表示調整
閉じる
挿絵表示切替ボタン
▼配色
▼行間
▼文字サイズ
▼メニューバー
×閉じる

ブックマークに追加しました

設定
0/400
設定を保存しました
エラーが発生しました
※文字以内
ブックマークを解除しました。

エラーが発生しました。

エラーの原因がわからない場合はヘルプセンターをご確認ください。

ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
PR
40/100

第40話 聖女のあとに残ったもの

 翌朝。


 神界は、セシリアで埋まっていた。


 正確には、セシリアとミナで埋まっていた。


【神界比較切り抜き急上昇】


《聖女セシリア、赤猫亭を訪問》


《ミナの静かな救助を、聖女が認める》


《“届くべき救い”とは何か》


《聖女と回復術師、二つの救助論》


《泣かない客は救われたのか》


 アルトはその一覧を見て、朝から頭を抱えた。


「……また増えてる」


 ミアが干し果物を齧りながら、隣から覗き込む。


「すごいね。増殖してる」


「菌みたいに言うな」


「でも菌より早いよ」


「余計嫌だ」


 赤猫亭の朝は、いつもより少しだけ重かった。


 客はいる。


 鍋の音もある。


 皿の音もある。


 マルタの怒鳴り声もある。


 ただ、空気の中に白いものが残っている。


 昨日ここに来た聖女セシリアの影だ。


 本人はもういない。


 それなのに、名前だけは残り続けている。


 ミナは奥の席で治療道具を整理していた。


 昨日より落ち着いているように見える。


 だが、手元に置かれた茶は、まだ少し残っていた。


 アルトは何も言わなかった。


 茶を足すのも、やめた。


 彼女は今、自分で整えようとしている。


 それを邪魔したくなかった。


『セシリア様、やっぱり本物だった』

『でもミナの手当ても良かった』

『“届くべき”って綺麗な言葉だよな』

『綺麗すぎて少し怖かった』

『怖い要素ある?』

『泣かない客がまた来たのが良かった』

『あれ地味だけど残る』


 コメント欄にも、少し変化があった。


 茶化す神もいる。


 比較する神もいる。


 だが、昨日までより、いくらか言葉が増えている。


 ただ騒ぐだけではない。


 何かを考えようとしている者もいる。


 それは良いことなのか。


 それとも、新しい消費の形なのか。


 アルトには分からない。


 ガルムが店の端で、神界端末を見ていた。


 表情は険しい。


「燃えてはいない」


「それは良いことか?」


 アルトが聞くと、ガルムは少しだけ考えた。


「今のところは」


「今のところ、か」


「比較が伸びる時は、最初は穏やかだ。どちらも褒める。どちらも尊いと言う。だが、そのうち優劣をつけ始める」


「嫌な経験則だな」


「経験だからな」


 ガルムは端末を閉じた。


「気をつけろ。今はまだ、好奇心だ」


「好奇心の時点で面倒なんだが」


「次に来るのは、信仰だ」


「もっと嫌だ」


 アルトがため息をついた時、厨房からマルタの声が飛んだ。


「アルト! 皿!」


「今行く!」


「神様の比較なんて腹は膨れないよ! 皿を運びな!」


「正論で殴るな!」


 マルタは鍋をかき混ぜながら言う。


「正論じゃない。飯屋の現実だよ」


 アルトは皿を運んだ。


 煮込み。


 パン。


 芋。


 芋。


 芋。


「芋多くないか」


「売れるからね」


「聖女のあとでも芋かよ」


「聖女も食べたからね」


「そこを商売に繋げるな」


 マルタは平然としている。


「飯屋が飯を売って何が悪い」


「何も悪くないのが腹立つ」


 店内に少し笑いが起きた。


 その笑いで、空気が少しだけほぐれた。


 ◇


 昼前。


 ブルーノが来た。


 青い外套。


 軽い口調。


 そして、当然のように空いている席を探す目。


 アルトは扉を開けた瞬間に言った。


「用件を言ってから出ろ」


「入れてすらくれないのか」


「昨日来たばかりだろ」


「毎日来る常連ってことで」


「常連を名乗るには、まず皿を洗え」


 マルタが厨房から言った。


「皿を洗うなら飯は出すよ」


 ブルーノは少し考えた。


「……芋以外なら洗う」


「芋だね」


「なぜ交渉したら悪化するんだ」


 ミアが横で笑っている。


