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第54話 見える者から救う

 ユラは、顔を上げなかった。


 外套の布を握ったまま、ミナの肩を借りて歩いている。


 足取りは危うい。


 腕の包帯は白いが、すでに端が灰で汚れていた。


 アルトは後方に立ち、南側回廊の奥を見ている。


 火喰い鼠は減った。


 灰狼の気配も一度は遠のいた。


 だが、黒鐘門の奥から響く金属音だけは、まだ消えない。


 かん。


 かん。


 遠い。


 細い。


 聞き逃そうと思えば、聞き逃せる音だった。


 ミアは耳を伏せている。


「まだ鳴ってる」


「どこだ」


「奥。門の中。壁の向こうみたい」


 ブルーノの通信が入る。


《位置反応なし。生命反応なし。音だけです》


「鐘が鳴ったのにか」


《はい》


 アルトは舌の奥に灰の味を感じた。


 鐘が鳴れば見える。


 そういう話だった。


 だが、見えないものはまだある。


 見えるはずの場所で、なお見えないものがある。


 ユラが足を止めかけた。


 ミナがすぐ支える。


「少しだけ、息を整えましょう」


「……止まると、また」


「顔は出していません」


 ミナは同じ言葉を、同じ重さで言った。


「今は、歩くために止まります」


 ユラは頷いた。


 ほんのわずかに。


 アルトは入口側を見る。


 背後から小型の魔物が回り込んでくる気配がある。


 見える。


 黒鐘の余韻がまだ残っているから、灰の下を走る赤い点が薄く浮く。


 アルトは床を打った。


《剛腕・砕打》


 灰の筋が割れ、火喰い鼠の足が止まる。


 ミアがその横を抜けて、短剣で一匹を払った。


「退路、いまなら空いてる」


「行くぞ」


 ユラがまた歩き出す。


 外套の下で息が乱れていた。


 それでも、足は出ている。


 小部屋から出る直前、彼女は一度だけ振り返った。


 奥ではまだ、金属音が鳴っている。


 かん。


 かん。


「誰か、いるの」


 ユラが聞いた。


 アルトは答えに詰まった。


 いる、と言えば嘘になる。


 いない、と言えばもっと嘘になる。


「音がある」


 そう答えた。


 ユラは布の端を握り直した。


「それ、怖いね」


「ああ」


 アルトは奥を見る。


「怖い」


 その一言だけは、すぐに言えた。


 ◇


 北側回廊から、レオンが戻ってきた。


 早かった。


 予想よりもずっと早い。


 救助組合員三名は全員生きている。


 一人は肩を押さえている。


 一人は足を引きずっている。


 もう一人は顔色こそ悪いが、自力で歩いていた。


 レオンの白い外套には、灰と血が薄く散っている。


 剣は抜いたまま。


 だが、刃に無駄な血は残っていない。


 ガルムがその後ろで息を吐く。


「相変わらず速い」


「黒鐘の補正があった」


 レオンは短く言った。


「それと神々の支援も」


 ブルーノの端末に、北側の記録が流れている。


 レオンの剣は確かに映えていた。


 だが、ただ派手なだけではない。


 救助組合員へ向かう最短の魔物だけを斬り、倒した魔物の体で後続の進路を塞ぎ、崩落しかけた柱を切り落として、通路を一時的に固定している。


 剣で道を作っていた。


 神々が沸く。


 投げ銭が増える。


 その支援で、さらに剣が速くなる。


 結果として、三人は生きて戻ってきた。


 アルトはその事実を見た。


 嫌でも見た。


 レオンは正しい。


 少なくとも、北側では。


 ラウドが救助組合員を見て、強く息を吐いた。


「戻ったか」


「三名、確保した」


 レオンは言った。


「応急処置を」


 ミナがすぐに動く。


 リリはいない。


 ここではミナ一人だ。


 それでも、手は迷わなかった。


「顔は出しません。痛いところから言ってください」


 組合員の一人が、冗談を言おうとして失敗した顔をした。


「顔なんか、今さら誰も見たがらないだろ」


「見たがる人はいます」


 ミナは包帯を広げた。


「だから、出しません」


 男は一瞬黙り、それから頷いた。


「助かる」


 ブルーノは映像を手元に寄せる。


 顔ではなく、包帯。


 泣き声ではなく、手順。


 そこはもう、彼の中で決まっているようだった。


 だが、端末の端ではレオンの切り抜きが増え続けている。


 白い剣光。


 黒鐘の門。


 救助成功。


 美しい。


 文句をつけようがないほど、美しい。


