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第58話 神々の好きな形

 縦穴の中は、狭かった。


 肩が壁に擦れる。


 膝を少し曲げなければ、足場に届かない。


 縄はある。


 ガルドが上で固定している。


 それでも、体重を預けるたびに黒い石が鳴った。


 ぎし、と。


 石が鳴るはずはない。


 だが、そう聞こえた。


 ミアはアルトの少し下にいた。


 片手で縄を掴み、もう片方の手で壁を探っている。


 耳はずっと下を向いていた。


「まだ、鳴ってる?」


 アルトが聞く。


「金属は、弱い」


「魔物は」


「いる」


「近いか」


「近い。けど、下だけじゃない」


「上にも?」


「壁の中」


 アルトは息を止めた。


 縦穴の壁。


 その向こう。


 黒鐘門の内側には、音を通す空洞がある。


 そこを何かが這っている。


 かり。


 かり。


 石を掻く音。


 人の音ではない。


 ブルーノの声が通信に入った。


《映像はほとんど出せてません。音方向だけ送ります》


「それでいい」


《魔物反応、まだ不安定です。赤点は信用しすぎないでください》


「信用できるものが少ないな」


《今回ずっとそうです》


「嫌なまとめをするな」


 上から、レオンの声が降ってきた。


《下の状況は》


「狭い。暗い。魔物がいる。だいたい最悪」


《観測を上げれば、周辺構造を確認できる》


 アルトは縄を握る手に力を入れた。


「まだ言うか」


《必要なら言う》


「必要じゃない」


《必要かどうかを決めるための情報が足りない》


 正しい。


 また正しい。


 アルトは壁に足をかけた。


 石の表面が崩れ、黒い粉が靴の下で滑る。


 ミアが下から言った。


「アルト、右足。そこ、弱い」


「早く言え」


「今聞こえた」


 アルトは足をずらす。


 ずらした直後、さっき踏みかけた石が抜け落ちた。


 下へ落ちる。


 しばらくして、硬い音が返った。


 遠い。


 底はまだ下だ。


 アルトは上を見ずに言った。


「レオン」


《何だ》


「今のは見えたか」


《見えていない》


「じゃあ、聞け」


 返事はなかった。


 ないまま、縄が少し引かれた。


 上でガルドが張りを調整している。


 見えないところで、誰かの手が働いている。


 それで、アルトの体は落ちずに済んでいる。


 神界には、たぶん映っていない。


 それでいい。


 ◇


 監視台では、ユラが布を握っていた。


 黒鐘の余韻は薄い。


 だが、次がいつ来るか分からない。


 ミナはユラの前に立ち、角度を変えない。


 水桶は横へどけられている。


 反射するものは、できるだけ消した。


 ブルーノは端末を睨んでいる。


 音方向。


 魔物反応。


 ユラの遮蔽。


 レオン側の戦闘音。


 アルトたちの縦穴内通信。


 全部が重なっている。


 見せていいものは少ない。


 見なければならないものは多い。


 ブルーノは乾いた目をこすろうとして、やめた。


 手を離す暇がない。


 ユラが小さく言った。


「今、下は?」


「降りています」


「見えてる?」


「ほとんど見えてません」


「怖くないのかな」


 ブルーノは答えに詰まった。


 ミナが言った。


「怖いと思います」


 ユラは布の下で少し息を吐いた。


「そうだよね」


「はい」


「怖くない人なんて、いないよね」


 ミナは頷いた。


「たぶん」


 ユラの指が布を撫でる。


 握るのではなく、確かめるように。


「怖いのに、来てくれたんだ」


 ブルーノの指が一瞬だけ止まった。


 すぐに動く。


「そうです」


 ユラは何も言わなかった。


 その沈黙は、神界には映らない。


 ただ、ミナだけが聞いていた。


 ◇


 縦穴の底に着いた時、アルトの膝は笑っていた。


 認めたくないが、笑っていた。


 足場は狭い。


