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第44話 届かなかった痛み

 翌朝。


 赤猫亭は、いつもより少しだけ早く騒がしかった。


 理由は、芋ではない。


 いや、芋もある。


 芋はいつもある。


 だが、今日の騒がしさはそれとは違った。


 店の外に、荷車が止まっていた。


 古びた木の荷車。


 車輪の片方が少し歪み、荷台には布をかけられた荷物が積まれている。


 その横で、若い男が膝をついていた。


 顔色が悪い。


 額に汗が浮いている。


 右肩を庇い、呼吸が浅い。


 アルトはそれを見た瞬間、嫌な既視感を覚えた。


「……オルグと似てるな」


 ミアが隣で耳を立てる。


「肩?」


「ああ」


「でも、こっちの方が悪そう」


「分かるのか」


「息が変」


 店の入口では、マルタがすでに腕を組んでいた。


「中に入れな」


 荷車のそばにいた中年の女が慌てて頭を下げる。


「すみません、飯を食いに来たわけじゃ」


「腹が減ってなくても、怪我人は中だよ」


「でも」


「でもじゃない。外で倒れられると邪魔だ」


 言い方は荒い。


 だが、手は早かった。


 ボロスが黙って男の反対側に回る。


 カイも荷物を避ける。


 アルトは男に肩を貸した。


 男の身体は熱い。


 明らかに無理をしていた。


 ミナが奥から出てくる。


 リリも包帯箱を持ってついてきた。


 ミナの顔が、男を見た瞬間に変わる。


「奥へ」


 短い指示だった。


 昨日までより早い。


 迷いがない。


 アルトは頷き、男を奥の席へ運ぶ。


 コメント欄が流れる。


『怪我人?』

『また肩か』

『息浅い』

『オルグと似てる?』

『騒ぐな、診察中だぞ』


 最後のコメントを見て、アルトは一瞬だけ空を見た。


 神々の中にも、学ぶ者はいる。


 だが、今はそれどころではなかった。


 ミナは男の肩当てを外す。


 布の下に、黒く変色した痣が広がっていた。


 右肩だけではない。


 肋骨のあたりまで、青黒い。


 男は歯を食いしばっている。


 泣いていない。


 叫んでいない。


 だが、明らかに痛い。


 リリが小さく息を呑んだ。


「ミナさん」


「はい。かなり悪いです」


 ミナの声は落ち着いていた。


 だが、その落ち着きが、かえって重かった。


 中年の女が震える声で言う。


「昨日の夕方から痛いとは言っていたんです。でも、この人、平気だって……今朝になって、立てなくなって」


 男がかすれた声を出す。


「大したことは……」


「ありません、ではありません」


 ミナは強く言った。


 男が黙る。


「今は話さないでください。息を浅くしすぎています」


 リリが包帯を取り出す。


 手は少し震えている。


 ミナはそれに気づき、静かに言った。


「リリさん、固定用の布をお願いします」


「はい」


「大丈夫です。ゆっくりで」


「はい」


 リリは深呼吸して、布を取る。


 カイが水を持ってくる。


 ボロスが衝立を運ぶ。


 ガルドが男の壊れた肩当てを手に取る。


「割れている」


 アルトは低く言う。


「オルグの時と同じか」


「似ている。だが、こっちは放置が長い」


 ガルドの声は短い。


 それだけで十分だった。


 ミナは男の呼吸を見ながら、浅い回復術をかける。


 いつものように、強すぎない。


 だが、今日は慎重さの中に焦りが混じっていた。


 アルトには分かった。


 間に合うかどうか。


 それをミナも測っている。


 ◇


 治療は長かった。


 泣ける場面ではなかった。


 白い光もない。


 祈りもない。


 ただ、汗と、痛みと、布と、呼吸があった。


 ミナは何度も男に声をかけた。


「息を吸いすぎないでください」


「はい、そこで止めて」


「痛いですね。分かります。でも、今は動かないでください」


 男は頷くことすらつらそうだった。


 中年の女は手を握っている。


 泣きそうになっているが、泣く余裕もない。


 リリは黙って布を渡す。


 カイは水を替える。


 ボロスは衝立がずれないように立っている。


 マルタは客に向かって言った。


「見世物じゃないよ。飯を食いな」


 誰も騒がなかった。


 少なくとも、店の中では。


 神界コメントは、いつもよりゆっくり流れている。


『肋骨いってる?』

『呼吸が浅すぎる』

『医療系神、これ危ない?』

『危ない。遅れてる』

