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第49話 見られない配信者

 赤猫亭に戻った時、最初に出てきたのはリリだった。


 扉が開くより早く、足音が近づいてくる。


 アルトが戸を押し開けると、リリはそこに立っていた。


 包帯箱を抱えている。


 顔は強張っていた。


 それでも、泣いてはいなかった。


「お帰りなさい」


 ミナが小さく笑った。


「ただいま戻りました」


 その一言で、リリの肩から力が抜けた。


 次にマルタが厨房から顔を出す。


「全員かい」


 アルトは頷いた。


「全員」


「なら座りな。飯はあるよ」


「早いな」


「帰ってくると思ってたからね」


「帰ってこなかったらどうする気だったんだ」


「帰ってくるまで温めるだけだよ」


 言い方は乱暴だった。


 だが、妙に胸に残る言葉だった。


 店の中には、すでに席が空けられていた。


 負傷者用の長椅子。


 水桶。


 清潔な布。


 温かいスープ。


 治療道具の棚には、白い花がまだある。


 入口ではなく。


 治療道具の横。


 誰かの手が届く場所。


 ノルは、店の入口で立ち止まっていた。


 片足を固定され、アルトに肩を借りている。


 布はまだ顔の半分を隠している。


 彼は赤猫亭の中を見て、少し怯えたように言った。


「本当に、入っていいの」


「飯屋だと言っただろ」


 アルトは答えた。


「でも」


 ノルは店内の視線を気にしている。


 客はほとんどいない。


 それでも、誰かに見られること自体が怖いのだろう。


 マルタが鍋をかき混ぜながら言った。


「食うなら客だよ。見物なら外だ」


 ノルは一瞬だけ固まった。


 それから、小さく頷いた。


「食べる」


「なら客だ」


 その短いやり取りで、ノルは少しだけ足を前に出した。


 リリがそっと椅子を引く。


「ここ、座りやすいです」


「ありがとう」


 ノルはぎこちなく座った。


 カイが水を持ってくる。


 ボロスは黙って背もたれに布をかけた。


 ノルは二人を見た。


「君たちも、ここで?」


 カイは少しだけ笑った。


「うん。俺たちは救助された側」


「救助された側」


「最初はね」


 カイは水を置く。


「今は皿運び見習い」


「見習いなのか」


「たぶん」


 ボロスが低く言った。


「水運びもある」


「役割が多いんだな」


 ノルが少しだけ笑った。


 その笑いは、小さくて、すぐ消えた。


 でも、笑った。


 アルトはそれを見て、少しだけ息を吐いた。


『帰ってきた』

『全員生存』

『赤猫亭にノル来た』

『顔出しなし継続』

『マルタ女将、客認定』

『食うなら客、強い』

『ノル、少し笑った?』

『笑ったかどうかを詮索するな』


 最後のコメントに、アルトは少しだけ目を留めた。


 神々も、少しは学ぶ。


 全部ではない。


 でも、ゼロではない。


 ブルーノは店の端に座り、端末を開いていた。


 今日はいつものように前のめりではない。


 むしろ、少し離れている。


 映すものを選んでいる顔だった。


「ブルーノ」


 アルトが声をかける。


「分かってる」


 ブルーノは端末を伏せ気味にした。


「ノルの顔も名前も出さない。救助対象は七名、全員生存。負傷状況は概要だけ。詳細は出さない」


「名前も?」


 ノルが小さく聞いた。


 ブルーノは彼を見る。


「出さない」


「でも、俺、名前言った」


「ここで言った名前と、神界に流す名前は違う」


 ノルは少しだけ目を伏せた。


「違うんだ」


「違う」


 ブルーノははっきり言った。


「少なくとも、違うものにする」


 その言い方が、少しだけブルーノらしかった。


 完全ではない。


 でも、選ぼうとしている。


 ◇


 スープが出た。


 肉と根菜の煮込みも出た。


 ノルは最初、器を両手で包んでいるだけだった。


 湯気を見ていた。


 その湯気が、灰の匂いを少しずつ消していく。


 カイが隣に座る。


「熱いから気をつけて」


「うん」


「最初、俺も熱くてむせた」


「ここ、よく来るの」


「最近は」


 カイは少し考えてから言った。


「俺、前に救助されたんだ。第三層じゃないけど」


「配信者?」


「一応」


 ノルが少し顔を上げる。


「一応って、同じだ」


「うん」


 カイは苦笑した。


「俺は、見られたかった方だけど」


 ノルの手が止まる。


 カイは続けた。


「誰かに見られたら、何か変わる気がしてた。すごいって言われたくて、無理した」


「俺は」