 横穴のような空間が続いている。


 黒鐘門の内壁の中。


 人が通るための道ではない。


 音を通すための空洞。


 そこに、古い補強材や錆びた金具が並んでいる。


 壁の一部は崩れ、黒い石が積もっていた。


 その向こうから、弱い金属音がする。


 か……ん。


 ミアが先に進む。


「いる」


「人か」


「うん」


 アルトは狭い横穴を進んだ。


 肩が壁に当たる。


 拳を振る余裕はない。


 《砕打》を使えば、周囲ごと落ちるかもしれない。


 こういう場所は嫌いだ。


 力で何とかできない場所。


 下手に強いことが、かえって邪魔になる場所。


 角を曲がると、いた。


 少年、というには少し年上か。


 青年と呼ぶにはまだ頼りない。


 救助組合の赤布を腕に巻いている。


 ラウドの部下だろう。


 左足が崩れた石材に挟まっている。


 右手には、折れた金属片。


 それで壁を叩いていたらしい。


 声は出ていない。


 喉に黒い粉がつき、唇が割れている。


 彼はアルトを見ると、目だけを見開いた。


 叫ぼうとしたが、音にならなかった。


「喋るな」


 アルトは膝をついた。


「助けに来た」


 青年は金属片を持ち上げようとした。


 手が震えて、落ちた。


 かん。


 それが、今までで一番近い音だった。


 ミアが周囲を見た。


「魔物、近い」


「どこ」


「下の裂け目。あと、壁の中」


 アルトは青年の足を見る。


 石材が重い。


 ただどかせば、足が潰れるかもしれない。


 砕けば、周囲が落ちるかもしれない。


 ガルドがいれば。


 そう思った瞬間、通信が鳴った。


《下の状況を言え》


 ガルドだった。


 アルトは足元を見た。


「足が石に挟まってる。石材は黒い。たぶん壁の一部。動かすと周囲が落ちるかもしれない」


《形は》


「平たい。厚い。左から右へ斜めに噛んでる」


《音を聞かせろ》


「何?」


《叩け。弱く》


 アルトは指で石材を叩いた。


 こん。


 通信の向こうで、ガルドが黙る。


「分かるのか」


《分かるまで叩け》


「無茶言うな」


《生きてるなら、無茶じゃない》


 アルトはもう一度叩いた。


 こん。


 場所を変える。


 こつ。


 さらに下。


 ごん。


 ガルドが言った。


《ごんの下に芯がある。そこは砕くな。こつの場所を少し削れ。石が逃げる》


「少しってどれくらいだ」


《少しだ》


「職人の説明は嫌いだ」


《下手に分かりやすく言うと死ぬ》


「もっと嫌だ」


 ミアが横で笑いかけたが、すぐ耳を伏せた。


「来る」


 裂け目から、爪が出た。


 細い。


 黒い。


 火喰い鼠ではない。


 もっと長い。


 黒鐘門の内壁に棲む魔物か。


 アルトは青年の前に立つ。


 狭い。


 拳を振れない。


 蹴りも浅い。


 ミアが前へ滑り込み、短剣で爪を弾く。


 火花が散った。


「硬い」


「嫌な報告ばっかりだな」


 アルトは低く構え、拳ではなく肘で壁際を叩いた。


 小さく。


 《砕打》ではない。


 ただの打撃。


 黒い粉が落ち、魔物の目に入る。


 ミアがその隙に爪を切った。


 壁の中で、何かが鳴いた。


 声ではなく、石を引っ掻く音だった。


 青年が震える。


 アルトは言う。


「見るな」


 青年は声を出さない。


 だが、目を閉じた。


 アルトは石材に手を当てる。


 こつの場所。


 そこを少しだけ削る。


 少しだけ。


 力を入れすぎるな。


 そう思うほど、力が入る。


 アルトは舌打ちした。


「俺に向いてない」


 ミアが言う。


「でも、やって」


「分かってる」


 拳ではなく、指先と掌で押す。


 黒い石が少し動いた。


 青年の足元に隙間ができる。


 彼が痛みに顔を歪めた。


 声は出ない。


 出ないまま、喉だけが震えた。


 アルトはそれを見て、歯を噛んだ。