「赤猫亭に交渉を持ち込むのが悪い」


「覚えておく」


 ブルーノは結局、芋を受け取り、席に座った。


 そして神界端末を開く。


「今日の流れを見に来た」


「お前が来ると流れが悪くなる」


「否定できない」


「そこは否定しろ」


「解説者は事実に誠実でありたい」


「都合よく誠実になるな」


 ブルーノは軽く笑ったが、すぐに少し真面目な顔になった。


「セシリア側の反応が出た」


 店内の音が少しだけ細くなる。


 鍋の音は続いている。


 皿の音もある。


 だが、会話だけが少し減った。


 ブルーノは端末に白い枠の記録を映す。


【聖女セシリア・神界公開記録】


《赤猫亭の皆様とお会いしました》


《ミナ様の静かな救助に、深く学ばせていただきました》


《泣かない方、声にできない方の痛みに寄り添う姿勢は、本当に尊いものです》


《救いには、さまざまな形があります》


《そのすべてが、必要とする誰かへ届きますように》


 文章は丁寧だった。


 美しい。


 昨日と同じように、柔らかく、隙がない。


 アルトは読んで、眉を寄せた。


「……悪いことは書いてないな」


「書いてない」


 ブルーノは頷いた。


「むしろ良いことしか書いていない」


 悪いことは書いていない。


 だから、どこにも文句をつけられない。


 そのこと自体が、少し嫌だった。


 アルトは黙って白い文字を見る。


 綺麗な言葉は、刃物より扱いにくい。


 傷つけているようには見えないのに、誰かの立つ場所を少しずつ変えていく。


「綺麗な言葉は、反論を奪う」


 ガルムが低く言った。


 ブルーノは端末を見たまま頷いた。


「そうだ。だから強い」


「そこが嫌だな」


 アルトが言うと、ブルーノも苦笑した。


「分かる」


 ガルムが低く言う。


「拡散は?」


「かなり伸びてる。セシリア派は、ミナを好意的に受け止め始めている」


「それは良いことでは?」


 ミナが小さく言った。


 ブルーノはミナを見た。


 今日は少し言葉を選んでいるようだった。


「良いことでもある。攻撃されるよりはずっといい」


「でも?」


「ただ、“セシリア様が認めたミナ”という見方が増える」


 ミナは黙った。


 アルトは舌打ちする。


「ミナ本人じゃなくなるのか」


「そう見られる可能性はある」


 ブルーノは端末を畳む。


「今のミナさんは、セシリアの対抗馬というより、セシリアに認められた救助者として見られ始めている」


「それは嫌なことなのか?」


 ミアが聞く。


 ブルーノは少し考えた。


「嫌なこととは限らない。伸びる。守られる。叩かれにくくなる。けれど、自分の名前の前に、誰かの影がつく」


 ミアは顔をしかめた。


「それ、嫌」


「だろうな」


 ミナは、静かに自分の手元を見ていた。


 リリが隣に座っている。


 何も言わない。


 ただ、そこにいる。


 ミナは少しだけ息を吐いた。


「……私は、私です」


 その声は大きくなかった。


 だが、届いた。


 アルトはミナを見る。


 彼女は顔を上げていない。


 でも、昨日よりも少しだけ背筋が伸びていた。


「はい」


 リリが小さく言った。


「ミナさんは、ミナさんです」


 誰もそれ以上重ねなかった。


 コメント欄が流れる。


『セシリア様が認めたミナ、悪い言葉じゃないけどな』

『でも名前の前に誰かがつくのは分かる』

『ミナはミナ』

『赤猫亭の回復術師』

『泣かない客を診た人』

『声にならない痛みの人』


 アルトは最後のあたりを見て、少しだけ目を細めた。


 神々の言葉が、少しだけ変わってきている。


 まだ信用はできない。


 だが、昨日よりはましだ。


 ◇


 昼過ぎ、泣かない客が来た。


 店の扉が開く。


 右肩を庇いながら、いつものように静かに入ってくる。


 客の何人かが気づいた。


 コメント欄も小さく動く。


『来た』

『スープの人』

『泣かない客』

『肩まだ痛そう』

『今日は騒ぐなよ』


 最後のコメントを見て、アルトは少しだけ意外に思った。


 騒ぐなよ。


 神々の側から、その言葉が出た。


 泣かない客は、いつもの席に座ろうとした。


 マルタが声をかける。


「オルグ、今日は肩どうだい」


 アルトは思わず顔を上げた。


「名前あったのか」


