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第57話 音だけの道

 音は、細かった。


 ガルドが金属片を叩く。


 かん。


 黒鐘門の奥から、遅れて返る。


 か……ん。


 弱い。


 返事というより、石の向こうで何かが爪を立てたような音だった。


 ブルーノの端末には、矢印だけが出ている。


 座標ではない。


 点でもない。


 ただ、黒鐘門の奥を指す揺れた線。


「これ、矢印って言えるのか」


 アルトが聞く。


 ブルーノは端末を見たまま答えた。


「勘に矢印をつけてるだけです」


「不安になる説明だな」


「正確に言うと、もっと不安になります」


「やめろ」


 ガルドがもう一度叩く。


 かん。


 奥から返るまでに、少し間がある。


 ミアの耳が、その間を追っていた。


「遠い」


「どれくらい」


「距離じゃない。壁が多い」


 アルトは黒鐘門の奥を見る。


 見えるのは黒い石壁だけだ。


 音はその向こうから来ている。


 道はない。


 地図にもない。


 黒鐘の補正を上げれば、座標が出るかもしれない。


 だが、それはユラの遮蔽を危うくする。


 ユラは監視台に残してきた。


 ミナもそこにいる。


 ブルーノは顔補正を落としたまま、こちらへ音方向だけを送っている。


 そのせいで、魔物の位置表示は荒い。


 赤点は遅れて出る。


 さっきまで見えすぎて腹が立った。


 今は、見えなさすぎて足が重い。


 アルトは短く息を吐いた。


「便利なものを嫌うと、こうなるんだな」


 レオンが横で言った。


「嫌っただけではないだろう」


「ああ」


「選んだ」


 アルトは返事をしなかった。


 その通りだった。


 ユラを勝手に映さないために、奥の一人を座標ではなく音で追う。


 そう決めた。


 決めた以上、遅いだの危ないだの、今さら言っても始まらない。


 文句は出るが。


 ガルドが壁に手を当てた。


「ここだ」


「ここ?」


 アルトは目の前の黒い石を見る。


 壁だった。


 通路ではない。


 扉でもない。


 壁だ。


「音はこの奥を通っている」


「壊せばいいのか」


「壊し方を間違えれば、この辺り全部落ちる」


 ガルドは腰袋から細い工具を出した。


「黒鐘門の壁は中が空洞だ。たぶん音を通すために作られている。そこを潰せば、返事も消える」


「じゃあ、どうする」


「開ける」


「壊すのと違うのか」


「全然違う」


 ガルドは石の継ぎ目を探る。


 指が黒い粉で汚れた。


「壊すのは力だ。開けるのは、相手がどこで耐えているかを見る仕事だ」


 レオンが静かに聞いた。


「時間は?」


「かかる」


「どれくらい」


「急がせるな」


 ガルドの返事は短い。


 レオンは口を閉じた。


 ただ、視線だけが黒鐘の方へ向く。


 そこに答えがあると知っている顔だった。


 観測を上げれば早い。


 座標を固定すれば、道も見えるかもしれない。


 レオンの中で、その選択肢はずっと光っている。


 アルトにも、それが分かった。


 分かるから、余計に腹立たしかった。


 ◇


 ガルドが最初の石を外すまでに、魔物が来た。


 黒鐘の補正を絞っているため、端末の赤点は遅れた。


 先に気づいたのはミアだった。


「下」


 アルトは足元を見る。


 灰が揺れた。


 次の瞬間、火喰い鼠が床下から跳び出す。


 アルトは反射で拳を落とした。


《剛腕・砕打》


 床が割れる。


 だが、狙いが浅かった。


 鼠の一匹が割れ目を抜け、ガルドの足元へ走る。


 レオンの剣が、その前で白く走った。


 火喰い鼠が灰へ落ちる。


「遅れた」


 アルトが言う。


「観測を絞っているからな」


 レオンの声に責める色はなかった。


 その平坦さが、かえって刺さる。


「否定したいのに、できないな」


「事実だからね」


「事実は嫌いだ」


「最近、その傾向がある」


「分析するな」


 アルトは床をもう一度打った。


 今度は鼠の進路をしっかり砕く。


