第35話 見られていたのに、聞かれていなかった
赤猫亭に戻った時、カイたちはほとんど喋れなかった。
疲労。
怪我。
恐怖。
そして、助かったという実感。
それらが一度に押し寄せているのだろう。
カイは椅子に座ったまま、両手で膝を掴んでいる。
短剣は預けられていた。
リリは足に包帯を巻かれ、ミナの隣に座っている。
まだ顔色は悪いが、呼吸は落ち着いてきていた。
ボロスは大きな身体を縮めるようにして座っている。
盾役らしい体格なのに、今はやけに小さく見えた。
マルタは三人を見て、何も聞かなかった。
ただ、皿を置いた。
温かいスープ。
柔らかく煮た芋。
細かく裂いた肉。
消化のいいパン。
「食べな」
それだけだった。
カイは皿を見つめた。
「俺たち、お金……」
「あとでいい」
「でも」
「食べな」
二度目の声で、カイは黙った。
スプーンを持つ手が震えている。
リリが小さくスープを飲む。
その瞬間、ぽろっと涙がこぼれた。
「……温かい」
ミナが隣で静かに頷いた。
「ゆっくりで大丈夫です」
ボロスは黙ってパンをちぎっている。
大きな手が、少し震えていた。
アルトは少し離れた席に座っていた。
正面には、ミア。
横には、ガルム。
少し離れて、ガルドが壊れた金具を直している。
レオンはいない。
救助後の報告のため、ヘルメスへ戻った。
その判断も正しい。
正しいが、少しだけ空気が違う。
レオンがいると、場が整う。
いないと、場が揺れる。
赤猫亭は、揺れたまま人を受け止める場所なのだと、アルトは思った。
『救助後』
『三人とも生きててよかった』
『カイ、反省してるな』
『リリちゃん、足大丈夫?』
『ボロス、盾役だったんだな』
コメント欄はいつもより少し静かだった。
騒ぎたい神もいる。
だが、救助直後の三人を見て、さすがに声を抑えているようにも見えた。
アルトはそれを見て、少しだけ皮肉に思った。
見えている時だけ、優しくなる。
見えていない時に、彼らの声は届かなかった。
その差が、胸に残っている。
「アルトさん」
ミナが小さく呼んだ。
「カイさんたち、もう少し休めば大丈夫そうです」
「そうか」
「ただ、リリさんの足は、今日一日は歩かない方がいいです」
「なら泊めるか」
マルタが即答した。
「奥の空き部屋を使いな」
カイが顔を上げる。
「でも、そこまでしてもらうわけには」
「怪我人を追い出す飯屋があるかい」
「飯屋って、宿もやるんですか?」
「今日からやるんだよ」
強引だった。
だが、それでいい気がした。
リリがまた泣きそうな顔になる。
「ありがとうございます」
「礼は食べてから」
マルタはそれだけ言って厨房へ戻る。
ミアが小声で言う。
「赤猫亭、事業拡大だね」
「怪我人相手に商売の話をするな」
「でも寝床代は取る?」
「取らないだろ」
「マルタなら、あとで皿洗いで取るかも」
ガルムが真顔で言う。
「あり得る」
アルトは否定できなかった。
その時、カイがスプーンを置いた。
「あの」
全員の視線が向く。
カイは少し俯いたまま言った。
「俺、配信をやめた方がいいんでしょうか」
食堂が静かになった。
コメント欄も、流れが鈍る。
リリがカイを見る。
ボロスも顔を上げた。
「俺が、無理に誘いました。第三層入口に行こうって。危ないのは分かってたんです。でも……」
カイは唇を噛む。
「誰にも見られないのが、怖かった」
その声は、第三層入口で聞いた時よりも弱かった。
でも、今の方が本音に近い気がした。
「配信を始めたら、何か変わると思ってました。神様に見てもらえて、コメントが来て、投げ銭が来て……俺でも何者かになれるかもしれないって」
アルトは黙って聞いた。
「でも、実際は誰も来なくて。来ても、すぐ消えて。コメントもなくて。配信してるのに、誰にもいないみたいで」
カイの手が震える。
