第65話 見られていた女神
ルナは、遅れて来た。
呼んでいない。
だから遅れるも何もない。
それでも、アルトはそう思った。
赤猫亭の窓の外が夕方の色に変わり、マルタが鍋の火を弱め、ミアが芋を一つ盗んで一つ戻した頃になって、ようやく白い光が店の前に落ちた。
いつものように、店の中ではない。
扉の外。
道の端。
赤猫亭の明かりが届く、ぎりぎりの場所。
ルナはそこに立っていた。
入ってこない。
アルトは窓越しにそれを見た。
「来たぞ」
ブルーノが端末から顔を上げる。
「ルナ様ですか」
「ああ」
「呼びました?」
「呼んでない」
「なら、来たんですね」
「そうなるな」
ブルーノは立ち上がりかけて、やめた。
何かに気づいたように、端末を見る。
画面を指でなぞる。
「……変ですね」
「何が」
「ルナ様の視聴ログが、今、一瞬欠けました」
アルトは眉を寄せた。
「視聴ログ?」
「神界側で、どの神がどの配信を見ているかの記録です。完全には見えませんが、配信に関わる範囲なら輪郭は取れます」
「それが欠けた?」
「はい。来る直前に、一秒弱」
「また一秒か」
「ええ」
ブルーノの声は軽くなかった。
アルトは立ち上がった。
端末は持たない。
腰袋に金属片があることだけを確かめる。
それから、扉へ向かった。
マルタが厨房から言う。
「外で喧嘩するんじゃないよ」
「まだしてない」
「まだ、ならする顔だ」
「顔に出るやつが多すぎる」
アルトは扉を開けた。
夕方の風が入る。
芋とスープの匂いが、外へ少し逃げた。
ルナは道の端に立ったまま、こちらを見ていた。
いつもの笑みはある。
ただ、薄い。
笑っているというより、笑う形を覚えているだけに見えた。
「入らないのか」
アルトが聞く。
「入っていいですか」
「昨日も聞いたな」
「今日も聞いた方がいい気がしました」
「いい。入れ」
ルナはすぐには動かなかった。
赤猫亭の扉を見る。
その奥の明かりを見る。
マルタの鍋の音を聞く。
それから、一歩だけ近づいた。
そこで止まる。
「何だよ」
「少し、重いですね」
「何が」
「見られた後は、扉が重く感じます」
アルトは返事をしなかった。
冗談にして流せる声ではなかった。
ルナは自分で扉の敷居を越えた。
店の中に入る。
その瞬間、ブルーノの端末が小さく震えた。
通知音はない。
画面も光らない。
ただ、ブルーノの手の中で、短く震えた。
ブルーノの顔が固まる。
「またか」
アルトが言う。
「いえ」
ブルーノは端末を見る。
「これは……私の端末です」
「お前の?」
「はい。アルトさんのではなく」
店の空気が、少しだけ止まった。
ルナは振り返らない。
ただ、扉の前に立ったまま、目を伏せた。
「すみません」
「お前がやったのか」
「いいえ」
「じゃあ、何で謝る」
「私が、連れてきたのかもしれません」
その言い方が、嫌だった。
何かを連れてきた。
名前はない。
形もない。
でも、通った後だけがある。
アルトは扉を閉めた。
音がした。
普通の木の扉の音。
それでも、少し安心した。
◇
ルナは、いつもの席には座らなかった。
店の真ん中に近い席。
昨日、アルトが移った席の隣。
隅ではない。
扉にも窓にも近すぎない。
マルタが何も聞かず、スープを置いた。
ついでに芋も置いた。
「食べな」
ルナはスープを見た。
「神にも、ですか」
「神でもだよ」
「ありがとうございます」
ルナは匙を取った。
少しだけ手が遅い。
アルトは向かいに座る。
ブルーノは端末を開いたまま、しかし画面を卓に伏せている。
見たい。
でも見ない。
見れば、また何かに見られる。
そういう気配がある。
「見られていたって言ったな」
アルトが切り出した。
ルナは匙を止めた。
「はい」
「誰に」
「名前をつけない方がいいものです」
「それは聞き飽きた」
「私も、言い飽きました」
ルナは少しだけ笑った。
だが、すぐに消えた。
「神々には、視線があります」
「コメント欄みたいな?」
「似ています。でも、もっと古いものです」
「古い」
「見る。見つける。名づける。記録する。神々は昔から、それをしてきました」