 灰が跳ね、赤い点が消えた。


 ミアが壁際の一匹を落とす。


 ガルドは振り向かない。


 石の継ぎ目だけを見ている。


 小さな工具が、黒い壁の隙間に入る。


 かり。


 かり。


 槌の音ではない。


 歯で硬いものを削るような音だった。


「急げとは言わない」


 アルトが言った。


「言っている」


「言ってない」


「顔が言っている」


「顔は映ってない」


「俺には見えている」


 ガルドは工具を動かし続ける。


 黒い粉が落ちる。


 その粉を見ていると、赤猫亭の椅子の修理跡を思い出した。


 見られない仕事。


 今も、人を座らせていた仕事。


 だが今、その仕事は魔物の足音の中で時間を削っている。


 美談だけでは済まない。


 遅ければ死ぬ。


 ほかの道を選ばなかったのは、自分たちだ。


 アルトは入口側に立った。


「次が来る」


 ミアが言う。


「多い」


「どれくらい」


「数えたくない」


「そういう答えが一番嫌だ」


 レオンが剣を構える。


「私が前へ出る」


「見せれば速いんだろうな」


 アルトの口から、思ったより低い声が出た。


 レオンは一瞬だけ彼を見る。


「速い」


 隠さなかった。


「安全にもなる」


「ああ」


「だが、今はやらない」


 アルトは返事をしない。


 レオンは続ける。


「君たちの選択に乗った」


「納得はしてないだろ」


「していない」


 即答だった。


「だが、乗った」


 その言葉の間に、火喰い鼠の群れが見えた。


 今度は床下ではない。


 正面から来る。


 音に寄っている。


 ガルドの叩いた金属音。


 奥から返ってくる返事。


 それが魔物にも届いたのだ。


 ミアが舌打ちする。


「返事だけじゃない」


「何が」


「来てる」


 アルトは拳を握る。


「だろうな」


 音で探すということは、音で呼ぶということでもある。


 また代金が増えた。


 ◇


 監視台では、ユラが布を握っていた。


 黒鐘の補正は薄れている。


 それでもブルーノは遮蔽を緩めない。


 端末の片側では、音方向の矢印が揺れている。


 もう片側には、ユラの周囲の映像制限。


 さらに魔物位置表示。


 救助対象の状態。


 情報が多すぎる。


 だが、映していいものは少ない。


 ブルーノの目が乾く。


 瞬きする暇がない。


 ミナが水を置いた。


「飲んでください」


「今?」


「今です」


 ブルーノは端末から目を離さず、器を手探りで取った。


 少しこぼした。


 ミナは何も言わず、布で拭いた。


 ユラが布の下から聞いた。


「まだ、出てない?」


「出してません」


「奥は?」


「音で追っています」


「見えてないのに?」


「はい」


 ユラは黙った。


 少ししてから、言った。


「遅くなる?」


「なります」


「危ない?」


「危ないです」


「私のせい?」


 ブルーノの指が止まりかけた。


 止めなかった。


「違います」


 声が少し荒くなった。


「それは違います」


 ユラは返事をしない。


 ミナが彼女の横で言った。


「誰かを勝手に映していい理由にはなりません」


「でも」


「でも、はあります」


 ミナは水桶を動かした。


 ユラの外套が反射しないように。


「それでも、勝手に映していい理由にはなりません」


 ブルーノは端末を見ていた。


 その言葉を聞きながら、音方向の矢印を送る。


 細い矢印。


 頼りない。


 それしか、今は送れない。


 コメント欄が流れる。


 読まない。


 読めない。


 ただ一つだけ、目に入った。


『映せば早いのに』


 ブルーノは、その文字を手動で非表示にした。


 指に迷いはなかった。


 ◇


 黒い壁の前で、レオンは群れを斬っていた。


 見せるためではない。


 道を守るためだ。


 腹が立つほど、剣は綺麗だった。


 神界が見ていないわけではない。


 映像は絞られているが、剣光の端は流れている。


 それだけでコメントが増える。


 投げ銭も少し来る。