 店内の何人かも同じ顔をした。


 男――オルグは眉をひそめる。


「あるに決まってるだろう」


 マルタが鼻で笑う。


「昨日、聞いたよ」


「いつの間に」


 アルトが呟くと、ミナが静かに言った。


「私も聞きました」


「聞いてたのか」


「診る時に、お名前は必要ですから」


 当然のように言われた。


 アルトは少しだけ黙る。


 泣かない客。


 肩の男。


 スープの人。


 神々がそう呼んでいた男には、当たり前だが名前があった。


 オルグ。


 たったそれだけで、彼は記号ではなく人になった。


 ミアが小声で言う。


「アルト、ちょっと失礼」


「言うな。今思った」


 オルグはいつものように短く言った。


「スープを」


 マルタが頷く。


「はいよ」


 ミナが立ち上がる。


「肩を診ます」


「飯の後でいい」


「飯の前です」


「厳しいな」


「昨日よりは正直に痛いと言えるようになりましたね」


 オルグは少しだけ困った顔をした。


「言わないと怒られる」


「はい」


「否定しないのか」


「しません」


 そのやり取りに、店内が少し笑った。


 派手ではない。


 泣けもしない。


 けれど、そこには昨日から続くものがあった。


 ミナはオルグの肩を診る。


 今日は店内の中央ではなく、いつもの席の横。


 視線はある。


 だが、昨日より静かだ。


 コメント欄も、不思議なくらい抑えられている。


『強回復しない方がいいやつ?』

『昨日、痛みをごまかして動くって言ってた』

『無理させない処置だな』

『医療系神、どう?』

『今の固定、悪くない』

『泣かないけど治療は必要』


 医療系らしい神のコメントまで混じっている。


 アルトは皿を運びながら、それを横目で見た。


 神々の見方が変わることもある。


 たぶん、少しずつ。


 すぐに信用はしないが。


 オルグはミナの処置を受けながら、ふと口を開いた。


「昨日の聖女、来ていたのか」


「はい」


 ミナが答える。


「会いました」


「どうだった」


 ミナは少し考えた。


「優しい方でした」


「なら良かった」


「でも、少し眩しかったです」


 オルグは小さく笑った。


「眩しいのは苦手だ」


「私も、少し」


「なら、ここでいい」


 ミナが顔を上げる。


 オルグはスープの方を見ている。


「ここは明るすぎない」


 その一言で、ミナは少しだけ笑った。


「そうですね」


 アルトはそれを聞いていた。


 明るすぎない。


 赤猫亭には、たしかにそれくらいが合っている。


 ◇


 夕方前。


 セシリアの信奉者らしき二人組が店に来た。


 白い腕章をつけた若い男女だった。


 入ってくるなり、きちんと頭を下げた。


「お騒がせするつもりはありません」


 男の方が言う。


「聖女セシリア様の記録を見て、こちらのミナ様にお礼を言いたくて来ました」


 アルトは警戒した。


「礼?」


「はい。セシリア様が、ミナ様の救助から学ばれたとおっしゃっていました。だから、私たちも学ばせていただきたいと」


 言葉は丁寧だった。


 悪意はない。


 だが、アルトの中で小さな警戒が鳴る。


 また「学ばせていただきたい」だ。


 ミナは立ち上がった。


「私は、教えられるほどではありません」


 女の方が微笑む。


「謙遜なさらないでください。泣かない方の痛みに気づくなんて、本当に素晴らしいです」


 ミナは少しだけ戸惑った。


 その時、オルグがスープの匙を置いた。


「俺は教材じゃない」


 静かな声だった。


 しかし、よく通った。


 二人組は驚いてオルグを見る。


 オルグは肩を庇いながら続ける。


「泣かなかっただけだ。見本にされるために痛かったわけじゃない」


 店の中の音が、一つずつ小さくなった。


 鍋の湯気だけが白く上がっている。


 ミナはオルグを見た。


 アルトも見た。


 セシリアの信奉者たちは、慌てて頭を下げる。


「す、すみません。そのようなつもりでは」


「分かってる」


 オルグは短く言った。


「でも、俺は飯を食いに来た」


 リリは、包帯を持つ手を少しだけ握った。


「私も、助けられた時のことを、何度も聞かれるのは少し怖いです」


 小さな声だった。


 けれど、ミナはその声を聞き逃さなかった。


