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第42話 救いを閉じ込めるな

 翌朝。


 白い花は、増えていなかった。


 アルトはそれを見て、少しだけ息を吐いた。


 赤猫亭の横の水桶には、昨日の花がまだ入っている。


 札はない。


 入口にもない。


 ただ、白い花だけが水に差されている。


 それだけなら、悪くない。


「今日は静かに始まるか」


 アルトが呟いた瞬間、ミアが横で言った。


「そういうこと言うと来るよ」


「何が」


「面倒」


「不吉な予言をするな」


「経験則」


「嫌な経験を積んできたな」


 店の中では、いつもの朝が始まっていた。


 マルタは鍋を火にかけている。


 ガルドは昨日曲がった椅子の脚を見ている。


 ガルムは入口近くで外の気配を見ている。


 ミナは治療道具の棚を整えている。


 リリはその横で、包帯を巻く練習をしていた。


 カイは皿を運ぶのが少し上手くなっている。


 ボロスは無言で水桶を運んでいる。


 オルグはまだ来ていない。


 ブルーノもいない。


 つまり、比較的平和だった。


『今日は花増えてないな』

『赤猫亭、朝は穏やか』

『芋は?』

『芋は朝から』

『そのルールは定着したのか』

『奈落新人が認めてない』


「認めてないからな」


 アルトは空へ言った。


 厨房からマルタの声が飛ぶ。


「認める認めないじゃないよ。事実だよ」


「事実にするな!」


 店内に笑いが起きる。


 その笑いの中で、リリが包帯を巻き直していた。


 少し歪んでいる。


 ミナが隣で静かに言う。


「もう少し、力を抜いてください」


「はい」


「強く巻くと、血が通りにくくなります」


「はい」


「でも、弱すぎると固定できません」


「難しいです」


「難しいですね」


 二人は小さく笑った。


 リリはもう、ただ助けられた少女ではなくなり始めている。


 包帯を覚えようとしている。


 誰かの傷を見て、手を動かそうとしている。


 アルトはそれを見て、何も言わなかった。


 言えばまた照れさせる。


 ただ、近くにあった水差しを二人の届く場所へ置いた。


 ミアが横から見て言う。


「また水差し係」


「黙れ」


「茶から水に進化したね」


「進化じゃない」


『水差し新人』

『気遣い前衛、派生職』

『生活系スキル増えてる』

『赤猫亭適応』


「保存するな」


 アルトが言うと、コメント欄に笑いが流れた。


 その時だった。


 店の外が、少し騒がしくなった。


 ガルムの目が細くなる。


「来たな」


「何が」


「面倒だ」


 ミアが得意げに言う。


「ほら」


「当てるな」


 扉が開いた。


 ◇


 入ってきたのは、三人だった。


 白い腕章。


 清潔な外套。


 胸元には、セシリアの聖印を簡略化した飾り。


 昨日の信奉者の女とは違う。


 年齢も少し上だ。


 一人は三十代ほどの男。


 一人は年配の女性。


 一人は若い神官風の青年。


 いずれも礼儀正しい。


 だが、昨日の女とは少し違う空気を持っていた。


 謝りに来た顔ではない。


 話し合いに来た顔だった。


 もっと正確に言えば、正しいことを確認しに来た顔だった。


 アルトはその時点で、すでに嫌だった。


 男が深く頭を下げる。


「朝早くに失礼いたします。私たちは、聖女セシリア様の救助理念に賛同する者です」


「飯を食うなら入れ」


 アルトは先に言った。


 男は少しだけ戸惑う。


「ええ、食事もいただくつもりです。ただ、その前に少しだけお話を」


「飯の後にしろ」


「ですが」


 マルタが厨房から顔を出した。


「ここは飯屋だよ。話で腹は膨れない。座るか、外で話すか、どっちだい」


 年配の女性が穏やかに言った。


「では、座らせていただきます」


「はいよ」


 三人は席についた。


 礼儀はある。


 声も荒くない。


 だが、空気が硬い。


 コメント欄が流れる。


『白腕章、増えた』

『昨日の子とは違う感じ』

