第56話 両方は
次の鐘を待つ五分は、五分ではなかった。
もっと長かった。
監視台の壊れた屋根から、黒い門が見える。
鐘は動かない。
動かないのに、そこにあるだけで背中の骨が重くなる。
アルトは監視台の入口に立っていた。
外から来る魔物の足音を聞きながら、黒鐘門の奥を見ている。
見えない。
奥には何も見えない。
さっき一瞬だけ出た未確定反応も、今は消えている。
金属音も戻らない。
ユラは壁際に座っていた。
布は外していない。
ミナが隣にいる。
水桶の位置を変え、布の影になるように椅子をずらし、黒鐘が鳴った時に映り込む角度を一つずつ消している。
ブルーノは端末から目を離さなかった。
何度も映像角度を切り替える。
床。
壁。
手元。
包帯。
水桶の縁。
顔は映さない。
顔につながる反射も映さない。
端末名も拾わせない。
それだけをするために、彼の指はずっと動いていた。
「あと三十秒」
ラウドが言った。
その声で、救助組合員たちが身を固くする。
西から救い出された荷運びの一人が、膝を抱え直した。
レオンは地図の前にいた。
剣は抜いていない。
けれど、右手は柄に添えられている。
次に鳴ったら、彼は動く。
それが分かった。
「次の鐘で、奥の反応を見る」
アルトが言った。
ブルーノは頷く。
「追います」
「ユラの遮蔽は」
「落としません」
「落とすな」
「分かってます」
返事は早い。
早すぎた。
アルトはブルーノの横顔を見る。
頬に汗が流れている。
拭く余裕もない。
ユラが布の下から言った。
「無理なら、言って」
ブルーノの指が一度だけ止まった。
すぐに動く。
「言います」
「勝手にはしないで」
「しません」
ユラは頷いた。
小さな動きだった。
ミナがユラの手元に布を一枚重ねる。
「手が冷えています」
「怖いだけ」
「怖い時も冷えます」
「そう」
「はい」
それだけの会話だった。
神界には映っていない。
見せる必要のない会話だった。
アルトは黒鐘を見上げる。
ミアの耳がぴたりと止まった。
「来る」
誰も返事をしなかった。
黒鐘が、揺れた。
そして鳴った。
◇
音は、体の中に入ってきた。
ごん、と。
胸の奥で鳴る。
歯の根が震える。
監視台の水桶に、丸い波がいくつも重なった。
神界表示が白く跳ねる。
赤い点が増える。
魔物。
亀裂。
崩落。
救助対象。
見える。
また、嫌になるほど見える。
ユラの布が浮き上がるように輪郭を持った。
外套の端。
肩。
頬の位置。
まだ顔ではない。
だが、顔に近づいている。
ブルーノが端末を叩く。
「落とす」
画面が床へ逃げる。
水桶の反射を切る。
壁の黒い石が映る。
ユラの布の影を、さらに暗くする。
同時に、黒鐘門奥の空白に点が灯った。
前よりもはっきりしている。
【未確定反応:再検出】
【座標:旧鐘室内壁・地下側】
【生命反応:極微弱】
【音声反応:なし】
アルトは画面を見た。
「出た」
ブルーノの指が震える。
「座標、固定します」
次の瞬間、ユラの輪郭がまた浮いた。
布の下の線が、神界表示に拾われかける。
ブルーノが息を呑む。
端末の上で、二つの表示が同時に震えていた。
ユラの遮蔽。
黒鐘門奥の未確定反応。
「……無理です」
ブルーノの声が割れた。
誰も動かなかった。
「ユラの遮蔽を維持したまま、奥の反応を固定できません」
指は動いている。
それでも画面は安定しない。
「どちらかを落とさないと、両方壊れます」
ユラの布を握る音がした。
乾いた布の音。
アルトには、やけに大きく聞こえた。
レオンが端末を見た。
「奥の反応を固定しろ」
声は通った。
迷いはない。
ブルーノが顔を上げる。
「ユラの遮蔽は」
「可能な限り維持する」
「可能な限りでは足りません」
「それでも固定しろ」
ユラの指が、布に食い込む。
ミナがユラの前に立とうとした。
アルトの足が一歩前に出る。
「レオン」
「今切れば、奥の反応を失う」
「ユラが映る」