『オルグの時に似てる』

『もっと早ければな』

『その言い方やめろ』


 もっと早ければ。


 その文字に、ミナの指が一瞬だけ止まった。


 ほんのわずか。


 だが、アルトには見えた。


 リリにも見えた。


 ミナはすぐに処置に戻る。


 今は止まれない。


 終わってから考えるしかない。


 それが分かっている顔だった。


 やがて、男の呼吸が少しだけ落ち着いた。


 肩の出血はない。


 骨に大きなずれもない。


 だが、炎症が強い。


 動けば悪化する。


 ミナはゆっくり息を吐いた。


「今日は絶対に動かないでください」


 男はかすかに頷く。


「仕事が……」


「ありません」


 ミナは即答した。


「今日の仕事は、休むことです」


 中年の女が男の手を握る。


「聞いて。お願いだから」


 男は目を閉じた。


 小さく頷く。


 それを見て、ようやく店内に少しだけ息が戻った。


 マルタが静かにスープを置く。


「食べられるようになったら食べな」


 女が頭を下げる。


「ありがとうございます」


「礼はあとだよ」


 その時、店の扉が開いた。


 オルグだった。


 いつものように右肩を庇って入ってきて、奥の空気を見て足を止めた。


「……俺と同じか」


 ミナが顔を上げる。


「似ています。でも、少し悪いです」


 オルグは男を見る。


 それから、静かに言った。


「昨日来ればよかったな」


 責める声ではない。


 だが、重かった。


 男は目を伏せる。


「平気だと、思った」


「思うな」


 オルグは短く言った。


「痛い時は痛いと言え」


 アルトは少しだけ口元を緩めそうになって、やめた。


 オルグに言われると、妙な説得力がある。


 男は苦笑しようとして、痛みに顔をしかめた。


「……ああ」


 オルグはいつもの席に座る。


「スープを」


 マルタが頷く。


「はいよ」


 それで場が少し戻った。


 だが、ミナの表情は戻らなかった。


 ◇


 昼前。


 男――荷運びの青年の名は、ダリオといった。


 中年の女は彼の姉で、名前はエルザ。


 荷運び組合で働いているらしい。


 ダリオの症状は、オルグの時とよく似ていた。


 魔獣に突かれた。


 肩当てが割れた。


 右肩と肋骨を痛めた。


 痛みを隠して仕事を続けた。


 違いは、受診が一日遅れたこと。


 それだけだった。


 それだけで、状態は明らかに悪くなっていた。


 ミナは奥の席で、治療道具を片付けている。


 リリが隣にいる。


 アルトは少し離れて立っていた。


 何を言えばいいか分からなかった。


 ミナが先に口を開いた。


「オルグさんの時と、同じでした」


「ああ」


「もっと早く来ていれば、もう少し楽だったと思います」


「ああ」


「もし、オルグさんの時の処置が、どこかで共有されていたら」


 そこで言葉が止まった。


 ミナは自分の手を見る。


「ダリオさんは、もう少し早く来られたかもしれません」


 アルトは黙った。


 それは、誰かを責める言葉ではなかった。


 自分を責める言葉にもしたくない。


 でも、事実だった。


 届かなかった。


 だから、遅れたかもしれない。


 リリが小さく言う。


「でも、オルグさんは、見られたくなかったんですよね」


「はい」


「だったら、勝手に広げるのは違います」


「はい」


「でも、知らなかったから、ダリオさんは遅れた」


「……はい」


 リリも言いながら、困った顔をしていた。


 自分の言葉で、自分が困っている。


 届かなくても助かることはある。


 昨日、リリはそう言った。


 それは今も間違っていない。


 だが、今日、届かなかったせいで苦しんだ人が来た。


 どちらも本当だった。


 ミナは静かに言った。


「届けない、だけでは足りないのかもしれません」


 アルトはその言葉を聞いた。


「届けるのか」


「分かりません」


 ミナは正直に答えた。


「でも、届け方を考えないといけない気がします」


 その時、銀色のコメントが流れた。


『はい』


 ルナだった。


 それ以上は言わない。


 今日のルナは、短い。


 短いから、重かった。


 コメント欄にも、いつもとは違う流れがあった。


『これはセシリア様の言ってたことも分かる』

『届いてたら早く来たかもな』

『でもオルグの顔を晒すのは違う』

『症状だけ共有できないのか?』

『手順だけならありでは』

『医療系神、簡易記録作れる?』

