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第41話 善意の信奉者

 翌朝、赤猫亭の看板の横に、白い花が置かれていた。


 一本ではない。


 三本。


 いや、よく見ると七本あった。


 どれも丁寧に結ばれ、小さな札が添えられている。


【聖女セシリア様と、ミナ様の救いに感謝を】


【届くべき救いが、もっと多くの人へ届きますように】


【泣かない痛みにも、光を】


 アルトはそれを読んで、しばらく黙った。


 朝の空気は冷えている。


 店の中からは、鍋の音が聞こえる。


 いつも通りの赤猫亭の朝。


 その入口に、白い花だけが妙に浮いていた。


「……善意なんだろうな」


 アルトが呟く。


 隣でミアが干し果物を噛みながら言った。


「たぶんね」


「だから面倒だな」


「うん。嫌な面倒」


 ミアは札を一枚つまみ上げる。


「悪口じゃないし、呪いでもないし、商売の邪魔ってほどでもない」


「でも、置かれると場所が変わる」


「そういうやつ」


 ガルムが店の前に出てきた。


 白い花を見る。


 顔が少しだけ険しくなる。


「早いな」


「何が」


「信仰だ」


 アルトは花を見る。


「これが?」


「まだ礼儀はある」


 ガルムは低く言った。


「だが、入口に置かれた時点で、ここを自分たちの意味で飾り始めている」


 アルトは息を吐いた。


 言い方は重い。


 だが、分かる。


 花は綺麗だ。


 札の文字も丁寧だ。


 誰かを傷つけようとしているわけではない。


 けれど、赤猫亭の入口が、少しだけ赤猫亭ではないものに変えられている。


 マルタが厨房から出てきた。


 白い花を見る。


 腕を組む。


「ふうん」


「どうする?」


 アルトが聞く。


 マルタは花を一本持ち上げた。


「捨てはしないよ」


「飾るのか」


「店の中には入れない」


 そう言うと、マルタは店の横にある小さな水桶を指した。


「そこにまとめる。札は外す」


「いいのか?」


「花は花だ。札は札だ。飯屋の入口に祈願文を貼られる筋合いはない」


 ミアが小さく笑う。


「女将、線引きうまいね」


「生きるってのは線を引くことだよ」


 マルタは当然のように言った。


 アルトは少しだけ感心した。


 ガルドが遅れて出てくる。


 花ではなく、札の紐を見ていた。


「結び方が揃っている」


「そこを見るのか」


「複数人ではない。同じ者がまとめて置いた」


 ガルドは札を一枚見て、短く言った。


「丁寧すぎる」


「それ、最近よく聞くな」


 アルトは苦い顔をした。


 店内では、ミナがその花を見ていた。


 彼女は何も言わない。


 ただ、少しだけ困ったように眉を下げている。


 リリが隣に立つ。


「綺麗ですね」


「はい」


「でも、少し怖いです」


 ミナはリリを見る。


 リリは小さな声で続けた。


「私たちのことを、知らない人が祈っているみたいで」


 ミナは答えに迷った。


 そして、静かに頷いた。


「そうですね」


 その言葉だけだった。


 けれど、リリは少し安心したように息を吐いた。


 コメント欄が流れる。


『白い花か』

『綺麗だけど重い』

『善意だろ』

『入口に置くのは違う気がする』

『祈りとマーキングの境目ってどこだ』

『赤猫亭は飯屋だぞ』


 アルトは最後のコメントを見て、少しだけ眉を上げた。


 神々の中にも、分かっている者はいるらしい。


 まだ、全員ではないが。


 ◇


 昼前。


 花を置いた者は、意外なほど早く現れた。


 白い腕章をつけた若い女だった。


 昨日の二人組とは違う。


 年は十七、八ほど。


 清潔な服装。


 真面目そうな顔。


 店に入る前から深く頭を下げている。


「失礼いたします。今朝、花を置かせていただいた者です」


 アルトは扉の前で腕を組んだ。


「置かせていただいた、じゃない。置いたんだろ」


 女ははっとした顔をする。


「申し訳ありません。不快にさせるつもりは」


「不快というか、勝手だ」


 女はさらに頭を下げる。


「申し訳ありません」


 謝り方は丁寧だった。


 だが、アルトはそこで少し困った。


