た。


「神にも、ですか」


「神でもだよ」


「ありがとうございます」


 ルナは匙を取った。


 少しだけ手が遅い。


 アルトは向かいに座る。


 ブルーノは端末を開いたまま、しかし画面を卓に伏せている。


 見たい。


 でも見ない。


 見れば、また何かに見られる。


 そういう気配がある。


「見られていたって言ったな」


 アルトが切り出した。


 ルナは匙を止めた。


「はい」


「誰に」


「名前をつけない方がいいものです」


「それは聞き飽きた」


「私も、言い飽きました」


 ルナは少しだけ笑った。


 だが、すぐに消えた。


「神々には、視線があります」


「コメント欄みたいな?」


「似ています。でも、もっと古いものです」


「古い」


「見る。見つける。名づける。記録する。神々は昔から、それをしてきました」


「お前もか」


「はい」


 ルナは逃げなかった。


 スープの表面に視線を落とす。


 湯気が細く上がっている。


「私も、見つける側でした」


 ブルーノの指が、端末の上で止まる。


 アルトはルナを見た。


「昔は、ってやつか」


「はい」


「何を見つけてた」


 ルナは答えない。


 答えないまま、スープを一口飲んだ。


 熱かったのか、少しだけ目を伏せる。


「今、その名前を出すと、向こうもこちらを見ます」


「向こう」


「名前をつけないでください」


「分かってる」


「私は、まだ分かっていません」


 その言葉に、アルトは少しだけ眉を寄せた。


「お前が?」


「はい」


「何を」


「どこから見られているのか」


 店の奥で、鍋が鳴った。


 かん。


 ミアが芋を落とした音も混じる。


 現実の音が、少し遅れて戻ってきた。


 ルナは続ける。


「神々の視線なら、分かります。誰が、どのくらい、どんな色で見ているか。全部ではありませんが、私は古いので、慣れています」


「色?」


「比喩です」


「本当に見えてそうだから困る」


「少し見えます」


「比喩じゃないじゃねえか」


 ルナはようやく、ほんの少し笑った。


 すぐに表情を戻す。


「でも、昨日からの視線は違います」


「神々にも、ってやつか」


「はい」


「神々以外にも何かが見てる」


 ブルーノが息を止めた。


 ルナも、少しだけ目を細める。


 アルトはすぐに言い直した。


「……そういう形を、つけたくなる何かがある」


 ルナの肩が、ほんの少し下がった。


「その言い方の方が安全です」


「面倒だ」


「はい」


「で、その何かは、お前を見てたのか」


「見ていた、というより」


 ルナは言葉を探した。


 慎重に。


 芋を割るよりも、ずっと慎重に。


「私の中の古い場所を、見ていました」


 アルトは黙った。


 ブルーノも黙った。


 ミナが薬草の籠を持ったまま、遠くで立ち止まっている。


 聞いている。


 ただ、入ってこない。


 誰も、簡単に言葉を足せない。


「古い場所って何だよ」


「私が、神である前から持っているものです」


「神である前?」


 ルナは口を閉じた。


 言いすぎた。


 そういう顔だった。


 アルトはその顔を見て、追わなかった。


 追いたい。


 だが、追えば近づきすぎる。


 近づいたら、戻る。


 昨日の言葉を思い出す。


 アルトはスープを飲んだ。


 熱い。


 ちゃんと熱い。


 それで少しだけ、戻れた。


「今日はそこまででいい」


 アルトが言った。


 ルナが顔を上げる。


「いいんですか」


「よくはない」


「では」


「でも、今はそこまででいい」


 ルナはしばらく黙っていた。


 それから、小さく頷いた。


「ありがとうございます」


「礼を言うな。変な感じがする」


「では、言いません」


「もう言っただろ」


「撤回します」


「できるのか」


「女神なので」


「便利だな」


「今日は、少しだけ便利です」


 ほんの少しだけ、空気が緩んだ。


 ◇


 ブルーノの端末には、一秒が残っていた。


 アルトの時と同じ。


 通知なし。


 画面点灯なし。


 通信記録なし。


 内部処理時間だけ、+一秒。


 ただし、違いがあった。


「私の端末には、処理対象が残っています」


 ブルーノが言った。


「何だ」


「表示名ではなく、分類だけです」


 画面に出ているのは短い行だった。


【内部処理時間:+一秒】


【処理内容:外部視線照合】


【照合結果:未完了】


 アルトは顔をしかめた。


「外部視線」


「名前じゃないですね」


 ブルーノが言う。


「分類です」


「分類なら安全なのか」


「分かりません」


「便利だな、分からない」


「便利ではなく、敗北です」


 ブルーノは端末を睨んだ。


「外部ということは、神界内部ではない可能性があります」


「言っていいのか、それ」


「可能性です。名前ではありません」


「便利に攻めるな」


「攻めないと、何も見えません」


 ブルーノの声には、少しだけ苛立ちがあった。


 自分に対してのものだ。


 見えない。


 でも、見なければいけない。


 見すぎると、見つかる。


 それでも、彼は画面を閉じない。


 ルナが静かに言った。


「閉じてください」


 ブルーノは動かなかった。


「まだ」


