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第48話 全員で帰るための最短

 少しだけ、時間は戻る。


 アルトたちが脇道へ入った直後、レオンは灰燼回廊の東側を走っていた。


 灰が舞う。


 視界は悪い。


 足元は脆い。


 それでも、レオンの足取りは乱れなかった。


 白い外套が灰の中で揺れる。


 剣はまだ抜いていない。


 だが、彼の周囲だけ空気が張っている。


 ガルムは少し後ろを走りながら、それを見ていた。


「速いな」


「急いでいるからね」


 レオンは前を見たまま答えた。


「崩落地帯でその速度は、普通なら死ぬ」


「普通では困る」


「そうか」


 ガルムは短く笑った。


 ミナは二人の後ろを走っていた。


 治療袋が肩で揺れる。


 息は上がっている。


 それでも、足は止めない。


 レオンは一度だけ振り返った。


「ミナさん、無理なら速度を落とす」


「大丈夫です」


 ミナはすぐに答えた。


「負傷者がいるなら、急ぐべきです」


「分かった」


 レオンはそれ以上言わなかった。


 速い。


 だが、置いていく速さではない。


 ぎりぎり、ミナがついてこられる速さ。


 それが分かるから、ミナも何も言わなかった。


 灰の向こうで、獣の唸りが聞こえた。


 ガルムが剣に手をかける。


「近い」


「分かっている」


 レオンはようやく剣を抜いた。


 白い光が、灰の中に細く走る。


 その瞬間、神界コメントが一気に増えた。


『レオン側きた』

『剣聖抜刀』

『灰の中で絵になる』

『本隊どこ?』

『ミナさんついていってる』

『顔出し注意な』

『負傷者いるから騒ぎすぎるな』


 ブルーノの声が通信に入った。


《レオン側、視界補正を最低限にする。負傷者の顔は映さない》


「助かる」


 レオンは短く答えた。


 その直後、灰の中から火喰い鼠が三匹飛び出した。


 レオンの剣が振られる。


 一閃。


 火喰い鼠の身体が、三つ同時に灰へ落ちた。


 速い。


 迷いがない。


 美しいほどに無駄がない。


 コメント欄が沸く。


『うわ速い』

『三匹同時!?』

『やっぱ剣聖つええ』

『切り抜き確定』

『いや救助中だぞ』

『でも今のは映える』


 ブルーノが通信の向こうで小さく息を吐いた。


《……レオンを映せば伸びる》


 アルトはいない。


 だが、その場にいる誰もが、その言葉の意味を理解した。


 レオンの剣は絵になる。


 神々が見たがる。


 数字が伸びる。


 ブルーノは少し沈黙した。


 そして言った。


《でも、今必要なのは撤退路だ》


 神界表示が変わる。


 レオンの剣光を中心にした映像ではなく、足元の亀裂、灰の流れ、魔物の接近方向が強調された。


 ガルムが低く言う。


「良い判断だ」


《褒められると怖いな》


「なら黙って続けろ」


《はい》


 レオンは少しだけ口元を緩めた。


「彼も変わってきた」


「変わる奴は、面倒が増える」


 ガルムが言う。


「そうかもしれない」


 レオンは剣を構え直した。


「だが、今は助かる」


 その時、灰の向こうから声がした。


「こっちだ!」


「誰か!」


「護衛が動けない!」


 レオンが駆けた。


 灰を抜けた先に、崩れた荷車があった。


 車輪は片方が外れ、荷は半分ほど散らばっている。


 その周囲に、六人。


 下層配信者三名。


 護衛二名。


 荷運び一名。


 全員、生きている。


 だが、無傷ではなかった。


 護衛の一人は左腕を押さえて座り込んでいる。


 もう一人は剣を構えているが、足を引きずっている。


 荷運びは荷車のそばから離れようとしない。


 下層配信者の一人は端末を抱え、顔を真っ青にして震えていた。


 魔物の群れが、その周囲をじりじりと囲んでいる。


 灰狼が二匹。


 火喰い鼠が十数匹。


 レオンは一瞬で状況を見た。


「ガルム、右の灰狼」


「任せろ」


