第63話 名前のない投げ銭
投げ銭には、名前がつく。
普通はそうだ。
酒神バッカス。
鍛冶神ヴォルカン。
月神ルナ。
名のある神が投げ、神貨が届き、時に加護が乗る。
そこには、少なくとも形があった。
誰が。
何を。
何のために。
もちろん、神々の考える「ために」など、だいたい信用ならない。
それでも、名前はあった。
だから、ブルーノがその履歴を見つけた時、最初に言ったのはこうだった。
「気持ち悪いですね」
赤猫亭の隅。
朝食後のまだ客が少ない時間。
ブルーノは端末を卓に置き、アルトにだけ見える角度にした。
画面には、投げ銭履歴が並んでいる。
神貨。
日時。
対象配信者。
付与効果。
神名。
見慣れた項目が続く。
その中に、一行だけ、欠けたものがあった。
【神貨:一〇〇】
【対象:奈落新人アルト】
【付与効果:なし】
【送信神名:――】
【照合状態:完了】
アルトは目を細めた。
「完了してるのに、名前がないのか」
「はい」
「匿名投げ銭みたいなやつじゃないのか」
「神界配信に匿名投げ銭はありません」
「ないのか」
「ないです。神々は名前を出したがります」
「偏見じゃないのか」
「実務です」
ブルーノは嫌そうに言った。
「支援履歴は、神々にとって記録です。誰がどの配信者を見たか。何に神貨を使ったか。どの場面に反応したか。それが神格や信仰にも関係する。だから、普通は消しません」
「じゃあ、これは何だ」
「分かりません」
「またそれか」
「最近、分からないことが増えました」
ブルーノは端末を指で軽く叩いた。
「ただ、これが変なんです。神名がないのに、照合状態は完了している。付与効果なしなのに、神貨だけは届いている。しかも、あなたの配信履歴に残っている」
「いつのだ」
「第1部の終盤です」
アルトの指が止まった。
「終盤?」
「ええ」
ブルーノは履歴の日時を拡大する。
黒鐘門よりずっと前。
赤猫亭にまだ全員が揃い切っていない頃。
奈落に慣れたようで、まだ何も分かっていなかった頃。
手帳を持ち、帰還条件の通知を見て、芋を食って、神々のコメントに文句を言っていた頃。
その時間に、一行だけ、名前のない神貨がある。
「覚えてるか」
「いいえ」
「俺も覚えてない」
「一〇〇神貨なので、目立ちません」
「安いな」
「あなたの初期相場では、ありがたい金額です」
「言い方」
「事実です」
ミアが横から覗こうとした。
「お金?」
ブルーノは画面を伏せた。
「見ないでください」
「見てない。見ようとしただけ」
「それが駄目です」
「最近みんな細かい」
「昨日から細かくならないと死ぬ話が増えました」
「嫌な世の中」
ミアはそう言って、芋だけ取って去った。
ブルーノは画面を戻す。
「この履歴、普通の検索では出ません」
「じゃあ、何で出た」
「穴の形を見たからです」
「またその言い方か」
「便利なので」
「便利な言葉は危ない」
「あなたも使っています」
「使ってない」
「昨日から『まし』ばかり言っています」
「ましはいい」
「ずるい」
ブルーノは小さく息を吐いた。
それから、表情を戻す。
「昨日、旧配信記録の空白を追いました。その時、あなたの過去の支援履歴にも一箇所、同じような空白がありました。神名だけがない。けれど、処理は完了している」
「誰かが消した?」
「可能性はあります」
「神が?」
「神なら、痕跡がもう少し違うと思います」
「じゃあ」
アルトは言いかけて、止めた。
名前をつけると、見つかる。
まだ、そのルールは有効だ。
ブルーノも同じところで止まったらしい。
「神ではない誰かが、とは言いません」
「言ってるようなもんだろ」
「言ってません」
「面倒くさいな」
「面倒くさくしないと危ないんです」
ブルーノの声は軽くなかった。
◇
昼前、ルナを呼ぼうとして、アルトはやめた。
呼ぶ。
その言葉自体が、少し引っかかる。
神を呼ぶ。
名前を呼ぶ。
見つけられる。
どこからが危ないのか、分からない。
分からないなら、少なくとも今は避ける。
アルトは端末を閉じた。
代わりに、腰袋から金属片を出す。
卓に置く。
かん。
小さな音がした。
ブルーノが顔を上げる。
「それ、便利ですね」
「便利じゃない。道具だ」
「ガルドさんみたいなことを言い始めましたね」
「嫌だな」
「嫌なんですか」
「いや、悪くはない」
言ってから、アルトは少しだけ黙った。
ブルーノも何も言わない。
その言葉は、まだ軽く戻ってこない。
それでも、完全に消えたわけではないらしい。
アルトは金属片を指で押さえた。
「これを鳴らすと、少し落ち着く」
「黒鐘とは違うからですか」
「たぶんな」
「記録に残らない音ですしね」
ブルーノのその言葉に、アルトは顔を上げた。
