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第55話 次の鐘

 金属音は、戻らなかった。


 ミアの耳が、黒鐘門の奥へ向いたまま動かない。


 それが一番嫌だった。


 さっきまで、あの細い音を追っていた耳だ。


 かん。


 かん。


 弱くても、途切れながらでも、音があった。


 今はない。


 アルトは拳を開いた。


 掌に、古い留め具の角の跡が残っている。


 赤くなっていた。


 いつの間に、こんなに強く握っていたのか。


 ブルーノは端末を睨んでいる。


 画面には、黒鐘門の簡易図。


 西崩落区画の二つの反応。


 監視台の六人。


 魔物の赤点。


 そして、黒鐘門奥の空白。


 空白だけが、やけに広く見えた。


「あと四十秒」


 ブルーノが言った。


 声に余裕はない。


 レオンは地図の前に立っている。


 剣は抜いていない。


 抜いていないのに、もう次の動きが決まっているように見えた。


 西崩落区画。


 反応は二つ。


 負傷。


 魔物接近。


 崩落進行。


 救える。


 今なら。


 アルトは黒鐘門の奥を見た。


 そこには何も見えない。


 音もない。


「鳴ったら、奥を見る」


 アルトが言った。


 レオンはすぐに返した。


「見る」


「西より先に」


「確認はする」


 アルトはレオンを見た。


 言葉の順番が違う。


 レオンは続ける。


「西の二名は、今この瞬間にも崩落に巻き込まれる可能性がある。奥の一名は、まだ位置が確定していない」


「でも、音があった」


「分かっている」


「止まった」


「それも分かっている」


 レオンは地図から目を離さない。


「だからこそ、鐘で確認する」


 正しい。


 また正しい。


 アルトは奥歯を噛んだ。


 ミナはユラの横にいる。


 ユラは壁際に座り、外套を頭から被ったままだ。


 布の端を握る指は、昨日より強くない。


 だが、離してもいない。


 ブルーノは映像角度を変えた。


 壁。


 床。


 水桶。


 包帯。


 顔が映らない位置。


 それでも、黒鐘が鳴れば分からない。


「まだ大丈夫?」


 ユラが聞いた。


 ブルーノは端末から目を離さずに答える。


「まだ、大丈夫です」


「嘘なら、怒る」


「怒られる方がましです」


 ユラは少しだけ黙った。


 布の下で、息が一つ落ちる。


「じゃあ、怒る準備はしておく」


「その方が助かります」


 ブルーノは言った。


 変な会話だった。


 だが、勝手に映されるより、ずっとましな会話だった。


 黒鐘門の上で、鐘が揺れた。


 誰かが触れたわけではない。


 風もない。


 それでも、黒い鐘はわずかに傾く。


 ミアが耳を押さえた。


「来る」


 アルトは拳を握った。


 レオンが剣に手を置く。


 ブルーノが息を止める。


 そして、鐘が鳴った。


 ◇


 ごん、と。


 黒い音が、監視台の石を震わせた。


 水桶の表面に、丸い波が広がる。


 ユラの外套の布が、風もないのに揺れた。


 神界表示が白く跳ねる。


 一瞬、すべての輪郭が消えた。


 次に、見えすぎるほど見えた。


 西崩落区画の二人。


 赤い魔物の群れ。


 床下の亀裂。


 崩れかけた支柱。


 ユラの肩の震え。


 布の下の輪郭。


 ブルーノが歯を食いしばった。


「落とす」


 端末の操作音が速くなる。


 表示がぶれる。


 ユラの輪郭が、一度だけ浮きかけた。


 顔ではない。


 まだ顔ではない。


 だが、神界が布の奥に手を伸ばしたような見え方だった。


「ブルーノ」


 アルトの声が低くなる。


「やってる!」


 ブルーノの指が画面を叩く。


 映像が床へ落ちる。


 壁へ逃げる。


 水桶に反射した外套の端を、さらに切る。


 ユラが布を握る。


「今」


「まだ出てません」


「本当?」


「本当です」


 ブルーノは言った。


 今度は、迷わなかった。


「まだ、出してない」


 ミナがユラの手首に触れた。


「大丈夫です。今は、手だけ見ています」


 ユラの呼吸が荒い。


 でも、崩れてはいない。


 鐘の補正はユラを映そうとしている。


 ブルーノはそれを押し戻している。


 その代わり、端末の別の場所で表示が荒れた。


 黒鐘門奥。


 空白だった場所に、薄い点が出た。


 黄色とも白ともつかない、弱い反応。


【未確定反応:一瞬検出】


【座標不安定】


【生命反応:極微弱】


 アルトは画面を見た。


「いた」


 表示は、まばたきの間に薄くなる。


「ブルーノ、そこを固定しろ」