「私は左を斬る」


「ミナさんは負傷者へ」


「はい」


 指示は短い。


 迷いがない。


 レオンが前へ出た。


 灰狼が跳ぶ。


 剣が白く走る。


 灰狼の前足が地面に着く前に、レオンはその懐へ入っていた。


 斬撃。


 灰狼の動きが止まる。


 倒れるより先に、レオンは次の魔物へ向かう。


 強い。


 圧倒的に。


 神々が息を呑むのも分かる。


 だが、ミナはその剣を見ていなかった。


 彼女は、負傷者の手を見ていた。


 左腕を押さえる護衛の手。


 震えている。


 強く握りしめすぎて、指先が白くなっている。


 痛いと言えていない手だった。


 ミナはその前に膝をつく。


「腕を見ます」


「平気だ」


 護衛の男は歯を食いしばった。


「平気ではありません」


 ミナは即座に言った。


「骨がずれているかもしれません」


「後でいい。映ってるだろ」


「顔は映しません」


 ミナは包帯を広げた。


「今は、助かることだけ考えてください」


 男の手から、少しだけ力が抜けた。


 ミナはその変化を見逃さなかった。


「痛いなら、痛いと言ってください」


「……痛い」


「はい」


「かなり痛い」


「分かりました」


 ミナは処置を始める。


 強すぎない。


 遅すぎない。


 必要なところだけを、確かめる。


 その隣で、下層配信者の一人が端末を抱えたまま震えていた。


「映すな……」


 小さな声だった。


 たぶん誰にも向けていない。


 ただ、漏れた声。


 ミナは顔を向けた。


「映しません」


 配信者は目を見開く。


「でも、俺、配信者で」


「今は負傷者です」


 ミナは静かに言った。


「配信者に戻るのは、助かった後でいいです」


 その言葉で、配信者の肩が少し落ちた。


 泣かなかった。


 だが、息が戻った。


 ブルーノの通信が低く入る。


《下層配信者の顔、遮蔽済み。端末表示も伏せる》


「ありがとうございます」


 ミナは言った。


《礼は後でいい。今は手元を映す》


 神界映像は、負傷者の顔ではなく、ミナの手元と包帯の動きを映していた。


 コメント欄が流れる。


『顔じゃなくて手元』

『処置手順が見える』

『映す場所が変わってる』

『レオンの剣も見たいけど、こっち必要』

『痛いって言えた』

『ミナさん、現場で強い』


 レオンは灰狼を斬りながら、その流れを横目で見ていた。


 敵の数。


 撤退路。


 負傷者の位置。


 魔物の動き。


 彼はそれらを見ていた。


 だが、ミナは別のものを見ている。


 震える手。


 映されたくなくて端末を抱える腕。


 痛いと言えない口。


 同じ現場にいて、見ているものが違った。


 レオンは灰狼を斬り伏せながら、少しだけ息を吐いた。


「なるほど」


 ガルムが横から灰狼を受け止める。


「何がだ」


「私は、敵を見ていた」


「今さらだな」


「彼女は、負傷者を見ている」


「それが治療職だ」


「それだけではない」


 レオンは剣を返し、火喰い鼠を払った。


「見られたくない者の手を見ている」


 ガルムは一瞬だけミナを見た。


 そして短く言った。


「赤猫亭で鍛えられたな」


 レオンは少しだけ笑った。


「そうらしい」


 その時、通信が割り込んだ。


《アルト側、一名発見》


 ブルーノの声だった。


《脇道に救助対象。足が挟まっている。火喰い鼠の群れ》


 ミナの手が一瞬止まりかけた。


 だが、止めなかった。


 目の前の処置を続ける。


 今、自分が離れれば、この護衛の腕が悪化する。


 それが分かっている。


 ミナは言った。


「アルトさんたちは?」


《交戦中。ガルドが救出作業。ミアが支援。アルトが防いでいる》


「なら、こちらを終わらせます」


《了解》


 ブルーノの声が少しだけ変わった。


《両側の情報をつなぐ。顔は出さない。危険だけ出す》


 ミナは頷いた。


「お願いします」


 レオンはそのやり取りを聞きながら、剣を握り直した。


