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第38話 泣かない客

 朝から、赤猫亭は妙に静かだった。


 人が少ないわけではない。


 むしろ多い。


 昨日ほどの騒ぎではないが、店内には客が詰まっている。


 飯を食う者。


 切り抜きを見て来た者。


 赤猫亭の看板を眺める者。


 ガルドの作業音を聞きたがる者。


 ミアの斥候話を聞きたがる者。


 そして、ミナを見に来た者。


 だが、静かだった。


 その静けさは、落ち着きではない。


 待っている静けさだった。


 何かが起きるのを。


 誰かが泣くのを。


 誰かが救われるのを。


 アルトはそれが、朝からずっと気に入らなかった。


「……飯屋なんだけどな、ここ」


 皿を運びながら呟くと、ミアが干し果物を噛みながら答えた。


「もう半分くらい見物小屋」


「言うな」


「聖地芋見物小屋」


「全部混ぜるな」


 壁際には、昨日マルタが採用した札が貼られている。


【見物だけなら、昼過ぎにしろ】


 その下に、誰かが小さく書き足していた。


【芋は朝から】


「……誰だ」


 アルトは低く言った。


 厨房からマルタの声が飛ぶ。


「あたしだよ!」


「自分で足すな!」


「事実だろ!」


「事実にするな!」


『赤猫亭ルール更新』

『芋は朝から』

『飯屋の矜持』

『奈落新人、朝から労働』


 コメント欄は相変わらずだった。


 ただ、その合間に、別の流れが混ざっている。


『セシリア様の反応まだ?』

『救助系比較、伸びてる』

『ミナちゃん今日は何かする?』

『泣ける展開待機』

『泣けるって言うな』


 アルトは眉をひそめる。


 泣ける展開待機。


 その言葉が、やけに嫌だった。


 ミナは厨房近くの席で、リリの足を診ていた。


 包帯を外し、腫れを確認し、そっと指で触れる。


「痛みますか?」


「少しだけです」


「昨日よりは良くなっています。無理に歩かなければ大丈夫です」


「ありがとうございます」


 リリは笑った。


 ミナも少し笑った。


 だが、その手は少しだけ固い。


 昨日から続く比較の影が、まだ隣に座っている。


『ミナちゃん優しい』

『こういう静かな手当てもいい』

『でもセシリア様なら光る』

『光らなくていいだろ』

『聖女の奇跡と比べると地味』


 ミナの指が一瞬止まった。


 ほんの一瞬。


 リリは気づいた。


 だが、何も言わず、ただミナの手元を見る。


 アルトも気づいた。


 茶を置こうとして、やめた。


 昨日も一昨日も、そればかりだった気がした。


 今ここで茶を置けば、ミナは礼を言う。


 少し笑う。


 でも、それだけでは足りない。


 自分が守ればいい、という話ではない。


 ミナが自分で立たなければ、比較の影はずっと彼女の隣に座り続ける。


 アルトは何も言わなかった。


 ただ、リリの前に水差しだけ置いた。


 リリが小さく頷いた。


 ◇


 昼前。


 赤猫亭に、一人の男が入ってきた。


 地味な男だった。


 年は三十代半ばほど。


 革鎧は古く、右肩の留め具が壊れている。


 顔色は悪い。


 だが、声は出さない。


 痛がる様子も見せない。


 店に入ると、入り口近くの席に座り、短く言った。


「スープを」


 マルタがちらりと男を見る。


「食べられるのかい」


「食べられる」


「なら座ってな」


 男は頷いた。


 誰も騒がない。


 泣かない。


 派手な怪我も見えない。


 だから、神々のコメントも大きくは動かなかった。


『普通の客?』

『冒険者かな』

『肩の金具壊れてる』

『地味』

『今日は何もなさそう?』


 アルトは男を見た。


 何かが引っかかる。


 だが、何かは分からない。


 ガルドが先に反応した。


 工具を拭く手を止め、男の右肩を見る。


「留め具が割れている」


 男は一瞬、肩を動かしかけて止めた。


「古いだけだ」


「違う。今日割れた跡だ」


「……見ただけで分かるのか」


「分かる」


 ガルドは立ち上がった。


「外せ。直す」


「飯を食いに来ただけだ」


「壊れた装備で帰るな」


「金はない」


「あとでいい」


 マルタが厨房から言った。


「うちは飯屋だが、今日はそういうのが多い日らしいね」


 アルトは少しだけ笑いそうになった。


 男は困ったように息を吐き、肩当てを外した。


 その瞬間、ミナの手が止まった。