 アルトは端末を閉じた。


 今は見る必要がない。


 ◇


 南側の三人と北側の三人。


 計六人。


 さらに西崩落区画に二人。


 そして位置未確定が一人。


 ラウドは地図の前に立ち、唇を噛んでいた。


 黒鐘の余韻は弱くなっている。


 神界表示の赤点も、黄色点も、少しずつ薄れていた。


 鐘の効果が切れかけている。


 その代わり、魔物のうなりは近くなっていた。


 黒鐘の音で集まった群れが、門周辺に寄り始めている。


 ブルーノが言う。


「次の鐘まで、推定二分半」


「西の二人は?」


 アルトが聞く。


「まだ動ける可能性があります。ただ、崩落区画です」


 ラウドが答える。


「行くなら今だ。次の鐘で魔物がさらに来る」


 レオンが地図を見る。


「北側三名、南側三名。今ここにいる六名は、すぐに外へ出すべきだ」


「西は?」


「救える」


 レオンは指で最短経路を示した。


「ただし、今の六名を抱えたまま向かえば全員の足が遅くなる。まず見えている者を監視台まで出す。その後、西へ向かう」


 アルトは地図の奥を見た。


 位置未確定。


 反応なし。


 音だけ。


「奥の一人は」


「次の鐘で確認する」


 レオンは言った。


「今は、見えている者から救う」


 その場が少し重くなった。


 だが、その判断は正しい。


 六人の救助対象はここにいる。


 負傷している。


 ユラは次の鐘を怖がっている。


 組合員は肩と足をやられている。


 西にも二人いる。


 位置未確定の一人は、生命反応がない。


 音だけ。


 ここで奥へ向かうのは、判断として危うい。


 危ういどころではない。


 たぶん、間違っている。


 アルトはそれが分かった。


 分かってしまった。


「見えてないからって、いないことにはならない」


 アルトは言った。


 声は荒くなかった。


 荒くできなかった。


 レオンは頷いた。


「分かっている」


「本当にか」


「だから、次の鐘で確認する」


 レオンの声は静かだった。


「だが、見えていない一人を探すために、見えている六人を危険に戻すことはできない」


 ラウドが目を閉じた。


 彼も同じ判断なのだろう。


 救助組合員として。


 現場の責任者として。


 嫌でも、そう選ぶしかない。


 ミナはユラの腕を支えたまま、何も言わなかった。


 ユラの布の下から、浅い呼吸だけが聞こえる。


 ミアは奥を見ている。


 耳だけが動いていた。


 かん。


 かん。


 金属音は続いている。


 ガルドが工具袋の紐を握る。


「音は、止まっていない」


「分かってる」


 アルトは言った。


「分かってるんだよ」


 掌の中で、古い留め具が痛い。


 角が皮膚に食い込んでいる。


 アルトは拳を開かなかった。


「六人を出す」


 彼は言った。


「その後、西だ。奥は次の鐘で見る」


 レオンが頷く。


「それが最も生存率が高い」


「その言い方、嫌いだ」


「他の言い方を探す余裕がない」


「だろうな」


 アルトはユラの方へ向く。


「出るぞ」


 ユラは小さく頷いた。


「次の鐘までに?」


「ああ」


「もし鳴ったら」


 ブルーノが割り込む。


《顔補正を最大で落とす。手元と足元だけにする。必要なら一時的に映像を切る》


 レオンがブルーノを見た。


「位置情報は残せ」


「残します」


「映像を切るなら、座標だけは落とすな」


「分かってます」


 ブルーノの声に、余裕はない。


 だが、逃げてはいない。


「全部は守れないかもしれない。でも、勝手に出すことはしない」


 ユラは返事をしなかった。


 布の下の手が、わずかに緩んだ。


 たぶん、それで十分だった。


 ◇


 監視台への撤退は、派手ではなかった。


 レオンが先頭で道を切る。


 ガルムが右を受ける。


 アルトは後方で、魔物の進路を砕く。


 ミアは側面を走り、視界の外から来る小型を落とす。


 ミナは六人の歩幅を見ながら、何度も声をかけた。


「走らなくていいです」


「止まりません」


「痛い時は言ってください」


「顔は下げたままで大丈夫です」


 同じ言葉でも、同じ響きにはならない。


 相手ごとに、少しずつ違う。


 それがミナの強さだった。


 ユラは最後まで顔を上げなかった。


 だが、歩いた。


 布を握ったまま、歩いた。


 黒鐘の余韻が薄れていくにつれて、神界表示も曖昧になる。


 それは安心でもあり、危険でもあった。


