第59話 神回のあと
黒鐘門の奥で、魔物の声が増えた。
壁の中を這う音。
灰の上を走る音。
石を削る爪の音。
どれも、さっきより近い。
ブルーノの端末には赤い点が増えている。
黒鐘の補正が残っているせいで、赤点はまだ鮮明だった。
どこから来るかは分かる。
何を失ったかまでは、表示されない。
「撤退します」
ブルーノが言った。
声は枯れている。
「今なら、全員を監視台から外へ出せます。遅れれば、門前で詰まります」
レオンは剣を構えたまま頷いた。
「私が前を開く」
アルトはトマの体を支えていた。
トマは軽い。
軽すぎる。
救助組合の赤布が、黒い粉で汚れている。
声はまだ出ない。
目だけが、何度も周囲を追っていた。
「トマはミナに渡す」
レオンが言った。
アルトは返事をしない。
トマをミナの前へ運ぶ。
ミナはすぐにトマの状態を見る。
「喉は使わないでください。足は固定します。痛い時は、手を握ってください」
トマは頷いた。
手には、折れた金属片をまだ握っている。
誰かが取り上げようとすれば、たぶん離さない。
アルトはそれを見て、何も言わなかった。
ユラは壁際に座ったままだった。
布は被っている。
顔は出ていない。
けれど、顔を隠しているというより、もうそこから出られなくなっているように見えた。
ミナが彼女の前に戻る。
「歩けますか」
ユラは少し遅れて頷いた。
「歩く」
「無理はしないでください」
「歩く」
同じ言葉だった。
ミナはそれ以上止めなかった。
ブルーノは端末を見ている。
顔色が悪い。
彼の指はまだ動いていた。
顔を映さない。
端末名を拾わせない。
旧名照合の再発を止める。
そこに、撤退路の表示を重ねる。
全部を一人でやっている。
「ブルーノ」
アルトが呼ぶ。
「何ですか」
「手、止まるなよ」
「止めたら終わります」
「なら、止めるな」
「言われなくても」
ブルーノは言いかけて、口を閉じた。
そして、短く言った。
「止めません」
それだけでよかった。
◇
撤退は、列にならなかった。
誰かが止まれば、別の誰かが支える。
支えた分だけ、どこかが遅れる。
レオンが前を斬る。
ガルムが横を受ける。
ガルドが縄と留め具で崩れかけた足場をつなぐ。
ミアが音を拾う。
ミナが負傷者の歩幅を整える。
ブルーノが見せない映像の中で、撤退路だけを送る。
アルトは最後尾にいた。
トマを担ぐ救助組合員の後ろ。
ユラを挟むように、ミナとラウドが歩いている。
誰かが転びかければ、足が止まる。
足が止まれば、魔物が詰める。
詰めた魔物をレオンが斬る。
そのたび、神界コメントが跳ねた。
『レオン速い』
『今の剣やばい』
『撤退戦きた』
『神回続行』
『アルト側、映像少なすぎ』
『ユラってさっきの?』
最後の文字を見た瞬間、ブルーノが手動で消した。
迷いはなかった。
だが、消した後に指が震えた。
アルトはその震えを見た。
「見なくていい」
ブルーノが言う。
「見ないと消せません」
「じゃあ見るなとは言えないな」
「はい」
「面倒だな」
「本当に」
短いやり取りの間に、灰狼が横から来た。
赤点は遅れた。
ミアが先に気づく。
「右、低い」
アルトは足元を打つ。
《剛腕・砕打》
床が斜めに割れる。
灰狼の前足が沈む。
レオンの剣がその首を落とした。
見事だった。
悔しいくらいに。
アルトはレオンを見ない。
見れば、また何か言いたくなる。
言えば、今度こそ撤退が止まる。
今は、止まれない。
それも分かっている。
分かっていることばかりが増える。
それが一番腹立たしかった。
ラウドが叫ぶ。
「監視台を抜ける! 外側通路まで行けば、門の影響は薄れる!」
「あと何分」
ガルムが聞く。
「分じゃない。魔物の数だ」
「嫌な数え方だ」
「こっちも嫌だ」
レオンが前方の群れへ踏み込む。
黒鐘の補正がまだ残っている。
神々の支援も残っている。
彼の剣は速い。
救助対象が生きて帰れるのは、たぶんその速さのおかげだ。
アルトはそれを認めている。
認めているから、胸の奥がずっと冷えている。
◇
黒鐘門の外側通路へ入った時、ユラが一度だけ膝をついた。
ミナが支えるより早く、ユラ自身が壁に手をついた。
「大丈夫ですか」
「大丈夫じゃない」
ユラは言った。
布の奥で、息が荒い。
「でも、倒れたくない」
「座ってもいいです」
「座ったら、立てない気がする」