「こちらも急ぐ」


 白い剣光が、灰の中を走った。


 ◇


 時間は、現在へ戻る。


 分岐点。


 アルトは少年を背負い、灰まみれで戻ってきた。


 ミアも肩で息をしている。


 ガルドの袖は焦げ、工具袋には灰が詰まっていた。


 ミナはすぐに駆け寄った。


「足を見ます」


 少年は布で顔を隠したまま、少しだけ身を固くする。


「顔は」


「映しません」


 ミナは即答した。


「今は、足を助けます」


 少年の身体から力が抜けた。


 アルトは膝をつく。


「名前は後でいい。今は診てもらえ」


 少年は小さく頷いた。


 レオンが近づく。


 その白い外套も、今は灰に汚れていた。


「見落としていた」


 短い言葉だった。


 誰に向けたものでもない。


 だが、アルトには聞こえた。


「灰で映ってなかった」


 ブルーノが答える。


「端末も割れていた。配信は切れていた。神界側にもほぼ出ていない」


 レオンは少年を見る。


「それでも、いた」


「ああ」


 アルトは立ち上がった。


「いた」


 レオンは一度だけ目を伏せる。


 それから、剣を握り直した。


 灰の奥で、低い唸り声がした。


 灰狼。


 複数。


 先ほどより近い。


 ガルムが前へ出る。


「撤退路に回られた」


 ブルーノが端末を確認する。


「分岐点から入口まで、灰狼が五……いや、七。火喰い鼠の残りもいる」


 ミアが耳を動かす。


「上にもいる」


「上かよ」


 アルトは顔をしかめた。


 負傷者は多い。


 歩ける者もいるが、走れない者もいる。


 少年は足をやられている。


 護衛の腕も固定が必要。


 荷運びは荷を気にして、動きが鈍い。


 状況は悪い。


 だが、全員生きている。


 それだけで十分だった。


 レオンは地図を開く。


「入口までの最短は正面だ」


 ガルムが言う。


「灰狼がいる」


「分かっている」


 レオンは地図を指でなぞる。


「北へ迂回すれば安全だが、時間がかかる。負傷者がもたない可能性がある」


 アルトは周囲を見る。


 崩れた柱。


 灰の積もった床。


 右側の壁に亀裂。


 左の細道は狭い。


 今の人数では詰まる。


 レオンは続けた。


「正面を抜く」


「最短でか」


 アルトが言う。


 レオンは彼を見た。


「全員を連れて帰るための最短だ」


 その言葉に、アルトは少しだけ口元を歪めた。


「それなら乗る」


 コメント欄が走る。


『全員を連れて帰るための最短』

『レオン様、言い方変えた』

『これならアルトも乗る』

『撤退戦きた』

『負傷者多いぞ』

『顔出しなし継続で頼む』


 ブルーノが端末を握る。


「映像は撤退路中心にする。負傷者の顔は出さない。魔物の位置と安全な足場だけ出す」


 アルトが言う。


「レオンを映せば伸びるんじゃないのか」


「伸びる」


 ブルーノは即答した。


「でも、今必要なのは撤退路だ」


 アルトは少しだけ笑った。


「言えるようになったな」


「言わされてる気もする」


「どっちでもいい」


「だな」


 ミナは少年の足に応急固定を施した。


「歩かせない方がいいです」


「背負う」


 アルトが言う。


 少年が小さく声を出した。


「俺、重い」


「軽い」


「荷も」


「荷は後だ」


 少年は少しだけ唇を噛んだ。


「でも、仕事が」


 荷運びの男がそこで言った。


「荷は俺が見る」


 彼は自分の荷袋を背負い直しながら、少年の方を見た。


「お前は足を残せ」


 少年は黙った。


 その言葉は、たぶん届いた。


 オルグがここにいたら、似たようなことを言ったかもしれない。


 アルトは少年を背負った。


「痛かったら言え」


「……痛い」


「よし」


「よし、なのか」


「言えたならいい」


 少年は少しだけ笑ったようだった。


 その笑いを、誰も映さなかった。


 ◇


 撤退は、すぐに始まった。


