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第62話 名前をつけない探し物

 調べるな、と言われると、調べたくなる。


 人間とはそういうものだ。


 少なくとも、アルトはそうだった。


 だが、調べるなと言ったのが神様で、その理由が「神々に見つかるから」だった場合、少し話が変わる。


 翌朝。


 赤猫亭の隅の席で、アルトは端末を前に固まっていた。


 検索欄は空白。


 指は、その上で止まっている。


 打とうと思えば打てる。


 昨日見た文字。


 おかえりなさい。


 その七文字を打てばいい。


 たぶん、何かは出る。


 何も出なくても、何も出なかったという情報は残る。


 けれど、その瞬間、誰かが見る。


 神々は、見つけるのが得意です。


 ルナの声が耳に残っている。


 アルトは指を引っ込めた。


「何してるんですか」


 ブルーノが、向かいから覗き込んでいた。


 目の下の色は昨日より少しましだ。


 ましなだけで、まだひどい。


「何もしてない」


「検索欄を前に、何もしてない顔ではないです」


「見せるな」


「見てません。見えました」


「その違い、昨日から便利に使いすぎだろ」


「便利な言葉は危ないんじゃなかったですか」


「お前が言ったんだろ」


「だから言ってます」


 ブルーノは空の検索欄を見た。


 そこには本当に何もない。


 何もないのに、二人ともその空白を見ている。


 少し気持ち悪い。


「打たないんですか」


「打てない」


「理由は?」


「名前をつけると、神々が見つけるらしい」


 ブルーノの顔から、寝不足のゆるさが消えた。


 彼はすぐに端末を閉じなかった。


 その代わり、画面の角度を変えた。


 店の外から見えない向きに。


「ルナ様が?」


「ああ」


「いつ」


「昨日」


「もっと早く言ってください」


「名前をつけると見つかるって話を、どうやって名前をつけずに言えばいいんだよ」


 ブルーノは口を閉じた。


 少し考える。


「……厄介ですね」


「ああ」


「神界側の検索やタグは、言葉に反応します。祈り、願い、固有名、称号、配信名。強い言葉ほど拾われやすい」


「お前、そういうの知ってたのか」


「仕事ですから」


「怖い仕事だな」


「昨日までは便利な仕事だと思ってました」


 ブルーノは端末を見た。


 自分のものを開く。


 ただし、検索欄ではない。


 削除申請履歴。


 非表示コメント。


 拡散元一覧。


 昨日から見続けている後片づけの画面だった。


「調べないで調べる方法はあります」


「あるのか」


「あります。おすすめはしません」


「言え」


「探す言葉を打たずに、周囲の揺れを見る」


「もっと分かるように」


「川に石を投げずに、水面の波だけ見る感じです」


「分かりそうで分からん」


「こちらから名前を呼ばず、勝手に引っかかってくるものを見るんです」


 ブルーノは指を動かす。


 検索欄には触らない。


 代わりに、昨日以降の自動照合ログ、非表示になった古い関連語、神界側で一瞬だけ紐づきかけたが確定しなかった断片を並べた。


「これなら、こちらから呼んではいません」


「見つからないのか」


「保証はしません」


「昨日からそればっかりだな」


「保証できることが減りました」


 ブルーノは淡々と言った。


 その声には、自虐が少しだけ混じっている。


 画面に、いくつかの断片が並ぶ。


【帰還条件:照合未完了】


【旧記録:表示制限】


【観測外処理:権限不足】


【該当配信者:――】


 最後の行で、ブルーノの指が止まった。


 名前は出ていない。


 伏せ字ですらない。


 ただ、削られたような空白がある。


「何だこれ」


「分かりません」


「分かってそうな顔をするな」


「分かっていたら、もっと嫌な顔をしています」


「今も十分嫌な顔だぞ」


「これは、仕事の顔です」


 ブルーノは一つだけログを開いた。


 開いたと言っても、本文はほとんどない。


 欠けた記録。


 黒く塗り潰された行。


 読ませる気のない表示。


 その中に、一箇所だけ読める文字があった。


【手帳】


 アルトは息を止めた。


 思い当たるものは、一つしかない。


 言葉にしそうになって、止める。


 名前をつけると、神々は見つける。


 アルトは、別の言い方を探した。


「あの、古いやつか」


 ブルーノは頷いた。


「たぶん」


「たぶんか」


「名前を出さない方がいいんでしょう?」


「ああ」


「じゃあ、たぶんです」


 二人の間に、変な沈黙が落ちた。


 ミアが通りかかり、皿の上の芋を見て、取ろうとして、二人の顔を見てやめた。


「何? 悪い芋?」


「芋は悪くない」


「じゃあ、悪い顔」


「お前は芋だけ見てろ」


「芋だけ見てると怒るくせに」


 ミアは不満そうに言いながら、結局一つ取っていった。


 少しだけ、場の息が戻る。


 ブルーノは画面を閉じた。


「続きは、ここではやめた方がいいです」


「赤猫亭でも駄目か」


「店が駄目というより、今は言葉が駄目です」