「何だって?」
「え?」
「今の」
「記録に残らない音、ですか」
ブルーノは少し考えた。
それから、端末を開く。
「黒鐘門の音は神界記録に残ります。鐘そのものが観測装置みたいなものなので。声、悲鳴、魔物の反応、崩落音、いろいろ拾われます」
「ああ」
「でも、トマの金属片の音は、最初、記録には残っていませんでした。ミアさんが聞いた。アルトさんたちが追った。こちらの動きで初めて意味が出た」
「神々は聞いてなかった」
「聞いていたとしても、意味をつけていませんでした」
ブルーノは履歴の一行をもう一度開いた。
【付与効果:なし】
【送信神名:――】
【照合状態:完了】
「この神貨も、似ているかもしれません」
「音と投げ銭が?」
「意味をつけられていない支援です。神名がない。加護もない。だから、神々の一覧では目立たない。でも、届いている」
「誰かが、鳴らした?」
「投げた、ですね」
「どっちでもいい」
「よくはないです」
「今はいい」
アルトは画面を見る。
名前のない一〇〇神貨。
何も起こしていない。
何も付与していない。
ただ、届いた。
それだけ。
「これ、俺に何か影響あったのか」
「分かりません。付与効果なしなので、通常なら影響なしです」
「通常なら」
「はい」
ブルーノは嫌そうに言う。
「最近、通常が役に立ちません」
アルトは椅子にもたれた。
天井を見る。
赤猫亭の天井は古い。
煤で少し黒い。
そこに神界通知は流れない。
だから、少し安心する。
「一〇〇神貨って、誰でも投げられるのか」
「神なら」
「神なら、か」
「ただし、神名がない神はいません」
「いないのか」
「少なくとも、神界配信に参加できる神には」
「じゃあ、参加してない奴か」
ブルーノが黙った。
言いすぎた。
アルトも分かっている。
言葉に形がつき始めている。
その形を、誰かが見つけるかもしれない。
ブルーノは小さく首を横に振った。
「今のは、聞かなかったことにします」
「俺も言わなかったことにする」
「言いましたけど」
「便利に忘れろ」
「それは無理です」
「役に立たないな」
「覚えるのが仕事なので」
ブルーノはそう言って、画面を閉じた。
◇
ルナは夕方に来た。
呼んでいない。
呼んでいないのに来た。
それだけで、アルトは少し嫌な顔をした。
「呼んでないぞ」
「呼ばれていないので来ました」
「余計悪い」
「名前を呼ばれるより安全です」
「それはそうかもしれないけど、理屈が嫌だ」
ルナはいつもの席に座った。
今日は芋を持っていない。
かわりに、マルタが何も言わずに皿を置いた。
芋が二つ。
ルナは少し嬉しそうな顔をした。
「神への供物ですね」
「飯だよ」
マルタが言った。
「はい」
ルナは素直に頷いた。
それから、アルトを見る。
「見つけましたか」
「何を」
「名前のないものを」
アルトとブルーノは顔を見合わせた。
「お前、見てたのか」
「見ていません」
「じゃあ何で分かる」
「見られていない場所が、少し動いたからです」
「分かりにくい」
「分かりやすく言うと、危ないので」
ルナは芋を割った。
湯気が立つ。
昨日よりは、少しだけいつも通りに見える。
だが、目は笑っていない。
「神名のない神貨だ」
アルトは言った。
言っていいのか迷ったが、これは名前ではない。
欠けたものの説明だ。
ルナの手が止まる。
ほんの一拍。
「そうですか」
「知ってるな」
「見たことはあります」
「誰のだ」
「名前がありません」
「そういう返しは聞き飽きた」
「私も、言い飽きました」
ルナは芋を置いた。
「でも、本当に名前がありません。少なくとも、神々が呼べる名前は」
ブルーノが身を乗り出した。
「神ではない、ということですか」
「神ではない、と言えば形になります」
「では、神だと?」
「それも形になります」
「……面倒ですね」
「はい」
ルナは頷いた。
「だから、私は昨日から面倒な顔をしています」
アルトは端末を開かないまま聞いた。
「危ないのか」
「今すぐに、ではありません」
「その言い方は危ない時の言い方だ」
「はい」
「認めるな」
「ごまかしても、あなたは怒るでしょう」
「怒るな」
「いえ。怒る方です」
ルナは少しだけ笑った。
ほんの少し。
「神名のない神貨は、支援ではありません」
アルトの背中が、少し冷えた。
「支援じゃない?」
「少なくとも、私たちが普段言う意味の支援ではないと思います」
「じゃあ何だ」
「印に近い」
ブルーノが眉を寄せる。
「印?」
「ここにいる、と示すもの。あるいは、ここにいた、と残すもの」
「投げ銭じゃなくて、足跡か」
アルトが言うと、ルナはゆっくり頷いた。
「近いです」
「誰の」
「名前をつけないでください」