 先頭はレオン。


 その横にガルム。


 中央に負傷者とミナ。


 後方にアルト、ミア、ガルド。


 ブルーノは中央寄りで、端末を見ながら情報をつなぐ。


 灰狼は、正面から来た。


 低い姿勢。


 灰に紛れる毛並み。


 黄色い目。


 火喰い鼠より重く、速い。


 レオンが剣を振る。


 一匹目の灰狼が、跳びかかる前に斬られた。


 血はほとんど見えない。


 灰に吸われる。


 二匹目。


 三匹目。


 レオンの剣は速い。


 美しい。


 無駄がない。


 だが、灰狼はそれを避けるように散った。


 正面突破をやめ、左右から回り込む。


 負傷者の列を狙っている。


 ガルムが右を受ける。


 盾ではなく剣で押し返す。


「来るぞ」


「見えてる」


 アルトは後方から左の床を見た。


 灰が薄い。


 下は脆い。


 灰狼が走るなら、そこだ。


 彼は少年を背負ったまま、拳を低く構える。


「ミア、左奥」


「二匹」


「足止めする」


 灰狼が走る。


 アルトは敵ではなく、その進路を殴った。


《剛腕・砕打》


 床が砕ける。


 灰狼の前足が沈む。


 姿勢が崩れる。


 そこへミアが横から入った。


 短剣が一閃。


 灰狼の目の前で灰が舞い、進路が完全に消えた。


 ミアが息を吐く。


「これ、やりやすい」


「俺はやりにくい」


「でも強い」


「それは認める」


 コメント欄が沸く。


『砕打きた』

『撤退戦で便利すぎる』

『敵じゃなく道を止めるのいい』

『レオンが正面、アルトが側面遮断』

『連携できてる』

『全員で帰るための最短、形になってる』


 レオンもそれを見ていた。


 彼は正面の灰狼を斬りながら言う。


「アルト、右側の崩れた柱を落とせるか」


「どれだ」


「私の剣光の先」


 白い剣光が一瞬だけ柱を示した。


 アルトは見る。


 右上。


 崩れかけた柱。


 落とせば、灰狼の回り込みを塞げる。


 だが、落としすぎると負傷者の列にも危ない。


「ガルド」


「根元を打て。上ではない」


「分かった」


 アルトは拳を柱の根元へ入れた。


《剛腕・砕打》


 衝撃が柱を登る。


 柱は砕けすぎず、根元だけがずれた。


 斜めに落ちる。


 灰狼の回り道だけを塞ぐ。


 負傷者側には倒れない。


 レオンがそれに合わせて、正面の灰狼を二匹斬った。


「いい」


「そっちこそ」


「褒められたか?」


「今のうちだけだ」


 レオンは少し笑った。


 その笑いが、灰の中で一瞬だけ見えた。


 だが、すぐに次の敵が来る。


 ミナは中央で負傷者を支えていた。


 腕を固定した護衛が、歯を食いしばって歩く。


「痛いですか」


「痛い」


「そのまま言ってください」


「痛い」


「はい。止まりません。歩幅を小さく」


 隣の下層配信者は、顔を隠したまま震えている。


「俺、映ってない?」


「映っていません」


 ブルーノが答える。


「顔も端末名も出してない。歩けるか?」


「歩ける」


「なら、前の人の肩だけ見ろ。神界を見るな」


 配信者は小さく頷いた。


 ミナがその横で言う。


「怖い時は、怖いと言ってください」


「怖い」


「はい」


「めちゃくちゃ怖い」


「分かりました」


 そのやり取りに、ガルムが少しだけ口元を緩めた。


「赤猫亭の治療は、言葉が増えるな」


「必要です」


 ミナは真面目に答えた。


 レオンはその声を聞いていた。


 敵を斬りながら。


 撤退路を見ながら。


 彼の中で、何かが少しずつ位置を変えているようだった。


 ◇


 入口まで、あと少し。


 だが、灰狼の群れは最後の突進に出た。


 七匹。


 正面から三。


 左右から二匹ずつ。


 負傷者の列を分断するつもりだ。


 ブルーノが叫ぶ。


「左右同時!」


 レオンが正面へ出る。


「正面は私が斬る!」


 ガルムが右へ。


「右を止める」


 アルトは左へ出ようとした。


