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第37話 聖女の名前だけが先に来る

 翌朝。


 赤猫亭の前には、また列があった。


 アルトは窓の隙間から外を見て、ゆっくりと閉めた。


「……帰っていいか」


 ミアが干し果物を齧りながら言う。


「どこに?」


「静かな場所」


「この世界にある?」


「ない気がしてきた」


 赤猫亭の中は、朝から慌ただしい。


 マルタは鍋を増やしている。


 ガルドは昨夜壊れた椅子の確認をしている。


 ガルムは店内の客の流れを見ている。


 ミナは奥の部屋から出てきたばかりのリリの包帯を替えている。


 カイとボロスは皿洗いをしていた。


 昨夜のマルタの説教の結果である。


「皿洗いって、反省に効くんですね……」


 カイが濡れた手で皿を持ちながら呟いた。


 ボロスが低く答える。


「手が止まると怒られる」


「それも効くね……」


 厨房からマルタの声が飛ぶ。


「口より手を動かしな!」


「はい!」


 カイが背筋を伸ばす。


 アルトはそれを見て、少しだけ笑った。


 昨日よりは顔色がいい。


 リリも、まだ足は引きずるが、笑えるようになっている。


 ボロスは無口だが、皿を落とさない。


 生きている。


 飯を食っている。


 怒られている。


 それでいい。


『カイ皿洗い中』

『更生配信』

『マルタ女将の教育』

『ボロス無言で有能』

『リリちゃん足お大事に』


 コメント欄も、少し柔らかい。


 だが、柔らかいものばかりではない。


『昨日からセシリア様の名前出てるな』

『救助系比較、もう切り抜き出てる』

『ミナちゃんもいいけど、聖女とは違う』

『セシリア様ならもっと泣ける』

『比較するなって』


 アルトは目を細めた。


 やはり始まっている。


 比べるなと言っても、比べる。


 見る側は、似たものを並べたがる。


 勝ち負けをつけたがる。


 順位をつけたがる。


 ランキング。


 切り抜き。


 比較。


 全部、同じ匂いがする。


 ミナはリリの包帯を巻きながら、気づいていないふりをしていた。


 だが、指先が少しだけ固い。


 アルトは何も言わなかった。


 かわりに、彼女の近くに温かい茶を置いた。


 ミナが一瞬こちらを見る。


「ありがとうございます」


「熱いうちに飲め」


「はい」


 ミナは茶碗を両手で包んだ。


 けれど、少しも飲まなかった。


 ミアが横から小声で言う。


「最近、茶を置く係になってない?」


「うるさい」


「気遣い前衛」


「変な二つ名を増やすな」


『気遣い前衛』

『茶置き新人』

『芋も剥けるし茶も置ける』

『生活力上がってる』


「拾うな!」


 ルナの銀色コメントが流れる。


『良いことです』


「お前も拾うな」


『違います。褒めています』


「余計悪い」


 笑いが少し起きる。


 ミナも、少しだけ笑った。


 その笑いを確認して、アルトは椅子に座る。


 だが、すぐに扉が開いた。


「おはよう、赤猫亭組」


 青い外套。


 整えられた髪。


 やけに軽い口調。


 切り抜き解説者のブルーノだった。


 アルトは即座に言った。


「帰れ」


「まだ何も言ってないだろ」


「言う前から面倒だ」


「正しい」


「認めるな」


 ブルーノは笑いながら、昨日と同じ席に座ろうとした。


 マルタが厨房から顔を出す。


「あんた、今日は芋でいいね」


「昨日も芋でしたよね?」


「今日も芋でいいね」


「選択肢は?」


「あるよ。大盛りか普通か」


「普通で」


「はいよ」


 ブルーノは肩をすくめた。


「この店、客に強すぎないか?」


 アルトは言った。


「嫌なら帰れ」


「いや、面白いからいる」


「素材にするなと言ったよな」


「覚えてる。赤猫亭を素材にするな、だろ」


 ブルーノは少しだけ真面目な顔になる。


「だから今日は、忠告の続きだ」


 アルトは眉をひそめる。


「またか」


「始まったぞ。比較切り抜き」


 店内の空気が、少しだけ変わった。


 ミナは手を止めなかった。


 だが、リリが心配そうに彼女を見る。


