第36話 赤猫亭、勝手に聖地化する
翌朝。
赤猫亭の前に、列ができていた。
アルトは窓の隙間から外を見て、黙った。
見なかったことにしたかった。
だが、見えている。
どう見ても、列だった。
店の前に、冒険者、配信者、商人、野次馬、低ランク配信者、なぜか芋屋まで並んでいる。
さらに、看板まで立っていた。
【奈落新人ゆかりの店】
【剣聖レオン会談跡地】
【救助飯発祥の地】
【芋あります】
「……最後のやつ誰が書いた」
アルトは低く言った。
隣でミアが腹を抱えている。
「聖地じゃん」
「勝手に聖地にするな」
「聖地芋」
「やめろ」
ミナが困ったように外を見る。
「すごい人数ですね……」
「すごいで済ませるな。営業妨害だろ」
ガルムが窓から少しだけ外を確認する。
「いや、半分は客だな」
「もっと悪い」
「飯屋としては悪くない」
「俺の静かな朝は?」
「元からなかった」
「言い切るな」
ガルドは入口の補強具合を確認していた。
昨日から一段、金具が増えている。
「扉は保つ」
「扉が保てばいい問題じゃないだろ」
「まず扉だ」
「職人の優先順位、硬いな」
厨房では、マルタがすでに戦闘態勢に入っていた。
鍋が三つ。
パンが山。
芋が箱。
芋が箱。
芋が箱。
「多いわ!」
アルトは叫んだ。
マルタが振り返る。
「売れる時に売るんだよ」
「完全に商売モードじゃねぇか」
「飯屋だからね」
「芋屋じゃないだろ」
「今日から芋も強い」
「嫌な強化だな」
『赤猫亭、聖地化』
『朝から行列』
『芋ありますw』
『商魂たくましい』
『女将、勝負に出た』
コメント欄も朝から元気だった。
昨日の救助の重さは、まだ残っている。
カイたちは奥の部屋で休んでいる。
リリの足もまだ完治していない。
ボロスも眠っている。
だが、外の世界はもう次の騒ぎに移っていた。
救助は切り抜かれた。
レオンの一閃は伸びた。
ミアの斥候切り抜きも伸びた。
ミナの救助判断も伸びた。
そして、赤猫亭は勝手に名所になった。
早すぎる。
軽すぎる。
でも、それが配信の流れなのだろう。
アルトは額を押さえた。
「……見られるって、疲れるな」
ガルムが静かに言う。
「まだ入口だ」
「嫌なことを言うな」
「事実だ」
「もっと嫌だ」
その時、店の外で、いつも朝に来る老人が列を見て、困ったように踵を返した。
アルトはそれを見た。
赤猫亭が賑わっている。
それは悪いことではない。
マルタの飯が売れる。
店に金が入る。
人が集まる。
けれど、誰かの日常が押し出されている。
「……マルタ」
「ああ。分かってる」
マルタは大きく息を吸い、店の外へ向かって声を張った。
「見物だけのやつは昼過ぎにしな! 朝飯の常連が先だよ!」
外がざわめいた。
「でも、並んで――」
「飯を食う気がないなら列じゃないよ。ただの邪魔だ!」
マルタの一喝で、列の先頭が少し崩れた。
老人が驚いたように顔を上げる。
マルタは顎をしゃくる。
「いつもの席、空けてあるよ」
老人は少しだけ笑い、店へ入ってきた。
「すまないね」
「すまないのは外の連中さ。あんたは客だよ」
アルトはそのやり取りを見ていた。
赤猫亭が変わっていく。
けれど、変えられたくないものもある。
マルタはそこを、ちゃんと分かっている。
だから強い。
アルトは小さく息を吐いた。
「飯屋って、大変だな」
マルタが聞こえたのか、厨房から返す。
「今さらかい」
「今さらだよ」
店の扉が叩かれた。
控えめではない。
わくわくを抑えきれていない音だった。
こんこんこんこん。
「多い」
アルトが言う。
マルタが顎をしゃくる。
「開けな」
「俺が?」
「あんた目当ての客だろ」
「飯屋の客だろ」
「どっちでも金は落ちる」
「正直すぎる」
アルトが扉を開けると、外のざわめきが一気に流れ込んできた。