 魔物位置もぼやける。


 足場の亀裂も見えにくくなる。


 アルトは舌打ちしそうになる。


 さっきまで嫌だった見え方が、消えると今度は困る。


 見えることは、やはり力だった。


 そのことを否定できない。


「左、来る」


 ミアが言った。


 アルトは左の床を見た。


 亀裂はもうほとんど見えない。


 勘で打つしかない。


《剛腕・砕打》


 床が割れる。


 火喰い鼠の群れの半分は落ちた。


 半分は残る。


 見えないと、精度が落ちる。


 それも事実だった。


 レオンが前方で剣を返す。


 黒鐘の補正は薄い。


 それでも速い。


 だが、さっきほどではない。


 神々の投げ銭も減っている。


 レオンの動きが鈍ったわけではない。


 加速が消えただけだ。


 彼はそれでも、先頭で道を開いた。


「あと少しだ」


 ラウドが叫ぶ。


 監視台の崩れた屋根が見える。


 ユラの足がもつれた。


 ミナが支える。


 アルトが後ろから手を伸ばし、肩に触れないぎりぎりのところで外套の端を押さえた。


「転ぶな」


「触らないんだ」


「必要なら触る」


「今は?」


「まだ必要ない」


 ユラは息を漏らした。


 笑ったのかもしれない。


 顔は見えなかった。


 それでいい。


 六人が監視台の内側へ入る。


 ブルーノが即座に表示を出した。


【救助対象:六名】


【一時安全圏へ移動】


【顔・個人識別情報:非表示】


【残救助対象:西崩落区画二名/位置未確定一名】


 神界コメントが流れる。


 速くはない。


 だが、確かにあった。


『六名確保』

『顔出してない』

『レオン側もアルト側も成功』

『地味だけど助かる』

『次、西?』

『位置未確定まだいる』


 最後の一つだけが、アルトの目に残った。


 位置未確定まだいる。


 いる。


 そうだ。


 まだいる。


 ◇


 監視台の奥で、ミナは処置を続けた。


 ラウドは救助組合員たちに水を渡している。


 ユラは壁際に座った。


 布は外さない。


 誰も外せとは言わない。


 ブルーノは端末の前で、汗を拭う暇もなく設定を調整していた。


「次の鐘で、補正がまた跳ねる」


「ユラの顔は」


 アルトが聞く。


「落とす。けど、南側より監視台の方が遮蔽物が少ない。角度を選ぶ」


「選べ」


「選ぶ」


 ブルーノは映像角度を切り替える。


 壁。


 足元。


 救助対象の手元。


 水桶。


 壊れた屋根。


 顔は映さない。


 それでも、黒鐘の補正が来ればどうなるか分からない。


 ユラはそのやり取りを聞いていた。


 そして、布の下から言った。


「もし無理なら」


 ミナが顔を上げる。


「無理なら、言って」


 ブルーノの手が止まった。


 ユラは続ける。


「勝手に映るより、言われた方がまだまし」


 誰もすぐには答えられなかった。


 ブルーノは端末を伏せそうになって、伏せなかった。


「分かった」


 短い声だった。


「無理なら言う。勝手にはしない」


 ユラは頷いた。


 それだけだった。


 外では、黒鐘門の方から魔物の声が増えている。


 レオンは地図の前に立つ。


「西崩落区画へ向かう」


「奥は」


 アルトが聞く。


「次の鐘で確認する」


「その前に西か」


「西の二名は反応がある。動けない。崩落が進めば死ぬ」


 正しい。


 また正しい。


 正しいものが、列を作って並んでいる。


 その列の外で、金属音が鳴っている。


 かん。


 かん。


 ミアが顔をしかめた。


「音、弱くなってる」


 アルトは黒鐘門の奥を見る。


 見えない。


 ここからでは、何も見えない。


 ブルーノが時間を見る。


「次の鐘まで、推定一分」


 全員が動く準備をした。


 レオンは剣を抜き直す。


 ガルムが肩を回す。


 ガルドは縄と留め具を持つ。


 アルトは拳を握る。


 掌の中にあった古い留め具を、腰袋へ戻した。


 今は握っている場合ではない。


 使う時が来るかもしれない。


 その時、金属音が止まった。


 かん。


 かん。


 次が来なかった。


 アルトは息を止めた。


 ミアの耳が立つ。


 ブルーノが端末を見下ろす。


 黒鐘門は沈黙している。


 次の鐘が鳴るまで、あと一分。


 その一分が、やけに長かった。


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