 ブルーノは神界端末を開く。


 空中に一覧が浮かんだ。


【神界比較切り抜き急上昇】


《救助の女神ミナは、聖女セシリアに届くのか》


《見捨てない聖女セシリア、過去の奇跡まとめ》


《赤猫亭組の救助は本物か、それとも偶然か》


《泣ける救助配信ランキング》


《セシリア様ならどう動いた?》


 アルトは低い声で言った。


「消せ」


 ブルーノは首を振る。


「俺が作ったものじゃない」


「なら見せるな」


「見ないと、どこから刺されてるか分からない」


 ガルムが静かに口を挟んだ。


「それは正しい」


 アルトはガルムを見る。


 ガルムの顔は苦い。


「嫌でも、流れは見るべきだ。見ないまま燃える方が危険だ」


 炎上を知る男の言葉だった。


 アルトは舌打ちする。


「分かった。続けろ」


 ブルーノは頷く。


「比較切り抜きは、まだ悪意だけじゃない。むしろ最初は好奇心だ。『似てる』『どっちがすごい』『どっちが泣ける』。その程度」


「十分嫌だな」


「ああ。嫌だ。でも止まらない」


 ブルーノはミナを見る。


「ミナさん。今、あなたは“救助の女神”と呼ばれ始めている」


 ミナが小さく首を振る。


「私は、そんなものではありません」


「分かってる。でも呼ぶ側には関係ない」


 アルトは机を指で叩いた。


「言い方を選べ」


 ブルーノは両手を上げる。


「悪い。だが事実だ」


 リリがミナの袖を掴む。


「ミナさんは、ミナさんです」


 その声は小さかった。


 しかし、ミナには届いた。


 ミナはリリを見て、少しだけ目を細める。


「ありがとうございます」


 コメント欄が少し静かになる。


 アルトはそれを見て、口を閉じた。


 今、必要なのは説教ではない。


 リリの一言で十分だった。


 ブルーノも、その空気を読んだのか、少し声を落とす。


「問題は、セシリア本人がこの流れをどう扱うかだ」


「本人が?」


「ああ。聖女セシリアは、見られ方を作るのがうまい」


 ガルムが眉をひそめる。


「配信演出か」


「悪い意味だけじゃない。彼女は本当に救助する。本当に救われる人間がいる」


 ブルーノは芋の皿を受け取りながら続けた。


「ただ、セシリアの配信は全部が絵になる。救助も、祈りも、涙もな」


「演出か?」


「演出だ。けど、嘘じゃない」


 その言葉で、店内が少し静かになった。


 嘘ではない。


 でも、作られている。


 見せるために整えられている。


 それは、レオンの真っ直ぐさとは違う怖さだった。


 レオンは見られるほど正しくなる。


 セシリアは、見られるほど美しく整う。


 そんな気配がした。


 ミアが顔をしかめる。


「なんか、きれいすぎて嫌」


「そう。そこが強さだ」


 ブルーノは芋を口に入れた。


「うまいな、これ」


「感想を挟むな」


「いや、大事だろ」


 マルタが満足げに頷く。


「分かってるじゃないか」


 アルトはため息をついた。


 アルトはミナを見る。


 ミナは何も言わない。


 ただ、リリの包帯をもう一度確認している。


 手元は丁寧だった。


 派手な光はない。


 涙もない。


 祈りもない。


 でも、リリの足は確かに楽になっている。


 アルトは思った。


 これでいい。


 少なくとも、今は。


 ◇


 昼過ぎ。


 赤猫亭の外に、小さな騒ぎが起きた。


 若い配信者たちが数人、店の前で端末を掲げている。


 どうやら、赤猫亭の外観を配信に映しているらしい。


「ここが救助飯の赤猫亭でーす!」


「奈落新人がいるかも!」


「ミナちゃん出てくるかな?」


「セシリア様と比較されてる子でしょ?」


 アルトは椅子から立ち上がった。


 ミアが耳を伏せる。


「また面倒なやつ」


 ガルムも立つ。


「行くか」


「いや」


 アルトは首を振った。


「俺が行く」


 外へ出ると、配信者たちは一斉にこちらを向いた。


「あ、奈落新人!」


「本物だ!」


「コメントお願いします!」


「セシリア様との比較についてどう思いますか!」


 最後の一言で、アルトの目が細くなった。


「誰と誰を比べてる」


「え、ミナさんとセシリア様を――」


