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第53話 見えるはずの一人

 南側回廊は、黒鐘の余韻でまだ震えていた。


 壁の黒い石に、白い線が走っている。


 亀裂だ。


 さっきまで見えなかったはずの細い割れ目が、鐘の後から浮かび上がっている。


 アルトは走りながら、それを見た。


 見える。


 床の沈みも、壁の歪みも、魔物の気配も。


 見えすぎる。


 背後でミナの治療袋が揺れる。


 ミアは先行しながら、片耳だけ後ろへ向けていた。


 ブルーノの声が通信に入る。


《南側、生命反応三。近い。魔物反応は四……いや、六》


「増えたな」


《鐘が鳴ってから寄ってきてる》


「分かりやすく嫌だな」


《顔補正は落としてる。端末名も伏せてる。ただ、鐘の補正が強い》


「完全には隠せないってやつか」


《そう》


 ブルーノの返事は短かった。


 余計な言葉を足す余裕がないらしい。


 回廊の奥から、もう一度声が聞こえた。


「……映さないで」


 かすれている。


 泣いてはいない。


 叫んでもいない。


 ただ、それだけを絞り出した声だった。


 ミナの足が速くなる。


「聞こえました」


「ああ」


 アルトは壁の亀裂を避け、低くなった天井をくぐる。


 足元に赤い点が出た。


 火喰い鼠。


 灰の下を走っている。


 見える。


 鐘のおかげで、灰の下の動きまで薄く透けている。


 アルトは拳を握った。


《剛腕・砕打》


 床を打つ。


 火喰い鼠が走る灰の筋だけが砕けた。


 小さな悲鳴が灰の下で途切れる。


 ミアが前方の二匹を切る。


 短剣の音は軽い。


 だが、壁に反響して妙に大きく聞こえた。


「前、開いた」


「行く」


 角を曲がると、南側回廊の小部屋が見えた。


 崩れた支柱。


 倒れた荷箱。


 散った布。


 三人がいた。


 一人は壁際で座り込んでいる低ランク配信者の男。


 一人は足を押さえている補助員。


 そして、奥にもう一人。


 薄い外套を頭から被り、顔を両腕で隠している。


 黒鐘の光が、彼女の輪郭を拾っていた。


 顔は見えない。


 だが、見せようとしている。


 世界そのものが、布の下を覗こうとしているようだった。


 ミナがすぐに前へ出る。


「顔は映しません」


 外套の下の肩が、びくりと動いた。


「……ほんとうに?」


「はい」


 ミナは膝をついた。


「今は、怪我を見ます。話したくないことは話さなくていいです」


 女は返事をしなかった。


 布の端を握る指だけが、さらに白くなる。


 ブルーノの声が荒く入る。


《南側、顔補正を最低まで落とした。映像は手元と床、負傷箇所だけにする》


「いい」


 アルトは周囲を見る。


 入口側に火喰い鼠が残っている。


 奥の通路には、灰狼の反応が一つ。


 まだ遠い。


 だが、来る。


 ミアが低く言った。


「この人がユラ?」


 外套の女の指が止まる。


 ミナはミアを見ないまま、静かに言った。


「名前も、今は呼ばなくていいです」


 ミアの耳が伏せた。


「ごめん」


 女は小さく息を吐いた。


 それが返事だった。


 アルトは入口側へ立つ。


「ミナ、何分」


「足の補助員はすぐ動かせます。配信者の方は軽傷。奥の方は……」


 ミナは外套の女の腕を見る。


 袖の下に血がにじんでいた。


「腕に裂傷。あと、呼吸が浅いです」


「動けるか」


 外套の女は布を握ったまま言った。


「動ける」


 ミナがすぐに首を振る。


「無理に立つと、倒れます」


「でも、ここにいると」


 そこで言葉が切れた。


 ここにいると、映る。


 言わなくても分かった。


 ミナは包帯を取り出す。


「動くための処置をします」


「顔は」


「映しません」


「鐘が鳴ったら」


 ミナの手が、一瞬だけ止まった。


 外套の女は、布の中から続けた。


「鐘が鳴ったら、前は全部映った」


 その場に、誰もすぐ返せなかった。


 ブルーノの通信も止まる。


 アルトは入口に立ったまま、奥歯を噛む。


 前は全部映った。


 それが何を指すのかは、聞かなくてもいい。


 今ここで開くべき話ではない。


「次の鐘まで、どれくらい」


 アルトが聞いた。


 ブルーノがすぐ答える。


《正確には不明。資料上は初鳴から七分前後。ただし黒鐘門の内部干渉で誤差あり》


「つまり、急げってことか」


《はい》


 ミアが奥を見る。


「灰狼、近づいてる」