「閉じてください」


 二度目は、少し強かった。


 ブルーノは端末を閉じた。


 音はしない。


 それでも、何かが切れたような気がした。


「今のは、近づきすぎですか」


 ブルーノが聞く。


 ルナは頷いた。


「はい」


「どのあたりから?」


「その質問が、近いです」


 ブルーノは口を閉じた。


 悔しそうだった。


 悔しいのだろう。


 分からないことを分からないまま置くのは、彼にも苦手らしい。


 アルトはブルーノを見た。


「戻るぞ」


「どこへですか」


「飯だ」


「今、食べました」


「もう一回食え」


「雑ですね」


「戻る場所なんて、雑なくらいがいいらしい」


 マルタが厨房から言った。


「勝手に私の言葉にするんじゃないよ」


「違うのか」


「だいたい合ってる」


「合ってるじゃねえか」


 マルタは皿を三つ出した。


 芋。


 黒パン。


 少し焦げた肉。


「考えすぎる奴らは食べな」


 ブルーノは端末を見た。


 見たい顔をした。


 それから、見ないで皿を取った。


「いただきます」


「よし」


 マルタは満足そうに頷いた。


 ◇


 夜になって、ルナは帰らなかった。


 赤猫亭の二階の客間を借りることになった。


 本人は「女神なので宿代は信仰で払えます」と言ったが、マルタに「金か皿洗いだよ」と返され、皿洗いを選んだ。


 神が皿を洗っている。


 ミアがそれをじっと見ている。


「女神って皿洗うの?」


「洗います」


「下手だね」


「初めてなので」


「神なのに?」


「神にも初めてはあります」


「じゃあ、私が教えてあげる」


「盗み以外を?」


「失礼だな。皿は盗まない」


「芋は?」


「それは別」


 ルナは少し笑った。


 その笑いは、夕方より自然だった。


 アルトは入口近くの席で、それを見ていた。


 ブルーノは少し離れた席で、端末を閉じたまま、紙に何かを書いている。


 端末ではなく紙。


 古い手段。


 そこには名前はない。


 ただ、丸と線と空白だけがある。


 穴の形。


 たぶん、そういうものだ。


 ミナが布を畳みながら言う。


「今日は、ルナ様も戻ったんですね」


「戻った?」


「はい。赤猫亭に」


 アルトは皿を洗うルナを見る。


 袖を濡らしている。


 マルタに怒られている。


 ミアに笑われている。


 神界ではない。


 白い光の中でもない。


 皿の泡の前にいる。


「そうだな」


 アルトは言った。


「戻ったんだろうな」


 ルナがこちらを見た。


 聞こえたらしい。


 少しだけ目を丸くし、それから視線を逸らした。


 皿を洗う手が、少しだけ早くなる。


 ミアが言った。


「雑」


「すみません」


「女神、下手」


「精進します」


 マルタが笑った。


 ブルーノも少しだけ笑った。


 アルトは腰袋の金属片に触れた。


 鳴らさない。


 今日は、鳴らさなくてもよかった。


 ◇


 深夜。


 赤猫亭の二階は静かだった。


 ルナは客間にいる。


 神が寝るのかどうかは知らない。


 ただ、明かりは落ちている。


 アルトは自分の部屋で、端末を棚に置いた。


 昨日と同じ。


 手帳は布に包んだまま。


 金属片は机の上。


 それぞれを離して置く。


 意味があるのかは、やはり分からない。


 でも、今はそれでいい。


 窓の外は暗い。


 神界コメントは見えない。


 端末も震えない。


 何も起きていない。


 それがありがたい。


 アルトは寝台に座った。


 今日、ルナが言った言葉を思い出す。


 私の中の古い場所を、見ていました。


 神である前から持っているもの。


 外部視線照合。


 未完了。


 考えれば近づく。


 近づけば、見つかる。


 だから、戻る。


 アルトは立ち上がり、部屋の戸を開けた。


 廊下に出る。


 静かだ。


 客間の前を通る時、中から小さな音がした。


 泣き声ではない。


 寝息でもない。


 ただ、誰かが息を整えている音。


 アルトは立ち止まった。


 声をかけるか迷う。


 呼べば、名前になるのか。


 ならないのか。


 分からない。


 結局、何も言わなかった。


 その代わり、廊下の床を指で軽く叩いた。


 こつ。


 金属ではない。


 木の音。


 黒鐘でもない。


 鍋でもない。


 ただ、ここにいるという音。


 客間の中で、息が少しだけ止まった。


 それから、同じように床を叩く音が返ってきた。


 こつ。


 アルトは何も言わなかった。


 ルナも何も言わなかった。


 名前を呼ばずに、そこにいることだけを確かめる。


 今は、それで十分だった。


評価をするにはログインしてください。
ブックマークに追加
ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
― 新着の感想 ―
このエピソードに感想はまだ書かれていません。
感想一覧
+注意+

特に記載なき場合、掲載されている作品はすべてフィクションであり実在の人物・団体等とは一切関係ありません。
特に記載なき場合、掲載されている作品の著作権は作者にあります(一部作品除く)。
作者以外の方による作品の引用を超える無断転載は禁止しており、行った場合、著作権法の違反となります。

↑ページトップへ