 リリの包帯を巻き終えたところだった。


 ミナは男の右肩を見ている。


 アルトも見た。


 肩当ての下。


 服の布地が、黒く濡れていた。


 血だ。


 だが、男は顔色ひとつ変えない。


 ミナが立ち上がる。


「怪我をしています」


 男は少しだけ眉をひそめた。


「大したことはない」


「大したことがあります」


 ミナの声が、いつもより強かった。


 店内の視線が集まる。


 コメント欄も動き始める。


『怪我人?』

『血出てる』

『でも泣いてない』

『我慢してたのか』

『ミナちゃん出番?』


 その最後の言葉で、ミナの足が少しだけ止まった。


 出番。


 その単語が、彼女の背中に刺さったように見えた。


 男は低く言う。


「騒がないでくれ」


 ミナは一瞬、周囲を見た。


 客。


 神々。


 コメント。


 比較。


 聖女セシリア。


 救助の女神。


 泣ける場面。


 全部が、彼女を見ている。


 アルトは立ち上がりかけた。


 だが、ミナが先に息を吸った。


「騒ぎません」


 彼女は男の前に膝をついた。


「でも、診ます」


 男は黙った。


「痛む場所を教えてください」


「……肩だけだ」


「嘘です」


 ミナは静かに言った。


 男の目がわずかに揺れる。


「右の肋骨も痛みますね。息を吸う時、少し浅いです」


 店内が静かになった。


 男はミナを見る。


「分かるのか」


「分かります」


「声も出していない」


「出ていなくても、痛みはあります」


 ミナの声は震えていなかった。


 アルトは、その声を聞いた。


 昨日までの受け身のミナではない。


 横穴でリリを見つけた時のミナに近い。


 自分の目と、自分の手と、自分の感覚で立っている。


『ミナちゃんすごい』

『泣いてないのに分かった』

『静かな診察』

『セシリア様ならここで祈るかな』

『比べるな』


 ミナはコメントを見ていない。


 たぶん、見えてはいる。


 でも、追っていない。


 彼女は男の呼吸を見ている。


 肩の動きを見ている。


 右手の力の入り方を見ている。


「肩の傷は浅くありません。肋骨も、ひびが入っているかもしれません」


「……仕事帰りだ」


 男は低く言った。


「荷車を守る依頼で、魔獣に突かれた。報告は済ませた。あとは飯を食って帰るだけだ」


「帰れません」


「帰る」


「帰れません」


 ミナは譲らなかった。


 男が困ったように笑う。


「強いな」


「すみません」


「謝るな。助かる」


 その一言で、ミナの表情が少しだけ変わった。


 男は続けた。


「でも、ここで騒がれたくない」


「分かりました」


 ミナは立ち上がり、マルタを見る。


「奥の席を使ってもいいですか」


「使いな」


 即答だった。


 マルタは客に向かって言う。


「見世物じゃないよ。飯を食いな」


 客たちは視線を戻す。


 完全ではない。


 だが、戻そうとする。


 アルトは男に肩を貸そうとした。


 男は断ろうとしたが、ミナが言った。


「今は借りてください」


 男は観念した。


 アルトは肩を貸す。


 男の身体は、思ったより熱かった。


 痛みを我慢していたのだろう。


 奥の席に移動する。


 神々のコメントが流れる。


『映さないの?』

『奥行くのか』

『見たい』

『治療見せて』

『いや本人が騒がれたくないって言っただろ』


 アルトは空を睨んだ。


「見なくていいものもある」


 コメント欄が少し止まった。


 ミナは治療道具を持ってくる。


 リリも、ゆっくり立ち上がった。


「手伝います」


「リリさんは足が」


「座ってできます」


 ミナは少し迷った。


 そして頷いた。


「では、包帯をお願いします」


「はい」


 リリは嬉しそうに頷いた。


 カイが小さく言う。


「俺は?」


 マルタが鍋を指した。


「皿」


「はい」


 ボロスは無言で水を運んだ。


 何も派手ではない。


 白い光もない。


 祈りもない。


 涙もない。


 ただ、傷を診る。


 痛みを聞く。


 必要なことをする。


 その静けさが、赤猫亭の奥にあった。


 ◇


 治療は長くはなかった。


 だが、丁寧だった。


 ミナは肩の傷を洗い、出血を止め、浅い回復術をかける。


 肋骨については、無理に強い回復を使わなかった。


「今、強く治すと、逆に痛みをごまかして動いてしまいます」


 男は苦笑した。