「映さない努力は続ける」
「努力で済む話じゃない」
「分かっている」
レオンは言った。
「だが、奥の一人は今しか拾えないかもしれない」
正しい。
まただ。
また正しい。
アルトは端末を見た。
奥の反応は弱い。
消えかけている。
そこに誰かがいるかもしれない。
ユラは目の前にいる。
顔を出されたくないと、何度も言っている。
どちらも人だった。
どちらも、勝手に落としていいものではなかった。
それなのに、画面の上では、どちらかを落とせと言っている。
「選んでください」
ブルーノが言った。
声がかすれていた。
「俺が勝手に決めたら、どちらかを勝手に踏みます」
レオンの目が細くなる。
「現場で迷う時間はない」
「だから言っています」
ブルーノの指は止まっていない。
止めたら、本当に両方落ちる。
「選んでください。奥を固定するなら、ユラの遮蔽は崩れる可能性が高い。ユラを守るなら、奥は消える」
ユラが布の下から言った。
「勝手には、しないで」
小さな声だった。
けれど、黒鐘の音の後でも消えなかった。
「無理なら言ってって、言った」
ブルーノは目を伏せなかった。
「今、無理です」
ユラの手が、布を握ったまま止まる。
「そう」
「すみません」
「謝るのは、後でいい」
ユラの声は震えていた。
だが、逃げてはいない。
「今、聞いて」
その言葉で、ミナがユラを見る。
アルトも見る。
ユラは顔を上げない。
布の奥から言う。
「私は、勝手に映されたくない」
誰も口を挟まない。
「でも、私を守るために、誰かが消えるのも嫌」
アルトの胸が詰まった。
それを言わせたくなかった。
言わせたくなかったのに、ユラは言ってしまった。
「だから」
ユラの指が震える。
「勝手にはしないで。言って。今、何が起きるか」
ブルーノは端末を見た。
奥の反応が薄れる。
ユラの遮蔽も揺れる。
レオンが言う。
「奥を固定する」
「レオン」
アルトの声が低くなる。
「今切れば、奥の反応は消える」
「ユラが映るって言ってる」
「可能な限り抑える」
「可能な限りじゃ足りないって、本人が言ってるんだよ」
レオンはアルトを見た。
「なら、奥の一人を諦めるのか」
その言葉は、刃物ではなかった。
もっと悪い。
正しい問いだった。
アルトは答えられなかった。
ミアが耳を押さえている。
「奥、また音が」
「聞こえるのか」
「違う。鳴ってない。でも、石が震えてる」
ブルーノが叫ぶ。
「反応、消えます!」
レオンが一歩前に出た。
「固定しろ」
ブルーノの指が止まりかけた。
その指は、見せないために動いてきた指だった。
届かせるために動いてきた指だった。
今、その指が行き場を失っている。
アルトはブルーノの手首を掴んだ。
強くはない。
止めるためではない。
勝手に押させないためだった。
「まだ押すな」
「じゃあどうするんだよ!」
ブルーノが叫んだ。
「選べって言っただろ!」
黒鐘の余韻が、監視台の石を揺らしている。
神界コメントは流れている。
速すぎて読めない。
読む気もない。
レオンは剣の柄を握っている。
今にも走れる。
奥へ。
西へ。
どこへでも。
だが、そのための座標がいる。
座標を出すには、観測がいる。
観測を上げれば、ユラが危うい。
ユラが言った。
「私に、言って」
ブルーノは彼女を見られない。
ミナがユラのそばに膝をつく。
ユラは布の下で息を吸った。
「映る可能性があるなら、言って」
ブルーノの喉が動いた。
「あります」
「どれくらい」
「高い」
ユラの手が震えた。
でも、布を離さなかった。
「顔が出たら」
「切ります」
ブルーノは即答した。
「その瞬間、切ります」
レオンが言った。
「切れば座標が消える」
「消えます」
「それでも?」
ブルーノは唇を噛んだ。
血が出そうなほど、強く。
「勝手に映すよりは」
その言葉は、最後まで続かなかった。
レオンが言う。
「私は、奥の一人を救いたい」
「俺もだ」