『救助理念って言い方が重い』

『礼儀はあるけど圧があるな』

『信仰の団体感』


 ガルムが低く呟いた。


「来たか」


 アルトが横目で見る。


「忠誠確認か?」


「まだ手前だ」


「手前でこれかよ」


「手前だから丁寧なんだ」


 嫌な言い方だった。


 ミナは三人を見ていた。


 リリも横にいる。


 オルグはまだ来ていない。


 それが少しだけ不安だった。


 こういう時、あの男の短い言葉があれば、変に空気が締まるのだが。


 マルタが三人にスープを出す。


「はい、食べな」


 男は頭を下げる。


「ありがとうございます」


 だが、すぐには手をつけない。


 ミアが小声で言う。


「食べる気薄そう」


「分かる」


 アルトも同意した。


 男はミナを見る。


「ミナ様」


 ミナは静かに返した。


「はい」


「昨日の白い花について、こちらでも話を聞きました。置き方に問題があったことは理解しています」


「はい」


「その点は、我々も配慮が足りなかったと思います」


 ミナは少しだけ目を伏せる。


「ありがとうございます」


 ここまでは、悪くない。


 だが、男は続けた。


「ですが、救いを広げるという理念そのものは、間違っていないと考えています」


 空気が少し硬くなる。


 アルトは黙った。


 ミナも黙って聞いている。


「助けられた人の痛みは、その人のもの。昨日、そうおっしゃったそうですね」


「はい」


「尊い考えです」


 男は丁寧に言った。


「ですが、痛みを閉じ込めてしまえば、同じ痛みに苦しむ別の誰かが救われる機会を失うかもしれません」


 ミナの指が、小さく止まった。


 リリが息を呑む。


 青年が続ける。


「セシリア様は、救いを隠しません。なぜなら、救いの記録は、次の救いになるからです」


 年配の女性が静かに頷いた。


「語ることで救われる方もいます。見られることで支援が集まることもあります。祈りが広がれば、手が届く範囲も広がります」


 正しい。


 どれも、間違ってはいない。


 だから腹が立つ。


 ミナは少しだけ唇を結んだ。


 男はさらに言う。


「ですから、ミナ様にも、もう少し前向きに考えていただきたいのです」


 アルトの目が細くなった。


「何を」


 男はアルトを見る。


 丁寧な笑みを崩さない。


「救いを閉じ込めないことです」


 その言葉が出た瞬間。


 リリの手が、包帯箱の上で止まった。


 ミナは目を伏せた。


 アルトは机に置いた指を、一度だけ叩いた。


 かつ。


 小さな音だった。


 だが、店内にはよく響いた。


「閉じ込めてるように見えるのか」


 男は少しだけ困った顔をした。


「責めているわけではありません」


「聞いてる。閉じ込めてるように見えるのか」


「……結果として、そうなってしまう可能性がある、ということです」


 悪意はない。


 責めているつもりもない。


 だが、言葉は踏み込んでいた。


『救いを閉じ込める、か』

『言い方きつくない?』

『でも理念としては分かる』

『セシリア様の記録で救われた神もいるぞ』

『本人が嫌がるなら違うだろ』

『難しいな』

『これは忠誠確認に近い』


 アルトはコメントの最後を見る。


 ガルムも見ていた。


 何も言わない。


 だが、その沈黙が答えだった。


 ◇


 ミナは、すぐには答えなかった。


 彼女は自分の手を見ている。


 昨日、白い花を治療道具の棚に置いた手。


 リリの包帯を直した手。


 オルグの肩を診た手。


 セシリアとは違う手。


 けれど、それは逃げるための手ではない。


 ミナは顔を上げた。


「私は、救いを閉じ込めたいわけではありません」


 声は小さかった。


 だが、震えてはいなかった。


「セシリアさんの記録で救われる方がいることも、分かります」


 男は少し表情を和らげる。


「でしたら」


「でも」


 ミナはそこで止めた。


「語ることで、もう一度傷つく人もいます」


 リリが隣で、少しだけ息を吸った。


 ミナは続ける。