「面倒だな」


「はい」


「でも、無視はできない」


「はい」


 ブルーノは端末を伏せる。


「調べるなら、名前を出さずに。検索せずに。神界側に波を立てずに。あと、できれば一人でやらないでください」


「一人の方が楽だろ」


「一人だと、見つかった時に消せません」


「俺が?」


「あなたを」


 アルトは黙った。


 軽い冗談にして逃げようとしたが、ブルーノの顔がそれを許さなかった。


 昨日から、この男は時々こういう顔をする。


 見せないために見る者の顔。


「消される話か」


「分かりません」


「またそれか」


「分からないから、怖いんです」


 ブルーノはそう言って、冷めかけたスープを飲んだ。


 ◇


 昼過ぎ、アルトは部屋に戻った。


 赤猫亭の二階。


 狭い部屋。


 机と寝台と、壁にかけた外套。


 特別なものはない。


 だから落ち着く。


 アルトは腰袋から金属片を出した。


 机に置く。


 かん、と鳴った。


 小さい。


 黒鐘とは違う。


 それから、古い手帳を取り出した。


 最初に拾った時より、何度も開いている。


 紙の端は少し柔らかくなり、指に馴染み始めていた。


 書かれている文字。


 欠けた記録。


 途中で途切れた線。


 知らない誰かの足跡。


 アルトは表紙に触れた。


 名前は言わない。


 呼ばない。


 ただ、開く。


 ページをめくる。


 以前読んだ箇所。


 奈落の地形。


 魔物の特徴。


 配信者用の注意。


 神々の反応についての雑なメモ。


 そして、最後の方。


 文字が薄くなっている場所。


 前は、ただの滲みに見えた。


 今も、ほとんど読めない。


 ただ、一行だけ。


 前よりも、少し引っかかる。


 読めるわけではない。


 目が勝手にそこへ戻る。


 アルトは指でなぞった。


 紙の表面が、少しざらついている。


 インクが削れた跡。


 誰かが書いて、消した。


 いや。


 消されたのかもしれない。


 そこに、かすれた文字があった。


 帰――


 その先は読めない。


 次の行に、別のかすれ。


 ――迎えではない


 アルトは眉を寄せた。


「迎えではない……?」


 口に出してから、しまったと思った。


 部屋の空気が、ほんの少し硬くなる。


 端末は開いていない。


 神界通知もない。


 それなのに、どこかで何かが顔を上げた気がした。


 アルトは手帳を閉じた。


 早すぎるくらいに。


 机の上の金属片が、また小さく鳴った。


 かん。


 誰かが答えたわけではない。


 ただ、手が当たっただけだ。


 それでも、呼吸が戻る。


「名前じゃないだろ」


 アルトは小さく言った。


 自分に言い聞かせるように。


「まだ、名前じゃない」


 それでも、部屋の空気はしばらく戻らなかった。


 ◇


 夕方、ルナは窓から入ってきた。


 扉ではない。


 窓だ。


 白い光がふわりと差し込み、気づいたら窓枠に座っていた。


 アルトは顔をしかめた。


「扉を使え」


「神なので」


「便利に使うな」


「便利ですから」


 ルナは窓枠から降りた。


 手には芋を持っている。


 どこから持ってきたのかは聞かない。


 聞くと面倒になる。


 ルナは机の上の手帳と金属片を見た。


 それから、アルトを見る。


「開きましたか」


「少し」


「名前は?」


「出してない」


「なら、まだ大丈夫です」


「まだ?」


「はい」


 ルナは椅子に座らず、机の横に立ったままだった。


 落ち着かないのは、アルトだけではないらしい。


「手帳に、前は見えなかった文字があった」


「何と?」


「言っていいのか」


 ルナは少し黙った。


「言葉によります」


「帰、のあとが読めない。あと、迎えではない、みたいな文字」


 ルナの指が、芋の皮に食い込んだ。


 ほんの少し。


 でも、アルトは見た。


「知ってるのか」


「知っている、とは言えません」


「知らない、とも言えない顔だな」


「面倒な顔をしていますか」


「ああ」


「では、正しい顔です」


 ルナはようやく椅子に座った。


 芋を机に置く。


 食べない。


「迎えではない」


 ルナは小さく繰り返した。


 その声は、神託というより、昔の傷に触れた人間の声に近かった。


「それは、あの言葉の近くにあるはずです」


「あの言葉?」


 ルナはアルトを見る。


 口にしてはいけない。


 そういう目だった。


 アルトは舌打ちしそうになって、やめた。


「じゃあ、あれか」


「はい」


「おか――」


 言いかけた瞬間、ルナの手が伸びた。


 アルトの口を塞ぐ。


 芋の匂いがした。


「言わないでください」


 声が低かった。


 本気だった。


 アルトは頷いた。


 ルナの手が離れる。


「悪い」


「いえ」


「そんなに駄目か」


「今は、駄目です」


「昨日は言っただろ」


「昨日は、向こうから滲みました。こちらから呼ぶのとは違います」


「呼ぶとどうなる」


「見つかります」