『泣かせる必要ない。情報だけでいい』


 アルトはその文字を見た。


 情報だけでいい。


 誰かが泣く必要はない。


 誰かの顔を映す必要もない。


 それでも、届くものはあるのかもしれない。


 アルトは低く言った。


「ブルーノが来そうだな」


 ミアが横で頷く。


「こういう時、絶対来る顔してる」


「顔って何だ」


「情報の匂いを嗅いだ顔」


「嫌な顔だな」


 扉が開いた。


 青い外套が見えた。


「呼んだか?」


 アルトは顔をしかめる。


「本当に来るな」


 ブルーノは店内を見て、すぐに軽口を消した。


「……状況は?」


「オルグと似た怪我。来るのが遅れた」


 ガルムが簡潔に言った。


 ブルーノは端末を出しかけて、止めた。


 その動作を、アルトは見た。


「今、出そうとしたな」


「癖だ」


「その癖は一度折れ」


「分かってる」


 ブルーノは端末を閉じたまま、奥の様子を見る。


「記録は?」


「取ってない」


 ミナが答えた。


「取る余裕もありませんでした」


「だろうな」


 ブルーノは少し考える。


「でも、これは広げた方がいい」


 リリが少し身構える。


 ミナも顔を上げる。


 ブルーノは手を上げた。


「顔は出さない。名前も出さない。オルグもダリオも映さない。泣きもいらない。経緯も最小限」


 アルトは黙って聞く。


「必要なのは、症状と判断と、来るべきタイミングだ」


 ブルーノの声は、いつもより低い。


「肩当てが割れた。右肩を強く打った。息が浅い。肋骨周りが痛む。痛みを隠して動くと悪化する。そういう時は、すぐ診せろ」


 ミナは目を見開いた。


 ブルーノは続ける。


「これだけなら、誰かの痛みを見世物にしなくても届く」


 店内は少し黙った。


 鍋の音だけが、ぽこ、と鳴った。


 アルトはブルーノを見た。


「今のは、解説者っぽかったな」


「いつもそうだろ」


「いつもは芋食ってる人間だ」


「否定しにくい」


 ブルーノは苦笑した。


 だが、すぐに真面目な顔へ戻る。


「問題は、誰が出すかだ」


「お前じゃないのか」


「俺が出せば伸びる。だが、“ブルーノが赤猫亭を切り抜いた”になる」


「嫌だな」


「俺も少し嫌だ」


 ブルーノはミナを見る。


「ミナさんが出すなら、意味が違う。ただし負担が大きい」


 ミナは少しだけ手を握る。


「私が」


「出す必要はない。考える時間はある」


 ブルーノは珍しく急がなかった。


「でも、煽り屋は待たない」


 アルトは舌打ちする。


「またそれか」


「またそれだ」


 ブルーノは端末を見ないまま言った。


「出さなければ、誰かが“泣かない客と遅れた荷運び”として消費する。出せば、こちらも消費に近づく」


 その言葉は、彼自身にも刺さっているようだった。


「だから、決めないといけない。どう届けるか」


 ミナは静かに頷いた。


「考えます」


 リリが隣で言う。


「私も、考えます」


 ブルーノは少しだけ驚いた顔をした。


 リリは続ける。


「話したくないことは、話さない方がいいです。でも、知っていたら痛くならなかったことは、知ってほしいです」


 その声はまだ小さい。


 でも、昨日より強かった。


 ミナはリリを見る。


「はい」


 アルトは二人を見て、少しだけ息を吐いた。


 また、難しい話になってきた。


 剣で片付かない話ばかりだ。


 だが、逃げるわけにもいかない。


 ◇


 午後。


 ダリオは赤猫亭の奥で休むことになった。


 エルザは何度も頭を下げた。


 マルタはそのたびに言った。


「礼はいい。食べな」


 エルザは泣きそうになりながら、スープを飲んだ。


 ダリオはまだ食べられない。


 だが、水は飲めた。


 ミナは状態を確認し、リリに包帯の巻き方を見せる。


「強く締めすぎないでください」


「はい」


「でも、ずれないように」


「はい」


「痛みを隠す人は、少し動けるだけで動こうとします」


 オルグがスープを飲みながら言う。


「耳が痛い」


 ミナは振り返る。


「聞こえるように言いました」


「厳しいな」


「必要です」


 店内に小さな笑いが起きる。


 ダリオも、かすかに笑った。


 痛そうだったが、笑った。


 その笑いは、泣きではない。


 だが、救われていない笑いでもない。


 ブルーノは店の端で、端末を開かずに紙へ何かを書いている。


 珍しい。


 アルトは近づいた。


「紙?」


「端末だとすぐ流したくなる」