「お前もか」
「はい」
ルナは逃げなかった。
スープの表面に視線を落とす。
湯気が細く上がっている。
「私も、見つける側でした」
ブルーノの指が、端末の上で止まる。
アルトはルナを見た。
「昔は、ってやつか」
「はい」
「何を見つけてた」
ルナは答えない。
答えないまま、スープを一口飲んだ。
熱かったのか、少しだけ目を伏せる。
「今、その名前を出すと、向こうもこちらを見ます」
「向こう」
「名前をつけないでください」
「分かってる」
「私は、まだ分かっていません」
その言葉に、アルトは少しだけ眉を寄せた。
「お前が?」
「はい」
「何を」
「どこから見られているのか」
店の奥で、鍋が鳴った。
かん。
ミアが芋を落とした音も混じる。
現実の音が、少し遅れて戻ってきた。
ルナは続ける。
「神々の視線なら、分かります。誰が、どのくらい、どんな色で見ているか。全部ではありませんが、私は古いので、慣れています」
「色?」
「比喩です」
「本当に見えてそうだから困る」
「少し見えます」
「比喩じゃないじゃねえか」
ルナはようやく、ほんの少し笑った。
すぐに表情を戻す。
「でも、昨日からの視線は違います」
「神々にも、ってやつか」
「はい」
「神々以外にも何かが見てる」
ブルーノが息を止めた。
ルナも、少しだけ目を細める。
アルトはすぐに言い直した。
「……そういう形を、つけたくなる何かがある」
ルナの肩が、ほんの少し下がった。
「その言い方の方が安全です」
「面倒だ」
「はい」
「で、その何かは、お前を見てたのか」
「見ていた、というより」
ルナは言葉を探した。
慎重に。
芋を割るよりも、ずっと慎重に。
「私の中の古い場所を、見ていました」
アルトは黙った。
ブルーノも黙った。
ミナが薬草の籠を持ったまま、遠くで立ち止まっている。
聞いている。
ただ、入ってこない。
誰も、簡単に言葉を足せない。
「古い場所って何だよ」
「私が、神である前から持っているものです」
「神である前?」
ルナは口を閉じた。
言いすぎた。
そういう顔だった。
アルトはその顔を見て、追わなかった。
追いたい。
だが、追えば近づきすぎる。
近づいたら、戻る。
昨日の言葉を思い出す。
アルトはスープを飲んだ。
熱い。
ちゃんと熱い。
それで少しだけ、戻れた。
「今日はそこまででいい」
アルトが言った。
ルナが顔を上げる。
「いいんですか」
「よくはない」
「では」
「でも、今はそこまででいい」
ルナはしばらく黙っていた。
それから、小さく頷いた。
「ありがとうございます」
「礼を言うな。変な感じがする」
「では、言いません」
「もう言っただろ」
「撤回します」
「できるのか」
「女神なので」
「便利だな」
「今日は、少しだけ便利です」
ほんの少しだけ、空気が緩んだ。
◇
ブルーノの端末には、一秒が残っていた。
アルトの時と同じ。
通知なし。
画面点灯なし。
通信記録なし。
内部処理時間だけ、+一秒。
ただし、違いがあった。
「私の端末には、処理対象が残っています」
ブルーノが言った。
「何だ」
「表示名ではなく、分類だけです」
画面に出ているのは短い行だった。
【内部処理時間:+一秒】
【処理内容:外部視線照合】
【照合結果:未完了】
アルトは顔をしかめた。
「外部視線」
「名前じゃないですね」
ブルーノが言う。
「分類です」
「分類なら安全なのか」
「分かりません」
「便利だな、分からない」
「便利ではなく、敗北です」
ブルーノは端末を睨んだ。
「外部ということは、神界内部ではない可能性があります」
「言っていいのか、それ」
「可能性です。名前ではありません」
「便利に攻めるな」
「攻めないと、何も見えません」
ブルーノの声には、少しだけ苛立ちがあった。
自分に対してのものだ。
見えない。
でも、見なければいけない。
見すぎると、見つかる。
それでも、彼は画面を閉じない。
ルナが静かに言った。
「閉じてください」
ブルーノは動かなかった。
「まだ」
「閉じてください」
二度目は、少し強かった。
ブルーノは端末を閉じた。