 神々の好きな形ではない。


 派手な剣もない。


 泣き叫ぶ声もない。


 感動的な台詞もない。


 黒い粉にまみれた青年が、声も出せず、落ちた金属片で生きていると知らせていただけだ。


 それでも、ここにいる。


 その事実だけで十分だった。


 ◇


 上では、魔物が増えていた。


 レオンは縦穴の入口を守っている。


 灰狼。


 火喰い鼠。


 さらに黒い甲殻を持つ小型の魔物。


 黒鐘門の内壁から湧いたように、壁の隙間から出てくる。


 黒鐘の補正を抑えているため、動きが遅れて見える。


 見えた時には近い。


 レオンは剣で押さえていた。


 ガルムもいる。


 だが、数が増えている。


 ガルドは縄を握りながら、固定点を見ている。


 手を離せない。


 離せば、下のアルトとミアが落ちる。


 レオンの剣が走る。


 白い線が黒い通路を切る。


 だが、支援が薄い。


 投げ銭補正が足りない。


 剣は速い。


 それでも、足りない場面が出始めている。


 レオンは黒鐘門の上を見た。


 次の鐘が近い。


 鳴れば、観測が上がる。


 魔物も見える。


 縦穴の構造も見える。


 下のアルトたちの状況も拾える。


 支援も増える。


 救える。


 その代わり、ユラが危ない。


 ブルーノが通信で言った。


《次の鐘、近いです》


「分かっている」


 レオンは灰狼を斬る。


《このままだと入口が持ちません》


「分かっている」


《でも、観測を上げればユラの遮蔽が》


「それも分かっている」


 レオンの声に、初めて苛立ちが混じった。


 ガルムが横目で見る。


「焦るな」


「焦っている」


 レオンは隠さなかった。


「下に三人いる。奥の一人もまだ出ていない。ここを抜かれれば全員死ぬ」


「だから?」


「使えるものを使わない理由が、どんどん重くなっている」


 ガルムは灰狼を弾く。


「それでも、理由はある」


「ある」


 レオンは剣を構え直した。


「だが、重い理由は、時に人を潰す」


 その時、黒鐘が揺れた。


 ブルーノが叫ぶ。


《来ます!》


 レオンは一瞬だけ目を閉じた。


 開く。


 判断は終わっていた。


「観測を上げる」


 通信の向こうで、ブルーノの声が止まった。


《ユラの遮蔽が持ちません》


「下が潰れる」


《旧名照合まで拾う可能性があります》


「命が先だ」


 その言葉は短かった。


 短い分だけ、重かった。


 監視台で、ユラの指が布を握る。


 ミナが前に立つ。


「待ってください」


 ブルーノが言った。


「レオン様、待ってください」


「待てない」


 黒鐘が鳴った。


 ◇


 ごん、と。


 黒い音が、縦穴の中まで落ちてきた。


 石の粉が降る。


 青年が目を閉じる。


 ミアが耳を押さえた。


 アルトは石材を押さえたまま、上を見た。


 見えない。


 だが、何かが変わったのは分かった。


 壁の奥の魔物の音が増える。


 上からレオンの剣音が速くなる。


 神界通知が重なる。


【軍神アレス:剣速補助】


【雷神トール:衝撃強化】


【無名の神々:神回だ】


 神回。


 その文字だけが、なぜか通信の端に滲んだ。


 ブルーノの叫び声が聞こえた。


《落とす! ユラ側、落とします!》


 別の表示が一瞬流れた。


 顔ではない。


 だが、名前だった。


【旧登録名照合:ユラ・ルミナ】


【過去配信記録照合中】


 次の瞬間、ブルーノが映像を切った。


 監視台側の映像が黒く落ちる。


 だが、遅かった。


 コメントが一つだけ、流れた。


『あのユラ?』


 それだけだった。


 だが、監視台でユラの布を握る手が止まった。


 ユラは顔を上げなかった。


 ただ、布の内側で呼吸だけが浅くなった。


 もう何も映っていないのに、彼女はまだ見られているみたいに動けなかった。


 ミナが彼女の前に立ち、両手を広げた。


「見ないでください」


 誰に向けた言葉なのか、分からない。