 怒鳴る相手ではない。


 悪意もない。


 ただ、間違っている。


 こういう相手が一番やりにくい。


 マルタが後ろから言った。


「飯を食うなら入りな。謝るだけなら外で済ませな」


 女は少し迷ったあと、顔を上げた。


「食べます」


「なら客だ」


 マルタは即座に処理した。


 アルトは扉を開ける。


 女は中に入り、席に座る前にミナの方を見た。


「ミナ様」


 ミナが少しだけ身構える。


「はい」


「昨日と一昨日の記録を拝見しました。泣かない痛みに寄り添う姿に、胸を打たれました」


「ありがとうございます」


 ミナは丁寧に返す。


 女は続けた。


「だから、もっと多くの人に知っていただきたいと思いました」


 アルトは心の中で、またか、と思った。


 だが、今回は黙った。


 ミナがどう返すかを待つ。


 女は熱を帯びた声で言う。


「聖女セシリア様もおっしゃっています。救いは、必要な誰かに届くべきだと。ミナ様の救いも、きっと多くの方を励ませます」


 ミナは少しだけ目を伏せた。


「そうかもしれません」


 女の顔が明るくなる。


「でしたら」


「でも」


 ミナは顔を上げた。


「届く前に、確かめたいことがあります」


 女が首を傾げる。


「確かめたいこと、ですか?」


「その人が、届くことを望んでいるかどうかです」


 店内の音が少しだけ遠のいた。


 鍋の音だけが、いつもより大きく聞こえる。


 女は戸惑った顔をした。


「救われた話は、きっと誰かの希望になります」


「はい」


「なら、広げることは悪いことではないと思います」


「私も、悪いことだとは思いません」


 ミナは静かに答えた。


「でも、助けられた人の痛みは、その人のものです」


 女はすぐには返せなかった。


 ミナは言葉を選びながら続ける。


「私が診た痛みを、私が勝手に誰かの希望に変えていいのか。まだ、分かりません」


 リリが隣で、そっと包帯箱を持ち直した。


 カイは皿洗いの手を止めかけ、マルタに睨まれて慌てて戻した。


 ボロスは何も言わずに椅子を運んでいる。


 ミアは珍しく茶化さなかった。


 女は困ったように言った。


「でも、セシリア様は……」


 その瞬間、アルトは少しだけ目を細めた。


 ミナも、一拍置いた。


 だが、彼女は声を荒げなかった。


「セシリアさんの救いを、否定しているわけではありません」


「はい」


「でも、私の手は、セシリアさんの手ではありません」


 女が黙る。


 ミナは自分の手を見る。


「だから、同じようにはできません」


 その声は、強くはない。


 けれど、逃げてはいなかった。


 アルトは何も言わなかった。


 茶も置かなかった。


 ただ、見ていた。


『ミナ、自分で言った』

『セシリア様の否定ではないのがいい』

『痛みはその人のもの、か』

『でも広げないと助からない人もいるだろ』

『両方分かるから難しい』

『信奉者の子も悪い子じゃなさそう』


『両方分かるから難しい』


 その文字だけ、アルトは少し長く見た。


 珍しく、茶化しではなかった。


 神々の中にも、迷う奴はいるらしい。


 それが救いなのか、また別の見物なのかは、まだ分からなかった。


 女はしばらく黙ったあと、小さく頭を下げた。


「考えたことがありませんでした」


 ミナは少し驚いた顔をした。


「そうですか」


「はい。救われた話は、広がれば広がるほど良いものだと思っていました」


 女は膝の上で手を握る。


「今も、そう思う気持ちはあります。でも……」


 彼女はリリを見た。


 リリは少し緊張したが、視線を逸らさなかった。


「話したくないことも、ありますよね」


 リリは小さく頷いた。


「はい」


 女はもう一度、深く頭を下げた。


「ごめんなさい」


 リリは少し迷ったあと、言った。


「謝ってくれたので、大丈夫です」


 その言葉に、女の顔が少し緩んだ。


 マルタが皿を置く。


「はい、スープ」


「あ、ありがとうございます」


「冷める前に食べな。考えごとは、腹に何か入れてからだよ」


 女は少しだけ笑った。


「はい」


 その場は、それで収まった。


 解決したわけではない。


