第51話 見られない仕事
ガルドは、ノルの荷具から外した留め具を掌に乗せていた。
黒ずんだ鉄だった。
端は削れ、留め穴の片方は少し歪んでいる。
それでも、割れていない。
無理に目立たせる飾りはない。神紋もない。製作者の名も彫られていない。
ただ、力がかかる場所だけが、厚く打たれていた。
ガルドの親指が、留め具の裏をなぞる。
そこで、指が止まった。
「……あの人の仕事だ」
厨房で、包丁の音が止まった。
マルタが顔を上げる。
アルトは椅子の背にもたれたまま、ガルドの手元を見た。
ノルは足を固定されたまま、椅子に座っている。
「それ、分かるの?」
ノルが聞いた。
ガルドは留め具を目の高さに上げる。
「分かる」
「名前、ないけど」
「名前を入れない人だった」
ガルドの声は、いつもより低かった。
店の端でブルーノが端末を触っていたが、手を止めた。
ミアは干し果物を口に入れかけて、やめる。
アルトは神界コメントを見なかった。
今見るものは、端末ではない気がした。
ガルドは留め具の角を指した。
「ここだ。荷の重みが逃げるように、ほんの少しだけ丸めてある。普通は見栄えで削る。あの人は、持つ奴の手を見て削った」
ノルは自分の荷具を見る。
「それ、俺の?」
「ああ」
「中古で買った。安かったから」
「だろうな」
「安物じゃないの?」
ガルドは即答しなかった。
留め具をもう一度掌に戻す。
「安く売られたものだ」
ノルは黙った。
その違いが分かったのか、分からなかったのか。
マルタが包丁を置いた。
「懐かしいね」
ガルドは顔を上げない。
「あんたも知っているだろう」
「知ってるよ」
マルタは濡れ布巾で手を拭いた。
「あの人は、この店の椅子も直した。鍋の取っ手も。裏口の蝶番も。あんたが今座ってるその棚の足もね」
ノルが驚いたように周りを見る。
赤猫亭の椅子。
棚。
鍋。
入口の古い金具。
誰も気にしていないものばかりだった。
だが、そこにあった。
毎日、人を座らせ、飯を出し、扉を開け閉めしている。
「師匠って、有名だったのか」
アルトが聞いた。
ガルドの口元が、苦く動いた。
「有名ではなかった」
マルタが鼻を鳴らす。
「腕は良かったよ」
「腕は良かった」
ガルドは同じ言葉を繰り返した。
「だが、見られなかった」
そこに、古い棘があった。
何度も触って、まだ抜けていない棘。
「当時、神界で人気だった職人がいた。派手な装飾を打つ奴だ。武器に神紋を入れ、鎧に光る筋を刻む。戦闘中に映える。神々が好んだ」
ブルーノが小さく言う。
「切り抜き向きですね」
「そうだ」
ガルドは否定しなかった。
「その職人は、注文が増えた。名が売れた。工房も大きくなった。弟子も増えた」
「あの人は?」
ノルが聞いた。
ガルドは留め具を握った。
「あの人は、荷具を直していた。鍋を直していた。壊れた椅子を直していた。神々が見ない場所で、必要なものばかり直していた」
厨房の火が、ぱち、と鳴った。
マルタは鍋の中をかき混ぜる。
「それが仕事だろ」
「そうだ」
ガルドの声が硬くなる。
「だが、評価はされなかった」
「評価なら、そこにあるだろ」
マルタは鍋の取っ手を叩いた。
鈍い音がした。
次に、椅子の背を叩く。
「この椅子、何年使ってると思ってる」
ガルドは答えない。
「この鍋で、何人分の飯を作ったと思ってる」
マルタは棚を指す。
「この棚が倒れなかったから、治療道具が散らばらずに済んだ夜がある。裏口の蝶番が持ったから、火事の時に逃げられた奴もいる。荷具の留め具が切れなかったから、途中で荷を落とさずに帰れた奴もいる」
店内の音が消えたわけではない。
湯が沸いている。
誰かが椅子を引いた。
外では荷車の車輪が石畳をこすっている。
その音の中で、マルタの声だけが少し太く残った。