 神々か。


 仲間か。


 ユラ自身か。


 ブルーノは端末を叩きそうになり、叩かなかった。


 代わりに、表示を落とし続ける。


 顔は出ていない。


 過去も最後までは開いていない。


 でも、旧名は流れた。


 勝手に。


 アルトは縦穴の底で、その通信を聞いていた。


 手は青年の足元の石材にかかっている。


 今離せば、彼の足が潰れる。


 怒る暇もない。


 なのに、腹の底だけが冷えていく。


 レオンの声が入った。


《下は》


「生きてる」


《引き上げられるか》


「今やってる」


《観測を上げた。魔物位置は送れる。構造も見える》


 アルトは青年の足元を見る。


 確かに、さっきより見える。


 石材の噛み方。


 逃げる隙間。


 魔物の位置。


 助かる。


 助かってしまう。


 アルトはガルドに言われた場所を押し、少しだけ石を逃がした。


 青年の足が抜ける。


 彼は声も出せず、口だけを開いた。


 ミアが肩を貸す。


「抜けた」


 ブルーノの声が震えている。


《引き上げ準備できます》


 上ではレオンが魔物を押し返している。


 神々の支援が増えたからだ。


 観測を上げたからだ。


 ユラの旧名が流れたからだ。


 どれも同じ鐘の中で起きた。


 アルトは青年の体を支えた。


 軽い。


 嫌になるほど軽い。


「名前」


 青年は喉を押さえる。


 声は出ない。


 胸元の救助組合札に、小さく名が刻まれていた。


【トマ】


「トマ」


 アルトは言った。


「帰るぞ」


 トマは金属片を握ったまま、頷いた。


 かん、と鳴らす力も、もう残っていないらしい。


 アルトは縄を引いた。


「上げろ!」


 ガルドの声が返る。


《引くぞ》


 縄が張る。


 トマの体が持ち上がる。


 ミアが支える。


 アルトは下から押し上げる。


 その間も、上ではレオンが斬っている。


 速い。


 強い。


 正しい。


 正しいから、助かっている。


 そのことが、今は一番腹立たしかった。


 ◇


 縦穴からトマを引き上げた時、黒鐘の余韻はまだ残っていた。


 ガルドが縄を固定し直し、ミアが先に上がる。


 最後にアルトが這い上がった。


 膝が石にぶつかる。


 痛みはあったが、どうでもよかった。


 トマは地面に横たえられている。


 ミナは監視台から走ってきて、すぐに喉と足を見る。


「声は出さなくていいです」


 トマは頷く。


「痛いところは指で」


 彼は震える指で足を示す。


 ミナが処置を始める。


 ユラは監視台の壁際にいる。


 布はまだ被っている。


 顔は出ていない。


 顔は出ていないのに、彼女はさっきより小さく見えた。


 ブルーノは端末を握ったまま、立ち尽くしている。


「切りました」


 彼は言った。


 誰に言ったのか分からない。


「顔は出してません。過去記録も、最後までは」


 そこで言葉が止まる。


 最後までは。


 その言い方が、すべてだった。


 レオンは剣を下ろした。


 外套は裂け、肩で息をしている。


 彼も傷だらけだった。


 彼が観測を上げなければ、縦穴は持たなかったかもしれない。


 トマは助からなかったかもしれない。


 ここにいる全員が、魔物に潰されていたかもしれない。


 それは事実だ。


 レオンはアルトを見た。


「助かった」


 アルトは答えなかった。


 トマを見る。


 ユラを見る。


 ブルーノを見る。


 ミナを見る。


 そして、レオンを見た。


「今の、見たか」


 声は低かった。


 自分でも驚くほど低かった。


 レオンは答えた。


「見た」


「何を見た」


「ユラの旧名が流れた」


「そうだ」


「だが、あのままでは君たちが潰れていた」


 アルトは一歩前に出た。


 拳は握っていない。


 握ると殴りたくなる気がした。


「それで、勝手に開いていいのか」


「命を救うためだ」