 ただ、誰かが少し考えた。


 それだけだった。


 ◇


 昼過ぎ。


 白い花の話は、もう神界に切り抜かれていた。


【神界短報】


《白い花と赤猫亭の線引き》


《ミナ「痛みはその人のもの」》


《セシリア信奉者、赤猫亭で謝罪》


《救いは広げるべきか、守るべきか》


 アルトはそれを見て、顔をしかめる。


「早すぎる」


 ブルーノが、いつの間にか店の隅にいた。


「速さが命だからな」


「いつ入った」


「さっき」


「気配を消すな」


「解説者のたしなみだ」


「違うだろ」


 ブルーノは今日も芋を食べている。


 もはや完全に定位置だった。


 ミアが呆れたように言う。


「住んでる?」


「まだ通いだ」


「そのうち皿洗いね」


「それは避けたい」


 マルタが厨房から言う。


「避けられると思うなよ」


 ブルーノは真顔で芋を噛んだ。


「怖いな、この店」


「今さらだ」


 アルトは向かいに座る。


「で、これは燃えるのか?」


 ブルーノは端末を見た。


「今は議論だな」


「燃える前の言い方だな」


「まあな」


 ガルムが横から言う。


「信仰が絡むと、議論はすぐに忠誠確認になる」


「忠誠確認?」


 ミアが聞く。


 ガルムは頷いた。


「セシリア様を否定するのか。救いを広げることに反対なのか。感謝が足りないのではないか。そういう言葉に変わる」


 アルトは顔をしかめた。


「最悪だな」


「まだ来ていない」


「来るのか」


「来る可能性がある」


 ブルーノが神界コメントを映す。


『ミナの言い分も分かる』

『でも救いは広がった方がいい』

『セシリア様の理念を曲げるな』

『いや、ミナは否定してない』

『痛みはその人のもの、これは大事』

『でも助けられた側が黙ってたら他の人が救われないかも』


 コメントの中に、少しずつ熱が混じっている。


 悪意ではない。


 真剣さだ。


 だからこそ厄介だった。


 ミナは遠くからその流れを見ていた。


 リリが隣にいる。


 リリは小さく言った。


「私、さっき言えてよかったです」


 ミナが見る。


「怖くありませんでしたか?」


「怖かったです」


 リリは正直に言った。


「でも、ミナさんが先に言ってくれたので」


「私が?」


「はい。痛みはその人のものだって」


 ミナは少しだけ目を伏せた。


「私も、言いながら怖かったです」


「でも、言ってくれました」


 リリは笑った。


「だから、私も言えました」


 ミナは何も言わず、リリの包帯箱を一緒に持った。


 それだけだった。


 コメントは流れている。


 議論も続いている。


 でも、二人は手元の包帯を整理していた。


 アルトには、その光景の方がずっと信用できた。


 ◇


 夕方前、オルグが来た。


 今日はいつもの席に、何も言わずに座った。


 マルタが厨房から声をかける。


「スープかい」


「ああ」


「肩は」


「痛い」


「よろしい」


 よろしいのか、とアルトは思ったが、言わなかった。


 ミナが近づく。


「今日は無理をしていませんか?」


「半日だけにした」


「本当ですか?」


「本当だ」


 オルグは少しだけ目を逸らした。


 ミナはじっと見る。


「本当ですか?」


「……三分の二くらいだ」


「半日ではありません」


「だいぶ減らした」


「明日は半日です」


「厳しいな」


「守ってください」


 オルグはスープを見た。


「この店は飯より説教が先に出る」


 マルタが即座に答える。


「説教は無料だよ」


「高いな」


 店内に笑いが起きた。


 その笑いの中、白い腕章の女が、席からオルグを見ていた。


 朝、花を置いた信奉者だ。


 彼女は少し迷い、オルグに頭を下げた。


「先ほどは、すみませんでした」


 オルグはスープを飲む手を止める。


「謝られた」


「はい」


「なら終わりだ」


 女は驚いた。


「終わり、ですか?」


「飯を食っている」


 オルグは短く言った。


「それ以上は、また別の日でいい」


 女は少しだけ笑った。


「はい」


 アルトはそのやり取りを見ていた。


 大きな和解ではない。


 感動的な涙もない。