「自制か」


「たぶん」


「たぶんか」


 紙には、箇条書きのようなものが並んでいた。


【肩当て破損】


【右肩打撲】


【息が浅い】


【肋骨痛】


【痛みを隠して動くと悪化】


【早期受診】


【顔・名前・泣き声は不要】


 アルトは最後の一行を見る。


「顔・名前・泣き声は不要、か」


「必要ないだろ」


「お前が言うと変な感じだな」


「俺もそう思う」


 ブルーノは苦笑した。


「でも、たぶんこれが一番難しい。見せないで伝えるのは、思ったより技術がいる」


「解説者の仕事だろ」


「今までは、見えるものを拾ってただけだ」


 ブルーノは紙を見る。


「見せないために整えるのは、初めてかもしれない」


 アルトは少しだけ黙った。


 ブルーノも、変わろうとしている。


 いや、変わるかどうかは分からない。


 ただ、迷っている。


 それだけでも、以前よりはましなのかもしれない。


「雑にするなよ」


「分かってる」


「本当に分かってるか?」


「今日は、少し分かってる」


「ならいい」


 ブルーノは小さく笑った。


 ◇


 夕方。


 ミナ、リリ、ブルーノ、アルト、ガルム、そしてオルグまで交えて、短い話し合いになった。


 場所は赤猫亭の端の席。


 ダリオは奥で休んでいる。


 エルザはそばについている。


 マルタは鍋をかき混ぜながら、会話を聞いている。


 ミアは干し果物を食べながら同席していた。


 ガルドは壊れた肩当てを直しながら耳だけ向けている。


 ブルーノが紙を置く。


「出すなら、この形だ」


 紙には題が書かれていた。


【荷運び・護衛向け注意記録】


【肩当て破損後の右肩痛と浅い呼吸について】


 アルトは眉を上げる。


「地味だな」


「地味でいい」


 ブルーノは答えた。


「伸ばすためじゃない。届かせるためだ」


 その言葉に、ミナが顔を上げる。


 ブルーノは少しだけ気まずそうにする。


「……言ってて、少し恥ずかしいな」


 ミアが笑う。


「今のは切り抜かれる」


「やめてくれ」


 コメント欄が流れる。


『伸ばすためじゃない。届かせるため』

『ブルーノが言った』

『成長した?』

『芋の力か』

『最後のは違う』


 アルトは空を見る。


「芋の力ではない」


 マルタが厨房から言う。


「分からないよ」


「そこは否定しろ!」


 少し笑いが起きる。


 それから、また話し合いに戻る。


 ミナが紙を見る。


「顔は出さない」


「出さない」


 ブルーノが答える。


「名前も出さない」


「出さない」


「オルグさんやダリオさんの話も、詳しくは書かない」


「書かない。症状の例としてだけ、本人の許可があれば使う」


 オルグが短く言う。


「俺は名前を出さないならいい」


 ミナが見る。


「本当にいいですか?」


「ああ。俺の顔も名前もいらない。だが、痛い時は早く来いとは言っていい」


「ありがとうございます」


 リリが言う。


「怖かった話も、書かない方がいいと思います」


 ブルーノは頷く。


「書かない」


「でも、痛いと言えない人がいることは、書いてほしいです」


 ミナがリリを見る。


 リリは少し緊張しながら続ける。


「言えない人がいるって分かっていたら、周りの人が気づけるかもしれません」


 ブルーノは紙に書き足した。


【痛みを訴えない人もいる。周囲が呼吸・姿勢を見る】


 ミナはその文字を見て、静かに頷いた。


「これなら」


 アルトが聞く。


「出せそうか」


 ミナは少しだけ迷った。


 そして答えた。


「はい。でも、最後に一文入れたいです」


「何を」


 ミナは紙の端に、ゆっくり書いた。


【これは見世物ではなく、早く気づくための手順です】


 誰もすぐには喋らなかった。


 コメントも、一拍だけ止まる。


 それから、ゆっくり流れた。


『いい』

『これは必要』

『見世物ではなく手順』

『医療系神、保存した』

『荷運びギルドにも回したい』

『顔も涙もいらないな』


 ミナはコメントを見て、少しだけ目を伏せた。


「届くでしょうか」


 ブルーノは答えた。


「届かせる」


 いつもの軽さはなかった。


 アルトはブルーノを見る。


「頼んでいいのか」


「頼まれたなら、やる」


「雑にしたら殴る」


「覚えておく」


 ブルーノは端末を開く。


 だが、すぐには投稿しなかった。


 紙を見て、ミナを見る。


「最終確認を」


 ミナは頷いた。