「神々に」


「神々にも」


 アルトは聞き逃さなかった。


「にも?」


 ルナは答えない。


 窓の外を見る。


 夕方の空が赤い。


 赤猫亭の屋根の向こうで、鳥が一羽飛んでいく。


「神々以外にも、見つけるものがいるのか」


「まだ、名前をつけない方がいいです」


「それ、便利すぎるだろ」


「便利ではありません」


 ルナは首を横に振った。


「怖いだけです」


 その一言で、アルトは何も言えなくなった。


 ルナが怖いと言う。


 それは、少しだけ重い。


 かなり重い。


 ルナは芋を手に取った。


 今度は食べた。


 小さく。


 いつものように美味しそうには見えない。


「昔、見つけるのが得意だったと言ったな」


 アルトが言う。


 ルナの動きが止まる。


「昨日」


「言いました」


「昔って、いつだ」


「昔です」


「答えになってない」


「答えにすると、名前がつきます」


「何でもそれで逃げるな」


「逃げています」


 ルナは認めた。


 あっさりと。


「今は、逃げた方がいいです」


 アルトは机の手帳を見る。


 逃げる。


 調べない。


 名前をつけない。


 それは、アルトが得意ではないことばかりだった。


 元の世界でも、嫌なことほど調べた。


 分からないものほど、理由を探した。


 逃げた結果、潰れたこともある。


 だから、分からないまま置いておくのが苦手だ。


 でも。


 昨日、名前を流されたユラの顔を思い出す。


 見つけられたくないものはある。


 見つけてはいけないものもある。


 アルトは手帳を閉じたまま、手を置いた。


「分かった。今は、名前をつけない」


 ルナの肩が、ほんの少し下がった。


「ありがとうございます」


「その代わり、隠してることは数えるからな」


「数えるのが好きになりましたね」


「好きじゃない」


「では、得意に?」


「もっと嫌だ」


 ルナは少しだけ笑った。


 やっと、いつもの欠片が戻った。


 ◇


 夜、アルトは赤猫亭の下へ降りた。


 店はもう閉まりかけている。


 ブルーノはまだ端末と戦っていた。


 ミナは薬草を仕分けている。


 ミアは寝ているふりをして、薄目で芋を狙っている。


 ガルドは椅子の脚を直している。


 マルタは鍋を洗っている。


 音がいくつもある。


 端末の小さな振動。


 椅子を削る音。


 水の音。


 芋を包む紙の音。


 どれも黒鐘ではない。


 どれも神界の通知ではない。


 アルトは卓に座った。


 ブルーノが顔を上げる。


「何か分かりました?」


「名前をつけない方がいいことが増えた」


「嫌な成果ですね」


「ああ」


「手帳ですか」


「ああ」


 ブルーノは頷いた。


 それ以上は聞かなかった。


 昨日なら聞いていたかもしれない。


 今は、聞かない。


 その変化が少しありがたかった。


「探し方を変えます」


 ブルーノが言った。


「どう変える」


「言葉を追わずに、欠けた場所を追います」


「また分かりにくい」


「消されたものは、周囲の形で分かる時があります。穴の形を見るんです」


「穴を見る」


「はい」


 ブルーノは端末の画面を少しだけ見せた。


 直接の名前はない。


 ただ、古い配信記録の空白。


 表示制限された行。


 神界側で不自然に短くなっているログ。


 その中に、一つだけ、番号があった。


【旧配信記録:第七層到達者】


 名前はない。


 顔もない。


 ただ、到達階層だけ。


 アルトの胸が、少しだけ鳴った。


 誰かの名前が、そこにない。


 ないのに、いる。


 トマの金属音に似ていた。


 見えない。


 でも、いる。


「こいつか」


 アルトが言う。


「たぶん」


 ブルーノが答える。


「名前は」


「出しません」


「よし」


「ただ、もう一つ」


 ブルーノは別の行を示した。


【同行者記録:欠落】


 アルトは息を止めた。


 二人。


 名前を出さなくても、分かってしまう。


 手帳の持ち主。


 その同行者。


 帰れなかったのか。


 帰らなかったのか。


 迎えではない、とは何なのか。


 おかえりなさいは、誰に向けた言葉なのか。


 疑問が並ぶ。


 並ぶだけで、どれもまだ名前を持っていない。


 アルトは金属片を握った。


 冷たい。


 でも、指の中に収まる。


「今は、ここまでだ」


 アルトが言った。


 ブルーノは頷く。


「はい」


 端末を閉じる。


 画面が消える。


 その瞬間、店の奥で鍋が鳴った。


 かん。


 アルトは顔を上げた。


 黒鐘とは違う音。


 昨日より、もっとはっきり分かる。


 マルタが厨房から言った。


「飯、食うかい」


 アルトは少し迷ってから、答えた。


「食う」


 名前をつけない探し物は、まだ続く。


 でも、腹は減る。


 それだけは、神々に見つけられなくても分かることだった。


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