ミナは頷いた。
「では、立ったまま休みます」
「そんなのあるの」
「今、作ります」
ミナはユラの背中側に回り、壁と体の間に丸めた布を挟む。
ユラは壁にもたれた。
顔はまだ出ない。
ブルーノは映していない。
トマがその様子を見ていた。
声は出ない。
彼は手の中の金属片を、弱く鳴らした。
かん。
ユラがそちらを向く。
布の下で、たぶん見た。
トマはもう一度鳴らした。
かん。
何の意味かは分からない。
礼かもしれない。
無事か、と聞いたのかもしれない。
ただ、自分もここにいる、と言っただけかもしれない。
ユラは、布を握る手を少しだけ緩めた。
「聞こえた」
それだけ言った。
トマは頷いた。
アルトは二人を見ていた。
神々には、たぶんこの意味は分からない。
コメント欄に流れるような場面でもない。
泣くでもない。
抱き合うでもない。
ただ、金属片が一度鳴って、誰かがそれを聞いた。
それだけだ。
神々の好きな形ではない。
でも、たぶん必要な形だった。
「動けます」
ユラが言った。
ミナが答える。
「では、行きましょう」
レオンは少し先で待っていた。
剣を下ろしてはいない。
彼も見ていたのだろう。
だが、何も言わなかった。
アルトも言わない。
今は、まだ。
◇
黒鐘門の最後の通路で、魔物の群れが塞いでいた。
黒鐘の音で集まった残りだ。
灰狼が四。
火喰い鼠の群れ。
黒い甲殻の小型が壁に張りついている。
外側通路の出口は見えている。
その向こうに、第三層救助組合の追加隊がいる。
あと少し。
あと少しが、一番遠い。
レオンは剣を構えた。
「私が開く」
アルトは隣に立つ。
「俺が道を砕く」
「後ろは」
「ミアとガルム」
「ユラたちは」
「ミナとラウド」
互いに確認する声は、まだ噛み合っていた。
それが嫌だった。
壊れたはずなのに、戦場ではまだ使える。
壊れた道具を無理に使っているような気持ち悪さがある。
レオンが言う。
「一度で抜く」
「ああ」
「神々の支援を使う」
アルトの目が細くなる。
レオンは続けた。
「今度は、ユラ側の遮蔽を落とさない範囲でだ」
「ブルーノ」
アルトが呼ぶ。
《見ています》
「できるか」
《できます、とは言いません》
「じゃあ何て言う」
《やります》
ブルーノの声はかすれていた。
でも、逃げてはいない。
ユラが布の下から言った。
「無理なら」
《言います》
ブルーノは即答した。
《勝手にはしません》
ユラは頷いた。
その頷きは、前より小さくなかった。
レオンは剣を上げる。
神界通知が流れる。
【軍神アレス:剣速補助】
【雷神トール:衝撃強化】
【無名の神々:突破を見せろ】
ブルーノがすぐに表示を絞る。
レオンの剣だけを拾い、後方の顔を切る。
ユラの周囲は足元だけ。
トマは救助布で隠す。
ミナの手元は出す。
アルトの背中は少しだけ映る。
完璧ではない。
だが、さっきとは違う。
「行く」
レオンが走った。
白い剣光が、黒い通路に走る。
アルトはその横で床を打つ。
《剛腕・砕打》
魔物の足場だけを崩す。
レオンが斬るための道を作る。
レオンはその道を使う。
剣が走る。
灰狼が落ちる。
火喰い鼠の群れが割れる。
ガルムが右から押し返す。
ミアが壁の小型を落とす。
ミナが負傷者を進ませる。
ラウドがユラの外套の裾を踏まないよう、手で持ち上げる。
トマは担がれたまま、金属片を胸に抱えている。
ブルーノは見せない画面を見続ける。
全員が動いていた。
誰か一人でも止まれば、詰まる。
レオンの剣が最後の灰狼を裂いた。
出口が開く。
「抜けろ!」
レオンが叫ぶ。
救助対象が走る。
ユラが走る。
トマが担がれて運ばれる。
ミナが最後の一人を押し出す。
ガルドが縄を回収する。
ミアが転びかけた荷運びを押す。
アルトは最後尾で、床を砕いた。
追ってきた火喰い鼠の群れが、割れた床の向こうで止まる。
黒鐘門の音が、背後でまた低く鳴った。
今度は遠い。
外側通路へ出た瞬間、神界表示の補正が薄れた。
視界が普通に戻る。
赤点も消える。
亀裂も見えない。
顔も、必要以上には拾われない。
それだけで、少し息ができた。
ラウドが叫ぶ。
「全員、外へ!」
救助組合の追加隊が駆け寄る。
負傷者を受け取る。
トマの状態を確認する。
ユラの周囲には、ミナが立ったままだ。
誰も布を取らない。
誰も名前を呼ばない。
ブルーノは端末を確認し、ようやく息を吐いた。