音はしない。
それでも、何かが切れたような気がした。
「今のは、近づきすぎですか」
ブルーノが聞く。
ルナは頷いた。
「はい」
「どのあたりから?」
「その質問が、近いです」
ブルーノは口を閉じた。
悔しそうだった。
悔しいのだろう。
分からないことを分からないまま置くのは、彼にも苦手らしい。
アルトはブルーノを見た。
「戻るぞ」
「どこへですか」
「飯だ」
「今、食べました」
「もう一回食え」
「雑ですね」
「戻る場所なんて、雑なくらいがいいらしい」
マルタが厨房から言った。
「勝手に私の言葉にするんじゃないよ」
「違うのか」
「だいたい合ってる」
「合ってるじゃねえか」
マルタは皿を三つ出した。
芋。
黒パン。
少し焦げた肉。
「考えすぎる奴らは食べな」
ブルーノは端末を見た。
見たい顔をした。
それから、見ないで皿を取った。
「いただきます」
「よし」
マルタは満足そうに頷いた。
◇
夜になって、ルナは帰らなかった。
赤猫亭の二階の客間を借りることになった。
本人は「女神なので宿代は信仰で払えます」と言ったが、マルタに「金か皿洗いだよ」と返され、皿洗いを選んだ。
神が皿を洗っている。
ミアがそれをじっと見ている。
「女神って皿洗うの?」
「洗います」
「下手だね」
「初めてなので」
「神なのに?」
「神にも初めてはあります」
「じゃあ、私が教えてあげる」
「盗み以外を?」
「失礼だな。皿は盗まない」
「芋は?」
「それは別」
ルナは少し笑った。
その笑いは、夕方より自然だった。
アルトは入口近くの席で、それを見ていた。
ブルーノは少し離れた席で、端末を閉じたまま、紙に何かを書いている。
端末ではなく紙。
古い手段。
そこには名前はない。
ただ、丸と線と空白だけがある。
穴の形。
たぶん、そういうものだ。
ミナが布を畳みながら言う。
「今日は、ルナ様も戻ったんですね」
「戻った?」
「はい。赤猫亭に」
アルトは皿を洗うルナを見る。
袖を濡らしている。
マルタに怒られている。
ミアに笑われている。
神界ではない。
白い光の中でもない。
皿の泡の前にいる。
「そうだな」
アルトは言った。
「戻ったんだろうな」
ルナがこちらを見た。
聞こえたらしい。
少しだけ目を丸くし、それから視線を逸らした。
皿を洗う手が、少しだけ早くなる。
ミアが言った。
「雑」
「すみません」
「女神、下手」
「精進します」
マルタが笑った。
ブルーノも少しだけ笑った。
アルトは腰袋の金属片に触れた。
鳴らさない。
今日は、鳴らさなくてもよかった。
◇
深夜。
赤猫亭の二階は静かだった。
ルナは客間にいる。
神が寝るのかどうかは知らない。
ただ、明かりは落ちている。
アルトは自分の部屋で、端末を棚に置いた。
昨日と同じ。
手帳は布に包んだまま。
金属片は机の上。
それぞれを離して置く。
意味があるのかは、やはり分からない。
でも、今はそれでいい。
窓の外は暗い。
神界コメントは見えない。
端末も震えない。
何も起きていない。
それがありがたい。
アルトは寝台に座った。
今日、ルナが言った言葉を思い出す。
私の中の古い場所を、見ていました。
神である前から持っているもの。
外部視線照合。
未完了。
考えれば近づく。
近づけば、見つかる。
だから、戻る。
アルトは立ち上がり、部屋の戸を開けた。
廊下に出る。
静かだ。
客間の前を通る時、中から小さな音がした。
泣き声ではない。
寝息でもない。
ただ、誰かが息を整えている音。
アルトは立ち止まった。
声をかけるか迷う。
呼べば、名前になるのか。
ならないのか。
分からない。
結局、何も言わなかった。
その代わり、廊下の床を指で軽く叩いた。
こつ。
金属ではない。
木の音。
黒鐘でもない。
鍋でもない。
ただ、ここにいるという音。
客間の中で、息が少しだけ止まった。
それから、同じように床を叩く音が返ってきた。
こつ。
アルトは何も言わなかった。
ルナも何も言わなかった。
名前を呼ばずに、そこにいることだけを確かめる。
今は、それで十分だった。