「助けられた人が、何を語りたいのか。何を語りたくないのか。それを聞く前に、救いの記録にしてしまうのは……私は、少し怖いです」


 店内の音が細くなる。


 外のざわめきだけが遠く聞こえた。


 年配の女性が言う。


「ですが、語れない人の代わりに、誰かが語ることも必要ではありませんか」


 ミナは頷いた。


「必要な時もあると思います」


「なら」


「でも、代わりに語るなら、もっと慎重でいたいです」


 男は少し黙った。


 ミナは言葉を探す。


「私は、まだ未熟です。セシリアさんのように、多くの方へ救いを届けることはできません」


「そんなことは」


「あります」


 ミナは静かに遮った。


「私は、セシリアさんとは違います」


 その言葉は、昨日よりもはっきりしていた。


 アルトは口を挟まなかった。


 ここはミナの場所だ。


 彼女が立つ場所だ。


「私は、目の前の人が、何を言いたくないのかも、聞きたいです」


 青年が少し眉を寄せる。


「言いたくないことまで、ですか」


「はい」


「それは、届かない救いではありませんか」


 リリが、そこで顔を上げた。


 ミナより先に、口を開いた。


「届かなくても、助かることはあります」


 小さな声だった。


 だが、店の中に届いた。


 青年がリリを見る。


 リリは緊張している。


 それでも、視線を逸らさなかった。


「私は、助けてもらいました。でも、あの時のことを、全部話したいわけじゃありません」


 彼女の手は少し震えている。


 ミナが隣にいる。


 ただ、それだけで、リリは続けた。


「でも、話さなくても、足は治っていきます。ご飯も食べられます。眠れます」


 リリは包帯箱を抱えた。


「それでも、救われたと思います」


 誰もすぐには返せなかった。


 鍋の湯気だけが、白く上がっていた。


 コメント欄がゆっくり流れる。


『リリが言った』

『届かなくても助かることはある』

『これは重い』

『語らない救いか』

『セシリア派だけど、今のは分かる』

『救いを広げることと、語らせることは違う』


 男はリリを見て、少しだけ目を伏せた。


「……失礼しました」


 完全に納得した顔ではない。


 だが、止まった。


 踏み込む足を、止めた。


 ガルムが低く息を吐く。


 アルトはそれを聞いた。


 ぎりぎりだったのだと分かった。


 ◇


 その時、扉が開いた。


 オルグだった。


 右肩を庇いながら、いつものように入ってくる。


 だが、今日は店内の空気を見て、すぐに眉を寄せた。


「邪魔したか」


 マルタが即答する。


「してないよ。座りな」


「スープを」


「はいよ」


 オルグはいつもの席に座った。


 三人の白腕章をちらりと見る。


 何も言わない。


 ミナが近づく。


「肩を」


「飯の前か」


「飯の前です」


「分かった」


 オルグは素直に肩当てを外した。


 白腕章の三人が、自然とそちらを見る。


 その視線に、オルグが気づいた。


「見るな」


 短い言葉だった。


 青年がはっとする。


「すみません」


「謝ったなら終わりだ」


 オルグはミナに肩を向ける。


 ミナは傷の状態を見る。


「昨日よりは良いです」


「半日で帰った」


「守りましたね」


「珍しくな」


「珍しくでは困ります」


 オルグは少し笑った。


 そのやり取りを、白腕章の三人が見ていた。


 だが、今度は距離があった。


 見たいという気持ちはあるのだろう。


 でも、オルグの「見るな」で、線が引かれた。


 その線の内側には入らない。


 少なくとも、今は。


 男が小さく言った。


「……こういう救いも、あるのですね」


 ミナは顔を上げる。


「はい」


「記録には、残りにくい」


「はい」


「広がりにくい」


「はい」


「それでも、必要だと」


 ミナは頷いた。


「はい」


 男は何かを言いかけた。


 だが、そこで止めた。


 代わりに、出されたスープに手を伸ばした。


「いただきます」


 マルタが言う。


「冷める前に食べな」


 男は頷いた。


 忠誠確認にはならなかった。