「それが、怖かった」
ミアが干し果物の袋を握ったまま、何も言わない。
ミナはリリの手を握っている。
ガルムは、目を伏せていた。
カイは続ける。
「だから、危ない場所へ行けば見てもらえると思った。切り抜かれれば、名前が残ると思った」
「残ったな」
アルトが言う。
カイがびくりとする。
アルトは続けた。
「馬鹿な形で」
カイは俯いた。
「はい」
「でも、生きて残った」
カイの肩が揺れる。
「はい」
「なら、まだ続きがある」
カイは顔を上げた。
アルトは少しだけ言葉に迷った。
やめろと言うのは簡単だ。
配信なんて危ない。
神々の視線なんてろくでもない。
見られたいと思うと、壊れる。
そう言うこともできる。
でも、自分も配信の中にいる。
見られることに文句を言いながら、数字を見ている。
ランキングが落ちれば気になる。
上がれば、少しは意味を考えてしまう。
だから、偉そうには言えなかった。
「やめるか続けるかは、今決めるな」
アルトは言った。
「飯食って、寝て、足治して、それから考えろ」
カイは唇を震わせる。
「でも、俺は……」
ガルムが口を開いた。
「見られたいから続けるなら、また同じことをする」
カイの顔が強張る。
ガルムは静かに続けた。
「見られるなとは言わない。見られたいと思うなとも言わない。だが、見られることだけを杖にすると、折れた時に立てなくなる」
その声は、重かった。
炎上を知る男の声。
見られることに壊れかけた男の声。
カイは何も言えない。
「俺は、折れた」
ガルムが言った。
食堂の空気が止まる。
ガルムは続ける。
「見られていたのに、誰も聞いていなかった。俺の失敗だけが広がった。俺が何を考えていたか、何を守ろうとしていたか、誰も聞かなかった」
アルトはガルムを見る。
彼がここまで言うのは、初めてだった。
「それで、俺も聞かなくなった。自分の声も、周りの声も」
ガルムはカイを見る。
「お前は、まだ飯を食える。仲間に謝れる。なら、今決めるな」
カイの目から涙が落ちた。
「……はい」
リリも泣いていた。
ボロスは黙って拳を握っていた。
ミナが小さく言う。
「聞かれないのは、怖いです」
全員がミナを見る。
彼女は少し緊張しながらも続けた。
「見られることも怖いです。でも、声を出しても届かないのは、もっと怖いと思います」
リリが、ミナの手を握り返した。
「横穴で、声が出なかったんです。出してるつもりなのに、喉が動かなくて」
小さな声だった。
「誰も聞いてくれないと思いました」
ミアがぼそりと言う。
「聞こえたよ」
リリがミアを見る。
ミアはそっぽを向いた。
「あたしが聞いた」
リリの目がまた潤む。
「ありがとうございます」
「礼はいい。耳が良かっただけ」
アルトは言った。
「耳だけじゃないだろ」
ミアがこちらを見る。
「何?」
「耳が聞いて、お前が止まった。だから見つかった」
ミアは一瞬、言葉に詰まった。
「……そういうの、いちいち言わなくていい」
「言わないと分からないこともある」
少しだけ沈黙。
ミアは干し果物を一つ口に入れた。
「……まあ、斥候だからね」
尻尾の先が、小さく揺れていた。
◇
昼過ぎ。
神界切り抜きランキングの速報が出た。
【神界切り抜き急上昇】
第1位
《剣聖レオン、第三層入口を一閃》
第2位
《奈落新人、聞こえた声を後回しにしない》
第3位
《斥候ミア、横穴の声を拾う》
第4位
《ミナ、声にならない痛みに気づく》
第5位
《救助飯――マルタ弁当、泣ける》
アルトは通知を見た。
「また飯が入ってる」
マルタが胸を張る。
「当然だね」
「当然なのか」
ミアはランキングの第3位を見ていた。
《斥候ミア、横穴の声を拾う》
しばらく黙っている。
アルトは横目で見る。
「どうした」
「別に」
「顔じゃないぞ」
「分かってる」
「斥候だぞ」
「分かってるって」