「救った数で、踏んだものを消すな」


 誰もすぐには動かなかった。


 水桶の波だけが、桶の縁を小さく叩いていた。


 レオンの表情は変わらなかった。


 だが、目だけが少し硬くなる。


「私は、命を優先した」


「見てた」


「他に選べなかった」


「それも、分かる」


「なら」


「分かるから怒ってるんだよ」


 アルトの声が上がった。


 初めてだった。


 ここまで来て、初めて。


 トマが目を開ける。


 ユラが布を握る。


 ブルーノが端末を伏せる。


 ミナは処置の手を止めない。


 レオンは動かない。


 アルトは続けた。


「お前は救った。トマも助かった。俺たちも潰れなかった。正しかったんだろうよ」


 言葉が止まらなかった。


「でも、ユラの名前は勝手に流れた」


 レオンは何も言わない。


「顔じゃないからいいのか。全部じゃないからいいのか。命が助かったから、それで消えるのか」


「消えない」


 レオンは言った。


「消えないと分かっている」


「だったら」


「それでも私は、同じ判断をした」


 その言葉が、黒鐘より重く落ちた。


 アルトは息を止めた。


 レオンは続ける。


「下の君たちが死ぬ可能性があった。トマも死ぬ可能性があった。ここも抜かれる可能性があった。私は、観測を上げるしかなかった」


「しかなかった?」


「そうだ」


「本当にか」


「少なくとも、私にはそう見えた」


 見えた。


 その言葉で、アルトの中の何かが切れた。


 大きな音はしなかった。


 ただ、腹の底でずっと冷えていたものが、急に熱を持った。


「そうか」


 アルトは言った。


「お前には、そう見えたんだな」


「アルト」


「なら、俺が見てたものは何だ」


 レオンは黙る。


「ユラが『勝手にしないで』って言ったことは、見えなかったか」


「見えていた」


「ブルーノが『無理です』って言ったことは」


「聞いていた」


「それでも?」


「それでもだ」


 アルトは笑った。


 笑うような場面ではなかった。


 だが、口元だけが勝手に歪んだ。


「神様どもが沸いたからって、助かったことにするな」


 レオンの眉が動いた。


「私は神々を沸かせるためにやったのではない」


「結果として沸いただろ」


「支援が必要だった」


「ユラの名前も一緒に持っていった」


「だから、それは」


「それを、踏んだって言ってるんだよ」


 アルトの声が、石壁に当たって返る。


 もう抑えられなかった。


 抑える気もなかった。


「助けた数を並べるな。正しい理由を並べるな。こっちが何も分かってないみたいに言うな」


 レオンは静かに立っている。


 剣を握っていない。


 そのことが、余計に苦しかった。


「分かってるんだよ」


 アルトは言った。


「お前が正しいことくらい、分かってる」


 黒鐘の余韻が、まだ石の中で鳴っている。


「だから腹が立つんだ」


 誰も言葉を挟まなかった。


 トマは生きている。


 ユラの顔は出ていない。


 でも、旧名は流れた。


 黒鐘門の救助は、まだ終わっていない。


 なのに、何かはもう壊れていた。


 レオンはアルトを見たまま言った。


「それでも、私は救うために同じ判断をする」


 アルトは頷いた。


「なら、俺はそのたびに怒る」


 短い沈黙。


 黒鐘門の奥で、魔物の声が増えた。


 ブルーノが端末を見て、かすれた声を出す。


「……まだ来ます」


 誰も驚かなかった。


 神界には、コメントが流れている。


 速すぎて読めない。


 その中に、また一つだけ、嫌な文字が残った。


『神回だ』


 アルトは端末を見なかった。


 見たら、たぶん壊す。


 代わりに、トマを抱え直した。


「帰るぞ」


 レオンは剣を構え直した。


「帰す」


 似た言葉だった。


 なのに、同じ場所を見ている気がしなかった。


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