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第64話 履歴にない一秒

 端末は、震えた。


 それは確かだった。


 音は鳴らなかった。


 画面も光らなかった。


 通知も残っていない。


 だが、震えた。


 机の上で、ほんの一度だけ。


 アルトはそれを見ていた。


 触れてもいた。


 だから、翌朝、ブルーノに言った。


「端末が震えた」


 ブルーノは、パンをかじる手を止めた。


「通知ですか」


「違う」


「投げ銭」


「違う」


「コメント」


「違う」


「落としました?」


「机の上だ」


「机が震えたとか」


「お前は俺を馬鹿にしてるのか」


「確認です」


 ブルーノはパンを皿に置いた。


 目の下の色はまだ薄く残っている。


 寝たらしい。


 少しだけ。


 そのぶん、顔つきは昨日より人間に近い。


「見せてください」


 アルトは端末を渡した。


 ブルーノは受け取る前に、少しだけ手を止めた。


「開いていいですか」


「いい」


「名前のあるものは検索しません」


「分かってる」


「履歴だけ見ます」


「ああ」


 ブルーノは端末を開いた。


 通知履歴。


 投げ銭履歴。


 神界コメント受信履歴。


 視聴ログ。


 端末起動記録。


 画面点灯履歴。


 順に見ていく。


 その間、アルトは赤猫亭の窓の外を見ていた。


 朝の通り。


 荷車。


 パンの匂い。


 遠くの笑い声。


 神界とは関係ない音が、今日は少しありがたい。


「ありませんね」


 ブルーノが言った。


「何が」


「震えた記録が」


「だろうな」


「だろうな、で持ってこないでください」


「震えたんだよ」


「そこは疑ってません」


「疑ってないのか」


「あなたが嘘をつく理由がありません。あと、嘘をつくならもっと下手です」


「褒めてるのか」


「少しだけ」


「いらん」


 ブルーノは画面をもう一度見る。


 指が止まった。


「ただ」


「ただ?」


「使用時間が、一秒増えています」


 アルトは眉を寄せた。


「使用時間?」


「端末が起きていた時間です。画面は点灯していません。通知もありません。通信記録もありません。でも、端末の内部処理だけが一秒増えている」


「それ、よくあることか」


「ありません」


「即答か」


「即答です」


 ブルーノは端末を卓に置いた。


 アルトの方へ画面を向ける。


【画面点灯:なし】


【通知受信:なし】


【投げ銭受信:なし】


【コメント更新:なし】


【内部処理時間:+一秒】


【処理内容:記録なし】


 文字は整っている。


 整っているから、気味が悪い。


「履歴にない一秒、か」


 アルトが言う。


「はい」


「何かが触った?」


「触った、と言うと形になります」


「じゃあ」


「触れていないのに、跡だけある」


「もっと嫌だな」


「私もです」


 ブルーノは端末を閉じた。


 すぐには返さない。


 手の中で、少しだけ重さを確かめるように持っている。


「これ、他の端末にもあるのか」


「確認します」


「名前は出すなよ」


「出しません」


「あと、広げるな」


「分かっています」


 ブルーノは自分の端末を開く。


 直接検索はしない。


 昨日と同じ。


 言葉を追わず、欠けた場所を見る。


 まず自分の履歴。


 次に共有配信ログ。


 黒鐘門救助の後片づけ用に許可された範囲。


 ミナ、ミア、ガルド、ガルム。


 関係者の端末状態。


 慎重に。


 呼ばずに。


 波を立てずに。


 ブルーノの指が止まった。


「アルトさんだけです」


 アルトは、そうだろうなと思った。


 思ってしまった。


「だよな」


「また、だろうな、ですか」


「嫌な予想は当たりやすい」


「当たらないでほしいですね」


「ああ」


 赤猫亭の奥で、鍋が鳴った。


 かん。


 二人とも、少しだけそちらを見た。


 黒鐘とは違う音。


 それを確認してから、また端末へ戻る。


 最近、それが癖になっている。


 ◇


 ガルドは、その話を聞いて、端末を見なかった。


 代わりに、机の上を見た。