 カイが皿を拭く手を止める。


 ボロスも顔を上げる。


 リリは少しだけ俯きながら続けた。


「感謝していないわけじゃありません。でも、怖かったことを、何度も話すのは……やっぱり、少し怖いです」


 ミナは静かに頷いた。


「はい」


 それだけだった。


 でも、リリの肩から少しだけ力が抜けた。


 マルタが厨房から出てくる。


「そういうことだよ」


 彼女は二人組を見る。


「飯を食うなら座りな。見本を探してるなら外だ」


 二人組は顔を見合わせた。


 そして、少し気まずそうに座った。


「……スープをお願いします」


「はいよ」


 マルタは何事もなかったように注文を受ける。


 アルトはオルグを見た。


 オルグはもうスープに戻っていた。


 大きなことを言ったつもりはなさそうだった。


 ただ、自分の席を守っただけ。


 自分が教材にされることを拒んだだけ。


 それが妙に大きく見えた。


 ガルムが低く言う。


「今のは、まだ礼儀がある方だ」


 アルトは顔をしかめる。


「あれでか」


「信仰は、礼儀を失ってからが厄介だ」


 その声は重かった。


 炎上を知る男の声。


 人が集まる怖さを知る男の声。


 アルトは信奉者たちを見た。


 彼らは悪人ではない。


 むしろ、きちんと謝った。


 席に座って、スープを頼んだ。


 だからこそ、次に来るものの怖さが少しだけ見えた。


 悪意ではなく、善意で踏み込んでくるもの。


 信仰。


 ガルムの言葉が、店の中に静かに残った。


 コメント欄が流れる。


『教材じゃない、か』

『そうだよな』

『俺たちも見本扱いしてたかも』

『泣かない客じゃなくてオルグだ』

『名前で呼ぼう』

『リリの言葉、刺さる』

『助けられた側にも話したくないことはある』

『信仰は、礼儀を失ってからが厄介……』


 アルトはその流れを見て、少しだけ口元を緩めた。


 悪くない。


 少しずつなら、変わるのかもしれない。


 少なくとも、この店の中では。


 ◇


 日が落ちる頃、ブルーノがまだいた。


 芋を三つ食べていた。


「お前、帰る気あるのか」


 アルトが言うと、ブルーノは真顔で答えた。


「ある。芋が止まらないだけだ」


「それはこっちのせいじゃない」


「たぶん女将のせいだな」


 マルタが厨房から言う。


「褒め言葉だね」


「はい」


 ブルーノは観念したように頷く。


 そして、少し声を落とした。


「今日の赤猫亭、面白かった」


「その言い方は嫌いだ」


「悪い。癖だ」


「直せ」


「努力する」


 アルトは半眼で見る。


 ブルーノは苦笑し、言い直した。


「今日の赤猫亭は、記録に残す価値があった」


「それも微妙だな」


「難しいな」


 ガルムが横から言う。


「お前は何を記録するつもりだ」


 ブルーノは端末を閉じた。


「セシリア様が認めたミナ、ではなく」


 少し間を置く。


「オルグがスープを飲める赤猫亭」


 アルトは目を細める。


 ブルーノは続けた。


「それなら、雑にはならない」


「本当か?」


「分からん」


「おい」


「でも、煽り屋に先に取られるよりはましだ」


 ガルムが苦い顔をする。


「またその理屈か」


「嫌いか?」


「嫌いだ」


「俺も、たまに嫌いだ」


 ブルーノはそう言って、席を立った。


「今日は帰る」


「芋代は」


「払う」


「よし」


「そこは信用するんだな」


「金は分かりやすい」


 ミアが頷いた。


「分かる」


「お前は頷くな」


 ブルーノは笑い、青い外套を羽織った。


「明日、俺の解説が出る。気に入らなかったら文句を言え」


「気に入る可能性が低いな」


「正直でよろしい」


「使うな、それ」


 ブルーノは軽く手を上げて出ていった。


 外はもう薄暗い。


 店の中には、皿の音と、鍋の音と、オルグがスープを飲む音が残った。


 コメントはまだ流れている。


 だが、誰もそれを急いで読まなかった。


 それくらいの距離が、今はちょうどよかった。


 ◇


 夜。


 赤猫亭の営業が終わりかけた頃、ミナはオルグの包帯を替えていた。


 リリも横で手伝っている。


 カイは皿を拭き、ボロスは椅子を戻している。


 ガルドは壊れた札の端を直している。


 ミアは干し果物の在庫を数えている。