 だが、近かった。


 あと一歩踏み込まれていたら、違ったかもしれない。


 ガルムがアルトの横に来る。


「今のは、かなり近かった」


「ああ」


「次は、もっと踏み込む者が来る」


「嫌な予言をするな」


「予言じゃない。流れだ」


「流れを止める方法は?」


 ガルムは少しだけ黙った。


「場所を守ることだ」


「赤猫亭をか」


「それと、言葉を」


 アルトはミナとリリを見る。


 二人はもう、白腕章の三人ではなく、オルグの包帯に集中している。


 それでいい。


 そう思った。


 ◇


 昼過ぎ。


 ブルーノが来た。


 今日はやけに真面目な顔をしていた。


 アルトは扉を開ける。


「芋か?」


「今日は煮込みを」


「贅沢を言うな」


「俺の扱いが日に日に悪くなってないか?」


「気のせいだ」


 マルタが厨房から言う。


「芋でいいね」


「はい」


 ブルーノは逆らわなかった。


 席につくと、すぐに端末を開く。


「もう流れてる」


「だろうな」


 アルトは見る前から嫌な顔をした。


【神界短報】


《赤猫亭、救いを閉じ込めるなとの声》


《ミナ「言いたくないことも聞きたい」》


《リリ「届かなくても助かることはある」》


《聖女信奉者、赤猫亭で救助論を問う》


《オルグ「見るな」》


「最後だけ強いな」


 アルトが言うと、ミアが吹き出した。


「オルグ、短文で強い」


 オルグはスープを飲みながら、眉をひそめる。


「俺は何もしていない」


「してるんだよ、たぶん」


 アルトが言う。


 オルグは納得していない顔でスープに戻った。


 ブルーノは端末を指で滑らせる。


「コメントは割れてる」


 神界コメントが並ぶ。


『救いを閉じ込めるな、は正論だろ』

『でも語りたくない人もいる』

『セシリア様は無理に語らせない』

『信奉者が勝手に先走ってるだけでは』

『ミナは閉じてるんじゃなくて、守ってる』

『届かない救いって、救いなのか?』

『届かないから救いになる場合もあるのでは』


 アルトは最後の一文を見た。


 まただ。


 神々の中に、迷っている者がいる。


 結論ではない。


 だが、考えている。


 その変化は、小さい。


 小さいが、ゼロではない。


「悪くない流れか?」


 アルトが聞くと、ブルーノは首をひねった。


「悪くない。だが、割れている」


「割れるとどうなる」


「派閥ができる」


「またか」


「セシリア派、ミナ派、赤猫亭派。勝手に名前がつくだろうな」


「勝手につけるな」


「俺に言っても無駄だ」


「じゃあ誰に言えばいい」


 ブルーノは空を指した。


「神々」


 アルトは空を見る。


「おい、勝手に派閥を作るな」


『もうある』

『赤猫亭派です』

『ミナ派ではなく静かな救い派』

『セシリア様を否定するな』

『対立煽るな』

『芋派もある?』


「芋派は解散しろ」


 マルタが厨房から叫ぶ。


「解散させるんじゃないよ!」


「店主が乗るな!」


 笑いが起きる。


 少しだけ空気が緩む。


 だが、完全には緩まない。


 白腕章の三人はまだ店にいる。


 スープを飲みながら、考えている。


 それだけで、少し張りつめている。


 ◇


 夕方前。


 白腕章の三人は、食事を終えた。


 男が立ち上がり、ミナに頭を下げる。


「本日は、失礼な物言いをしました」


 ミナも立ち上がる。


「いえ」


「ですが、私はまだ、救いは広がるべきだと思っています」


 ミナは頷いた。


「はい」


「あなたの考えも、少し分かりました。ですが、完全には納得していません」


「はい」


 男はそこで少し困ったように笑った。


「こういう時、どう終えればいいのでしょうね」


 ミナは少し考えた。


「今日は、終わりにすればいいと思います」


 オルグがスープを飲みながら短く言う。


「それでいい」


 男はオルグを見る。


「あなたは、終わらせるのが上手ですね」


「長い話が苦手なだけだ」


 ミアが小声で言う。


「それ、強みだよ」


 オルグは何も返さない。