 リリも覗き込む。


 オルグも黙って紙を見る。


 エルザも、奥からやってきて読んだ。


「これなら」


 エルザは目を伏せた。


「弟のことは、見世物にならないんですね」


「しません」


 ブルーノははっきり言った。


「でも、同じ怪我の人には届くようにします」


 エルザは頭を下げた。


「お願いします」


 それで、決まった。


 ◇


 夜。


 記録は、ブルーノの解説枠ではなく、赤猫亭とミナの連名で出された。


 ブルーノは編集補助。


 マルタは「飯屋の名前を勝手に大きくするんじゃないよ」と言いながら、最後には許した。


 題名はそのままだった。


【荷運び・護衛向け注意記録】


【肩当て破損後の右肩痛と浅い呼吸について】


 本文は短い。


 顔はない。


 名前もない。


 涙もない。


 感動的な言葉もない。


 ただ、症状と、見方と、早めに診せるべき理由があった。


 最後に、ミナの一文。


【これは見世物ではなく、早く気づくための手順です】


 投稿後、神界の反応はいつもより静かだった。


『地味』

『でも役に立つ』

『保存した』

『荷運び系に回す』

『医療系神、補足していい?』

『泣けないけど必要』

『泣けないけど必要、これだな』

『セシリア様の救いとは違うけど、これはこれで届く』


 アルトはその流れを見ていた。


 派手ではない。


 爆発的に伸びているわけでもない。


 だが、確かに広がっている。


 切り抜きではなく、手順として。


 感動ではなく、注意として。


 それが少しだけ、不思議だった。


 ミナは治療道具の棚の前に立っている。


 白い花が、今日もそこにある。


 リリが隣にいる。


「届きましたね」


 リリが言った。


 ミナは少しだけ頷く。


「はい」


「怖くないですか?」


「怖いです」


 ミナは正直に言った。


「でも、これは……出してよかったと思います」


 リリは笑った。


「はい」


 その時、銀色のコメントが流れた。


『見せないで届けることも、できるのですね』


 ルナだった。


 アルトは空を見る。


「ああ」


『少し、覚えました』


「神が覚えるのか」


『はい』


「なら忘れるな」


『守ります』


「努力じゃなくて?」


『守ります』


 アルトは少しだけ笑った。


 ミアが横で言う。


「ルナ様、学習してる」


「茶化すな」


「でも本当」


 ガルムが入口近くで呟いた。


「これで終わりではない」


「ああ」


 アルトも分かっている。


 これで全部が解決したわけではない。


 セシリアの信奉者はまた来るだろう。


 届くべき救いを求める声も消えない。


 逆に、今回の記録が別の形で使われる可能性もある。


 だが、今日は一つだけ進んだ。


 届けない、ではなく。


 晒す、でもなく。


 届け方を選ぶ。


 それを、ミナたちは一度だけ形にした。


 ブルーノが芋を食べながら、端末を見ている。


 珍しく、少しほっとした顔をしていた。


 アルトが言う。


「うまくいったな」


「今のところは」


「素直に喜べ」


「怖いんだよ」


「何が」


「うまくいったものほど、次に使われる」


 ブルーノはそう言った。


 その言葉で、アルトは表情を少しだけ引き締めた。


 確かに、そうだ。


 成功した形は、真似される。


 広がる。


 そして、また誰かの手を離れる。


 ミナの一文も、ブルーノの編集も、赤猫亭の線引きも。


 全部、見られている。


 全部、使われる可能性がある。


 それでも、何もしないよりはいいのかもしれない。


 そう思うしかなかった。


 マルタの声が飛ぶ。


「アルト! 考えるのはいいけど、芋が焦げるよ!」


「なんで芋を焦がす仕事まで俺なんだ!」


「任せたからだよ!」


「任せるな!」


 店内に笑いが起きる。


 ダリオは奥で眠っている。


 エルザはスープの器を両手で包んでいる。


 オルグはいつもの席で、静かに食べている。


 ミナとリリは包帯を畳んでいる。


 ブルーノは端末を閉じた。


 白い花は、治療道具の横で静かに揺れている。


 今日、救いは少しだけ届いた。


 誰かを晒さずに。


 誰かを泣かせずに。


 それがどこまで届くのかは、まだ分からない。


 でも、赤猫亭の中では、誰かがスープを飲めていた。


 今は、それで十分だった。


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