第43話 聖女の謝罪
翌朝、赤猫亭の入口には、白い花が一輪だけ残っていた。
昨日、ミナが治療道具の棚に移した花とは別のものではない。
同じ花だ。
ただ、水が替えられ、少しだけ向きが変わっている。
入口ではなく、棚の横。
舞台ではなく、手の届く場所。
それが、赤猫亭で決めた置き場所だった。
アルトはそれを見て、少しだけ息を吐いた。
「増えてないな」
ミアが干し果物を齧りながら言う。
「増えてほしかった?」
「そんなわけあるか」
「でも、増えてないと逆に不気味じゃない?」
「そういう嫌な見方をするな」
「経験則」
「お前の経験則、だいたい当たるから嫌なんだよ」
店の中は、いつも通りの朝だった。
マルタは鍋を火にかけている。
ガルドは棚の歪みを直している。
ガルムは入口近くで外の気配を見ている。
ミナはリリと一緒に包帯を畳んでいる。
カイは皿を運び、ボロスは無言で水を汲んでいる。
オルグはまだ来ていない。
ブルーノも、まだ来ていない。
つまり、今のところは平和だった。
『今日は花増えてない』
『赤猫亭、勝った?』
『勝ち負けの話じゃないだろ』
『白腕章、今日は来ないのかな』
『来ないなら来ないで怖い』
『芋は?』
「芋から離れろ」
アルトが空に言う。
厨房からマルタの声。
「芋は離れないよ!」
「なんで店主が一番しつこいんだ!」
「売れるからだよ!」
笑いが起きる。
いつもの笑い。
だが、その笑いの向こうに、少しだけ張りつめたものが残っている。
昨日の白腕章の三人。
救いを閉じ込めるな、という言葉。
リリの「届かなくても助かることはある」。
ミナの「語りたくないことも聞きたい」。
それらが、まだ赤猫亭の隅に座っていた。
ガルムが低く言う。
「今日は来ないかもしれない」
「白腕章か?」
「ああ」
「なら平和だな」
「違う」
ガルムは外を見たまま言った。
「本人が来る可能性がある」
アルトは動きを止めた。
「セシリアが?」
「信奉者の動きを知ったなら、放置はしないだろう」
「知ってれば、な」
「知るだろう。神界で切り抜かれている」
アルトは顔をしかめた。
その通りだった。
赤猫亭で起きたことは、もうほとんど隠せない。
オルグの「見るな」も。
リリの「届かなくても助かることはある」も。
ミナの言葉も。
全部、神界へ流れている。
セシリアが知らないとは考えにくい。
ミナも、その会話を聞いていた。
包帯を畳む手が少しだけ止まる。
リリが隣でその手元を見る。
「ミナさん」
「大丈夫です」
ミナは小さく言った。
「たぶん、来られるなら、理由があると思います」
「怖くないですか?」
「怖いです」
ミナは正直に答えた。
「でも、会わないまま怖がるよりは、たぶんいいです」
アルトはその言葉を聞いて、少しだけ口元を緩めた。
第一回の対面前と、違う。
ミナは怖がっている。
だが、逃げてはいない。
ルナの銀色コメントが流れる。
『ミナさん』
「はい」
『今日は、無理をしないでください』
ミナは少しだけ笑った。
「はい」
アルトは空を見る。
「それ、俺が言う前に言うな」
『違います』
「何が」
『今日は、私も心配です』
珍しく、ルナの言葉に茶化しがなかった。
それが、かえって空気を引き締めた。
◇
昼前。
店の扉が、静かに叩かれた。
こん、こん。
その音で、アルトは誰が来たか分かった。
派手な歓声はない。
外の騒ぎもない。
白い光も降らない。
ただ、控えめなノック。
セシリアだった。
マルタが顎をしゃくる。
「アルト」
「また俺か」
「客を受けるのも修行だよ」
「人間の修行が増えすぎだろ」
アルトは扉へ向かった。
開ける。
白い服の女性が立っていた。
セシリア。
前と同じように、静かな姿だった。
ただ、今日は表情が少し違った。
柔らかい。
丁寧。
けれど、少しだけ疲れているようにも見える。
彼女は深く頭を下げた。
「突然伺ってしまい、申し訳ありません」
「入るか」
「よろしければ」
「飯を食うならな」
セシリアは一瞬だけ目を丸くした。