「何匹」


「一。大きい」


「分かりやすく嫌なやつだな」


 アルトは拳を鳴らした。


「ミナは処置。ミアは左。俺は入口と奥を見る」


「両方見るの?」


「見えるんだろ、今は」


 黒鐘のせいで。


 その見え方が腹立たしいほど役に立っていた。


 ◇


 北側回廊では、レオンが走っていた。


 彼の剣は、黒鐘の補正で白く長く尾を引く。


 神界には、きっと美しく映っている。


 実際、美しかった。


 レオンの足取りは迷わない。


 救助組合員三名の生命反応は、鐘の直後にはっきり浮かんでいた。


 壁の奥。


 崩れた鐘室の下。


 灰狼が四匹。


 火喰い鼠が群れ。


 普通なら迂回が必要な場所だった。


 レオンは迂回しなかった。


「ガルム、右を押さえてくれ」


「任せろ」


「私は中央を抜く」


「派手にやれ」


 ガルムが言う。


 レオンは一瞬だけ彼を見た。


「必要なら」


「必要だ」


 ガルムは灰狼の突進を受け止めた。


 剣と牙がぶつかる。


 レオンはその横を抜けた。


 神界通知が降る。


【軍神アレス:剣速補助】


【雷神トール:衝撃強化】


【無名の神々:剣聖を見せろ】


 レオンの剣が、白から青白い光を帯びる。


 黒鐘の観測補正が、その軌道をさらに鮮明にした。


 切っ先の角度。


 踏み込み。


 灰の散り方。


 全部が見える。


 神々が沸く理由がある。


 そして、その熱狂は力になっていた。


 レオンは灰狼の喉元へ入り、剣を返す。


 一匹目。


 二匹目。


 倒れた灰狼の身体が、火喰い鼠の進路を塞ぐ。


 三匹目は斬らず、肩で流す。


 後続の群れが崩れる。


 戦闘ではない。


 救助路を作っている。


 レオンは、誰より速く道を開けていた。


 崩れた鐘室の下から、声が上がる。


「こっちだ!」


「組合員三名、確認」


 ブルーノの通信が全体に入る。


《北側、救助対象確認。レオン側、接触成功》


 神界コメントは速すぎて読めない。


 ただ、投げ銭通知だけは見えた。


 次々と。


 レオンの剣がさらに速くなる。


 ガルムが低く笑った。


「見られるほど強くなるか」


「使えるものは使う」


 レオンは一人目の組合員を引き起こしながら言った。


「今は、それで救える」


 その言葉は正しかった。


 少なくとも、ここでは。


 ◇


 南側回廊で、アルトはその通信を聞いた。


 レオン側、接触成功。


 早い。


 予想よりも早い。


 アルトは入口の火喰い鼠を蹴り飛ばしながら、舌を打ちかけてやめた。


 レオンが速いのは悪いことではない。


 救助対象が助かる。


 支援が増える。


 道が開く。


 正しい。


 嫌になるほど正しい。


 ミナは外套の女の腕を処置していた。


 顔は映していない。


 ブルーノは手元だけを出している。


 神界表示には、ミナの指と包帯、床の亀裂、魔物位置だけが映る。


 そこに感情は乗せていない。


 外套の女は小さく言った。


「見てる?」


 ミナは手を止めない。


「手元だけです」


「顔は?」


「出していません」


「名前は?」


「呼びません」


 女の呼吸が少し深くなる。


 その呼吸を見て、ミナは包帯の強さを変えた。


「痛いですか」


「痛い」


「はい。もう少しだけ」


 アルトは奥を見る。


 灰狼の影が迫っていた。


 大きい。


 黒鐘の補正で、筋肉の動きまで見える。


 助かる。


 見えるから、対応できる。


 見えることを全否定などできない。


 アルトは拳を握った。


 灰狼が跳ぶ。


 彼は正面から殴らない。


 足元を見た。


 黒鐘の補正で、床の亀裂が浮かび上がっている。


 敵が踏む場所。


 そこへ拳を落とす。


《剛腕・砕打》


 床が割れた。


 灰狼の前足が沈み、巨体が傾く。


 ミアが横から入り、目の前に灰を蹴り上げた。


 視界を潰す。


 アルトが肩で押し込む。


 灰狼は壁に叩きつけられた。


 黒い石が鳴る。


 外套の女が肩を震わせる。


「大丈夫です」


 ミナが言った。


「こちらは見なくていいです」


「でも」


「私を見てください」


 ミナは女の手に包帯を巻きながら、そう言った。


 女は布の下から、ミナの手元を見た。


 それだけでよかった。


 アルトは二匹目の火喰い鼠を潰し、入口側を塞ぐ。


「動けるか」


 ミナが答える。


「補助すれば」


 外套の女が立とうとする。


 足元が揺れた。