「無理です。補正をユラ側に使ってる」


「切り替えろ」


 言ってから、アルトは自分の言葉が何を意味するか分かった。


 ユラの顔補正を緩めれば、奥の反応を拾いやすくなる。


 奥の反応を固定すれば、ユラが危なくなる。


 ブルーノの手が止まらない。


 止められない。


「座標、出せるか」


 レオンの声が飛ぶ。


「一瞬だけ。旧鐘室の内側、地下側かもしれません」


「道は?」


「地図にない」


「崩落区画か」


「いえ。黒鐘門の内壁の中です。通路表示なし」


 レオンは地図を見た。


 目が細くなる。


 西崩落区画の二人は、はっきり見えている。


 魔物が近い。


 崩落までの危険表示も出ている。


 時間がない。


 奥の一人は、一瞬出ただけ。


 生命反応は極微弱。


 座標も不安定。


 しかも、そこを追えばユラの遮蔽が危うい。


 レオンは剣を抜いた。


「西へ行く」


 アルトは振り向いた。


「今、出た」


「不安定だ」


「いた」


「かもしれない」


 レオンの声は冷静だった。


 冷静すぎるほどに。


「西の二人は確実にいる。今行けば救える」


「奥は」


「次で確認する」


「音は止まった」


「だからこそ、今見えている命を落とせない」


 言葉は、全部正しい。


 一つずつなら、どれも間違っていない。


 だが、正しい言葉が並ぶたびに、アルトの胸の奥で何かが硬くなっていく。


 ユラの布が震えている。


 ブルーノはまだ顔を隠している。


 ミナはユラの横にいる。


 西には二人。


 奥には一瞬だけ出た誰か。


 レオンは剣を握る。


「アルト。君はユラたちを守れ。私は西を救う」


「また分担か」


「まだ、できる」


 その言葉が、今度は少し苦かった。


 アルトは返事をしなかった。


 返事の代わりに、拳を握る。


 正しいのは分かっている。


 だから余計に腹が立った。


 ◇


 レオンは西崩落区画へ走った。


 ガルムが続く。


 ガルドも縄と留め具を持って後を追う。


 黒鐘の補正で、西側の道は浮き上がって見えた。


 亀裂。


 落石。


 魔物。


 負傷者二名。


 全部が見える。


 レオンは迷わない。


 見えているものへ向かう。


 それは冷たさではなかった。


 救助だった。


 灰狼が三匹、崩落区画の入口に集まっている。


 黒鐘に引き寄せられた群れだ。


 レオンが剣を振る。


 神界通知が降る。


【軍神アレス:剣速補助】


【槍神オルグナ:突進補助】


【無名の神々:西を抜け】


 投げ銭が力になる。


 黒鐘がその力を見える形にする。


 レオンの剣は、また速くなった。


 一匹目を斬る。


 二匹目を流す。


 三匹目の進路を、倒した柱で塞ぐ。


 派手だ。


 だが、派手なだけではない。


 正確だった。


 救助対象までの道を開くための剣だった。


 ガルドが崩れた梁に縄をかける。


「引け!」


 ガルムが縄をつかみ、梁を固定する。


 落ちかけていた天井が、ぎりぎりで止まる。


 中にいた二人が見えた。


 一人は荷運び。


 一人は若い配信者。


 どちらも生きている。


 レオンは膝をつき、荷運びに手を伸ばした。


「掴め」


「剣聖……」


「名前は後でいい。出るぞ」


 その言葉に、アルトは通信越しで少しだけ笑いそうになった。


 レオンも、確かに変わっている。


 名前より先に、出る。


 見せるより先に、助ける。


 それは本当だ。


 だから、余計に厄介だった。


 ブルーノの通信が入る。


《西側、二名確保見込み。レオン側、成功しそうです》


「分かった」


 アルトは監視台の入口に立っていた。


 ユラたちの前に出る。


 黒鐘の補正はまだ続いている。


 魔物の群れが監視台にも寄ってきている。


 顔を映さないよう映像角度を絞っているせいで、周囲の情報が少し遅れる。


 ブルーノが全部を見られない。


 その遅れを、ミアが耳で拾っている。


「右、二」


「床下か」


「うん」


 アルトは床を打った。


《剛腕・砕打》


 魔物の進路が割れる。


 一匹は落ちる。


 もう一匹は跳んだ。


 アルトは拳で落とす。


 その間にも、ユラは布を握っていた。


「まだ?」


「まだです」


 ブルーノが答える。


「顔は出してません」


「無理なら」


「言います」


「今は?」


「まだ、無理じゃない」


 ユラは頷いた。


 ミナがその横で、水を渡す。


「飲めますか」


「少し」


「顔は上げなくていいです」


 ユラは布の下で水を飲んだ。


 その姿は神界には映らない。


 水桶の縁と、指先だけが映っている。


 コメント欄は流れていた。