「なんで」


 若い配信者は少し怯む。


「いや、救助系で伸びてるし、神界でも話題で……」


「ミナは商品じゃない」


 若い配信者が口を閉じた。


 アルトは続ける。


「赤猫亭も、あいつらも、比較用の札じゃない」


 アルトは店の扉を親指で指した。


「飯を食うなら入れ。見世物を探してるなら帰れ」


 沈黙。


 コメント欄が流れる。


『怒った』

『これは正論』

『でも比較はもう止まらない』

『奈落新人、場所を守ってる』

『赤猫亭ルール』


 若い配信者の一人が、少し不満そうに言った。


「でも、配信者なんだから見られて当然じゃ――」


 扉が開いた。


 マルタが出てきた。


 手には鍋の蓋。


 なぜ鍋の蓋なのかは分からない。


 だが、妙な圧があった。


「見たいなら飯を食いな。騒ぎたいなら通りの向こうでやりな」


「いや、俺たちは――」


「飯屋の前で飯を食わずに騒ぐのは、客じゃないよ」


 マルタは鍋の蓋を軽く鳴らした。


 かん。


 その音だけで、若い配信者たちは後ずさった。


 アルトは思わず呟く。


「神より怖いな」


 マルタがこちらを見る。


「何か言ったかい」


「何も」


 若い配信者たちは、結局、二人だけが店に入り、残りは散っていった。


 完全に消えたわけではない。


 だが、少しだけ線が引かれた。


 ブルーノが店の入口からそれを見ていた。


「見事だな」


「お前も帰れ」


「食後の茶がまだだ」


「居座るな」


 ブルーノは笑った。


「でも今の、切り抜かれるぞ」


「だろうな」


「止めないのか」


「止められるのか?」


「無理だな」


「じゃあ、せめて言うことは言う」


 ブルーノは少しだけ目を細めた。


「それが、赤猫亭組の売りになる」


 アルトは一歩近づく。


「売りって言うな」


「悪い。癖だ」


「直せ」


「努力する」


「その言葉は信用しない」


 ブルーノは苦笑した。


「レオンにも言われてたな、それ」


「流すな」


 マルタが二人を見て言う。


「あんたたち、中でやんな。外に立つとまた人が集まる」


「はい」


 アルトは素直に従った。


 ◇


 夕方。


 赤猫亭はようやく落ち着きを取り戻した。


 といっても、昨日までの落ち着きとは違う。


 人が来る。


 視線が来る。


 噂が来る。


 セシリアの名前が、何度も外を通り過ぎる。


「聖女セシリアが反応したらしい」


「赤猫亭組、次はセシリアと絡むのか?」


「救助系対決だって」


 そのたびに、ミナの指が少しだけ止まる。


 そのたびに、リリがミナの近くにいる。


 言葉は多くない。


 ただ近くにいる。


 昨日助けられた少女が、今日はミナのそばにいる。


 それだけで、ミナの表情は少しだけ柔らかくなる。


 アルトはそれを見て、何も言わなかった。


 ミアも、今日はミナをからかわない。


 ガルムは店の端で、ブルーノと少しだけ話している。


「比較は止まらないのか」


 ガルムが聞く。


 ブルーノは茶を飲みながら答える。


「止まらない。ただ、見方は変えられる」


「どうやって」


「解説する。煽るんじゃなく、分ける。ミナはセシリアの代用品じゃない。別の価値がある、と」


 ガルムはブルーノを見る。


「お前はそれをやるのか」


「需要があればな」


「商売か」


「商売だ」


 ブルーノは悪びれなかった。


「でも、煽り屋に任せるよりはましだろ」


 ガルムは少し黙った。


「……そういう理屈は嫌いだ」


「俺もたまに嫌いになる」


 ブルーノはそう言って、茶を飲んだ。


 完全な善人ではない。


 だが、単なる悪人でもない。


 観測経済の中で飯を食っている人間。


 アルトはその会話を横で聞きながら、少しだけブルーノの扱いに困った。


 嫌いでいい。


 でも、利用価値はある。


 ミアならそう言うだろう。


 実際、横でミアが言った。


「使えるものは使えば?」


「お前、心読んだか」


「顔に出てた」


「そんなに出てたか」


「出てた」


 ミアは干し果物を齧る。


「嫌いでも使えるなら使う。相手もこっちを使う。それで五分」


「お前らしい」