そして、ほんの少し笑った。
「はい。いただきます」
アルトは道を開けた。
セシリアが店内に入る。
客たちは気づいた。
だが、マルタの視線が店内を一周した瞬間、騒ぎは起きなかった。
見物だけなら昼過ぎ。
怪我人を見るな。飯を見ろ。
赤猫亭のルールは、少しずつ効き始めている。
セシリアは店の中央で立ち止まり、まずマルタに頭を下げた。
「場所を乱してしまって、申し訳ありません」
マルタは鍋をかき混ぜながら答えた。
「乱したのはあんたじゃないよ」
「でも、私の言葉がきっかけです」
「言葉に責任を持つのは悪くない」
マルタはセシリアを見る。
「でも、まず座りな。謝罪で腹は膨れない」
セシリアは少しだけ困ったように笑った。
「はい」
席に案内される。
今日は芋ではなく、温かいスープが出た。
アルトはそれを見て、マルタを睨む。
「また差がある」
「今日の客にはこれが合うんだよ」
「俺には?」
「芋」
「判断基準が分からん」
少し笑いが起きる。
セシリアも、弱く笑った。
だが、すぐに表情を戻した。
彼女はミナの方を見る。
「ミナ様」
「はい」
ミナは立ち上がった。
リリも隣にいる。
セシリアは、深く頭を下げた。
「私の信奉者の方々が、赤猫亭の皆様にご迷惑をおかけしたと知りました。申し訳ありません」
店内の音が、少しだけ細くなる。
鍋の音は続いている。
皿の音もある。
だが、誰もすぐには喋らなかった。
ミナはセシリアを見つめている。
「セシリアさんが、謝ることなのでしょうか」
セシリアは頭を上げる。
「私の言葉が、あの方々を動かしました」
「でも、セシリアさんが命じたわけではありませんよね」
「はい」
セシリアは一拍置く。
「命じてはいません」
その言い方に、アルトは少しだけ引っかかった。
命じてはいない。
では、望んではいないのか。
そこまでは、まだ言わなかった。
セシリアは続ける。
「私の“救いは届くべき”という言葉が、誰かの場所を狭くしてしまったのなら、それは私の未熟です」
綺麗な謝罪だった。
美しい。
丁寧。
責任を取ろうとしている。
だが、やはり言葉が整いすぎている。
ミナは少しだけ目を伏せた。
「未熟、ではないと思います」
セシリアが見る。
「届くべき救いも、きっとあります」
ミナは言葉を選ぶ。
「でも、届かせる前に、聞かないといけないこともあると思います」
「はい」
セシリアは頷いた。
「その通りです」
早い。
納得が早すぎる。
そう思ったのは、アルトだけではないらしい。
ガルムもわずかに眉を寄せていた。
セシリアは本当に反省している。
それは分かる。
けれど、反省の形まで綺麗すぎる。
セシリアはリリを見る。
「リリ様」
リリの肩が小さく揺れる。
「はい」
「怖かったことを、何度も話したくないとおっしゃったそうですね」
「……はい」
「言ってくださって、ありがとうございます」
リリは驚いた顔をした。
「ありがとう、ですか?」
「はい。私の言葉では、拾えていなかった痛みです」
セシリアの声は静かだった。
嘘ではない。
リリは戸惑いながらも、少しだけ頷いた。
セシリアはさらに言う。
「話したくないことを話さない権利も、救いの中に含めなければいけませんでした」
完璧だった。
あまりにも。
客たちの間から、小さな感嘆が漏れる。
コメント欄も流れる。
『セシリア様、ちゃんと謝った』
『信奉者のことまで背負うのか』
『やっぱり本物だ』
『謙虚すぎる』
『これが聖女』
『リリの言葉まで受け止めてる』
アルトはその流れを見た。
嫌な予感がした。
そして、その予感はすぐに形になった。
『セシリア様、信奉者の過ちまで背負ってる』
『やっぱりついていきたい』
『この謙虚さが尊い』
『ミナもセシリア様から学べるな』
『聖女の器が違う』
店内の誰かが息を止めた。
神々の文字が、謝罪すら信仰に変えていく。
セシリアはそれを見た。
ほんの一瞬。
本当に、一瞬だけ。
彼女の笑顔が困ったように揺れた。
喜びではなかった。
だが、完全な拒絶でもなかった。