 ただ、終わりにする。


 それも必要なのだと思った。


 何でも語り尽くす必要はない。


 何でも届かせる必要はない。


 終わらせる権利も、きっとある。


 ◇


 夜。


 白い腕章の女は、食事を終えた後も少し残っていた。


 だが、騒がなかった。


 ミナに質問攻めもしなかった。


 リリの話を無理に聞こうともしなかった。


 ただ、店の端でスープの皿を両手で包んでいる。


 やがて彼女は立ち上がり、マルタに頭を下げた。


「ごちそうさまでした」


「はいよ」


「明日も、来てもいいですか」


 マルタは女を見る。


「飯を食うならね」


「食べます」


「なら客だ」


 女は少しだけ笑った。


 店を出る前に、彼女はミナを見る。


「ミナ様」


 ミナが顔を上げる。


「はい」


「私は、セシリア様を尊敬しています」


「はい」


「それは、変わりません」


「はい」


「でも、今日のことは……すぐには分かりません」


 女は少しだけ困ったように笑った。


「たぶん、私はまだ、セシリア様の言葉の方を信じています」


 ミナは静かに頷いた。


「はい」


「でも、リリさんやオルグさんが嫌がったことを、なかったことにはしたくありません」


 女は皿を見下ろした。


「だから、考えます。食べながら」


 ミナは少しだけ笑った。


「はい」


 女は頭を下げて、出ていった。


 扉が閉まる。


 外の音が少し遠のく。


 アルトは皿を片付けながら言った。


「悪い子じゃなかったな」


 ガルムが低く答える。


「悪い者だけが厄介なわけではない」


「知ってる」


「今日のは、踏み込む前に止まった」


「次は?」


「分からない」


 その答えが、一番正直だった。


 ブルーノはまだいた。


 空の皿を前に、端末を閉じる。


「今日の解説は難しいな」


「やめればいい」


「そういうわけにもいかない」


「なら雑に扱うな」


「分かってる」


 ブルーノは珍しく軽口を挟まなかった。


「今日の題は、たぶんこうなる」


 彼は端末に短く文字を打った。


《救いを広げる前に、聞くべきこと》


 アルトはそれを見た。


「悪くない」


「珍しく褒めたな」


「調子に乗るな」


「難しいな」


 ブルーノは少し笑った。


 ◇


 閉店後。


 ミナは白い花を一輪だけ、水桶から取り出した。


 札はもう外されている。


 ただの白い花だ。


 リリが隣から見る。


「飾るんですか?」


「はい」


 ミナは少し迷って、治療道具の棚の横に置いた。


「花は、悪くありませんから」


 リリは頷いた。


「はい」


 アルトはそれを見ていた。


 花は入口にはない。


 札もない。


 でも、花そのものは捨てられていない。


 それが、ミナらしい気がした。


 ルナの銀色コメントが流れる。


『良い場所ですね』


「そうか?」


『はい』


「入口じゃないからな」


『はい』


 銀色の文字は、少しだけ間を置く。


『祈りも、置く場所を間違えると重くなるのですね』


 アルトは白い花を見る。


「たぶんな」


 ミナは花の水を替えながら、静かに言った。


「届くことも、祈ることも、悪いことではないと思います」


「ああ」


「でも、置く場所を間違えると、誰かの場所を狭くしてしまうんですね」


 その言葉は、今日のすべてを静かにまとめていた。


 アルトは頷く。


「そうかもな」


 マルタが厨房から声を飛ばす。


「アルト! 花を見てる暇があるなら芋を運びな!」


「余韻を壊すな!」


「余韻じゃ腹は膨れないよ!」


「知ってるけど!」


 店内に笑いが起きた。


 ミナも、リリも笑った。


 オルグは帰った。


 白い腕章の女も帰った。


 セシリア本人は、今日は来なかった。


 それでも、彼女の信仰は少しだけ赤猫亭に触れた。


 触れて、少しだけ形を変えた。


 追い出すのではなく。


 飲み込まれるのでもなく。


 置く場所を、変える。


 赤猫亭は今日も、飯屋だった。


 白い花が一輪、治療道具の横で静かに揺れていた。


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