先頭にいたのは、若い配信者らしき男だった。
顔は緊張している。
手には小さな神界端末を持っている。
「あ、あの! 奈落新人さんですよね!」
「違います」
「えっ」
「いや、合ってるけど違います」
男は混乱した。
ミアが後ろで吹き出す。
「朝から面倒な返事」
男は慌てて頭を下げる。
「す、すみません! 俺、低ランク配信者で、昨日の救助配信を見て……あの、ここに来れば、何か変わるかなって」
アルトは返事に詰まった。
何か変わるかな。
昨日のカイと似た言葉だった。
だが、男の後ろには他にも似たような顔が並んでいる。
期待。
焦り。
憧れ。
便乗。
いろいろ混ざっている。
マルタが後ろから言った。
「飯を食うなら入りな。話だけなら外でやんな」
男はびくっとする。
「あ、食べます!」
「なら客だ」
マルタは一瞬で処理した。
アルトは感心しかけて、やめた。
さすがというか、強すぎる。
「次!」
マルタの声で、列が動き始めた。
赤猫亭の朝は、戦場になった。
◇
店内はあっという間に満席になった。
ただの客もいる。
配信者もいる。
切り抜きを見て来た者もいる。
ミアを見に来た者もいる。
ミナに礼を言いたい者もいる。
ガルドの作業音が聞きたいという、よく分からない者までいた。
「作業音?」
ガルドが低く言った。
目の前の客が興奮気味に頷く。
「はい! 水路修理の切り抜きで、金具を締める音が良くて……落ち着くというか」
「仕事の邪魔だ」
「すみません!」
「見るなとは言わん」
ガルドは工具を手に取り、椅子の脚を直し始めた。
「騒ぐな」
客はなぜか感動した顔になった。
『ガルド作業音配信』
『ASMR職人』
『騒ぐな、いただきました』
『渋い』
アルトは頭を抱えた。
「何でも切り抜くな」
一方で、ミナの周りには、昨日の救助を見た人たちが集まっていた。
「ミナさん、昨日の判断すごかったです」
「痛みの気配って、どうやって分かるんですか?」
「救助の女神って呼ばれてますよ」
ミナは困り果てている。
「い、いえ、私はそんな……女神ではありませんし、救助も皆さんで……」
『救助の女神ミナ』
『照れてる』
『かわいい』
『でも本当に助かった』
ルナの銀色コメントが、少しだけ流れた。
『女神は私ですが』
アルトは見上げた。
「そこ張り合うのか」
『張り合っていません』
「いや、今のは少し張り合ってた」
『違います』
ミナが慌てる。
「ルナ様、すみません! 私、女神なんてそんな」
『ミナさんは悪くありません』
『呼び方を雑にする神々が悪いです』
『すみません』
『でも救助の女神感ある』
『ルナ様は推し女神』
『違います待機』
『違います!!』
「自分から行ったな」
『違います!!!!』
店内が笑う。
ミナも少しだけ笑った。
しかし、その笑いは少しぎこちなかった。
人に見られ、褒められることに慣れていない顔だった。
アルトはそれを見て、何も言わなかった。
言えば余計に意識する。
ただ、テーブルに置かれていた水差しをミナの近くへ寄せた。
ミナが気づいて、小さく頭を下げる。
それだけでいい。
今日は、あまり語らない。
そう決めたわけではないが、昨日語りすぎた気がしていた。
別のテーブルでは、ミアが固まっていた。
原因は、若い冒険者二人組だった。
「ミアさんですよね! 昨日の横穴の声を拾ったところ、すごかったです!」
「斥候として、あの判断は本当に」
ミアは一瞬、耳を立てた。
褒められている。
顔ではない。
財布でもない。
斥候として。
だが、次の一言で空気が変わった。
「あと、やっぱり顔も――」
アルトは何も言わなかった。
言う前に、ミアが干し果物を一つ、男の口に放り込んだ。
「喋る前に噛んで」
「むぐっ!?」