 だが、背中の少年が小さく声を出した。


「後ろ」


 アルトは足を止めた。


「何?」


「後ろも、いる」


 ミアの耳が跳ねた。


「いる。灰の下。火喰い鼠、残り」


 全員の顔が一瞬変わる。


 正面と左右だけではない。


 後ろから火喰い鼠が、負傷者の足元を狙っている。


 神界表示には遅れて赤点が出た。


 ブルーノが歯を食いしばる。


「遅れた」


「今出たならいい」


 アルトは背中の少年を見る。


「よく気づいた」


「荷の音と違った」


「荷運びか?」


 少年は小さく首を振った。


「手伝い。たまに」


「十分だ」


 アルトは前を見た。


 正面はレオン。


 右はガルム。


 左はミア。


 後ろは自分。


 守る場所が増えた。


 なら、砕く道も増える。


 アルトは背中の少年をミナに預けた。


「十秒」


「はい」


 ミナが少年を支える。


 アルトは後ろへ踏み込んだ。


 火喰い鼠が灰の下から飛び出す。


 負傷者の足首を狙っている。


 アルトは拳を床へ叩き込んだ。


《剛腕・砕打》


 一撃では足りない。


 二撃。


 三撃。


 衝撃が扇状に走る。


 火喰い鼠たちが走る灰の筋だけを砕く。


 穴が生まれる。


 鼠たちの足が取られる。


 そこへミアが左から戻り、短針を投げた。


 ガルドが留め具を投げる。


 ただの金具。


 だが、灰の中で火喰い鼠の鼻先に当たった。


「武器じゃないだろ」


「物は使い方だ」


 ガルドは平然と言った。


 アルトは笑った。


「そうだな」


 正面では、レオンの剣が三匹の灰狼をまとめて押し返す。


 斬るだけではない。


 倒す方向まで制御している。


 倒れた灰狼が、後続の進路を塞いだ。


 アルトはそれを見て、少しだけ目を細めた。


「あいつも道を見てるな」


 レオンが振り返らずに言う。


「君ほど粗くはない」


「言うな」


「褒めている」


「嘘つけ」


 ガルムが右の灰狼を弾き飛ばす。


「喋る余裕があるなら走れ!」


 全員が走った。


 灰の出口が見える。


 光。


 第三層入口の、薄暗い光。


 負傷者たちが一人ずつ抜ける。


 護衛。


 下層配信者。


 荷運び。


 ミナ。


 少年。


 ガルド。


 ミア。


 ガルム。


 ブルーノ。


 レオン。


 最後にアルト。


 灰狼が最後の一匹、出口へ跳んだ。


 レオンが剣を振るうより先に、アルトが床を殴った。


《剛腕・砕打》


 出口の手前だけが崩れた。


 灰狼の爪が空を切る。


 身体が沈む。


 レオンの剣が、その首筋を正確に斬った。


 灰狼が灰の中へ落ちる。


 静かになった。


 誰もすぐには喋らなかった。


 ただ、荒い息だけが聞こえる。


 神界コメントも、一拍遅れた。


『抜けた』

『全員出た?』

『全員?』

『確認して』

『顔出すな、数だけ』

『人数確認』


 ブルーノが即座に表示を出した。


【救助対象:七名】


【全員生存】


【顔・名前:非表示】


【負傷者:複数】


【撤退完了】


 コメント欄が爆発した。


『全員生存!』

『やった』

『顔出さない確認助かる』

『レオン正面突破えぐい』

『アルトの砕打やばい』

『ミナさんの処置も強かった』

『ブルーノ、ちゃんと情報出した』

『全員で帰るための最短、成功』


 アルトは膝に手をついた。


「……疲れた」


 ミアも座り込む。


「灰、口に入った」


 ガルドは工具袋を確認している。


「留め具が減った」


「そこか」


「大事だ」


 レオンは剣を収めた。


 白い外套は、もう白くなかった。


 灰まみれだった。


 それでも、彼はまっすぐ立っている。


「助かった」


 アルトは顔を上げる。


「こっちの台詞だ」


「君が脇道へ行かなければ、一人見落としていた」


「お前が本隊へ行かなければ、六人死んでた」


 レオンは少しだけ黙った。


 それから頷いた。