ミアはそっぽを向いた。
だが、耳は赤い。
コメント欄が流れる。
『ミア斥候として有能』
『顔だけじゃなかった』
『耳すごい』
『財布より救助』
『横穴の声を拾ったのすごい』
ミアが眉をひそめる。
「財布より救助って何」
「褒めてるんじゃないか?」
「比較対象が嫌」
「それは分かる」
ミナは第4位を見て、少し戸惑っていた。
《ミナ、声にならない痛みに気づく》
『ミナちゃんの判断よかった』
『痛みの気配ってすごい』
『回復だけじゃない』
『リリ助かったのミナのおかげでもある』
ミナは頬を赤くし、視線を落とす。
「私、そんなに大したことは」
リリが隣から言った。
「大したことでした」
ミナが驚いてリリを見る。
「リリさん……」
「手を握ってくれて、声をかけてくれて、痛くなくしてくれて。大したことでした」
ミナは何も言えなくなった。
ただ、小さく頷いた。
ガルムは第1位を見ていた。
《剣聖レオン、第三層入口を一閃》
圧倒的な再生数。
他とは桁が違う。
やはりレオンは強い。
見られる。
切り抜かれる。
そして、その映像は美しい。
ミアが言う。
「やっぱり一位はすごいね」
アルトも頷く。
「あれは伸びるわ」
ガルムは静かに言った。
「分かりやすい強さは、見られやすい」
「俺たちの寄り道より?」
「寄り道は、見ようとしないと見えない」
その言葉が、妙に残った。
レオンの一閃は誰でも見える。
ミアの耳は、気づかなければ見えない。
ミナの痛みへの反応も、説明されなければ分からない。
アルトの寄り道も、派手ではない。
でも、それでリリは助かった。
見えやすいもの。
聞こうとしなければ届かないもの。
その差が、第二部に入ってからずっと目の前にある気がした。
カイがランキングを見て、ぽつりと言った。
「俺たちも、切り抜かれてますね」
そこには小さな関連動画が並んでいた。
《低ランク小隊、無謀な第三層挑戦》
《誰にも見られない怖さ――カイの告白》
《救助された三人、赤猫亭へ》
カイの顔が青くなる。
「これ……また馬鹿にされますよね」
ボロスが唇を噛む。
リリも俯く。
コメント欄にも、少し嫌なものが混ざり始める。
『自業自得』
『低ランクが調子乗った』
『助かってよかったけど反省しろ』
『売名成功じゃん』
『またやりそう』
カイの手が震える。
その時、アルトが言った。
「見るなら最後まで見ろ」
コメント欄が止まる。
「無茶したところだけ見るな。助かった後に飯食って、泣いて、反省してるところまで見ろ」
カイがアルトを見る。
アルトは続ける。
「切り抜くなら、そこも切れ」
少しの沈黙。
それからコメントが流れる。
『たしかに』
『反省してるところも見た』
『飯食ってた』
『ちゃんと謝ってた』
『次どうするか見たい』
カイは何も言えなかった。
ガルムが静かに言う。
「切り取られるのは止められない。だが、続きは作れる」
「続き……」
カイが呟く。
「ああ」
ガルムは言った。
「切り抜き一つで終わるな」
その言葉は、カイだけでなく、ガルム自身にも向いているようだった。
◇
夕方近く。
レオンから短いメッセージが届いた。
【剣聖レオン】
《救助報告は完了した》
《三名の処置も確認済み》
《今日の君たちの判断は、記録に残す価値がある》
アルトは眉をひそめる。
「また堅いな」
続きがある。
《ただし、次に同じ状況があれば、私はまた最短路を選ぶ》
食堂の空気が、少しだけ止まった。
アルトは金色の文字を見つめる。
《それが、より多くを救うための私の答えだ》
さらに続く。
《だからこそ、君の寄り道が必要になる時もあるのだろう》
アルトはしばらく黙っていた。
レオンは学んだ。
見落としを認めた。
それでも、最短路を選ぶ。
変わらない核がある。
それは正しい。
そして、怖い。
アルトは小さく息を吐いた。
