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第61話 神回の後片づけ

 翌朝、ブルーノは死んでいた。


 少なくとも、机の上ではそう見えた。


 赤猫亭の隅の席に突っ伏し、片腕だけが端末の横に伸びている。


 端末は開いたまま。


 画面には、削除申請一覧と、関連タグの監視画面と、神界コメントの非表示履歴が並んでいた。


 アルトはその横に立った。


「生きてるか」


 机から声がした。


「消してます」


「生きろ」


「消してからにします」


「順番を間違えるな」


 ブルーノは顔を上げない。


 髪は乱れている。


 目の下は暗い。


 昨夜からほとんど寝ていないのだろう。


 マルタが厨房から皿を持ってきた。


 焼いた黒パンと、芋と、少し濃いめのスープ。


「食べな」


「今、手が」


「食べな」


「はい」


 ブルーノは反射で起き上がった。


 マルタの二度目は強い。


 たぶん、黒鐘より強い。


 ブルーノは匙を取った。


 端末から目を離さずに食べようとして、マルタに睨まれる。


 画面を伏せた。


「よし」


 マルタはそれだけ言って戻っていく。


 アルトは向かいに座った。


「どれくらい残ってる」


「消せたものですか。消せないものですか。見つけてないものですか」


「聞き方を間違えたな」


「全部です」


 ブルーノはスープを飲む。


 熱かったらしく、少し顔をしかめた。


「旧名そのものは広がり切っていません。ただ、一部の神が見ています。切り抜き化しようとしたものは、今のところ大半を止めました」


「大半」


「全部とは言えません」


「だろうな」


「でも、増やさないことはできます」


 ブルーノは端末を見た。


 すぐには触らない。


「少なくとも、増やす側には回りません」


 アルトは頷いた。


「それでいい」


「よくはないです」


「じゃあ、ましだ」


「最近そればっかりです」


「便利だからな」


「便利な言葉は、危ないですよ」


「使ってる奴が言うな」


 ブルーノは少しだけ笑った。


 笑ったというより、目元だけが崩れた。


 それでも、昨夜よりはましだった。


 ◇


 ユラからの返信は、昼前に来た。


 宛先はミナだった。


 ミナは一度読んで、少し迷ってからアルトに見せた。


 文章は短い。


《今日は行きません》


《でも、昨日より息はできます》


《トマさんの音が、まだ耳に残っています》


《それは嫌じゃありません》


 アルトは画面を見た。


 何度か読み返した。


 それから返す。


「よかった、でいいのか」


 ミナは首を横に振る。


「よかった、だけではないと思います」


「だよな」


「でも、悪いだけでもないです」


「面倒だな」


「はい」


 ミナは少しだけ笑った。


「でも、生きている人の面倒さです」


 アルトは黙った。


 それは、たぶん悪くない言葉だった。


 言わないでおいた。


 今、その言葉を使うには、まだ喉が重い。


 ミナは返信を書き始める。


 何度も消して、また書く。


 その手つきは治療の時と似ていた。


 急がない。


 必要なところだけ触る。


 余計なことはしない。


「何て返すんだ」


 アルトが聞く。


「今日は、そこまでで大丈夫です、と」


「昨日と同じだな」


「同じでいい日もあります」


 ミナは送信した。


 すぐに返事は来なかった。


 それでよかった。


 返事がすぐ来ないことに、少し安心する日もある。


 ◇


 トマは救助組合の治療室にいる。


 ラウドから、昼過ぎに連絡が来た。


 声ではなく文章だった。


《トマ、声はまだ出ない》


《足は固定済み》


《金属片は持ったまま》


《朝、三回鳴らした》


 最後の一行で、ミアが笑った。


「元気じゃん」


「元気か?」


「三回鳴らせるなら元気」


「基準が雑だな」


「生きてる音は多い方がいい」


 ミアはそう言って、芋を一つ取った。


 アルトはラウドへ返す文章を考える。


 長いものは浮かばない。


 短すぎても違う気がする。


 結局、こう返した。


《うるさくしてろと伝えてください》


 少しして、ラウドから返事が来る。


《伝えた》


《鳴らされた》


《うるさい》


 アルトは少しだけ息を吐いた。


 笑ったわけではない。


 ただ、胸の詰まりが少しずれた。


 ガルドが横から言った。


「金属片、まだ持ってるか」


「トマが?」


「お前だ」


 アルトは腰袋に手を入れる。