 レオンの動きがわずかに軽くなる。


 ほんのわずか。


 だが、戦場では大きい。


 アルトは左側の床を砕く。


 見えない分、拳の入れ方が粗くなる。


 崩しすぎれば通路が落ちる。


 足りなければ魔物が抜ける。


 ちょうどいいところを探す。


 面倒だ。


 危ない。


 遅い。


 泥臭い。


 ほかの道を選ばなかったのは、自分たちだ。


 ミアが短剣を投げる。


「アルト、右」


 アルトは右を見ずに拳を入れる。


 床が割れた。


 火喰い鼠が落ちる。


 その後ろから灰狼が来る。


 音に寄ったのか、血の匂いか。


 どちらでもいい。


 来たことに変わりはない。


 レオンが前へ出る。


「下がれ」


「誰に言ってる」


「全員に」


 剣が走る。


 黒い通路に白い線が引かれる。


 灰狼の跳躍が途中で折れた。


 レオンはさらに一歩踏み込む。


 その足元の亀裂が、アルトには見えた。


 見えたというより、嫌な音がした。


「レオン、足元!」


 レオンは踏み込みを止めない。


 止めれば灰狼が抜ける。


 アルトは拳を床へ落とした。


《剛腕・砕打》


 亀裂の先を砕き、崩落の流れを横へ逃がす。


 床が沈む。


 レオンの足は落ちない。


 灰狼だけが姿勢を崩した。


 レオンの剣が、その首筋を斬る。


 血が黒い石に飛んだ。


 レオンは一瞬だけ振り返る。


「助かった」


「そっちこそ」


 それだけだった。


 まだ、連携はできている。


 腹立たしいくらいに。


 ガルドが低く言った。


「開く」


 アルトとレオンが同時に振り向く。


 黒い壁の一部が、細く浮いていた。


 扉ではない。


 石板だ。


 音を通すための空洞を塞ぐ蓋のようなもの。


 ガルドは工具を差し込み、梃子にする。


「無理に押すな。割れる」


「手伝う」


 アルトが横につく。


「どこを持てばいい」


「ここだけだ。他は触るな」


「細かいな」


「細かいから壊れずに残ってる」


 ガルドの言葉に、アルトは黙った。


 レオンは背後を守る。


 ミアは耳を澄ませる。


 ガルドが金属片をもう一度叩く。


 かん。


 石板の向こうから、返る。


 か……ん。


 近い。


 さっきより、近い。


 アルトの腕に力が入る。


「生きてるな」


「分からん」


 ガルドが言う。


「だが、向こうに何かはある」


「人だろ」


「そう信じたいなら、壊すな」


 アルトは息を止め、ガルドの合図を待つ。


「今だ」


 二人で石板をずらす。


 重い。


 黒い粉が落ちる。


 隙間が開いた。


 中から、冷たい風が出る。


 通路ではなかった。


 縦穴だ。


 狭い。


 人一人がようやく通れる幅。


 下へ落ちている。


 その奥で、何かが金属を擦った。


 か……。


 音になりきらない音。


 ミアが顔をしかめる。


「下」


「どれくらい」


「深い」


「また嫌な答えだ」


 ブルーノの声が通信に入る。


《音方向、真下に変わりました。旧鐘室の内壁下層です。地図なし》


「行けるか」


 アルトが聞く。


 ガルドは穴を見た。


「縄がいる」


「ある」


「留める場所がいる」


「作る」


 アルトは壁を見る。


 砕く場所を間違えれば、縦穴ごと落ちる。


 レオンが言った。


「観測を上げれば、固定点を探せる」


 その声は静かだった。


 だが、今度ははっきり言った。


 アルトは振り向く。


「またそれか」


「必要だから言っている」


「ユラがいる」


「監視台だ。距離はある」


「黒鐘は拾う」


「可能性だ」


「ユラにはそれが一番怖い」


 レオンは黙った。


 沈黙は短い。


「このままでは、降下中に崩れる可能性がある」


「分かってる」


「なら」


「分かってるって言ってるだろ」


 声が荒くなった。


 ガルドが二人の間に工具を差し出す。


「喧嘩は後だ。固定点なら作れる」


「どこに」


 レオンが聞く。


 ガルドは縦穴の縁を指した。