「信用がないな」


「はい」


「そこは否定してくれ」


「しません」


 ミナは真面目に言った。


「今日は休んでください」


「仕事がある」


「明日も仕事をしたいなら、今日は休んでください」


 男は黙った。


 その言葉は効いたようだった。


 アルトは少し離れて見ていた。


 ミナは強くなったわけではない。


 急に自信満々になったわけでもない。


 それでも、必要なことを言っている。


 相手が泣いていなくても。


 神々が沸いていなくても。


 派手な場面ではなくても。


 男の痛みを後回しにしなかった。


 リリが包帯を渡す。


 ミナが受け取る。


 ボロスが水を置く。


 ガルドは壊れた肩当てを直している。


 がちん。


 金具の音が静かに鳴る。


「これで使える」


 ガルドが言う。


 男は肩当てを見た。


「早いな」


「雑に使うな。次は割れる」


「努力する」


「守れ」


 アルトは思わず笑った。


「お前までその流れに入るな」


 男も少し笑った。


 その笑いは、泣きではなかった。


 大きな感動でもない。


 ただ、痛みが少し引いた人間の笑いだった。


 ミナはその顔を見て、小さく息を吐いた。


 コメント欄は、思ったより静かだった。


『地味だけど良い』

『こういう治療もある』

『泣かない救助』

『ミナちゃん、落ち着いてた』

『セシリア様とは違うな』

『違うからいい』


 アルトは最後のコメントを見て、少しだけ目を細めた。


 違うからいい。


 その言葉は、悪くなかった。


 男は治療後、スープをゆっくり飲んだ。


「うまい」


 マルタが満足げに頷く。


「食えるなら大丈夫だよ」


「そうらしい」


 男はミナを見る。


「ありがとう。助かった」


「はい」


 ミナは少しだけ笑った。


 そこに涙はなかった。


 でも、それでよかった。


 男は帰り際、代金を置こうとした。


 マルタが半分だけ受け取り、半分を押し返す。


「治療代込みなら足りない。飯代だけなら多い。だから飯代だけでいい」


「だが」


「明日また食べに来な」


 男は黙って頷いた。


 店を出る前に、ミナへもう一度頭を下げる。


「泣かなくて悪かったな」


 ミナは驚いた顔をした。


 男は苦笑する。


「そういうのが、今は求められてるんだろ」


 店内が静かになる。


 ミナは少しだけ目を伏せた。


 そして、首を振った。


「泣かなくていいです」


 男が見る。


 ミナは続けた。


「痛い時に、泣けない人もいますから」


 その一言は、静かだった。


 だが、店の奥まで届いた。


 ルナの銀色コメントも、すぐには流れなかった。


 アルトは、ミナを見ていた。


 彼女は震えていない。


 誰かに守られているだけではなかった。


 自分の言葉で、そこに立っていた。


 男は少しだけ笑った。


「そうか」


「はい」


「なら、また来る」


「はい。無理はしないでください」


「努力する」


「守ってください」


 今度は、店内に小さな笑いが起きた。


 男はゆっくりと赤猫亭を出ていった。


 ◇


 昼過ぎ。


 ブルーノがまた来た。


 アルトは扉を開けた瞬間に言った。


「帰れ」


「挨拶代わりみたいになってきたな」


「実際そうだ」


「今日はいい話を持ってきた」


「お前のいい話は信用できない」


「半分くらいはいい話だ」


「もっと信用できない」


 ブルーノは席に座り、当然のように芋を出された。


「俺、芋係になってないか?」


 マルタが答える。


「なってるよ」


「認定が早い」


「食べな」


「はい」


 ブルーノは芋を食べながら、神界端末を開いた。


「今朝の治療、少し伸び始めてる」


 アルトは顔をしかめる。


「あれも切り抜かれたのか」


「完全には映ってない。奥に移動したからな。ただ、“泣かない客”って言葉が出てる」


 ミナの手が止まる。


 ブルーノは視線を向けないまま続けた。


「悪くない流れだ。比較されていたミナさんに、“別の救助”のイメージがついた」


「また分析か」


「仕事だからな」


 ガルムが聞く。


「煽りか」


「今のところは違う」


 ブルーノは一覧を出した。


【神界切り抜き急上昇】


《泣かない客を診たミナ》


《声にならない痛みもある》


《セシリア様とは違う救助》


《赤猫亭は見世物小屋ではない》


《芋は朝から》


「最後のやつ消せ」


 アルトが即座に言う。