「またそれか」
「はい」
ルナの声は柔らかい。
だが、譲らない。
「それを探すなら、足跡として見てください。送り主ではなく、残った形として」
「穴の形を見る」
ブルーノが言った。
ルナは頷く。
「それが一番ましです」
「まし、か」
「便利な言葉ですね」
「危ない言葉でもある」
「ええ」
ルナは芋を口にした。
今度は、少しだけ美味しそうだった。
◇
夜、ブルーノは名前のない神貨の前後を並べた。
直接検索はしない。
その日の配信記録の周辺だけを見る。
何があった日か。
何の直後か。
誰がコメントしたか。
どの神が支援したか。
どこが欠けているか。
画面には、断片が並ぶ。
【奈落第二層:帰還条件通知後】
【手帳記録:参照あり】
【月神ルナ:視聴中】
【酒神バッカス:神貨五〇〇】
【鍛冶神ヴォルカン:神貨三〇〇】
【送信神名:――:神貨一〇〇】
【付与効果:なし】
【観測ログ:一部欠落】
アルトは、そこから目を離せなかった。
「帰還条件通知後」
「はい」
「手帳を見た日か」
「おそらく」
「その後に、名前のない神貨」
「はい」
ブルーノは次の行を開く。
【関連語:帰――】
【関連語:――迎えではない】
【関連語:照合不可】
手帳と同じ断片。
アルトの胸が鳴る。
心臓ではない気がした。
もっと奥。
昨日からずっと引っかかっている場所。
「繋がってるな」
「繋がっている、とはまだ言えません」
「じゃあ、隣にある」
「それなら言えます」
ブルーノは画面を少し引く。
直接の答えはない。
あるのは、隣り合った空白だけ。
手帳。
帰還条件。
迎えではない。
名前のない神貨。
おかえりなさい。
どれも名前を呼べば危ない。
でも、呼ばなくても、形は見えてくる。
「第七層到達者の記録は?」
アルトが聞く。
「まだ触っていません」
「触らない方がいいか」
「今は」
「だよな」
ブルーノは小さく頷いた。
「ただ、一つだけ」
「何だ」
「名前のない神貨は、この一回だけではありません」
アルトは顔を上げた。
「他にもあるのか」
「少なくとも、三件」
「俺に?」
「一件はあなた。残り二件は、旧配信記録です」
「名前は」
ブルーノは首を横に振る。
「出しません」
「出すな」
「はい」
画面に二行だけ表示される。
【旧配信記録:第七層到達者】
【送信神名:――:神貨一〇〇】
もう一行。
【旧配信記録:同行者欠落】
【送信神名:――:神貨一〇〇】
アルトは息を止めた。
同じ金額。
同じ欠落。
同じ足跡。
「これ、投げ銭じゃないな」
アルトが言う。
ルナの言葉が戻る。
支援ではない。
印に近い。
ここにいる。
ここにいた。
誰かが、三人に同じ印をつけた。
あるいは、三人のそばに同じ足跡が残った。
アルト。
第七層到達者。
同行者。
名前を出さなくても、分かってしまう。
分かってしまうことが、怖い。
ブルーノは端末を閉じた。
その動きは、昨日より早かった。
「今日はここまでです」
「同感だ」
「珍しいですね」
「俺でも分かる時は分かる」
「分かると危ない時もあります」
「だからやめるんだろ」
「はい」
店の奥で、鍋が鳴った。
かん。
アルトは反射で顔を上げる。
黒鐘とは違う音。
それでも、何かを知らせる音。
マルタが厨房から顔を出した。
「飯、冷めるよ」
「今行く」
アルトは立ち上がった。
腰袋の中で、金属片が少し揺れた。
音は鳴らない。
でも、そこにある。
◇
その夜。
アルトは自分の部屋で、端末を開かなかった。
手帳も開かなかった。
金属片だけを机に置いた。
名前のない神貨。
支援ではない投げ銭。
足跡。
印。
帰還条件通知後。
手帳。
迎えではない。
考えれば考えるほど、言葉が形を持ちそうになる。
だから、考えるのをやめる。
やめようとした。
もちろん、やめられない。
窓の外では、赤猫亭の看板が夜風に揺れている。
遠くで誰かが笑う声がした。
神界コメントではない。
ただの通りの声。
アルトはそれを聞いた。
聞いてから、少しだけ安心した。
机の上の金属片を指で弾く。
かん。
小さな音が部屋に落ちる。
誰にも届かない。
神々にも、たぶん。
でも、アルトには聞こえた。
それで今は十分だった。
その時、閉じた端末が一度だけ震えた。
通知音はない。
画面も光らない。
ただ、震えた。
アルトは端末を見た。
開かない。
開かないまま、手を伸ばす。
端末の端に触れる。
冷たい。
何も表示されない。
それでも、指先に妙な感覚が残る。
誰かが投げたのではない。
誰かが呼んだのでもない。
ただ、そこに足跡がついたような。
アルトは端末から手を離した。
「……名前はつけない」
小さく言った。
部屋の中で、金属片だけが黙っていた。