自分に向けられる信仰が、重い。
それでも、それが力でもあることを知っている。
そんな顔だった。
アルトはその一瞬を見逃さなかった。
ミナも、たぶん見た。
セシリアはすぐに表情を整えた。
「皆様」
彼女は神界コメントへ向けて、静かに言った。
「どうか、私を称えるために、誰かの言葉を小さくしないでください」
コメント欄が一拍遅れた。
『……』
『セシリア様』
『はい』
『すみません』
『でも今の言葉も尊い』
『だからそういうところだぞ』
最後のコメントに、アルトは少しだけ眉を上げた。
神々の中にも、分かっている者はいる。
だが、止まらない者もいる。
セシリアはその流れを見て、口を閉じた。
鍋の湯気だけが、白く上がっていた。
◇
セシリアは、スープをゆっくり飲んだ。
その間、誰もすぐには話さなかった。
コメントは流れている。
だが、店の中では、誰もそれを急いで拾わなかった。
ミアが小声で言う。
「……止めても、止まらないんだね」
ガルムが答える。
「信仰は、本人の言葉よりも、自分たちの見たい意味を拾う」
「最悪」
「最悪の一歩手前だ」
「手前でこれ?」
「ああ」
アルトはセシリアを見た。
彼女はスープを飲んでいる。
手元はきれいだ。
礼儀正しい。
けれど、その指先が一度だけ止まった。
コメント欄に視線が向く。
すぐに戻る。
ほんの一瞬だ。
だが、アルトには引っかかった。
セシリアは、見ないふりをしている。
いや、見ている。
見えている。
止めようとしている。
けれど、全部は止められない。
そして、全部止めることが本当に正しいのかも、彼女自身まだ分かっていない。
そんなふうに見えた。
マルタが、空になりかけた器を見て言う。
「おかわりは?」
セシリアは少し驚き、それから微笑んだ。
「いただいてもよろしいですか」
「客なら食べな」
「ありがとうございます」
マルタは器を受け取る。
「謝るにしても、考えるにしても、腹に入れてからだよ」
「はい」
セシリアは素直に頷いた。
アルトは思った。
この人は、本当に悪い人ではない。
それが、どうしようもなく面倒だった。
リリが小さく言う。
「セシリアさん」
セシリアは顔を上げる。
「はい」
「私は、セシリアさんが嫌いなわけではありません」
リリの声は震えていた。
それでも、自分で言った。
「ただ、怖かったことを、何度も話すのは怖いです」
セシリアは静かに頷く。
「はい」
「それを、分かってもらえたなら……それでいいです」
セシリアは少しだけ目を伏せた。
「ありがとうございます」
リリは小さく頷いた。
言葉はそこで終わった。
それ以上、セシリアは聞かなかった。
アルトはその沈黙を見ていた。
今のは、良かった。
余計に美しくしない。
泣かせようとしない。
届かせようとしない。
ただ受け取る。
それができるのなら、セシリアはまだ遠すぎる人ではないのかもしれない。
そう思いかけた時、店の外で声が上がった。
「セシリア様!」
「こちらにいらっしゃったのですね!」
「謝罪なさる必要などありません!」
白腕章の信奉者たちだった。
数は多くない。
五人ほど。
だが、店の外から中を覗き込むように立っている。
ガルムが立ち上がった。
アルトも立つ。
セシリアの表情が変わった。
明らかに、困った顔だった。
◇
セシリアはすぐに外へ出ようとした。
アルトは先に言った。
「店の中で話せ」
セシリアが振り向く。
「でも」
「外に出ると集まる」
ガルムが続けた。
「見せ場になる」
その言葉で、セシリアは止まった。
見せ場。
その言葉を、彼女は嫌がったように見えた。
だが、ほんの少しだけ、理解してしまった顔にも見えた。
「……分かりました」
マルタが扉の方へ向かう。
「入るなら飯を食え。騒ぐだけなら外だよ」
信奉者たちは戸惑った。
「私たちはセシリア様を」
「飯屋で飯を食わないなら客じゃない」
マルタは扉を半分だけ開けたまま言う。
「話すなら座りな。祈るなら場所を選びな」
白腕章の一人が何か言いかける。
セシリアが静かに声を出した。
