第60話 悪くない、とは言えなかった
赤猫亭に戻った時、通りの店はほとんど灯りを落としていた。
窓の外に人影は少ない。
赤猫亭の明かりだけが、石畳に四角く落ちている。
マルタは何も聞かなかった。
ただ、鍋に火を入れ直し、皿を並べた。
スープ。
焼いた黒パン。
芋。
いつもの飯だった。
いつも通りに見えた。
でも、椅子に座る音が、いつもより少なかった。
カイもリリも、今日はよく喋らない。
ガルムは壁際で腕を組み、目を閉じている。
ガルドは工具袋を足元に置いたまま、手の汚れを落としていた。
ミアは卓の端で、芋を転がしている。
食べるでもなく、遊ぶでもなく。
ただ、指で転がしていた。
アルトは席についた。
目の前にスープが置かれる。
湯気が上がる。
黒鐘門の黒い粉の匂いではなく、芋と塩と肉の匂いだった。
それだけで、少しだけ体が戻ってくる。
マルタが言う。
「食いな」
「今は」
「食いな」
二度目は、少し低かった。
アルトは匙を持った。
スープを口に運ぶ。
熱い。
ちゃんと熱い。
それで、自分がまだ息をしていることを思い出した。
向かいの席に、ブルーノが座っている。
端末は閉じたまま。
いつもなら何かしら確認している男が、今日は触ろうとしない。
いや、触りたそうにはしている。
指が何度か端末の端へ動き、そのたびに戻ってくる。
「見ないのか」
アルトが聞く。
ブルーノは端末を見た。
それから、見ないまま答える。
「見た方がいいです」
「だろうな」
「神回タグの伸び。旧名拡散の状況。切り抜きの削除依頼。どの神が何を言ったか。全部見た方がいい」
「じゃあ、見ろよ」
「今見たら、たぶん皿を割ります」
マルタが厨房から言った。
「皿は割るな」
「努力します」
「努力じゃ足りないよ」
ブルーノは小さく頭を下げた。
「じゃあ、割りません」
そう言ってから、端末を裏返した。
画面を下にする。
それだけの動きに、やけに時間がかかった。
◇
神界通知は、閉じていても来た。
小さな振動。
短い音。
ブルーノの端末。
アルトの端末。
レオンから共有された共同配信の評価通知。
全部が、卓の上で鳴った。
誰もすぐには取らない。
マルタの鍋だけが奥で鳴っている。
くつ。
くつ。
煮える音。
黒鐘門の音ではない。
けれど、耳の奥が勝手に黒鐘を思い出す。
アルトは端末を開いた。
開かないつもりだった。
でも、開いた。
逃げたままで終わらせるのも違う気がした。
【黒鐘門救助:成功】
【救助対象:全員生存】
【共同配信評価:大幅上昇】
【個人投げ銭補正:上昇】
【奈落新人アルト:ランキング上昇】
【剣聖レオン:戦闘評価更新】
【神回認定:継続拡散中】
文字は整っていた。
何も間違っていない。
全員生きている。
救助は成功した。
評価は上がった。
ランキングも上がった。
帰還条件に近づいたのかもしれない。
数字だけなら、これ以上ない結果だった。
アルトは画面を指で押さえた。
神回認定。
その文字だけが、他より少し濃く見える。
気のせいだ。
たぶん。
ミアが横から覗こうとして、やめた。
「いいやつ?」
「数字だけならな」
「数字じゃないやつは?」
「黒い」
「黒鐘門だから?」
「たぶん違う」
ミアは芋を転がすのをやめた。
「じゃあ、嫌な黒」
「ああ」
アルトは端末を閉じた。
今度は、自分の意思で。
◇
ラウドから連絡が来たのは、食事の途中だった。
文章ではなく、短い音声だった。
ブルーノが再生していいか確認するように、アルトを見た。
アルトは頷く。
端末から、ラウドの声が流れた。
《全員、生きている》
そこで一度、息を吸う音が入った。
《トマの足は折れているが、残る。声はまだ戻らない。医者は、黒い粉を吸い込みすぎたせいだと言っている。時間はかかるが、戻る可能性はある》
店の中で、誰も喋らない。
《トマは、金属片を離さない。取り上げようとしたら、怒った。声は出ないのに、怒った》
マルタが小さく息を漏らした。
笑ったのかもしれない。
《あいつが鳴らした音を、聞いてくれてありがとう》
音声はそこで終わった。
再生後の沈黙に、鍋の音が戻ってくる。