「あの人の仕事は、まだ人を帰らせてる」
ガルドの手が、留め具を強く握った。
黒ずんだ鉄が、掌の中で鈍く光る。
「俺は」
ガルドは言葉を切った。
喉の奥で、何かを飲み込むような間があった。
「俺は、あの人の仕事が見られなかったことが悔しかった」
マルタは何も言わない。
「神に媚びる職人が評価され、あの人が埋もれていくのが、我慢ならなかった」
「うん」
「だが、あの人はたぶん」
ガルドは留め具を見た。
「見られなかったことより、直らなかったものの方を悔しがった」
マルタは目を細めた。
笑った、というより、少しだけ昔の顔になった。
「あの人はそういう人だったよ」
アルトは、椅子の脚を見た。
言われなければ気づかなかった。
古い修理跡がある。
木目に沿って、別の材が継がれている。
目立たない。
だが、そこが折れていないから、自分は今この椅子に座っている。
見られない仕事。
伸びない仕事。
神界コメントにもならない仕事。
それでも、人を座らせている。
飯を食わせている。
帰ってきた者を受け止めている。
アルトは、黒鐘門依頼の通知を思い出した。
【高視聴率予測案件】
【推奨:共同配信】
見られることを前提にした救助。
沸くことを計算された依頼。
その文字が、椅子の修理跡の上に重なる。
うまく重ならなかった。
◇
ノルは、荷具を見ていた。
「これ、直せる?」
ガルドは留め具を元の位置に当てる。
「直せる」
「前より強くなる?」
「必要な分だけな」
「強ければ強いほどいいわけじゃないの?」
「違う」
ガルドは工具を取った。
「強すぎる留め具は、次に布地を裂く。荷具は一箇所だけ強ければいいものじゃない。重みの逃げ場がいる」
ノルは真剣に聞いていた。
カイも横から覗き込む。
「逃げ場」
「人も同じだろう」
ガルドは何気なく言った。
ノルの指が、膝の上で止まる。
ミナがそちらを見たが、何も言わなかった。
ガルドは留め具を外し、歪んだ穴に細い工具を入れる。
かり、と小さな音がした。
店内の奥で、リリが水を替えている。
白い花の茎が、瓶の縁に触れた。
ブルーノは端末を開いたまま、迷っている顔をしていた。
「これ、記録にするか?」
アルトが聞く。
ブルーノは顔をしかめた。
「した方がいい気もする」
「伸びないぞ」
「分かってる」
「師匠の名前は?」
ガルドの手が止まった。
ブルーノもすぐ黙った。
ガルドは工具を置いた。
「出すな」
「分かりました」
ブルーノは端末を伏せた。
早かった。
以前なら、もう少し迷ったかもしれない。
ガルドは留め具を見たまま続ける。
「あの人は、名前を出したくてやっていたわけじゃない」
マルタが鍋を見ながら言う。
「でも、忘れられたくもなかったと思うよ」
ガルドが顔を上げる。
「どっちだ」
「どっちもだよ」
マルタは当たり前のように言った。
「人間なんだから」
ガルドは黙った。
その言葉に、アルトは妙に納得した。
名前を出したくない。
でも、なかったことにはされたくない。
見られたくない。
でも、仕事が来ないのは困る。
帰りたい。
でも、見世物にはなりたくない。
どれも、矛盾している。
だが、人間はたぶん、その矛盾ごと椅子に座り、飯を食う。
マルタは皿を並べながら言った。
「記録にするなら、名前じゃなくて仕事を書きな」
ブルーノが端末を見る。
「仕事を?」
「この留め具が何を守ったか。それだけでいい」
ガルドは少しだけ眉を寄せた。
だが、反対はしなかった。
ブルーノは短く打ち込む。
【見られない仕事の記録】
そこで手が止まった。
「題名が地味すぎるな」
ミアが横から言う。
「地味三段目」
「数えるな」
「でも合ってる」
「合ってるから嫌なんだよ」
ノルが少し笑った。
ガルドは留め具を直し始めた。
小さな槌が、鉄を叩く。
かん。
かん。