「斥候の話だけなら聞く」
男は目を白黒させながら頷いた。
もう一人が慌てて言う。
「え、えっと、横穴の反響ってどう聞き分けたんですか?」
ミアは少し考えた。
「足音が返ってくる場所と、息が吸われる場所が違った」
「息が吸われる?」
「穴があると、音が消える。そこに小さい息が混じってた」
男たちは真剣に聞いている。
ミアは少しだけ居心地悪そうだったが、逃げなかった。
アルトは見ていた。
何も言わない。
ただ、干し果物の小袋をミアの近くに置いておいた。
ミアが横目でこちらを見る。
「何?」
「補充」
「……ありがと」
小さい声だった。
それだけだった。
◇
昼前には、赤猫亭は完全に「場所」ではなく「現象」になっていた。
入り口ではヘルメスの整理員が列をさばいている。
マルタは客を容赦なく回転させる。
長居する者には皿洗いを命じる。
ガルドが壊れた椅子を直すそばで、なぜか三人が静かに見守っている。
ミナは質問攻めを受けかけて、リリに呼ばれて奥へ逃げた。
ミアは斥候講座のようなものを始めかけて、途中で「なんで教えてるんだろ」と我に返った。
ガルムは店の端で、騒ぎを見ていた。
そこへ、昨日のカイが奥の部屋から出てきた。
まだ顔色は悪い。
だが、歩ける程度には戻っている。
客の何人かが気づいた。
「あ、昨日救助された……」
「カイだ」
「無謀配信の」
カイの足が止まる。
空気が少し揺れる。
アルトが動こうとしたが、先にガルムが立った。
何も言わず、カイの横に立つ。
ただ、それだけ。
だが、視線の向きが変わった。
カイひとりに集まっていた目が、ガルムにも分散する。
ガルムは注文を取りに来たマルタへ言った。
「こいつにスープを」
「自分で言いな」
マルタは即答した。
ガルムは少し黙った。
カイを見る。
カイは喉を鳴らし、それから小さく言った。
「スープを、ください」
「聞こえない」
マルタが言う。
カイは顔を上げた。
「スープをください」
「はいよ」
それだけだった。
ガルムは何も言わない。
カイも何も言わない。
ただ、席に座る。
アルトはその様子を見ていた。
昨日あれだけ語った「聞く」ということを、今日は誰も説明しない。
ただ、カイが自分の声で注文した。
マルタが聞いた。
それだけで、十分だった。
『カイ、自分で言った』
『スープ注文できた』
『マルタ女将、厳しいけど優しい』
『ガルム、横に立っただけなのに良い』
コメント欄も、珍しく余計なことを言わなかった。
いや、少しは言っている。
だが、いつもより静かだった。
その時、店の隅の客席から、ぼそぼそとした会話が聞こえた。
「救助系って言えば、やっぱりセシリア様だろ」
「でも昨日のミナって子もよかったぞ」
「比べるもんじゃないだろ」
「神界じゃもう比較切り抜きが出てるらしい」
ミナは、茶碗に伸ばしかけた手を止めた。
すぐに何事もなかったように手を引っ込めたが、アルトには見えた。
彼女の指が、膝の上で小さく握られる。
アルトは何も言わず、温かい茶をミナの前に置いた。
ミナは少し驚いて、こちらを見た。
「ありがとうございます」
「冷める前に飲め」
「はい」
それ以上は言わなかった。
そこへ、別の声がした。
「ここが赤猫亭か」
アルトは振り向いた。
派手な青い外套を着た男が立っていた。
年は二十代半ばほど。
髪は整えられ、胸元には配信者徽章。
周りの数人がすぐに気づいた。
「ブルーノだ」
「中堅配信者の?」
「切り抜き解説で有名な」
ブルーノと呼ばれた男は、店内を見回して笑った。
「いやあ、すごい熱気だ。奈落新人、剣聖、救助飯、斥候猫、女神回復。話題の詰め合わせだな」
アルトは嫌な予感がした。
こういう口調の人間は、だいたい面倒だ。
ブルーノはアルトを見る。