 アルトが肩を貸す前に、彼女は身を引いた。


「映る」


「映させない」


「無理だった」


 その言葉は、刃物みたいに薄かった。


「前も、無理だった」


 アルトは言葉を飲み込んだ。


 何か言えば、嘘になる。


 ミナが静かに言う。


「今回は、私たちがいます」


「それで、止まるの」


 外套の女は布を握る。


「神様が見たいって言ったら、止まるの」


 ミナはすぐには答えなかった。


 答えられなかったのではない。


 軽く答えなかった。


「止めます」


 短い言葉だった。


「全部は、できないかもしれません」


 ミナは続ける。


「でも、止めようとします」


 外套の女の指が、少し緩んだ。


 その時、ブルーノが通信に割り込む。


《南側、補正が上がってる。鐘の余韻がまだ残ってる。布の下の輪郭が拾われかけてる》


「落とせ」


 アルトが言う。


《落としてる。これ以上落とすと位置情報も怪しい》


「落とせるところまで落とせ」


《やってる!》


 ブルーノの声が荒れた。


 怒っているのではない。


 手が足りない声だった。


 外套の女が震える。


「やっぱり」


「まだ出てない」


 アルトは言った。


「出させない」


 自分でも、どこまで本当か分からない。


 だが、言うしかなかった。


 ミアが耳を動かす。


「アルト」


「次は何だ」


「音がする」


「灰狼か」


「違う」


 ミアは南側の奥ではなく、門の中心の方を向いた。


「鐘じゃない。小さい金属音」


 アルトの背中に、嫌なものが走った。


「位置未確定の一人か」


 ブルーノが通信で拾う。


《待って。今、音声拾います》


 黒鐘門の奥。


 位置反応なし。


 生命反応なし。


 だが、音がある。


 かん。


 かん。


 遠い。


 ひどく遠い。


 誰かが金属を叩いている。


 ガルドの槌とは違う。


 もっと弱い。


 だが、一定の間隔があった。


 ミアが言う。


「助けを呼んでる」


 アルトは奥を見た。


 黒鐘門の中心部。


 地図には、通路がない。


 鐘が鳴っても、反応は出ていない。


 なのに、音だけがある。


《全体共有》


 ブルーノの声が戻る。


《位置未確定一名、生命反応なし。ただし金属音あり。門奥、旧鐘室のさらに内側かもしれない》


 レオンの声が北側から入る。


《北側、三名確保。撤退準備中》


 アルトは言った。


「奥に一人いる」


《反応は?》


「音だけ」


《鐘が鳴っても見えないのか》


「そうらしい」


 短い沈黙。


 黒鐘の余韻が、壁の奥でまだ鳴っている。


 レオンの声が戻る。


《南側を優先して救出しろ。見えない者は、次の鐘で再確認する》


 正しい判断だった。


 今、南側には三人いる。


 ユラもいる。


 負傷者もいる。


 位置未確定の一人は、見えない。


 生命反応もない。


 音だけ。


 ここでそちらへ行くのは危険だ。


 アルトは外套の女を見る。


 ミナを見る。


 ミアを見る。


 誰も「行け」とは言わない。


 言える状況ではない。


 アルトの掌の中で、古い留め具が食い込んだ。


 見られない仕事の重さ。


 見えるはずなのに、見えない一人。


 かん。


 かん。


 また音がした。


 アルトは奥歯を噛んだ。


「分かった」


 そう答えるしかなかった。


 今は。


 ミナが外套の女を支える。


「立てますか」


「……はい」


「顔は下げたままで大丈夫です」


 ミアが入口を確認する。


「今なら抜けられる」


 アルトは奥を見るのをやめた。


 やめるのに、少しだけ力が要った。


「南側を出る」


《了解》


 ブルーノの声が低くなる。


《次の鐘まで、推定三分》


 三分。


 その数字が、通路の中で重くなる。


 外套の女が一歩踏み出す。


 布の下で、彼女が言った。


「私、ユラ」


 誰も名前を呼んでいないのに。


 彼女は自分で言った。


 ミナが頷く。


「はい」


「呼ばなくていい。でも、私が言うのは、いい」


「はい」


 ユラは歩き出した。


 顔は見えない。


 それでいい。


 奥ではまだ、金属音がしている。


 かん。


 かん。


 次の鐘が鳴るまで、あと三分。


 黒鐘門は、見えるものばかりを増やしていく。


 それでも、見えない一人がいた。


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