 昨夜、ガルドから渡された小さな金属片がある。


 黒鐘門で使ったもの。


 師匠の留め具と同じ古い鉄。


 端が曲がっている。


「持ってる」


「失くすな」


「お守りか」


「道具だ」


「何に使う」


「分からん」


「分からんものを持たせるな」


「使う時に分かればいい」


 ガルドはそれ以上言わない。


 アルトは金属片を腰袋へ戻した。


 軽い。


 でも、ないより重い。


 そういうものだった。


 ◇


 昼を過ぎると、神界の反応が少し変わった。


 黒鐘門救助の切り抜きは、まだ流れている。


 レオンの剣。


 アルトの砕打。


 黒鐘の補正。


 救助成功。


 神回。


 その言葉は、消しても消しても出てくる。


 ただ、ブルーノが徹夜で消したせいか、ユラの旧名を直接扱うものは減っていた。


 ゼロではない。


 ゼロにはならない。


 それでも、減っている。


 ブルーノは端末を見ながら言った。


「消す仕事って、人気ないですね」


「だろうな」


「誰も褒めない」


「だろうな」


「見えませんからね」


「だろうな」


「もう少し慰めるとかありません?」


「皿を割らなかったのは偉い」


「そこですか」


「大事だろ」


「大事ですけど」


 ブルーノは渋い顔をしながら、また一つ申請を送った。


「でも、これをしないと、増えます」


「分かってる」


「覚えてる神はいます」


「ああ」


「それは消せません」


「ああ」


「でも、増やすかどうかは別です」


 その言葉を、ブルーノは昨日から何度も言っている。


 たぶん、自分にも言っている。


 アルトは端末を見なかった。


 代わりに、店の扉の方を見た。


 今日は誰も派手に入ってこない。


 レオンも来ない。


 セシリアも来ない。


 ユラも来ない。


 それでいい。


 来ないことが、救いになる日もある。


 ◇


 夕方、ルナが赤猫亭に来た。


 いつものように、唐突だった。


 白い光が店の隅に落ち、そこから小さな姿が現れる。


 ミアが芋を隠す。


「盗ってない」


「まだ何も言っていませんよ」


「目が言ってた」


「私は女神です。目くらい言います」


「ずるい」


 ルナはミアから芋を一つ取り返し、アルトの前に座った。


 今日は、いつもの調子に見える。


 けれど、少しだけ遅い。


 言葉の出方が。


 笑うタイミングが。


 アルトはそれに気づいた。


「どうした」


「何がですか」


「遅い」


 ルナは瞬きをした。


「私は古い女神なので、少し遅いくらいが品です」


「ごまかすな」


「ごまかされてください」


「嫌だ」


 ルナは芋を両手で持ったまま、少しだけ黙った。


 その沈黙は、昨日の黒鐘門のものとは違う。


 軽い沈黙ではない。


 でも、重さを隠そうとしている沈黙だった。


「黒鐘門救助、お疲れ様でした」


「ああ」


「全員、生きて戻りました」


「ああ」


「すごいことです」


「そうだな」


「でも、あなたはそういう顔をしていません」


 アルトは返事をしなかった。


 ルナは芋を置く。


「神々は騒いでいます」


「知ってる」


「レオン様の剣も、あなたの砕打も、ブルーノさんの判断も、ミナさんの処置も、たくさん語られています」


「ユラの名前もか」


 ルナは目を伏せた。


「……一部では」


「そうか」


「ブルーノさんがかなり止めています」


「知ってる」


「それでも、残ります」


「それも知ってる」


 ルナは小さく息を吸った。


「知っていても、嫌なものは嫌ですね」


「ああ」


「神でいると、時々それを忘れます」


 アルトはルナを見る。


 ルナは笑っていなかった。


「見えたものを、すべて意味にしてしまう。見えたから、語っていいと思ってしまう。見たから、知った気になってしまう」


「お前もか」


「私もです」


 ルナは認めた。


 迷わず。


「だから、昨日のあなたの怒りは、少し痛かったです」


「お前に怒ったわけじゃない」


「でも、こちら側に刺さりました」


 こちら側。


 神々の側。


 ルナは自分を、そこに置いた。


 当たり前のことなのに、アルトは少しだけ嫌だった。


「お前は、あいつらと同じなのか」


 口にしてから、きつい言い方だったと思った。


 ルナは怒らない。


 ただ、芋を見た。


「同じではありません、と言えたら楽です」


「言えないのか」


「神ですから」


 ルナは芋を割った。


 湯気はもう出ない。