 それから、アルトの端末が置かれていた位置を指で叩く。


「ここか」


「ああ」


「どのくらい」


「一回だけだ」


「強さは」


「弱い。けど、分かるくらい」


「音は」


「ない」


「画面は」


「ついてない」


「なら、鳴った場所じゃなく、揺れた場所を見ろ」


 ブルーノが顔を上げた。


「それ、どういう意味ですか」


「音が鳴れば音を追う。鳴らないなら、動いたものを見る」


「端末は動いてないです」


「机は?」


 アルトとブルーノは、同時に机を見た。


 古い木の卓。


 赤猫亭の隅にある、いつもの席。


 傷が多い。


 酒の染みもある。


 誰かが昔つけた焦げ跡もある。


「机が何だよ」


「震えたなら、机にも伝わる」


「そんな細かいの分かるのか」


「木は覚える」


 ガルドは当然のように言った。


 ブルーノが小さく呟く。


「職人の言うこと、たまに神託より分かりにくいですね」


「神託より役に立つ」


 ガルドは工具袋から細い金属棒を取り出した。


 机の端を軽く叩く。


 こつ。


 次に、端末が置かれていた辺りを叩く。


 こつ。


 もう一度。


 こ、と少しだけ違う音。


 ガルドはそこで止まった。


「ここだけ抜けてる」


「抜けてる?」


「硬さが違う」


 アルトは机を見る。


 何も見えない。


 傷はある。


 染みもある。


 だが、それは前からだ。


「端末じゃなくて、机か?」


「端末が揺れた時、ここに何かが通った」


「何か」


「名前をつけるなと言われたんだろ」


 ガルドが言った。


 アルトは口を閉じた。


 職人は余計なことを聞かない。


 聞かないまま、必要なところだけ触る。


 黒鐘門の時と同じだった。


 ガルドは机に耳を近づける。


 また叩く。


 こつ。


 こ。


 こつ。


「傷じゃない」


「じゃあ何ですか」


 ブルーノが聞く。


「通り道だ」


 ガルドは短く答えた。


「何かが触ったんじゃない。抜けた」


「抜けた?」


「風が通ると、戸が鳴る。水が通ると、石が削れる。力が通ると、木の鳴りが変わる」


「つまり」


「端末に来たんじゃない。端末を通った」


 アルトの背中が冷えた。


 端末に何かが届いたのではない。


 端末を通った。


 なら、それはどこからどこへ抜けたのか。


 アルトは考えかけて、やめた。


 形がつく。


 名前がつく。


 ガルドは金属棒をしまった。


「今日はここまでだ」


「みんなそれ言うな」


「そこで止めない奴から怪我をする」


「経験談か」


「職人はだいたいそうだ」


 ガルドは机を軽く撫でた。


「この席は、しばらく使うな」


「何で」


「同じ道を使われると、木が割れる」


 ブルーノが目を細めた。


「同じ道を、ですか」


「通りやすい場所は、また通る」


 ガルドはそれ以上言わなかった。


 ◇


 席を替えた。


 赤猫亭の隅ではなく、真ん中寄りの卓。


 落ち着かない。


 誰が入ってきても見える。


 厨房からも見える。


 ミアからも見える。


 ミアがすぐに言った。


「そこ、似合わない」


「うるさい」


「隅っこの顔してる」


「どんな顔だ」


「壁が好きな顔」


「否定しづらい」


 ミアは満足そうに頷いた。


「じゃあ、当たり」


 アルトはため息をついた。


 少しだけ、空気が戻る。


 こういう雑な会話が、今は必要だった。


 ミナが薬草の籠を持って通る。


「席、変えたんですね」


「机が怪我した」


「机が」


「ガルド診断だ」


「なら、本当かもしれません」


「信頼が厚いな」


「黒鐘門で実績がありますから」


 ミナは真面目に言った。


 それが少しおかしかった。


 だが、笑う前に、端末が重く見えた。


 アルトは端末を卓の上に置かない。


 膝の上に置く。


 それでも、気になる。


 いつ震えるか。


 また震えるか。


 開いていないのに、見られているような気がする。


 見られている、という言葉も危ないのかもしれない。


 アルトは腰袋から金属片を出した。


 手の中で握る。


 鳴らさない。


 ただ握る。


 冷たい。


 少し角が指に当たる。


 それで、端末より現実に近い気がした。