「あんたがアルトか。いい素材だな」
「帰れ」
「即答かよ」
「素材って言うやつに良いやつはいない」
ミアが小さく頷く。
「それは分かる」
アルトは続けた。
「俺を素材にするのは勝手にしろ。赤猫亭を素材にするな」
店内の空気が、少しだけ変わった。
マルタが鍋をかき混ぜる手を止める。
ミナが顔を上げる。
ミアの耳が少し動く。
ガルムがアルトを見た。
ブルーノは一瞬だけ目を丸くし、それから笑った。
「なるほど。そこが線引きか」
「線を踏むな」
「分かった。覚えておく」
「信用できない」
「正しい」
ブルーノは悪びれずに肩をすくめた。
「ただ、悪い意味だけで言ったわけじゃない。今の赤猫亭は、本当に熱い。人が集まる。感情が動く。切り抜きが生まれる。分析する側からすれば、宝の山だ」
「余計に帰れ」
「まあまあ。忠告しに来たんだ」
「忠告?」
ブルーノは店内を見回す。
「この勢いだと、次に来るのは本人たちだけじゃない。便乗屋、煽り屋、比較屋、アンチ、信者、いろいろ来る」
「もう来てる気がするが」
「まだ序の口だ」
ブルーノは指を一本立てた。
「特に気をつけろ。救助系で伸びたなら、次に比較される名前は決まってる」
「誰だ」
「聖女セシリア」
食堂の空気が少し変わった。
ミナの指が、膝の上でまた小さく握られた。
ミアが首を傾げる。
「誰?」
ガルムが眉をひそめた。
「上位配信者だ。回復・救助系では最上位に近い」
ブルーノが頷く。
「そう。救助系の本物。見捨てない聖女。涙の奇跡。神界ではそう呼ばれてる」
コメント欄もざわめく。
『見捨てない聖女』
『泣き配信の女王』
『救助系ならセシリア様』
『あの人は別格』
『ミナちゃんと比べるのは早い』
「見捨てない聖女」
アルトはその言葉を繰り返した。
軽くない言葉だ。
だが、ブルーノの口から出ると、どこか商品名のように聞こえた。
「昨日の救助で、ミナさんの切り抜きが伸びた。だから比較されるぞ」
ミナが困った顔になる。
「私と、そんな方を比べられても……」
「視聴者は比べる」
ブルーノはあっさり言った。
「似た役割、似た見た目、似た感動。比べやすいものは比べられる」
アルトは低く言う。
「比べるな」
「俺に言っても無駄だ。流れはもう始まってる」
コメント欄にも、それらしい言葉が混じり始める。
『救助系ならセシリア様』
『ミナちゃんもいいけど聖女とは違う』
『セシリア様は泣かせ方が上手い』
『比較はやめろ』
『でも見てみたい』
ミナの顔色が少し悪くなる。
アルトはコメント欄を睨む。
「神々」
流れが少し止まる。
「ミナはミナだ。勝手に比べるな」
ブルーノが口笛を吹く。
「強いねぇ」
「うるさい」
「でも、それも切り抜かれる」
「だから嫌なんだよ」
その時、銀色のコメントが流れた。
『ミナさんは、ミナさんです』
ルナだった。
短い。
でも、はっきりしていた。
ミナは少しだけ目を伏せる。
「ありがとうございます」
ブルーノは興味深そうに空を見る。
「ルナ様まで出るか。こりゃ本当に熱い」
「お前、帰れ」
「飯食ってからな」
マルタが厨房から顔を出す。
「客なら座りな。騒ぐなら外だよ」
ブルーノは両手を上げる。
「食べます食べます。おすすめで」
「芋でいいね」
「え、いや、煮込みが」
「芋でいいね」
「……はい」
アルトは少しだけ溜飲を下げた。
「女将、強いな」
「当たり前だよ」
ブルーノは席につきながら、アルトに言った。
「まあ、忠告はした。赤猫亭はもう、ただの飯屋じゃない。見られる場所になった」
アルトは店内を見る。
マルタの飯。
ミナの笑顔。
ミアの干し果物。
ガルムの沈黙。
ガルドの工具音。
カイのスープ。
リリの眠る奥の部屋。
そこへ、外から視線が流れ込んでいる。
店そのものが、配信の一部にされ始めている。