「全員、出ました」
声が震えていた。
「黒鐘門内、救助対象全員、外側通路へ離脱」
神界通知が跳ねる。
【黒鐘門救助:成功】
【救助対象:全員生存】
【共同配信評価:急上昇】
【高視聴率案件:達成】
続いて、嫌な文字が出た。
【神回認定】
アルトはそれを見た。
見てしまった。
息が止まる。
トマは生きている。
ユラの顔は出ていない。
全員、外へ出た。
成功だ。
成功のはずだ。
なのに、その文字を見た瞬間、胃の底が冷えた。
神回。
ユラの旧名が流れた回。
ブルーノが叫んだ回。
トマが声も出せず、金属片を鳴らしていた回。
レオンが命のために観測を上げた回。
アルトが初めて本気で怒った回。
神々は、それを神回と呼んだ。
「消せ」
アルトが言った。
ブルーノが端末を見る。
「これは、システム表示です」
「消せるか」
「消せません」
「なら閉じろ」
ブルーノは端末を閉じた。
すぐに。
神界コメントは見えなくなった。
だが、消えたわけではない。
向こうではまだ流れている。
レオンは少し離れた場所に立っていた。
剣を下げている。
外套は破れ、肩で息をしている。
彼の働きがなければ、全員は帰れなかった。
それは、どうしようもない事実だった。
レオンが言う。
「全員、生きている」
アルトは頷いた。
「ああ」
「君が言った通り、トマも拾えた」
「ああ」
「ユラの顔も、出ていない」
アルトはレオンを見る。
「旧名は流れた」
「分かっている」
「なら、それも数えろ」
レオンは黙った。
「全員生存だけ数えるな。救助成功だけ数えるな。神回認定だけ見るな。流れた名前も数えろ」
レオンは何か言おうとして、やめた。
その沈黙は、反論ではなかった。
受け止めたのか。
それとも、次の言葉を選べなかったのか。
アルトには分からない。
ユラが近づいてきた。
ミナが止めようとして、ユラが小さく首を振る。
布は被ったままだ。
彼女はアルトとレオンの間ではなく、少し横に立った。
「生きてる」
ユラは言った。
声は弱い。
でも、はっきりしていた。
「私も。トマも。みんなも」
誰も言わない。
「それは、よかった」
ユラの手が布を握る。
「でも、嫌だった」
レオンは彼女を見る。
「すまない」
ユラはすぐには返事をしなかった。
「謝られたら、終わったことになる気がする」
その言葉に、レオンの顔がわずかに動いた。
「終わってない」
ユラは言った。
「まだ、嫌なまま」
ミナが隣に立つ。
ブルーノは端末を閉じたまま、顔を伏せている。
アルトはユラを見た。
ユラは布の中から言う。
「でも、トマは生きてる」
トマは少し離れた場所で処置を受けている。
声は出ない。
だが、金属片を弱く鳴らした。
かん。
小さな音だった。
ユラはそちらを向いた。
「だから、今は歩く」
それだけ言って、彼女はミナの方へ戻った。
謝罪でもない。
許しでもない。
感謝でもない。
ただ、生きて、嫌なまま歩く。
アルトは、その背中を見ていた。
神々の好きな形ではない。
けれど、たぶん人間の形だった。
◇
黒鐘門から離れた安全圏で、救助組合が確認を終えた。
救助対象は全員生存。
重傷者三名。
中等傷数名。
死亡者なし。
ラウドはその報告を聞いて、しばらく目を閉じていた。
開いた時、目元が赤かった。
「ありがとう」
彼はレオンとアルトの両方に頭を下げた。
「全員、戻った」
レオンは静かに頷く。
「あなたたちが持ちこたえたからだ」
ラウドは首を振った。
「それでも、助かった」
アルトは何も言わない。
礼を受け取る気分ではなかった。
だが、拒むのも違う。
ラウドの部下が生きている。
それは確かに、喜ぶべきことだ。
トマが処置台の上で、金属片を握っている。
ラウドが彼のそばへ行く。
「よく鳴らしたな」
トマは声が出ないまま、目を伏せた。
ラウドはその手を握った。
「聞こえたぞ」
トマの目から、涙が出た。
泣き声はない。
声が出ないから。
ただ、涙だけが黒い粉の跡を流れた。
ブルーノはそれを映さなかった。
端末は閉じたままだった。
アルトはその判断を見て、少しだけ息を吐く。
「映さないのか」
ブルーノは言った。
「映しません」
「伸びるぞ」
「でしょうね」
「いいのか」
「よくはないです」
ブルーノは端末を握る。
「でも、今は閉じてます」
アルトは頷いた。
「それでいい」
「よくはないです」