「この石は駄目だ。音を通すだけの薄い蓋だ。だが、その奥に芯がある」


「見えるのか」


「見えない」


 ガルドは工具を握る。


「叩けば分かる」


 彼は石を叩いた。


 こん。


 次の場所。


 こつ。


 さらに奥。


 ごん。


 音が変わった。


「ここだ」


 ガルドは言う。


「芯がある。ここに留める」


 アルトは思った。


 見えない仕事というのは、こういうものか。


 見えない芯を、音で探す。


 目立たない場所に、命を預ける。


 見えないから価値がないのではない。


 見えないところに価値がある時もある。


 ただ、それは遅い。


 危ない。


 今にも魔物が来る。


 レオンなら、観測で一瞬だったかもしれない。


 その事実は消えない。


 ◇


 縄を固定した時、黒鐘門の奥から別の音がした。


 金属ではない。


 爪で石を掻くような音。


 かり。


 かり。


 ミアの顔から血の気が引いた。


「人じゃない音もする」


「魔物か」


「たぶん」


 縦穴の下。


 人がいるかもしれない。


 魔物もいるかもしれない。


 道は狭い。


 観測は弱い。


 座標はない。


 音だけ。


 レオンが剣を握る。


「私が先に降りる」


「いや」


 アルトは即座に言った。


「俺が行く」


「君では狭い場所で剣が振れない」


「お前だって振りにくいだろ」


「私の方が速い」


「知ってる」


「なら」


「でも、俺が行く」


 レオンはアルトを見る。


「理由は」


 アルトは縦穴を見下ろした。


 暗い。


 底は見えない。


 音だけがある。


「見えない奴を拾うって、ここまで来たんだろ」


 言ってから、雑な理屈だと思った。


 レオンはしばらく黙った。


「役目で死ぬな」


「死なない」


「保証は」


「ない」


「なら、私が行くべきだ」


「お前が行くと、たぶん速い」


「そうだ」


「でも、たぶん見えてるものを優先する」


 レオンの目が細くなる。


 アルトは続けた。


「それが悪いって話じゃない。今はな」


「今は」


「ああ」


 レオンは剣の柄から手を離した。


「分かった」


 短い言葉だった。


 完全な納得ではない。


 だが、譲った。


「私が上を守る」


「頼む」


「落ちるな」


「落ちたら拾え」


「見えれば」


「聞け」


 レオンは一瞬だけ、返事に迷った。


 それから言った。


「努力する」


「そこは即答しろ」


 ミアが縄を持つ。


「私も行く」


「狭いぞ」


「私の方が小さい」


「それはそう」


「耳もいる」


「それもそう」


 ガルドが縄を確認する。


「三人は無理だ」


「俺とミア」


「俺は上で固定する。下で壊す場所があれば言え」


 ブルーノが通信で言う。


《音方向、共有します。映像は出せない。声だけで行ってください》


「分かった」


《あと、魔物反応が不安定です》


「いつものことだ」


《いつもより悪いです》


「言わなくていいことを言うな」


《言わないと死にます》


「なら言え」


 アルトは縄を握り、縦穴へ足を入れた。


 石は冷たい。


 狭い。


 息が壁に返る。


 下から、爪の音がまたした。


 かり。


 かり。


 その奥で、金属が弱く鳴った。


 か……ん。


 アルトは下を見た。


 何も見えない。


 でも、音はある。


 なら、行く理由にはなる。


「行くぞ」


 ミアが頷いた。


 アルトは縦穴へ降りた。


 上ではレオンが剣を構えている。


 ガルドが縄を握っている。


 ブルーノは、ほとんど映らない画面に目を凝らしている。


 ミナはユラの前に立ったまま、動かない。


 誰も拍手される場所にはいなかった。


 一つでも手が離れれば、下へ降りる前に終わる。


 神界には、ほとんど映っていなかった。


 それでよかった。


 今から拾いに行くものは、たぶん、神々の好きな形をしていない。


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