アルトは小さく言った。
「勝手に場所を変えるなよ」
誰に向けた言葉か、自分でも分からなかった。
◇
夕方。
ようやく客足が少し落ち着いた。
マルタは売上袋を見て、満足そうにしている。
アルトは疲れ切っていた。
皿を運び、客を止め、コメントに文句を言い、ミアの干し果物を補充し、ミナを休ませ、ガルムとカイの様子を見て、ブルーノに芋を追加した。
「なんで俺が一番働いてるんだ」
マルタが答える。
「人間の修行だよ」
「便利すぎるだろ、その言葉」
ガルドが椅子の修理を終えた。
「椅子三脚、扉一枚、机一つ。客が増えると壊れる」
「お前も働きすぎだろ」
「壊れたから直した」
「分かりやすい」
ミアは隣の席で干し果物を食べていた。
今日は少し疲れた顔をしている。
アルトは袋を半分渡した。
ミアが見る。
「何?」
「補充」
「今日二回目」
「足りなかったか」
「……足りた」
しばらく沈黙。
ミアは干し果物を一つ摘まんだ。
「顔じゃないの、変な感じ」
アルトは水を飲む。
「悪いか」
「悪くない」
それだけだった。
それ以上は聞かなかった。
ミアも、それ以上は言わなかった。
それで十分だった。
奥の部屋から、カイの声が聞こえた。
「スープ、もう一杯ください」
マルタの声。
「自分で持ってきな」
「はい」
足音。
ゆっくりだが、自分で歩いてくる音。
アルトは振り返らなかった。
ただ、聞いていた。
ルナの銀色コメントが流れる。
『今日は、少し騒がしかったですね』
「少しか?」
『かなり』
「正直でよろしい」
『でも』
「でも?」
『悪くない騒がしさも、ありました』
アルトは店内を見た。
疲れた顔。
笑った顔。
困った顔。
商売顔。
眠る者。
働く者。
見に来た者。
見られて困る者。
いろいろ混ざっている。
「まあな」
アルトは小さく言った。
その時、店の外から声がした。
「聖女セシリアが、今回の救助切り抜きを見たらしいぞ」
別の声が返る。
「本当か?」
「ああ。救助系配信者の間で話題になってる」
「じゃあ、赤猫亭組もいよいよ上位に絡むな」
アルトは目を細めた。
聖女セシリア。
見捨てない聖女。
救助系の本物。
比べられる相手。
ミナがその名前に気づいたように、少しだけ顔を上げる。
アルトは何も言わず、彼女の前に新しい茶を置いた。
ミナが驚いてこちらを見る。
「ありがとうございます」
「冷める前に飲め」
「はい」
コメント欄が少しだけ流れる。
『セシリア様来る?』
『救助系対決?』
『ミナちゃん大丈夫かな』
『赤猫亭、次から次へと』
アルトは空を睨まなかった。
今日は、もう睨む気力もない。
ただ、茶を飲むミナを見て、店内の音を聞いた。
皿の音。
工具の音。
スープをよそう音。
干し果物を噛む音。
外の噂。
神々のざわめき。
全部が混ざって、赤猫亭の夜になっていく。
見られる場所になった。
それでも、まだここは飯屋だ。
誰かが腹を空かせて来る。
誰かが声を出す。
誰かが聞く。
今は、それでいい。
マルタの声が飛んだ。
「アルト! 芋の皮むき!」
「またかよ!」
「売れたんだから剥くんだよ!」
「俺のせいじゃねぇ!」
ミアが笑った。
ミナも少しだけ笑った。
ガルムは肩をすくめた。
ガルドが言った。
「薄く剥け」
「お前は最後までそれか!」
外では、聖女セシリアの噂が少しずつ広がっている。
内では、芋の皮がまた増えている。
アルトは深くため息をついた。
「……人気者って、最悪だな」
ルナの銀色コメントが、静かに流れた。
『でも、少しだけ賑やかです』
「賑やかすぎる」
『違います』
「何が」
『少しだけ、です』
「嘘つけ!」
赤猫亭に、また笑いが起きた。
その笑いの外側で、新しい名前が静かに近づいていた。