 ノルは器を見たまま言った。


「見られたいわけじゃなかった」


「うん」


「でも、見られてないと、仕事が来ない」


「うん」


「ランキングが低いと、荷運びの手伝いも、斥候補助も、声がかからない。危ない仕事でも、行くしかない。行かないと、次がないから」


 カイは黙って聞いていた。


 今度は、彼がすぐに答えなかった。


 ノルは続ける。


「でも、見られるのは怖い」


「分かる」


「分かるの?」


「少しだけ」


 カイは自分の手を見る。


「俺は、見られたいと思ってた。でも、見られるって、自分の都合だけじゃなかった」


「うん」


「勝手に切り取られる。勝手に言われる。自分より、面白い自分が先に歩いていく」


 ノルはカイを見た。


 カイは少し照れたように笑う。


「ここで、そういうのを何回か見た」


 ボロスが無言で頷いた。


 ノルは器を見た。


「じゃあ、どうすればいいんだろう」


 誰も、すぐには答えなかった。


 アルトも黙っていた。


 その問いは、ノルだけのものではなかった。


 見られたいわけではない。


 でも、見られていないと仕事が来ない。


 アルトは、自分の神界端末を見た。


 ランキング。


 投げ銭。


 帰還。


 自分だって、似たようなものだ。


 見られたくない。


 勝手に騒がれたくない。


 顔も、感情も、選択も、神々の見世物にされたくない。


 それでも、見られなければ帰還から遠ざかる。


 上位へ行けない。


 投げ銭も来ない。


 力も増えない。


 アルトは観測経済の外にいるわけではない。


 その中で、文句を言いながら生きているだけだ。


 そのことが、急に重くなった。


 ルナの銀色コメントが流れた。


『アルト』


「何だ」


『難しいですね』


「ああ」


『見られることが、力にも、仕事にも、帰る道にもなる』


「分かってる」


『でも、見られることは、痛みにもなる』


「それも分かってる」


 ルナは少し黙った。


『それでも、見ています』


 アルトは空を見た。


「だから、顔を見るな」


『はい』


『顔ではなく、帰るところを見ています』


 その言葉に、アルトは少しだけ黙った。


 ノルはスープを一口飲んだ。


 ゆっくり。


 熱かったのか、少し眉を寄せる。


 でも、飲んだ。


「うまい」


 マルタが厨房から言う。


「なら食べな」


「はい」


 ノルはもう一口飲んだ。


 その様子を、神々は見ていた。


 だが、顔は映らない。


 名前も表示されない。


 ただ、赤猫亭の片隅で、救助された少年がスープを飲んでいる。


 それだけだった。


 ◇


 店の外では、神界の反応が広がっていた。


 ブルーノは端末を眺めている。


 救助記録を出すべきか。


 出すなら、どう出すべきか。


 彼はずっと迷っていた。


 レオンの剣技をまとめれば、間違いなく伸びる。


 アルトの《剛腕・砕打》も伸びる。


 灰狼撤退戦も、救助成功も、切り抜き映えする。


 神々は見たがっている。


 実際、コメントは流れ続けていた。


『レオン様の三連斬り見たい』

『砕打まとめまだ?』

『撤退戦の連携ほしい』

『ノルの顔は出すな』

『全員生存の流れだけ見たい』

『ブルーノ、仕事しろ』

『いや雑に出すな』


 ブルーノは端末を指で叩く。


 何度も、同じ画面を開いては閉じた。


 アルトが近づく。


「珍しく出さないな」


「出せる素材が多すぎる」


「贅沢な悩みだな」


「そうでもない」


 ブルーノは端末を伏せた。


「レオン様を出せば伸びる。君の新スキルも伸びる。撤退戦も伸びる」


「出せばいいだろ」


「雑に出すと、ノルが消える」


 アルトは黙った。


 ブルーノは続ける。


「顔を出さなくても、誰の救助か分かるやつには分かる。灰燼回廊、低ランク、割れた端末、足の負傷。情報を並べすぎれば、名前を隠しても同じだ」


「なら出すな」


「出さなければ、別の誰かが出す」


「またそれか」


「またそれだ」


 ブルーノは苦い顔をした。


「でも、今回は少し違う。先に出すことが正しいとは限らない」


「気づくのが遅い」


「言うと思った」


「言われると思ってたなら早く気づけ」


「無茶を言う」


 ブルーノは少し笑った。


 だが、すぐに真面目な顔に戻る。


「救助記録は出す。でも、戦闘切り抜きでは出さない」


「どうする」


「人数と経路と判断だけを出す。レオンの剣技も、君の砕打も、必要最小限。ノルに関わる部分はさらに削る」


「伸びないな」


「伸びない」


 ブルーノは、少しだけ息を吐いた。


「でも、届けばいい」


 アルトは彼を見た。