派手ではない。
コメント欄が沸く音もしない。
それでも、店の中で一番確かな音だった。
◇
昼過ぎ、黒鐘門依頼の詳細が届いた。
ブルーノの端末が鳴る。
今度は店の者たちも、すぐに顔を上げた。
アルトは水の入った杯を置く。
レオンも来ていた。
外套は椅子の背にかけてある。
剣聖というより、赤猫亭の客に見える。
だが、通知を見た瞬間、目だけが変わった。
ブルーノが読み上げる。
【大型合同依頼・詳細】
【地点:第三層深部・黒鐘門】
【内容:孤立者救助、および魔物群鎮圧】
【対象配信者:剣聖レオン、奈落新人アルト】
【推奨支援:共同配信、観測補正使用】
【予測:高視聴率、高投げ銭反応】
アルトは最後の行を見た。
喉の奥に、昨日から残っている灰の味が戻った気がした。
ブルーノが続ける。
「黒鐘門は、第三層深部の古い門です。一定間隔で鐘が鳴る。鐘が鳴っている間、神界側の観測精度が上がる」
レオンが聞く。
「救助には使えるな」
「使えます」
ブルーノは画面を切り替える。
「魔物の位置、救助対象の生命反応、地形の亀裂、熱源。そういうものが拾いやすくなる」
「悪い話ではない」
レオンの声は冷静だった。
ブルーノは頷いた。
「悪い話ではありません」
アルトは、その言い方に引っかかった。
「続きがあるな」
「あります」
ブルーノは一度、端末から目を離した。
「鐘が鳴っている間は、顔も声も拾いやすくなる。恐怖反応も、泣き声も、端末名も、補正がかかれば拾われる可能性がある」
ミナの手が、膝の上で組まれた。
リリは白い花の瓶を持ったまま、動かない。
ノルは自分の割れた端末を見た。
「つまり」
アルトが言う。
「助けるためによく見える。見たくないものまで、よく見える」
「そうです」
ブルーノは短く答えた。
レオンは画面を見ていた。
「観測を切れば?」
「位置情報も落ちます。生命反応も不安定になります。魔物の動きも読みにくくなる」
「なら、切る判断は難しい」
「はい」
レオンの言葉は正しい。
正しいから、アルトは嫌だった。
ガルドの槌の音が、まだ奥で続いている。
かん。
かん。
誰にも見られない音。
黒鐘門の鐘とは、たぶん正反対の音だった。
ブルーノが救助対象リストを開く。
「孤立者は複数。第三層の合同隊です。救助組合員、荷運び、低ランク配信者、それから……」
彼の指が止まった。
アルトはブルーノを見る。
「どうした」
「名前があります」
「誰の」
ブルーノは画面を見たまま、声を落とした。
「ユラ」
レオンが顔を上げる。
「知っているのか」
ブルーノは少し迷った。
端末の縁を指で叩く。
一度。
二度。
「昔、少しだけ伸びた配信者です」
それだけでは足りない声だった。
アルトは黙って続きを待つ。
ブルーノは息を吐いた。
「炎上しました。詳しくは、本人の許可なしに言うべきじゃない」
その返答に、店の中の誰もすぐには口を挟まなかった。
以前のブルーノなら、説明していたかもしれない。
今は、しなかった。
レオンが短く言う。
「救助対象なのだな」
「はい」
「なら救う」
その言葉はまっすぐだった。
アルトも頷いた。
「それは同じだ」
ただ、端末の中の名前が消えない。
ユラ。
昔、少しだけ伸びた配信者。
炎上した。
そして今、黒鐘門にいる。
鐘が鳴れば、顔も声も拾われやすくなる場所に。
嫌な並びだった。
ミナが静かに聞いた。
「その方は、映されることを嫌がる可能性がありますか」
ブルーノはすぐには答えなかった。
答えの代わりに、端末を伏せた。
「かなり」
短い一言だった。
アルトの指が、杯の縁に触れる。
冷めた水の温度が、指に移った。
神界コメントは流れていた。
黒鐘門。
剣聖レオン。
奈落新人アルト。
高視聴率予測案件。
何かが沸き始めている。
アルトは見なかった。