アルトは返した。
「だが、救うために誰かを勝手に晒すのは違う」
「晒すためではない」
「結果として晒すなら同じだ」
「同じではない」
「同じだ」
二人の声が、初めてぶつかった。
大きくはない。
怒鳴ってもいない。
それでも、監視台の中で、はっきり割れた。
ユラの肩が震える。
ミナが彼女の前に立つ。
ブルーノの端末で、奥の反応がまた薄くなる。
【未確定反応:消失寸前】
レオンが言った。
「ブルーノ」
短い命令だった。
「奥を固定しろ」
ブルーノは動けない。
アルトは手首を離さない。
ユラの布を握る音がする。
ミアが黒鐘門の奥を見ている。
ラウドが歯を食いしばっている。
誰も、簡単に正しいことを言えなくなっていた。
その時、ガルドが低く言った。
「座標が要るなら、別のものを使え」
全員が彼を見た。
ガルドは工具袋から、細い金属片を取り出している。
ノルの荷具を直した時に残った、小さな補強片。
師匠の留め具と同じ古い鉄。
「黒鐘は金属音を拾った。なら、こっちから鳴らす」
「何をする気だ」
アルトが聞く。
「奥に届くかは分からん」
ガルドは黒鐘門の床へ膝をついた。
「だが、見えないなら、聞かせる」
彼は金属片を石床に当てた。
そして、工具で叩いた。
かん。
黒鐘の余韻の中に、小さな音が混じった。
かん。
かん。
アルトは息を止めた。
ミアの耳が跳ねる。
「返った」
「何が」
「奥から」
ブルーノの端末で、消えかけていた反応がわずかに揺れた。
座標は固定されない。
だが、音声反応が出た。
【音響反応:微弱】
【方向補正:可能】
ガルドはもう一度叩く。
かん。
奥から、遅れて返る。
か……ん。
弱い。
だが、ある。
アルトの胸に、息が戻る。
ブルーノが叫ぶ。
「座標じゃない。方向なら取れます!」
レオンの目が変わった。
「道は」
「不明。でも、音の方向は出せる」
アルトはブルーノの手を離した。
「ユラの遮蔽は」
「維持できます。座標固定より負荷が低い」
ユラの布を握る手が、ほんの少し緩んだ。
ミナが息を吐く。
レオンはガルドを見た。
「それで行けるのか」
「分からん」
ガルドは金属片を構えたまま言う。
「だが、見えるものだけで決めるよりはましだ」
その言葉が、石の床に落ちた。
レオンは何も言わなかった。
初めて、判断が止まった。
ほんの一拍。
その一拍で、黒鐘の補正がわずかに弱まる。
奥の反応はまだ残っている。
ユラの遮蔽も、まだ守られている。
両方は無理だった。
だが、別の何かが、ぎりぎり間に割り込んだ。
アルトは拳を握った。
「音で行く」
レオンが顔を上げる。
「危険だ」
「分かってる」
「座標がない」
「音がある」
「確実ではない」
「見えてるものだけが確実なら、最初からこんな話になってない」
レオンは黙った。
アルトは続けた。
「ユラは勝手に映さない。奥の一人も諦めない。両方は無理だって言われた」
彼はガルドの金属音を聞いた。
かん。
奥から、かすかに返る。
「だから、別の道を使う」
ブルーノが端末を握る。
「音方向、共有します。顔補正は落としたまま。位置情報じゃなく、音の矢印だけ出す」
レオンは目を伏せた。
それから剣を構え直す。
「分かった」
アルトは彼を見る。
「分かった?」
「音で行く」
短い返事だった。
まだ、決裂ではない。
だが、何かは確実に削れた。
ユラが布の下から言った。
「……勝手にしなかった」
ブルーノは端末から目を離せないまま答える。
「まだです」
「うん」
「まだ、勝手にはしてません」
「それでいい」
黒鐘の余韻が薄れていく。
神界表示は少しずつ暗くなる。
魔物の赤点もぼやけ始める。
奥から返る金属音だけが、細く残っていた。
かん。
か……ん。
アルトは黒鐘門の奥へ向き直る。
音がある。
なら、行く理由にはなる。
黒鐘門は、見えるものを増やす。
だが今、アルトたちは見えないものを、音で追うことにした。