ブルーノは端末を伏せた。
アルトはスープを見た。
表面に小さな油が浮いている。
丸い。
黒鐘の波とは違う。
「怒ったらしいぞ」
ミアが言った。
「トマが」
「ああ」
「声出ないのに」
「うるさい奴だな」
アルトが言うと、ミアは少しだけ笑った。
「いいじゃん」
「いいのか」
「生きてるって、うるさい方がいいんでしょ」
その言葉に、アルトは匙を止めた。
ユラの言葉だ。
神界には流れていないはずの言葉。
それが、もう赤猫亭の中では回っている。
いい話にできそうで、できなかった。
まだ、喉の奥に黒鐘の音が残っている。
◇
ユラからの連絡は、ブルーノ宛に来ていた。
文章は短かった。
ブルーノは読み上げようとして、止まった。
「読んでいいか、聞いてからにします」
アルトは頷いた。
「そうしろ」
数分後、返信が来た。
ブルーノはそれを見て、小さく頷く。
「読んでいいそうです」
端末を置き、文字だけを表示する。
映像はない。
声もない。
名前の表示も、ブルーノが手動で消している。
ただ、本文だけ。
《まだ嫌です》
一行目で、誰も動かなかった。
《でも、生きています》
二行目。
《トマさんの音は、聞こえました》
三行目。
《今日は、そこまででいいです》
それだけだった。
ブルーノは画面を閉じた。
しばらく、誰も何も言わなかった。
マルタが皿を一枚、卓に置く。
こと、と小さく鳴った。
「飯が食えるなら、今日はそこまででいい」
マルタが言った。
誰に向けた言葉なのか、分からなかった。
ユラか。
トマか。
アルトか。
ブルーノか。
全員か。
アルトはスープをもう一口飲んだ。
熱さが少し落ちていた。
でも、冷めきってはいない。
◇
ブルーノは食事の後、端末を開いた。
開きたくなさそうだった。
だが、開いた。
「削除申請を出します」
アルトが見る。
「旧名の?」
「はい。全部は無理です」
「分かってる」
「消せるものから消します」
「消せないものは」
「残ります」
ブルーノは言った。
正直だった。
「残るけど、放っておくよりはましです」
「まし、か」
「最近、そればっかりです」
「悪くないよりは使いやすいな」
ブルーノは答えなかった。
アルトも、それ以上は言わなかった。
ブルーノは端末に向き直る。
指が動き始めた。
削除申請。
拡散元の確認。
切り抜きの通報。
コメントの非表示。
関連タグの監視。
見せないために見る仕事。
見せてしまったものを、少しでも減らす仕事。
派手ではない。
たぶん伸びない。
神々が褒めることもない。
でも、今はそれが必要だった。
アルトは何も言わず、空になった皿を脇へ寄せた。
ブルーノの端末に、一つのコメントが流れる。
『消しても見た奴は覚えてるだろ』
ブルーノの指が止まる。
一拍。
それから、その文字を非表示にした。
「覚えてるからって、増やしていい理由にはなりません」
誰に言ったのか分からない声だった。
アルトは頷いた。
「そうだな」
ブルーノはまた作業に戻った。
◇
レオンからの連絡は、夜がさらに深くなってから来た。
短い文章だった。
《ユラの件は、私の判断に含める》
アルトはそれを読んだ。
返事をしない。
少しして、次の文が来る。
《次も、私は救うために最短を選ぶ》
予想通りだった。
腹は立った。
だが、驚きはない。
さらに、もう一文。
《君が怒ったことも、含める》
アルトは画面を見ていた。
レオンらしい文章だった。
謝罪ではない。
言い訳でもない。
宣言に近い。
自分のやり方は変えない。
でも、アルトの怒りをなかったことにはしない。
それは誠実なのか。
傲慢なのか。
どちらでもあるのか。
アルトには分からなかった。
マルタが厨房から言う。
「返さないのかい」
「読んでたのか」
「顔に出てる」
「顔は映ってないぞ」
「私には見えてるよ」
ガルドと似たようなことを言う。
アルトは少しだけ笑いかけて、やめた。
端末に指を置く。
長い返事はいらない。
きっと、長く書けば余計なことを書く。
アルトは一言だけ返した。
《数えろ》
送信。
それだけ。
すぐに既読がついた。
返事は来なかった。