見れば、たぶん腹が立つ。
◇
夕方、ガルドはノルの荷具を直し終えた。
留め具は新しくなっていない。
古い鉄を伸ばし、歪みを戻し、弱いところだけを別の小片で支えている。
見た目は前とほとんど変わらない。
ノルはそれを受け取った。
「強くなった?」
「必要な分だけ」
「そっか」
「無理な荷は持つな」
「仕事なら」
「断れない仕事の話は、昨日した」
「うん」
「断れないなら、荷を捨てる条件を決めろ。足を残せ。端末より先に、自分を戻せ」
ノルは荷具を抱えた。
返事は小さかった。
「うん」
マルタが横から言う。
「それと、腹が減ったら来る」
ノルは今度は少し笑った。
「それも条件?」
「一番大事だよ」
「分かった」
ガルドは留め具を最後に一度だけ確かめた。
親指が、裏の古い丸みに触れる。
師匠の仕事。
そこに、自分の仕事が重なっている。
見られないまま、次の誰かを帰らせるかもしれない仕事。
アルトはそれを見ていた。
黒鐘門の資料は、テーブルの上に置かれている。
その上には、嫌になるほど分かりやすい文字がある。
【高視聴率予測案件】
その横で、古い留め具が鈍く光っている。
見られるもの。
見られないもの。
どちらも、人を救うことがある。
だが、どちらかを選ばなければならない時が来る。
そんな予感がした。
レオンが立ち上がった。
「明朝、黒鐘門へ向かう」
アルトは答える。
「ああ」
「鐘が鳴れば、救助は進む」
「そうだな」
「同時に、見えすぎる」
「それもな」
レオンは少しだけ黙った。
外套の袖に、まだ落ちきらない灰の色がある。
「見えすぎる時に、何を見ないか」
アルトはレオンを見た。
「お前がそれを言うのか」
「覚えようとしている」
レオンの声は静かだった。
「地図にない脇道を」
アルトは返事に迷った。
何か言えば、軽くなる気がした。
何も言わなければ、重すぎる気もした。
結局、杯に残った水を飲んだ。
ぬるかった。
「明日、分かるだろ」
「そうだね」
レオンは頷いた。
その顔には、まだ迷いがあった。
迷いがあるから、大丈夫なのか。
迷いがあるのに、駄目なのか。
アルトには分からなかった。
ガルドの槌が、道具箱に戻される。
音は小さかった。
神界のコメントは、その音を拾わなかった。
けれど、アルトには聞こえていた。
◇
夜。
ブルーノは黒鐘門の資料をまとめていた。
その横に、もう一つの記録を置く。
【見られない仕事の記録】
師匠の名前はない。
ガルドの名前もない。
赤猫亭の名前も、目立つ場所にはない。
ただ、古い留め具が何を防いだか。
荷具の逃げ場がなぜ必要か。
見えない修理が、なぜ帰路を支えるか。
それだけが書かれている。
再生数は、伸びなかった。
保存数も、まだ分からない。
コメントは一つだけ、妙に残った。
『こういうの、誰が見つけるんだろう』
アルトはその文字を見た。
誰が見つけるのか。
たぶん、必要になった奴だ。
必要になるまで、誰も見ない。
それでも、残しておく。
それが、見られない仕事なのだろう。
外に出ると、夜風が少し冷たかった。
第三層の方角は、街の屋根に隠れて見えない。
黒鐘門も見えない。
まだ鐘は鳴っていない。
それなのに、神界はもう沸き始めていた。
流れる文字の中に、レオンの名とアルトの名が何度も混じる。
黒鐘門。
神回予測。
共同配信。
高視聴率。
アルトは端末を閉じた。
手の中に、さっきガルドから渡された古い留め具がある。
予備として持っていけ、と言われた。
使うかどうかは分からない。
だが、妙に重かった。
見られない仕事の重さだった。
明日、黒鐘が鳴る。
見えるものが増える。
その時、自分が何を見ないでいられるのか。
何を見落とさずにいられるのか。
答えはまだ出ない。
ただ、掌の中の鉄だけが、冷たく残っていた。