「やっぱり面倒くさいな、あいつ」
ガルムが言う。
「だが、正直だ」
「ああ」
「正直な正しさほど、厄介なものはない」
マルタが鍋をかき混ぜながら言った。
「曲がれない道は、いつか誰かを落とすよ」
ガルドが工具を拭きながら短く言う。
「曲がる場所を作ればいい」
「作れるか?」
アルトが聞く。
ガルドは顔を上げない。
「作るしかない」
その答えは、職人らしかった。
ルナの銀色コメントが流れる。
『アルト』
「何だ」
『今日、声を拾えて、よかったです』
アルトは少しだけ目を伏せる。
「聞いたのはミアとミナだ」
『それでも、後回しにしなかったのはあなたです』
「……そうか」
『はい』
少し間があった。
『見えていたのに、届いていなかったんですね』
アルトは何も言えなかった。
その言葉は、今日の全てを静かにまとめていた。
カイ。
リリ。
ボロス。
ガルム。
ミア。
ミナ。
そして、もしかするとナギも。
見えていた。
でも、届いていなかった。
アルトは木板を見る。
【票ではなく、現場を見る】
【帰るためではなく、選ぶために進む】
その下に、新しい言葉を書き足したくなった。
でも、まだ書かなかった。
言葉にすると軽くなりそうだった。
ただ、胸に置いておく。
見るだけでは足りない。
届かなければ、意味がないものがある。
◇
夜。
カイたちは奥の部屋で休むことになった。
リリは眠り、ボロスも壁にもたれて目を閉じている。
カイだけが、まだ眠れずにいた。
アルトが水を持っていくと、カイは寝台の上で起き上がった。
「すみません」
「寝ろ」
「寝ようとはしてます」
「なら目を閉じろ」
「考えてしまって」
アルトは水を置いた。
「配信を続けるか?」
カイは驚いた顔をした。
「……分かりません」
「だろうな」
「でも、もし続けるなら」
カイは少しだけ言葉を探した。
「今度は、危ないところに行くためじゃなくて……ちゃんと、何かを残すためにしたいです」
「何かって何だ」
「まだ分かりません」
カイは小さく笑った。
「でも、分からないまま危ないところに行くのは、もうやめます」
「それでいい」
「奈落新人さん」
「芋じゃない方で覚えろ」
「はい」
カイは少し笑い、それから言った。
「俺、今日、助けてもらった時……初めて、ちゃんと聞いてもらえた気がしました」
アルトは黙った。
「見られるより、そっちの方が、嬉しかったです」
その言葉は、静かに落ちた。
アルトはしばらく何も言えなかった。
そして、ただ言った。
「寝ろ」
「はい」
「明日、マルタの説教がある」
カイの顔が引きつる。
「本当にあるんですか?」
「たぶん、神より怖い」
「……寝ます」
「それがいい」
アルトは部屋を出た。
廊下は静かだった。
赤猫亭の夜。
遠くで鍋の片付けの音がする。
外ではまだ、少しだけ野次馬が残っている。
神々も、まだ見ている。
だが、今は少しだけ静かだった。
視界の端に、銀色のコメントが流れる。
『アルト』
「何だ」
『聞いています』
アルトは足を止めた。
「何を」
『あなたの声も』
しばらく、何も言えなかった。
照れくさい。
腹立たしい。
でも、悪くない。
「……そうかよ」
『はい』
「じゃあ、聞き逃すな」
『努力します』
「努力じゃなくて守れ」
銀色の文字が、少しだけ揺れた。
『守ります』
アルトは小さく笑った。
その時、厨房からマルタの声が飛んだ。
「アルト! 皿を運びな!」
「なんで俺が!」
「人間の修行だよ!」
「またそれか!」
コメント欄が少しだけ流れる。
『修行継続』
『皿運び新人』
『聞く前に働け』
『赤猫亭の日常』
アルトはため息をつき、厨房へ向かった。
見られている。
聞かれている。
働かされている。
どれも面倒だ。
でも、今夜の赤猫亭は温かかった。
それだけは、確かだった。