「でも、同じで終わりたくはありません」


 アルトは何も言えなかった。


 ルナが続ける。


「昨日、最後に何かを見ましたか」


 アルトの指が止まった。


 端末の端。


 冷めたスープ。


 帰還条件。


 ノイズのように滲んだ文字。


【おかえりなさい】


 喉の奥が少し重くなる。


「何かって?」


 アルトは聞き返した。


 ルナはアルトを見た。


 見抜いているのか。


 確認しているのか。


 分からない。


「分からないなら、今はそれでいいです」


「知ってるのか」


「全部は知りません」


「一部は?」


 ルナは答えなかった。


 答えないことが、答えに近かった。


 アルトは端末を見ない。


 昨日から、何度も思い出している。


 あの文字。


 おかえりなさい。


 あれは、自分に向けられたものなのか。


 それとも。


 アルトは考えるのをやめた。


 やめたつもりだった。


 やめられていないことも分かっていた。


 ルナは小さく言った。


「すぐに追いかけない方がいいものもあります」


「それ、神様っぽい忠告か」


「少しだけ」


「なら聞きたくないな」


「でしょうね」


 ルナはようやく、少し笑った。


 いつもの笑いより、薄い。


 それでも、笑った。


 ◇


 その夜、赤猫亭は早めに閉まった。


 誰も文句を言わなかった。


 マルタが言う前に、カイとリリが椅子を上げた。


 ガルドが壊れかけた脚を見て、黙って工具を出した。


 ミアは芋を二つ盗もうとして、一つだけ戻した。


 ルナはそれを見て、何も言わずに一つ没収した。


「一つ戻したのに」


「一つ盗っています」


「厳しい」


「女神なので」


「便利だな、女神」


「あなたほどではありません」


 少しだけ笑いが起きた。


 本当に少しだけ。


 それで十分だった。


 アルトは店の入口から外を見る。


 通りには、夜の風が流れている。


 黒鐘門の匂いはしない。


 それなのに、耳の奥にはまだ残っている。


 黒鐘の音。


 トマの金属片。


 赤猫亭の鍋。


 いくつもの、かん。


 アルトは腰袋に手を入れた。


 金属片に触れる。


 冷たい。


 でも、昨日より少しだけ手に馴染んでいる。


 ルナが横に立った。


「持っているんですね」


「ああ」


「お守りですか」


「道具らしい」


「何の」


「分からん」


「では、分かるまで持つしかありませんね」


「ガルドみたいなこと言うな」


「良い職人の言葉は、神にも刺さります」


 アルトは空を見上げた。


 神界のコメントは見えない。


 端末を開かなければ。


 それでも、見られている気配はある。


 昨日より、少しだけ重い。


「なあ」


「はい」


「昨日の文字」


 ルナは黙った。


 アルトは続ける。


「見間違いじゃないよな」


 風が通る。


 赤猫亭の看板が小さく揺れた。


 ルナは、すぐには答えなかった。


 少ししてから言った。


「見間違いなら、よかったですね」


「よくないだろ」


「いいえ」


 ルナは空を見た。


「見間違いなら、まだただの疲れで済みました」


 アルトは息を吐いた。


 やっぱり、そういう話らしい。


「じゃあ、何なんだ」


「まだ、名前をつけない方がいいです」


「またそれか」


「名前をつけると、神々は見つけます」


 アルトはルナを見る。


 ルナの顔は、いつもの女神の顔ではなかった。


 どこか遠くを見ている。


 遠すぎる場所を。


「神々は、見つけるのが得意です」


「お前も神だろ」


「はい」


「じゃあ、お前も見つけるのが得意か」


「昔は」


 その言い方が、少しだけ引っかかった。


 昔は。


 アルトが聞き返す前に、ルナは芋を一口かじった。


「今日はここまでです」


「逃げたな」


「神なので」


「便利だな、本当に」


「ええ」


 ルナは笑った。


 今度は少しだけ、いつもの笑いに近かった。


「便利で、厄介です」


 アルトはもう一度空を見る。


 何も出ていない。


 文字もない。


 通知もない。


 ただ、昨日の一行だけが、頭の奥に残っている。


【おかえりなさい】


 それが誰に向けられた声なのか。


 まだ分からない。


 分からないまま、赤猫亭の奥で鍋が小さく鳴った。


 かん。


 アルトは振り返る。


 黒鐘とは違う音だった。


 その違いだけは、今は分かった。


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