「言えるようになったな」


「言った後で怖くなってる」


「それくらいでいい」


「そうか?」


「たぶんな」


 ブルーノは端末を開いた。


 題名を打つ。


【灰燼回廊救助記録】


【顔を出さずに撤退路を共有するための記録】


 派手さはない。


 だが、必要なものはある。


 ブルーノは本文を打ち始めた。


 アルトはそれを見ていた。


 この男も、少しずつ変わっている。


 完璧ではない。


 だが、選び直している。


 それで十分なのかもしれない。


 今は。


 ◇


 レオンは、店の奥の席に座っていた。


 珍しく、何も食べていない。


 目の前には水だけがある。


 白い外套は、マルタに取り上げられた。


「灰を払ってから返すよ。店を灰だらけにするんじゃない」


 そう言われ、レオンは素直に従った。


 今の彼は、外套なしの剣聖だった。


 少しだけ、普通の青年に見えた。


 アルトは水差しを持って近づいた。


「飲め」


「ありがとう」


 レオンは水を受け取る。


 しばらく沈黙があった。


 店内の音が遠い。


 鍋の音。


 皿の音。


 ノルとカイの小さな会話。


 ブルーノが端末を叩く音。


 レオンは自分の手を見ていた。


「私は、見落とした」


 静かな声だった。


 アルトは水差しを置く。


「灰のせいだろ」


「それだけではない」


 レオンは言った。


「私は、最も多くを救える場所を見た。最も早く辿り着ける道を選んだ。それは間違っていなかったと思う」


「ああ」


「だが、見えなかった場所に一人いた」


「いたな」


「君は、それを拾った」


「たまたまだ」


「たまたまを、君は拾う」


 アルトは黙った。


 レオンは自分の手を見たまま続ける。


「私は、敵を斬った。この手で、多くを救った」


「ああ」


「そして、この手で、一人を見落とした」


 重い言葉だった。


 だが、自己陶酔ではない。


 ただ、事実を見ている声だった。


 アルトはしばらく黙っていた。


 今は責める時ではない。


 慰める時でもない。


 だから、短く言った。


「今日は帰れた」


 レオンが顔を上げる。


「全員な」


 アルトは続けた。


「それでいい」


「今日は、か」


「今日は、だ」


 レオンは少しだけ笑った。


 疲れた笑いだった。


「君は優しいのか、厳しいのか分からない」


「俺も分からん」


「そうか」


 レオンは水を飲んだ。


 それから、小さく言った。


「私は、それをまだ覚えていない」


「何を」


「たまたまを拾うことだ」


 アルトはレオンを見る。


 レオンは目を伏せている。


「最短の道は見える。敵の動きも見える。救助対象の位置も、撤退路も、戦力配分も」


「ああ」


「だが、地図にない脇道は、まだ見落とす」


「ミアがいたから気づいた」


「それでも、君は行った」


 レオンは手を見る。


「私は、行かなかった」


「お前は本隊に行った」


「そうだ」


「それで六人助かった」


「それも事実だ」


 レオンは静かに息を吐いた。


「事実が複数あると、厄介だね」


「最近そればっかりだ」


「赤猫亭にいると、そうなるのか」


「たぶんな」


 レオンは少しだけ笑った。


 その笑いは、まだ明るかった。


 少なくとも今は。


 アルトは思った。


 この男は、分かろうとしている。


 学ぼうとしている。


 だからこそ、いつか選べなかった時が怖い。


 そんなことを、今言う必要はない。


 アルトは水差しを持ち直した。


「飯も食え」


「いただこう」


「芋は出ないぞ」


 レオンは一瞬だけ沈黙した。


「……努力が無駄になったな」


「そこで残念そうにするな」


 少しだけ、空気が緩んだ。


 マルタが厨房から声を飛ばす。


「聞こえてるよ! 根菜ならある!」


「やめろ、また戻る」


 ミアが干し果物を噛みながら笑った。


「封印失敗」


「封印するほどのものか?」


 レオンが真面目に聞いた。


「真面目に聞くな」


 店内に笑いが戻った。


 小さく。


 だが、確かに。


 ◇


 夜。


 救助記録が出た。


 ブルーノは、長い時間をかけて削った。


 レオンの剣技は、ほんの数秒。


 アルトの《剛腕・砕打》も、進路遮断の説明だけ。


 ノルの情報はほぼ出していない。


 代わりに、撤退路の判断、負傷者の顔を出さない処理、魔物位置共有、足場情報の重要性をまとめた。


【灰燼回廊救助記録】


【顔を出さずに撤退路を共有するための記録】


【救助対象:七名】


【全員生存】


【個人識別情報:非表示】