 男はもう一度頭を下げた。


「また、食事に来てもよろしいですか」


 アルトは少し眉を上げる。


 マルタが先に答えた。


「飯を食うならね」


「食べます」


「なら客だ」


 昨日と同じやり取りだった。


 だが、今日は少し重さが違う。


 年配の女性がリリに向かって言った。


「怖いことを聞いてしまって、ごめんなさい」


 リリは少し緊張しながらも頷いた。


「はい」


 青年はオルグに言った。


「見てしまって、すみませんでした」


 オルグは短く答えた。


「次から見るな」


「はい」


 それで終わった。


 三人は赤猫亭を出ていった。


 扉が閉まる。


 外の光が細く消える。


 店の中には、鍋の音が戻ってきた。


 ガルムが低く言う。


「今回は、踏みとどまった」


「今回は、か」


「次は分からない」


 アルトは頷いた。


「場所と言葉を守る、だったな」


「ああ」


「面倒だな」


「そういう戦いもある」


 アルトは嫌そうに顔をしかめた。


「剣で終わる方が楽だ」


 ガルムは少しだけ笑った。


「お前には向いていないかもな」


「知ってる」


 だが、やるしかないのだろう。


 ここが、赤猫亭であるうちは。


 ◇


 夜。


 ミナは治療道具の棚の前にいた。


 白い花は、まだそこにある。


 昨日より少しだけ開いている。


 リリが隣に立つ。


「今日、怖かったです」


「はい」


 ミナは頷いた。


「私も怖かったです」


「でも、言えました」


「リリさんも」


「ミナさんがいたので」


「私も、リリさんがいたので」


 二人は小さく笑った。


 その笑いは、声にならない痛みを知る者同士の、静かな笑いだった。


 アルトは少し離れて、それを見ていた。


 ルナの銀色コメントが流れる。


『今日は、少しだけ怖かったです』


「神でも怖いのか」


『はい』


「何が」


『善意が、誰かの場所を狭くすることです』


 アルトは白い花を見る。


 花は悪くない。


 札も、たぶん悪意ではなかった。


 セシリアも、悪い人間ではない。


 信奉者たちも、悪人ではない。


 だが、悪くないものが重なると、誰かの場所が狭くなることがある。


 それが今日の怖さだった。


 ミナは花の位置を少しだけ直した。


「ここなら、邪魔になりませんね」


 リリが頷く。


「はい」


 その時、マルタの声が飛ぶ。


「アルト! 今日は芋の皮じゃなくて、花の水を替えな!」


「珍しく芋じゃない!」


「その後に芋だよ!」


「結局か!」


 店内に笑いが起きる。


 ガルドが短く言う。


「水はこぼすな」


「分かってる!」


 ミアが干し果物を齧りながら言う。


「花係も増えたね」


「増やすな」


『水差し係』

『芋係』

『花係』

『奈落新人、職が多い』

『赤猫亭適応、順調』


「順調じゃない!」


 笑いがまた起きる。


 その笑いの中で、白い花は静かに揺れていた。


 祈りは、置く場所を間違えると重くなる。


 救いは、広げ方を間違えると誰かを追い詰める。


 それでも、花そのものは悪くない。


 祈りそのものも、たぶん悪くない。


 だから、捨てるのではなく、置き直す。


 今日の赤猫亭がやったことは、たぶんそれだった。


 アルトは花の水を替えながら、低く呟いた。


「……剣より難しいな」


 ガルムが入口近くで答えた。


「だから厄介なんだ」


「知ってる」


 外では、まだ神々が見ている。


 神界では、議論が続いている。


 セシリアの名は、まだ白く輝いている。


 だが、赤猫亭の中では、ミナとリリが包帯を畳み、オルグがスープを飲み、マルタが鍋をかき混ぜている。


 それぞれの場所が、まだここにある。


 アルトは、水を入れ替えた白い花を棚へ戻した。


 花は、治療道具の横で静かに揺れた。


 入口ではなく。


 舞台でもなく。


 誰かの手が届く、邪魔にならない場所で。


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