「じゃあ、ましだ」
ブルーノは小さく笑った。
笑ったというより、息が抜けただけかもしれない。
その横で、レオンは神界表示を見ていた。
閉じてはいない。
剣聖レオンの評価が上がっている。
救助成功。
戦闘評価大幅上昇。
共同配信評価上昇。
神回貢献。
彼はそれを見ていた。
嬉しそうではない。
苦しそうでもない。
ただ、見ていた。
アルトは近づく。
「見るのか」
レオンは端末から目を離さない。
「見なければ、次に使えない」
「何を」
「神々の反応。支援の流れ。どの判断で何が起きたか」
「ユラの旧名が流れたのも見るのか」
「見る」
レオンは答えた。
「見なければ、また同じことをする」
「見ても、同じ判断をするんだろ」
レオンはそこで初めてアルトを見る。
「するかもしれない」
アルトは笑わなかった。
「正直だな」
「嘘を言っても意味がない」
「そうだな」
短い会話だった。
だが、もう前のようには戻らない。
レオンは言った。
「私は、多くを救うために判断する」
「知ってる」
「そのために、神々の熱狂も使う」
「知ってる」
「それを、やめるとは言えない」
アルトは少しだけ目を伏せた。
黒い石粉が、自分の袖についている。
縦穴の中でついたものだ。
トマのそばにも、ユラの外套にも、同じ粉がある。
「なら俺は」
アルトは言った。
「お前が踏んだものを、数える」
レオンの目が動く。
「救った数だけじゃなくてな」
「それは、敵対か」
「知らん」
アルトは答えた。
「でも、忘れさせない」
レオンはしばらく黙っていた。
それから言った。
「なら、私も忘れない」
「何を」
「君が怒ったことを」
アルトは返事をしなかった。
それは和解ではない。
決裂とも少し違う。
もっと嫌なものだった。
三人とも、同じ場所にいた。
ただ、端末を閉じた者と、見続ける者と、見ないと決めた者がいた。
黒鐘門の外で、神々のコメントはまだ流れている。
◇
帰路につく前、ユラがアルトの前に来た。
ミナは少し離れたところにいる。
布はまだ外していない。
「怒ってたね」
ユラは言った。
「聞こえた」
アルトは眉を寄せる。
「聞かせるつもりはなかった」
「うん」
「お前のためみたいに言うと、たぶん違う」
「それでも、少しましだった」
アルトは返事に困った。
まし。
それはユラがここまで何度か使ってきた言葉だった。
大丈夫ではない。
許したわけではない。
でも、勝手にされるだけよりは、まし。
「そりゃ、よかった」
結局、雑な返事しか出なかった。
ユラは布の下で笑ったのかもしれない。
分からない。
「トマにも、怒ってた?」
「トマ?」
「声が出ないのに、叩いてたから」
「あれは怒りじゃないだろ」
「じゃあ何?」
アルトはトマを見る。
トマは救助組合員に支えられながら、金属片を胸に抱えている。
声は出ない。
でも、何度も何度も鳴らしていた。
見つけてほしくて。
ここにいると伝えたくて。
アルトは言った。
「生きてるって、うるさかった」
ユラは少しだけ肩を揺らした。
「それ、いいね」
「いいのか」
「いいと思う」
ユラはトマの方を向いた。
「生きてるって、うるさい方がいい」
その言葉は、神界には流れていない。
ブルーノの端末は閉じたままだ。
誰も見ていない。
でも、アルトには聞こえた。
たぶん、それでよかった。
◇
黒鐘門救助は、成功した。
その事実は変わらない。
死者は出なかった。
救助対象は全員生きて戻った。
剣聖レオンは、多くを救った。
奈落新人アルトは、見えない一人を拾った。
ブルーノは顔を出さずに撤退路を残した。
ミナはユラとトマを支えた。
ガルドは見えない芯を探し、道を開けた。
ミアは音を聞いた。
ガルムは崩れる前線を支えた。
誰も、何もしなかったわけではない。
誰も、間違いだけをしたわけではない。
だからこそ、ややこしい。
救助組合の馬車が動き出す。
黒鐘門が遠ざかる。
アルトは最後に一度だけ振り返った。
黒い門は、もう鳴っていない。
鳴っていないのに、耳の奥にまだ残っている。
神界通知が、閉じた端末の向こうで更新されている気がした。
たぶん、ランキングは上がる。
投げ銭も増える。
黒鐘門救助は、きっと話題になる。
神回として。
アルトは息を吐いた。
悪くない。
その言葉は、喉の手前まで来た。
けれど、黒鐘の音がまだ耳の奥に残っていた。