「両方、必要だった」


「ああ」


 その言葉は、素直に出た。


 今は、それでよかった。


 ◇


 安全地帯に戻った後、ミナは少年の足をもう一度診た。


 骨は折れていない。


 だが、打撲と圧迫がひどい。


 数日は歩かない方がいい。


 少年は布を外していなかった。


 顔を見られるのが嫌なのか。


 それとも、まだ怖いのか。


 アルトは少し離れて座っていた。


 マルタの弁当を開くと、肉と根菜の包みが入っていた。


 湯気はない。


 だが、匂いは残っている。


 少年がそれを見た。


「食うか」


 アルトが聞くと、少年は少し迷って頷いた。


 アルトは包みを半分に割る。


「名前は」


 少年は手を止めた。


 少しだけ、長い沈黙。


 アルトは急かさなかった。


 ミナも、リリの時と同じように、何も言わなかった。


 やがて、少年が小さく答えた。


「……ノル」


「ノルか」


「うん」


「配信者か」


「一応」


「一応?」


 ノルは、包帯の巻かれた足を見た。


「見られたいわけじゃ、なかった」


 声は小さかった。


 だが、今度は確かに自分の言葉だった。


「でも、見られてないと、仕事が来ないんだ」


 誰もすぐには返せなかった。


 神界コメントも、少しだけ遅くなった。


 ノルは割れた端末を見た。


「配信が切れた時、怖かった」


 彼の指が、端末の割れ目に触れる。


「痛いのも怖かったけど、それより……誰も気づかないのが、怖かった」


 灰の匂いが、まだ服に残っている。


 アルトはノルを見る。


 顔はまだ布で半分隠れている。


 それでいいと思った。


「気づいた」


 アルトは言った。


「遅かったけどな」


 ノルは小さく首を振った。


「来た」


 それだけだった。


 ミナが静かに言う。


「今日は、もう配信者に戻らなくていいです」


 ノルは彼女を見る。


「でも」


「今日は、ノルさんです」


 ミナは包帯を整えた。


「それで十分です」


 ノルは俯いた。


 泣かなかった。


 でも、弁当を受け取る手が少しだけ震えていた。


 ブルーノは端末を伏せていた。


 映していない。


 コメント欄は流れている。


 だが、顔は出ていない。


 名前も、今は表示されていない。


 ただ、アルトたちの側に、一人の少年が座っている。


 それだけが分かる画面だった。


 レオンは少し離れた場所で、その様子を見ていた。


 剣聖は何も言わなかった。


 ただ、自分の手を見た。


 敵を斬った手。


 多くを救った手。


 そして、一人を見落とした手。


 アルトはそれに気づいたが、何も言わなかった。


 今は言う時ではない。


 ノルは弁当を一口食べた。


「うまい」


「赤猫亭の飯だ」


「赤猫亭……」


「帰ったら、もっと温かいのが出る」


 ノルは少しだけ目を上げた。


「行っていいの?」


「飯屋だぞ」


 アルトは言った。


「腹が減ってるなら行けばいい」


 ノルは小さく頷いた。


 その時、神界に銀色の文字が流れた。


『ノルさん』


 ルナだった。


『今日は、見ています』


 アルトは空を見た。


「顔は見るなよ」


『はい』


 少し間があった。


『帰るところを、見ています』


 アルトは何も言わなかった。


 ノルは弁当を抱えたまま、小さく息を吐いた。


 灰の向こうでは、まだ魔物の声が遠く響いている。


 救助は終わった。


 だが、問いは残っている。


 見られたいわけではない。


 でも、見られていないと仕事が来ない。


 その言葉は、灰より重く、アルトの胸に残った。


 レオンが静かに言った。


「帰ろう」


 アルトは立ち上がる。


「ああ」


 全員で帰るための最短。


 今日は、それができた。


 だが、いつもできるとは限らない。


 そのことを、誰もまだ口にはしなかった。


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