【重要点:映すべきものは顔ではなく、帰るための道】


 コメント欄は、いつもより割れた。


『地味』

『でも必要』

『レオン様の剣もっと見たかった』

『砕打の詳細ほしい』

『顔出さないの徹底してる』

『これ、救助隊向けに役立つ』

『伸びないけど残るやつ』

『保存した』


 ブルーノはそれを見て、椅子に沈んだ。


「伸びないな」


 アルトが言う。


「届いてるんだろ」


「たぶん」


「ならいい」


「そう思える日と、思えない日がある」


「今日は?」


 ブルーノは少しだけ考えた。


「半分くらい思える」


「十分だ」


「十分か?」


「知らん」


「雑だな」


「雑にしない係はお前だ」


 ブルーノは苦笑した。


 その時、白い通知が届いた。


 セシリアからだった。


 ミナ宛。


 だが、赤猫亭にも共有されている。


【聖女セシリア】


《救助記録を拝見しました》


《ミナ様は、現場でも同じ言葉を選べるのですね》


《顔は映しません》


《痛いなら、痛いと言ってください》


《それを戦闘の中で言えることに、私は少し驚きました》


《そして、少し羨ましいと思いました》


 ミナは通知を見つめた。


 返事はすぐには打たない。


 セシリアの言葉は、今回も綺麗だった。


 でも、そこに少しだけ不安定なものがある。


《私は、まだできるか分かりません》


《けれど、少しずつ考えたいです》


 ミナはゆっくり息を吐いた。


 そして短く返信した。


【ミナ】


《私も、まだ考えています》


《一緒に、少しずつ》


 すぐに既読はつかなかった。


 それでよかった。


 急がなくていい。


 少しずつでいい。


 白い花が、治療道具の横で揺れている。


 ◇


 閉店後。


 ノルはまだ赤猫亭にいた。


 足を固定され、椅子に座っている。


 カイとリリが片付けをしているのを見ていた。


 ボロスは水桶を運んでいる。


 ガルドはノルの割れた端末を手に取っていた。


「直る?」


 ノルが聞く。


 ガルドは端末を見る。


「完全には無理だ」


「そっか」


「だが、記録の一部は戻るかもしれない」


 ノルは少し迷った。


「戻さなくてもいい記録もある」


「なら選べ」


「選べるの?」


「俺は職人だ。持ち主ではない」


 ノルは小さく頷いた。


「じゃあ、選ぶ」


 その言葉を聞いて、アルトは少しだけ安心した。


 見られること。


 記録されること。


 残すこと。


 消すこと。


 それを、少しずつ自分で選べるなら。


 たぶん、まだましだ。


 ノルはアルトを見る。


「俺、また来てもいい?」


「飯屋だぞ」


 アルトは言った。


「腹が減ったら来い」


 ノルは少しだけ笑った。


「うん」


 その顔は、神界には映らなかった。


 だが、赤猫亭にはあった。


 それで十分だった。


 その夜遅く。


 神界ランキングに、小さな変動が出た。


【奈落新人アルト】


【救助評価:上昇】


【戦闘評価:上昇】


【公開感情値:低下】


【個人投げ銭補正:一部減少】


【救助信頼値:上昇】


 ブルーノが眉をひそめる。


「変な上がり方だ」


 アルトは画面を見た。


「上がったんだろ」


「上がった。でも、伸び方が違う」


「どう違う」


 ブルーノは少しだけ迷ってから言った。


「派手な人気じゃない。信頼に寄ってる」


「それはいいことなのか」


「分からない」


 ブルーノは端末を見る。


「ランキングには、効きにくいかもしれない」


 帰還。


 その言葉が、誰も言わないまま店内に落ちた。


 見せないで救う。


 顔を出さない。


 感情を使わない。


 それは、誰かを守る。


 だが、帰還への最短ではないかもしれない。


 アルトは画面を見つめた。


 ノルの言葉が、また胸に戻ってくる。


 見られたいわけではなかった。


 でも、見られていないと、仕事が来ない。


 アルトは端末を閉じた。


「面倒だな」


 ミアが横で言う。


「最近、そればっかり」


「実際そうなんだよ」


 ガルムが入口近くで静かに言った。


「選んだ道の代金が、少しずつ見えてきたな」


 アルトは何も返さなかった。


 赤猫亭の中では、スープの匂いがまだ残っている。


 白い花は、治療道具の横で静かに揺れている。


 見られない場所にも、人はいる。


 見せない救いにも、代償はある。


 それでも、今日は全員で帰ってきた。


 その事実だけは、まだ失くさずに済んでいた。


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