「お願いします。赤猫亭のルールに従ってください」
その声は強くなかった。
だが、よく通った。
信奉者たちはすぐに頭を下げる。
「はい、セシリア様」
従った。
従いすぎるほど、すぐに。
アルトはその反応にも引っかかった。
彼らは赤猫亭のルールに従ったのではない。
セシリアの言葉に従ったのだ。
結果としては同じ。
だが、意味は違う。
五人のうち二人だけが店に入り、残りは外へ下がった。
中へ入った二人は席につく。
マルタが無言でスープを置いた。
「食べな」
「ありがとうございます」
セシリアは二人を見る。
「皆様。どうか、私のために誰かを責めないでください」
「責めるなど」
「そう見えることがあります」
信奉者の一人が息を呑む。
セシリアは続けた。
「私の言葉を大切にしてくださるなら、その言葉が誰かの場所を狭くしていないか、考えてください」
完璧な言葉だった。
まただ。
アルトはそう思った。
セシリアの言葉は、どこまでも綺麗だ。
正しい。
丁寧。
誰も否定できない。
信奉者たちは感動したように頷いた。
「はい。セシリア様」
「必ず、考えます」
「あなたの御心を」
セシリアはそこで、ほんの少しだけ口を閉じた。
御心。
その言葉に、彼女自身が違和感を覚えたように見えた。
だが、彼女はそれを正面から否定しなかった。
できなかったのか。
しなかったのか。
アルトには分からなかった。
ミナが、その様子を見ていた。
リリも。
オルグはまだ来ていない。
その不在が、少しだけ惜しかった。
こういう時、あの男なら短く「飯を食え」と言いそうだった。
代わりに、マルタが言った。
「冷めるよ」
信奉者たちは慌ててスープを飲んだ。
それだけで、空気が少し戻った。
飯屋は強い。
アルトは本気でそう思った。
◇
昼過ぎ、ブルーノが来た。
さすがに今日は、いつもの軽口を出す前に、店内の空気を読んだ。
「……今日は芋でいい」
「いつも芋だろ」
アルトが言うと、ブルーノは苦笑した。
「自分から言えば、少しはましかと思って」
「ましじゃない」
マルタが芋を置く。
「はいよ」
「ありがとうございます」
ブルーノは席に座り、神界端末を出す。
だが、すぐには開かなかった。
アルトはそれを見る。
「どうした」
「出すか迷ってる」
「珍しいな」
「珍しいだろ」
ブルーノは端末を指で叩く。
「セシリア様の謝罪、信奉者の反応、赤猫亭の受け止め方。全部、伸びる」
「だろうな」
「でも、雑に扱うと火がつく」
「扱わなければ?」
「別のやつが、もっと雑に扱う」
ブルーノは息を吐いた。
「いつもの理屈だ。煽り屋に取られる前に、俺が先に解説する」
「そう言ってたな」
「ああ」
ブルーノは端末を見る。
「でも、扱うって言葉自体が、もう雑なのかもしれない」
アルトはブルーノを見た。
初めて、彼が本当に迷っているように見えた。
「気づくのが遅い」
「遅くても、気づかないよりはましだろ」
アルトは少しだけ黙った。
「それはそうだな」
ブルーノは苦笑した。
「珍しく優しい」
「今のうちだけだ」
ガルムが横から言う。
「何を出すつもりだ」
ブルーノは少し考えた。
「謝罪の切り抜きじゃない」
「なら?」
「セシリア様が謝った、ではなく」
ブルーノは文字を打つ。
《善意を止めようとする善意は、どこまで届くのか》
アルトは眉をひそめた。
「長い」
「分かってる」
「でも、悪くない」
「本当か」
「たぶんな」
ブルーノは少しだけ息を吐いた。
「今回は、煽らない。白腕章も、赤猫亭も、どちらかを悪役にしない」
「できるのか」
「やるしかない」
その言葉は軽くなかった。
ブルーノもまた、少しだけ場所を選び始めている。
そう見えた。
◇
夕方。
セシリアは帰る前に、ミナと短く話した。
店の奥。
治療道具の棚の横。
白い花が一輪置かれている場所だった。
セシリアはその花を見て、少しだけ目を細めた。
「ここに置いてくださったのですね」
ミナは頷く。
「はい。入口では、少し重かったので」
「そうですね」