 ガルムは入口の外を一度確認し、戻ってきた。


 アルトは、芋の箱を運んでいた。


「……これ、減ってるのか増えてるのか分からなくなってきた」


 マルタが答える。


「売れてるから増やしてるんだよ」


「労働が終わらない仕組みだな」


「社会ってそういうもんだよ」


「異世界に来ても社会から逃げられないのか」


「逃げられないね」


 アルトは深いため息をつく。


 その時、ミナがオルグに言った。


「明日も来られますか?」


「来る」


「痛むなら、無理に仕事へ戻らないでください」


「仕事はある」


「身体もあります」


 オルグは少しだけ黙った。


「……考える」


「考えるだけではなく、守ってください」


 オルグはアルトの方を見る。


「この店、守れと言うやつが多いな」


「守らないやつが多いからだろ」


「違いない」


 オルグは少し笑った。


 ミナも笑った。


 その笑いは、やはり泣きではなかった。


 だが、アルトには十分だった。


 ルナの銀色コメントが静かに流れる。


『今日は、少し静かでしたね』


「客は多かったけどな」


『はい』


「でも、少しはましだった」


『はい』


 銀色の文字は、それ以上続かなかった。


 珍しく、ルナも静かだった。


 アルトは店内を見た。


 セシリアの白い光は、今日はない。


 だが、その影響はまだ残っている。


 ミナの隣にも。


 神界コメントにも。


 ブルーノの解説にも。


 きっと明日にも。


 それでも、今ここにはオルグのスープがある。


 泣かない客の名前がある。


 皿を洗うカイがいる。


 包帯を学ぶリリがいる。


 何も語らず椅子を運ぶボロスがいる。


 誰かが勝手に「救助論」と呼ぶものは、ここではただの日常になっている。


 アルトは芋の箱を置いた。


「なあ、マルタ」


「何だい」


「この店、ほんとに飯屋だよな」


「当たり前だよ」


「だよな」


「聖地でも劇場でもない。腹が減ったやつが来るところだ」


 アルトは頷いた。


「それでいい」


「それがいいんだよ」


 その言葉で、今日の一日は少しだけ閉じた。


 外では、まだ神々が見ている。


 セシリアの記録も伸びている。


 比較は消えていない。


 ランキングも動いている。


 けれど、赤猫亭の中で、オルグがスープを飲んでいる。


 それだけは、誰かの演出ではなかった。


 ミナがふと、アルトの方を見る。


「アルトさん」


「何だ」


「私は、届くことを否定したいわけではありません」


「ああ」


「でも、届かなくても、そこにいる人はいます」


 アルトは黙って聞いた。


「私は、その人に気づけるようにいたいです」


 声は静かだった。


 だが、昨日よりも強かった。


 アルトは頷く。


「それでいいんじゃないか」


「はい」


 ミナは小さく笑った。


 その笑顔は、白い光にはならなかった。


 切り抜き映えもしない。


 けれど、赤猫亭の灯りの中では、十分に明るかった。


 マルタの声が飛ぶ。


「アルト! 閉店前に芋の数を数えな!」


「まだ芋かよ!」


「芋は朝から夜までだよ!」


「そのルールは撤回しろ!」


 店内に笑いが起きる。


 その笑いの向こうで、神々の文字がゆっくり流れた。


『オルグ、また明日』

『ミナの救い、静かでいい』

『赤猫亭は飯屋』

『芋は朝から夜まで』

『最後のは違うだろ』

『いや、もうルールだ』


 アルトは空を睨む。


「そのルールだけは認めない」


 誰かが笑った。


 誰かがスープを飲んだ。


 誰かが包帯を畳んだ。


 誰かが皿を拭いた。


 その全部が、赤猫亭の夜だった。


評価をするにはログインしてください。
ブックマークに追加
ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
― 新着の感想 ―
このエピソードに感想はまだ書かれていません。
感想一覧
+注意+

特に記載なき場合、掲載されている作品はすべてフィクションであり実在の人物・団体等とは一切関係ありません。
特に記載なき場合、掲載されている作品の著作権は作者にあります(一部作品除く)。
作者以外の方による作品の引用を超える無断転載は禁止しており、行った場合、著作権法の違反となります。

↑ページトップへ