それでよかった。
◇
店が片づき始める頃、ガルドがアルトの前に小さな金属片を置いた。
黒鐘門で使ったものだ。
師匠の留め具と同じ古い鉄。
端が少し曲がっている。
「返す」
ガルドが言った。
「俺のじゃないだろ」
「持っていろ」
「何で」
「使ったからだ」
「意味が分からん」
「俺も分からん」
ガルドは椅子に座った。
手にはまだ黒い粉が残っている。
何度洗っても、爪の間に入り込んでいるらしい。
「あれは解決じゃない」
ガルドが言った。
「何が」
「音で行ったことだ」
アルトは金属片を見る。
「分かってる」
「次も使えるとは限らん」
「ああ」
「音が返らないこともある。鳴らしたせいで魔物だけ来ることもある。開ければ崩れる場所もある」
「今日は説教か」
「確認だ」
ガルドは短く言った。
「見えないもんを拾う時は、だいたい手が汚れる」
アルトは黙った。
その通りだった。
黒鐘門でよく分かった。
音で行く道は遅い。
危ない。
面倒で、泥臭くて、間違えれば死ぬ。
それでも、行った。
それで助かった。
でも、別のものは踏まれた。
答えになっていない。
答えにならないまま、皿は下げられ、鍋は洗われ、夜は深くなる。
アルトは金属片を手に取った。
冷たい。
黒鐘門の石よりは、少しだけ人の手の温度に近かった。
「持っとく」
ガルドは頷いた。
「そうしろ」
それ以上は何も言わなかった。
◇
深夜。
客が帰り、赤猫亭の灯りが一つ落とされた。
マルタは厨房の奥で鍋を洗っている。
ガルムは外へ見回りに出た。
ミアは卓に突っ伏して寝ている。
ブルーノはまだ端末と向き合っている。
ミナはユラへの返信文を、何度も書き直していた。
ガルドは椅子にもたれて目を閉じている。
誰も、完全には休めていなかった。
アルトは店の端の席に座っていた。
スープはもう冷めている。
匙を入れると、表面の油がゆっくり割れた。
端末は閉じている。
それでも通知は来る。
振動だけが、卓を小さく叩く。
ランキング上昇。
投げ銭増加。
黒鐘門救助まとめ。
神回タグ。
切り抜き。
考察。
称賛。
批判。
全部、向こう側で流れている。
アルトは端末を開かなかった。
ただ、冷めたスープを見ていた。
悪くない。
その言葉は、喉の手前まで来る。
黒鐘門救助は成功した。
全員、生きて戻った。
トマの音は届いた。
ユラは「まだ嫌です」と言えた。
ブルーノは端末を閉じ、また開いて後始末をしている。
レオンは自分の判断に、アルトの怒りを含めると言った。
誰も、何もしなかったわけではない。
悪くない。
そう言えば、終われる気がした。
だが、黒鐘の音がまだ耳の奥に残っている。
ユラの布を握る音も。
トマの金属片も。
ブルーノの「無理です」という声も。
レオンの「命が先だ」も。
全部が、一緒に残っている。
アルトは匙を置いた。
「悪くない、とは言えなかった」
誰も返事をしなかった。
聞こえなかったのかもしれない。
聞こえていて、返さなかったのかもしれない。
赤猫亭の奥で、鍋が小さく鳴った。
かん。
黒鐘とは違う音だった。
それでも、アルトは少しだけ顔を上げた。
閉じた端末の端に、一行だけ通知が残っている。
【帰還条件への接近を確認】
その下に、ノイズのような文字が一瞬だけ滲んだ。
【おかえりなさい】
アルトは、しばらくその文字を見ていた。
スープは冷めている。
それでも、飲み込むには少し熱い気がした。
ここまで読んでくださり、ありがとうございます。
第2部「人気者編」は、これで一区切りです。
救助は成功した。
全員、生きて戻った。
それでもアルトは「悪くない」とは言えなかった。
そんな、少し苦い終わりになりました。
ここまで追ってくださった方、本当にありがとうございます。
もし続きが気になる、少しでも面白かったと思っていただけましたら、ブックマークや評価で応援していただけると嬉しいです。
作品を続けていく大きな力になります。
次章では、いよいよ「おかえりなさい」という言葉の意味に、少しずつ近づいていきます。
引き続き、アルトたちを見守っていただければ幸いです。