セシリアは静かに言った。
「置く場所を、私はよく間違えるのかもしれません」
ミナは少し驚いた。
「セシリアさんが、ですか」
「はい」
セシリアは白い花を見る。
「救いを広げたいと思う気持ちは、本当です。でも、その置き場所を間違えれば、誰かの居場所を狭くしてしまう」
ミナは黙って聞く。
「それを今日、見ました」
セシリアの声は、少しだけ疲れていた。
完璧な聖女の声ではなく、一人の人間の声だった。
ミナはゆっくり言った。
「セシリアさんは、止めようとしていました」
「はい」
「でも、止まりませんでした」
「はい」
セシリアは微笑んだ。
少しだけ苦い笑みだった。
「私の言葉なのに、私の手を離れるのです」
その一言は、今日一番、彼女の本音に近かった。
アルトは少し離れて聞いていた。
セシリアは続ける。
「それでも、言葉を使わないわけにはいきません。黙っていれば、もっと勝手に広がってしまう」
「難しいですね」
「はい。とても」
二人は白い花を見ていた。
ミナが言う。
「私は、まだ届け方が分かりません」
「私も、たぶん分かっていません」
セシリアがそう言った。
ミナが驚いて彼女を見る。
セシリアは少しだけ笑う。
「分かっているふりをするのが、上手くなりすぎたのかもしれません」
その言葉で、空気が少し変わった。
セシリアが、自分で自分に小さな亀裂を入れた。
アルトはそう感じた。
ミナは静かに言った。
「では、一緒に考えることはできますか」
セシリアは目を伏せる。
そして頷いた。
「はい。できれば」
できれば。
その頼りない言葉が、セシリアから出たことに、アルトは少し驚いた。
ミナは小さく笑った。
「では、今日はそこまでで」
セシリアも笑った。
「はい。今日は、終わりにしましょう」
オルグがいれば、きっと満足そうにスープを飲んだだろう。
そんな気がした。
◇
セシリアが帰った後、赤猫亭には疲れたような静けさが残った。
嫌な静けさではない。
話しすぎた後の静けさ。
考えすぎた後の静けさ。
鍋の音が戻り、皿の音が戻り、客の声が少しずつ戻っていく。
マルタがアルトに皿を押しつけた。
「運びな」
「今日は芋じゃないのか」
「芋もあるよ」
「聞くんじゃなかった」
ミアが干し果物を噛みながら言う。
「セシリア、ちょっと人間っぽかったね」
「ああ」
ガルムが低く言う。
「だから、余計に危うい」
「どうして」
「人間は、揺れる」
アルトはセシリアの帰った扉を見る。
聖女は、本当に優しかった。
そして今日、少しだけ困っていた。
自分の言葉が、自分の手を離れることに。
それは、たぶん始まりだった。
ルナの銀色コメントが流れる。
『アルト』
「何だ」
『今日のセシリアさんは、少し苦しそうでした』
「ああ」
『それでも、見られていました』
「ああ」
『見られる人は、苦しみ方まで見られるのですね』
アルトは少しだけ黙った。
その言葉は、セシリアだけではなく、アルトにも向いているように聞こえた。
ミナにも。
ガルムにも。
レオンにも。
観られる者は、苦しみさえも観られる。
そして、その苦しみもまた、切り抜かれる。
アルトは低く言った。
「最悪だな」
『はい』
「否定しないのか」
『今日は、しません』
アルトは小さく息を吐いた。
外では、まだ神々の議論が続いている。
セシリアの謝罪は、すでに切り抜かれている。
信奉者たちは、また何かを考えているだろう。
ブルーノは、解説を書く。
ミナは、届け方を考える。
赤猫亭は、今日も飯を出す。
その全部が、終わっていない。
終わらない。
マルタの声が飛ぶ。
「アルト! 考えるなら手を動かしな!」
「今動かしてる!」
「遅いよ!」
「聖女より厳しいな!」
「聖女は飯を出さないからね!」
店内に笑いが起きる。
その笑いの中で、白い花は治療道具の横に静かに揺れていた。
置く場所を間違えないように。
誰かの場所を狭くしないように。
それでも、捨てずに置いておけるように。
赤猫亭の夜は、今日も少しだけ騒がしかった。