「アルトさん」


 ミナが小さく呼んだ。


「何だ」


「それ、痛くないですか」


「これか」


「強く握っています」


 言われて、初めて気づいた。


 指の腹に、金属片の端が食い込んでいる。


 血は出ていない。


 でも、跡はついていた。


「痛くない」


「痛くない時ほど、力が入っていることがあります」


「作業療法士か」


「何ですか、それ」


「元の世界の、たぶんありがたい人たち」


「では、ありがたいことを言いました」


 ミナは少しだけ笑った。


「手を開いてください」


 アルトは言われた通りにした。


 金属片が手のひらに乗る。


 ミナはそれを見て、触らない。


「持っていてもいいと思います。でも、握りつぶそうとしないでください」


「そんな力はない」


「そういう意味ではありません」


「分かってる」


 ミナは頷いた。


 薬草の籠を持ち直す。


「端末より、そちらを見ている方が安心するなら、そちらを見ていてください」


「変な助言だな」


「今は、変な助言が必要そうなので」


 ミナは厨房の奥へ行った。


 アルトは手のひらの金属片を見る。


 名前のない神貨。


 履歴にない一秒。


 端末を通った何か。


 全部、手に余る。


 金属片だけが、手の中に収まる。


 だから持っている。


 それだけだった。


 ◇


 夕方、ルナは来なかった。


 珍しい。


 いや。


 呼んでいないのだから、来ない方が普通だ。


 そう思おうとして、アルトは失敗した。


 来ると思っていた。


 呼んでいなくても来ると思っていた。


 昨日がそうだったから。


 だから、来ないことが少し気になった。


 気にしたくない。


 だが、気になる。


 ブルーノが端末を見ながら言った。


「呼ばない方がいいですよ」


「分かってる」


「でも、呼びたい顔をしています」


「お前もマルタみたいなこと言い出したな」


「顔に出ます」


「最悪だ」


「見られる仕事に向いていますね」


「向いてたまるか」


 ブルーノは小さく笑った。


 それから、画面を閉じる。


「ルナ様は、来ないなら来ない理由があると思います」


「危ない理由か」


「安全な理由で来ない女神なら、もう少し分かりやすいです」


「ひどい言い方だな」


「信頼です」


「便利に使うな」


 アルトは窓の外を見る。


 夕方の光が赤猫亭の床を斜めに照らしていた。


 その光の中を、埃がゆっくり動いている。


 神界の光ではない。


 ただの夕日。


 アルトはその方が好きだと思った。


 端末が膝の上で重い。


 震えない。


 それが逆に気持ち悪い。


 震えたら嫌だ。


 震えなくても嫌だ。


 面倒な道具になったものだ。


 最初から面倒だった気もする。


 アルトは端末を腰袋にしまった。


 金属片とは別の場所に入れる。


 一緒にしておくのが嫌だった。


 ◇


 夜、ルナは窓の外にいた。


 入ってこなかった。


 赤猫亭の二階。


 アルトの部屋。


 窓の向こう。


 白い光が、窓枠の外で止まっている。


 アルトは眉を寄せた。


「何してる」


「入っていいですか」


「いつも勝手に入るだろ」


「今日は、聞いた方がいい気がしました」


 アルトは少し黙った。


 それから、窓を開ける。


「入れ」


「ありがとうございます」


 ルナは窓枠を越えて入ってきた。


 いつもの動きより静かだった。


 芋は持っていない。


 それだけで、少し嫌な予感がする。


「来なかったな」


「はい」


「何で」


「見られていました」


 アルトの喉が詰まった。


「神々に?」


「神々にも」


「またそれか」


「はい」


 ルナは椅子に座らなかった。


 窓の近くに立ったまま。


 外へ逃げられる位置。


 そう見えた自分が嫌だった。


「端末が震えた」


 アルトが言う。


「知っています」


「見てたのか」


「見えませんでした」


「じゃあ何で」


「見えない場所が、動いたからです」


 昨日と似た言い方。


 でも、昨日より硬い。


「ブルーノが調べた。履歴にはなかった。内部処理だけ一秒増えてた」


 ルナは頷いた。


「ガルドは、端末を通ったと言った」