 マルタが厨房から答える。


「消すんじゃないよ!」


「店主が乗るな!」


 ミアが笑う。


「芋は強いね」


「強くなくていい」


 ブルーノは少しだけ真面目な顔になった。


「ただ、セシリア側も動いた」


 店内の空気が変わる。


 ミナは顔を上げなかった。


 だが、聞いている。


 ブルーノは金色ではなく、白い封筒のような通知を表示した。


「ヘルメス経由で、赤猫亭組宛に公開前確認の連絡が来ている」


「公開前確認?」


「セシリア側の配信で、昨日の救助と今日の治療について触れたいらしい。直接会って、話を聞かせてほしい、と」


 アルトは眉をひそめる。


「本人からか」


「ああ」


 白い通知が開く。


 そこには、柔らかな文字が並んでいた。


【聖女セシリア】


《突然のご連絡、失礼いたします》


《第三層入口での救助、そして本日の治療記録を拝見しました》


《救われた方々に寄り添う姿勢に、深く心を打たれました》


《もしご迷惑でなければ、一度お会いしてお話を伺えないでしょうか》


《特にミナ様の判断について、私自身も学ばせていただきたいと思っています》


《ご無理は申しません》


《皆様のご都合を最優先にしてください》


 丁寧だった。


 あまりにも丁寧だった。


 店内が静かになる。


 ミアが小さく言う。


「普通にいい人っぽい」


 ガルムが眉を寄せる。


「文章だけならな」


 ミナは通知を見ていた。


 その顔には、怯えと戸惑いと、少しだけ別のものがあった。


 自分の判断について学びたい。


 そう書かれている。


 比較ではない。


 見下しでもない。


 丁寧な申し出。


 アルトはそれでも、嫌な感じを拭えなかった。


 丁寧すぎる。


 整いすぎている。


 綺麗すぎる。


 ブルーノが言った。


「断ることもできる」


「断ったら?」


「それも切り抜かれる」


「最悪だな」


「だから言ったろ。まだ序の口だ」


 ルナの銀色コメントが流れる。


『丁寧な方です』


「知ってるのか」


『はい』


「会うべきか?」


 ルナはすぐには答えなかった。


 その沈黙が、答えの一部だった。


『会わずに済ませることは、難しいと思います』


「そういう言い方が一番嫌だ」


『すみません』


 ミナが小さく口を開いた。


「あの」


 全員が彼女を見る。


 ミナは少し緊張していた。


 だが、目は伏せていなかった。


「私、会ってみたいです」


 アルトは驚いた。


「いいのか」


「怖いです」


 ミナは正直に言った。


「比べられるのも怖いです。何を言われるのかも分かりません。でも……」


 彼女は少しだけ手を握る。


「私は、セシリアさんのことを知らないまま怖がっています」


 店内が静かになる。


「それは、違う気がします」


 アルトは何も言えなかった。


 ミナは続ける。


「私はセシリアさんとは違うと思います。たぶん、同じにはなれません」


 少し間を置く。


「でも、違うなら、ちゃんと違うまま会いたいです」


 その声は小さかった。


 だが、確かだった。


 アルトは深く息を吐いた。


「……分かった」


 ミナが顔を上げる。


「行くなら、俺も行く」


「はい」


「ミアも」


「行く。面白そうだし、危なそう」


「正直だな」


 ガルムが言う。


「俺も行く。セシリアの配信圏は、見ておいた方がいい」


 ガルドは工具を拭きながら短く言う。


「装備を見る」


「行くのか?」


「行くとは言ってない。装備を見る」


「結局関わるんだろ」


「面倒だからだ」


 マルタが鍋をかき混ぜる。


「弁当は?」


「まだ行くと決まっただけだろ」


「会うなら腹は減るよ」


「何でも飯に繋げるな」


 ブルーノが芋を食べながら笑った。


「これは伸びるな」


 アルトは睨む。


「お前は来るな」


「解説者としては行きたい」


「来るな」


「努力する」


「来る気だろ」


 ミナが少しだけ笑った。


 その笑いは、昨日よりも弱くなかった。


 アルトはそれを見て、少しだけ安心する。


 ◇


 夕方。


 赤猫亭から、セシリア側へ返事が送られた。


【お会いします】


【ただし、場所と時間はこちらから相談させてください】


【赤猫亭の怪我人や常連を見世物にはしないでください】


【ミナ本人の意思を尊重してください】


 最後の一文は、アルトが強引に入れた。


 ミナは少し困った顔をしたが、止めなかった。