「でしょ」


 その時、ルナの銀色コメントが流れた。


『アルト』


「何だ」


『セシリアさんには、気をつけてください』


 アルトは目を細めた。


「知ってるのか」


 少し間があった。


『有名です』


「それは聞いた」


『救われた人が多いのも、本当です』


「含みがあるな」


『はい』


 ルナが、はっきり「はい」と言った。


 それだけで、空気が少し冷える。


『でも、彼女の周りでは、いつも誰かが泣いています』


 ミナが顔を上げた。


 ブルーノも手を止める。


 ガルムが眉をひそめる。


 アルトはゆっくり言った。


「救助系なら、そりゃ泣くだろ」


『はい』


 銀色の文字が続く。


『でも、泣かない人が映らない』


 その一文で、店内が静かになった。


 映らない。


 それは、見捨てるとは違う。


 でも、近いところにある言葉だった。


 ミナは何も言わない。


 ただ、膝の上の手を少しだけ握る。


 アルトは茶を持ち、彼女の前に置こうとした。


 だが、その前にリリがそっとミナの手に自分の手を重ねた。


 アルトは足を止めた。


 それでいい。


 今は、それでいい。


 ◇


 夜。


 赤猫亭の前から人影が減り、ようやく本来の飯屋らしい空気が戻ってきた。


 完全には戻らない。


 たぶん、もう完全には戻らない。


 それでも、鍋の音がして、皿の音がして、誰かが飯を食っている。


 それで十分だった。


 ブルーノは帰り際、アルトに言った。


「明日あたり、セシリア側から何か来るかもしれない」


「予言か?」


「流れを読んだだけだ」


「外れろ」


「外れることもある」


「外せ」


「努力する」


「だから信用できない」


 ブルーノは笑って、青い外套をひるがえした。


「赤猫亭を雑には扱わない。今日はそれで勘弁してくれ」


「明日もだ」


「努力する」


「帰れ」


 ブルーノは本当に帰った。


 アルトはため息をつく。


 マルタが厨房から声をかける。


「嫌いかい、ああいうの」


「嫌いだな」


「でも、話は聞いた」


「役に立つ話ではあった」


「なら、飯くらい出してやればいい」


「芋だったけどな」


「十分だよ」


 アルトは少し笑った。


 店の奥では、カイが皿を拭いている。


 ボロスが椅子を運んでいる。


 リリはミナの隣で、包帯の巻き方を教わっている。


 ミアは干し果物を数えている。


 ガルムは入口近くで、外の気配を見ている。


 ガルドは壊れた看板の端を直している。


 アルトは気づいた。


 赤猫亭は変わり始めている。


 でも、変えられているだけではない。


 ここにいる連中も、少しずつ形を変えている。


 カイは皿を洗う。


 リリは包帯を学ぶ。


 ミナは黙って誰かの手を取る。


 ミアは顔ではなく、斥候として話を聞かれる。


 ガルムは視線の前に立つ。


 ガルドは壊れたものを直す。


 マルタは飯を出す。


 それを勝手に「聖地」と呼ばれてたまるかと思った。


 ここはまだ、飯屋だ。


 誰かが腹を空かせて来る場所だ。


 アルトは木板を見る。


【票ではなく、現場を見る】


【帰るためではなく、選ぶために進む】


 その横に、今日は何も書かなかった。


 ただ、看板の裏に小さく一文だけ書いた。


【見物だけなら、昼過ぎにしろ】


 マルタがそれを見て、噴き出した。


「いいね。採用」


「するのかよ」


「明日から貼るよ」


「本気か」


「本気だよ」


 コメント欄が笑う。


『赤猫亭ルール』

『見物は昼過ぎ』

『常連優先』

『飯屋の矜持』


 ルナの銀色コメントが流れる。


『良いルールですね』


「だろ」


『でも、芋は朝からですか?』


「そこは知らん」


 厨房からマルタが答える。


「芋は朝からだよ!」


「なんでだよ!」


 赤猫亭に笑いが起きる。


 その笑いの外側で、聖女セシリアの名前だけが、静かに近づいていた。


 本人はまだ来ていない。


 それなのに、ミナの隣には、もう比較の影が座っていた。


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