 ルナの目が、少しだけ揺れた。


「良い職人ですね」


「そこか」


「そこです」


 ルナは小さく息を吐いた。


「端末は、扉ではありません」


「何の話だ」


「でも、隙間にはなります」


 アルトは机を見る。


 端末は置いていない。


 腰袋の中だ。


 それでも、急に重く感じる。


「何が通る」


「まだ、言えません」


「言えないことが増えたな」


「はい」


「数えるぞ」


「数えてください」


 ルナはまっすぐ言った。


「私も、数えます」


「何を」


「言えなかったことを」


 アルトは黙った。


 怒りづらい返しだった。


 ルナは少し笑う。


 笑ったが、疲れていた。


「名前をつけると、見つかると言いました」


「ああ」


「でも、名前をつけなくても、近づきすぎれば見つかります」


「最悪じゃねえか」


「はい」


「じゃあ、どうしろっていうんだ」


「近づきすぎないことです」


「調べるなって話か」


「いいえ」


 ルナは首を横に振る。


「近づいたら、戻ることです」


「戻る?」


「はい」


「どこに」


 ルナは部屋を見た。


 机。


 寝台。


 窓。


 壁にかけた外套。


 そして、下の階からかすかに聞こえる鍋の音。


「ここに」


 アルトは何も言えなかった。


 ここ。


 赤猫亭。


 飯の匂いがする場所。


 誰かが皿を洗い、誰かが芋を盗み、誰かが椅子を直す場所。


 端末ではなく。


 神界ではなく。


 名前のないものでもなく。


 ここ。


「逃げ場か」


「帰る場所です」


 ルナは言った。


 その言葉に、アルトは少しだけ息を止めた。


 帰る。


 その言葉は、今は危ない。


 でも、ルナは言った。


 ゆっくりと。


 怖がりながら。


「今のは、いいのか」


「たぶん」


「たぶんか」


「神ではなく、私が言いました」


 アルトはルナを見る。


 その違いは、まだよく分からない。


 だが、ルナには大事な違いらしい。


「お前は神だろ」


「はい」


「でも、私が言った?」


「はい」


「面倒だな」


「とても」


 ルナは少しだけ笑った。


 今度は、ほんの少しだけいつもの顔だった。


 ◇


 ルナが帰った後、アルトは端末を机に置かなかった。


 寝台の脇にも置かなかった。


 部屋の入口近くの棚に置いた。


 金属片は机の上。


 手帳は閉じて、布で包んだ。


 全部を少しずつ離した。


 一緒に置くのが嫌だった。


 意味があるのかは分からない。


 でも、少しはましな気がした。


 下から、マルタの声が聞こえる。


「アルト、まだ起きてるなら水持っていきな」


「今行く」


 アルトは返事をした。


 返事をしてから、少しだけ驚いた。


 端末ではなく、声で返した。


 ただそれだけのことが、今は妙にありがたかった。


 階段を降りる。


 赤猫亭の灯りは落ちかけている。


 ブルーノは机に突っ伏している。


 ミアは椅子の上で丸くなっている。


 ガルドは工具を片づけている。


 ミナは布を畳んでいる。


 ガルムは入口のそばで外を見ている。


 マルタが水差しを渡してきた。


「顔が悪いね」


「元からだ」


「口が動くなら大丈夫だ」


「基準が雑だな」


「生きてる基準なんて、雑なくらいがいいんだよ」


 アルトは水差しを受け取った。


 冷たい。


 ちゃんと冷たい。


 マルタが鍋を片づける。


 かん。


 いつもの音がした。


 アルトはその音を聞いた。


 黒鐘ではない。


 端末でもない。


 名前のない足跡でもない。


 ただ、鍋が鳴っただけ。


 アルトは息を吐いた。


 近づいたら、戻る。


 ルナの言葉を思い出す。


 たぶん、それが今できる一番ましな方法だった。


 その夜、端末は震えなかった。


 履歴にも、何も残らなかった。


 けれどアルトは、眠る前に一度だけ棚の方を見た。


 何も起きていない。


 それを確認してから、金属片を指で軽く叩いた。


 かん。


 小さい音が、部屋の中に落ちた。


 戻る場所がある音だった。


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