 セシリアからの返事は、驚くほど早かった。


【聖女セシリア】


《ありがとうございます》


《もちろんです》


《ミナ様のご意思を、何より大切にいたします》


《皆様にお会いできることを、心より楽しみにしております》


 白い文字は、柔らかく、美しかった。


 アルトはそれを見て、ますます嫌な顔をした。


「丁寧すぎて怖い」


 ミアが頷く。


「分かる」


 ミナは苦笑した。


「でも、悪い方とは限りません」


「そうだな」


 アルトは認めた。


 実際、悪い人間とは限らない。


 むしろ良い人間なのかもしれない。


 だから厄介なのだ。


 その時、銀色のコメントが流れた。


『アルト』


「何だ」


『セシリアさんは、人を救います』


「ああ」


『それは本当です』


「ああ」


『だから、難しいです』


 アルトは何も言わなかった。


 救う人間。


 泣く人間。


 映る人間。


 映らない人間。


 その間にあるものが、きっとセシリアなのだろう。


 マルタが皿を置く。


「考えるなら食べな」


「また芋か?」


「今日は違うよ」


 アルトは少しだけ安心した。


 皿を見る。


 芋の煮込みだった。


「芋じゃねぇか!」


「ただの芋じゃない。煮込みだよ」


「分類の問題じゃない!」


 店内に笑いが起きる。


 ミナも笑った。


 リリも。


 カイも。


 ミアも。


 ガルムも少しだけ肩を揺らした。


 その笑いの中で、白い通知だけが、まだ視界の端に残っている。


【皆様にお会いできることを、心より楽しみにしております】


 美しい言葉だった。


 優しい言葉だった。


 だからこそ、アルトはそれを簡単には信じられなかった。


 ◇


 夜。


 赤猫亭の灯りが落ち着き始めた頃、ミナは一人でリリの包帯を片付けていた。


 アルトは皿を運び終え、彼女の近くに立った。


「大丈夫か」


 ミナは少しだけ笑った。


「大丈夫です、と言いたいところですが」


「ですが?」


「少し怖いです」


「だろうな」


「でも、今日の方が昨日よりは大丈夫です」


 アルトは椅子に座る。


「泣かない客か」


「はい」


 ミナは包帯を丁寧に畳む。


「あの方は、泣きませんでした。でも、痛そうでした」


「ああ」


「泣いている人は、分かりやすいです。助けてほしいと、見えるから」


 ミナは手を止める。


「でも、泣いていない人もいます。声にできない人もいます。痛いと言えない人もいます」


「今日みたいにな」


「はい」


 ミナは顔を上げた。


「私は、そういう痛みに気づける人でいたいです」


 その声は、はっきりしていた。


「セシリアさんのようには、たぶんなれません」


「ならなくていいだろ」


「はい」


 ミナは小さく頷いた。


「声にならない痛みも、ありますから」


 アルトは何も言わなかった。


 言わなくてよかった。


 それは、ミナ自身の言葉だった。


 視界の端に、銀色のコメントが流れる。


『はい』


 それだけだった。


 ルナも、それ以上は言わなかった。


 アルトは立ち上がる。


「じゃあ、明日も面倒だな」


「はい」


「会うんだな」


「はい」


「嫌になったら言え」


「分かりました」


「我慢するなよ」


 ミナは少しだけ笑った。


「それは、アルトさんにも言えることです」


「俺はしてない」


「しています」


「してない」


「しています」


「……少しはしてる」


「はい」


 ミナは笑った。


 今度は少し、自然だった。


 アルトは頭をかいて、厨房へ戻ろうとした。


 その時、マルタの声が飛ぶ。


「アルト! 明日の分の芋を運びな!」


「なんで俺が!」


「人間の修行だよ!」


「絶対それ便利に使ってるだろ!」


 赤猫亭に、また笑いが起きる。


 その笑いの向こうで、明日の白い影が待っている。


 聖女セシリア。


 見捨てない聖女。


 泣かない人が映らない配信者。


 そして、たぶん、本当に人を救う人。


 アルトは芋の箱を持ち上げながら、低く呟いた。


「……面倒なやつばっかり来るな」


 ルナの銀色コメントが、そっと流れる。


『はい』


「そこは否定しろ」


『違います』


「遅い」


 赤猫亭の夜は、いつも通り騒がしかった。


 けれど、その騒がしさの外側で、白い光が静かに近づいていた。


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