 だが、いつものように読む余裕はない。


 流れの中で、一つだけアルトの目に引っかかった。


『奥の反応、追わないの?』


 アルトは見なかったことにした。


 できなかった。


 見てしまった。


 奥の反応。


 追わないのか。


 追えない。


 今は。


 その言葉が喉に貼りついた。


 ◇


 西側の二人は、救出された。


 レオンが一人を担ぎ、ガルムがもう一人を支える。


 ガルドの縄が、崩れかけた梁を最後まで持たせた。


 天井が落ちたのは、二人が出た後だった。


 遅れていたら死んでいた。


 誰が見ても分かる。


 レオンの判断は正しかった。


 西を先にしたから、二人は助かった。


 ブルーノが表示を出す。


【西崩落区画:二名救出】


【残救助対象:位置未確定一名】


【状態:不明】


 神界コメントが沸く。


『西救出成功!』

『レオン判断早い』

『今のは西優先で正解』

『崩落ギリギリだった』

『奥は次?』

『位置未確定まだ不明』


 レオンは二人を監視台へ連れて戻ってきた。


 外套はさらに汚れている。


 頬に灰がついていた。


 彼はユラたちを見て、ブルーノに聞く。


「遮蔽は」


「維持しています」


「よかった」


 その一言は、本心に聞こえた。


 レオンは本当に、ユラを晒したいわけではない。


 アルトはそれが分かった。


 分かっているから、拳を握り直した。


 レオンは地図へ向かう。


「次の鐘で、奥の反応を確認する」


「今行かないのか」


 アルトが聞いた。


「道がない。座標も不安定。魔物も増えている。今向かえば、ここにいる救助対象を危険に戻す」


「また正しいな」


 レオンがアルトを見る。


「正しくあろうとしている」


「それが嫌だと言ったら?」


「困る」


 短い答えだった。


 アルトは笑わなかった。


 レオンは続ける。


「私は、奥の一人を捨ててはいない」


「今は」


「今は」


 二人の間に、その言葉が残った。


 今は。


 まだ。


 分担できる。


 後で確認できる。


 次の鐘で見える。


 そういう言葉が、足場のように置かれている。


 だが、その足場がどれくらい持つのか、誰も分からない。


 ミアが黒鐘門の方を向いた。


「音、まだ戻らない」


 ブルーノが端末を確認する。


「次の鐘まで、推定五分」


 五分。


 短い。


 だが、さっきの一分より長く感じた。


 ユラが布の下から言った。


「奥の人、助けるの?」


 アルトは答える。


「助ける」


「見えないのに?」


「音があった」


「もう、ない」


「それでも」


 アルトは言葉を探した。


 見えないから、いないわけじゃない。


 音が止まったから、終わったわけじゃない。


 そんな言葉は浮かぶ。


 だが、どれも少し嘘くさい。


 結局、彼は言った。


「行く理由にはなる」


 ユラは黙った。


 それから、小さく言った。


「私の顔を守るのも、理由?」


「ああ」


「両方は?」


 アルトは答えられなかった。


 ユラは布を握り直す。


「難しいね」


「そうだな」


「難しいの、嫌い?」


「嫌いだ」


 ユラの肩が、わずかに揺れた。


「私も」


 そのやり取りを、神界は見ていない。


 見せていない。


 ただ、足元と水桶と包帯だけが映っている。


 ブルーノが端末の前で、ずっと指を動かしている。


 見せないために、見ている。


 その指が止まった。


「次の鐘で、奥を追います」


 ブルーノが言った。


「ただし、ユラの遮蔽が危うくなったら、即座に落とす」


 レオンが見る。


「落とせば、奥の反応も消えるかもしれない」


「分かっています」


「その時は?」


 ブルーノは端末を見たまま答えた。


「その時、また決めます」


 レオンの眉が動いた。


「現場で迷うのは危険だ」


「迷わず勝手に映す方が、もっと危険です」


 ブルーノの声は震えていた。


 だが、逃げてはいなかった。


 レオンは何も言わなかった。


 沈黙の中で、黒鐘門の奥から風が来た。


 ぬるい風。


 鐘の前触れかもしれない。


 アルトは拳を開く。


 掌の赤い跡は、まだ残っていた。


 西の二人は助かった。


 ユラの顔はまだ出ていない。


 レオンの判断は正しかった。


 ブルーノも踏ん張っている。


 それなのに、アルトは正しいものが少し嫌いになりそうだった。


 黒鐘は、まだ鳴らない。


 次に鳴った時、何が見えるのか。


 何を見せてしまうのか。


 誰も、もう軽くは言えなかった。


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