第30話 ルナだけが笑った
赤猫亭に戻る道で、誰もあまり喋らなかった。
旧配信者宿舎の前で見上げた昼の月。
ナギ・シグレの手帳。
帰還門の向こうで聞こえたという声。
【おかえりなさい】
けれど、それは帰る者に向けた声ではなかった。
その一文が、アルトの頭から離れない。
おかえりなさい。
帰る者を迎える言葉。
では、ナギは何に迎えられたのか。
誰が、何を、どこへ迎え入れたのか。
答えはない。
ただ、あの冷たい響きだけが残っている。
『40位おめでとう』
『一気に上がったな』
『帰還が見えてきた』
『ナギの記録、すごかった』
『次はもっと深掘りしよう』
コメント欄は騒がしかった。
視界の端に浮かぶ数字も、いつもより大きい。
【現在視聴中:5,102柱】
異常な数だった。
昨日、旧宿舎の片付けをしていた時とは違う。
水路を直していた時とも違う。
神々は集まっている。
ナギの過去。
ルナの後悔。
帰還の不穏。
誰かの傷が開いた瞬間に、数字が跳ねた。
アルトは笑えなかった。
「……気分悪いな」
隣でミアが小さく頷いた。
「分かる」
ミナは杖を握ったまま、黙って歩いている。
ガルムも無言だった。
ガルドは工具箱を背負い、いつも通りの顔をしているようで、少しだけ目が険しかった。
旧宿舎の管理人は、ナギの手帳をヘルメスの保管庫ではなく、いったん赤猫亭へ預けることに同意した。
理由は簡単だった。
ヘルメスに戻せば、また封鎖されるかもしれない。
それは管理人自身も感じていた。
ナギの手帳は、ガルドが作った簡易の保護箱に入れられている。
古い紙に触れないように。
記録を壊さないように。
そして、誰かが勝手に持ち去れないように。
アルトはその箱を抱えていた。
重くはない。
だが、やけに重く感じた。
『ランキング40位だぞ』
『もっと喜べよ』
『帰還に近づいたんだぞ』
『記念配信しよう』
「うるせぇ」
アルトは空を睨まなかった。
睨む気力もなかった。
「誰かの後悔で上がった順位を、どう喜べってんだよ」
コメント欄が少し止まる。
その中に、黒い文字はなかった。
オルフェウスは出てこない。
それが余計に腹立たしかった。
◇
赤猫亭の扉を開けると、いつもの匂いがした。
焼いた肉。
煮込んだ豆。
芋。
湯気。
木の床。
人の声。
少し前なら、それだけで騒がしいと思ったはずだ。
だが今は、その匂いに救われた。
マルタが厨房から顔を出す。
「戻ったね」
「ああ」
「顔がひどい」
「元からだ」
「そういう返しができるなら、まだ大丈夫だね」
マルタはそう言って、鍋をかき混ぜた。
「座りな。飯にするよ」
アルトは保護箱を抱えたまま立っていた。
「先に、これを――」
「飯が先」
「でも」
「飯が先」
逆らう余地はなかった。
アルトは黙って奥の席に座った。
ミナが隣に座る。
ガルムは少し離れた席に腰を下ろす。
ミアは椅子の上で膝を抱えたが、今日は干し果物を食べなかった。
ガルドは工具箱を置き、壁にもたれた。
マルタは全員の前に皿を並べる。
肉と豆の煮込み。
焼きたてのパン。
温かいスープ。
芋。
いつもの飯だった。
それだけで、少しだけ息ができた。
「食べな」
マルタが言う。
誰もすぐには手をつけなかった。
マルタは眉を上げる。
「食べな」
二度目は、命令だった。
アルトはパンをちぎる。
口に入れる。
うまい。
嫌になるくらい、うまい。
ナギの手帳を読んでも。
帰還が怪しくなっても。
ランキングが上がっても。
飯はうまい。
それが少しだけ、腹立たしくて、ありがたかった。
ミナがスープを一口飲んだ。
小さく息を吐く。
「……温かいです」
「当たり前だよ。冷めたもの出すわけないだろ」
マルタはぶっきらぼうに言った。
ミナは少しだけ笑った。
その笑顔を見て、アルトも少しだけ肩の力が抜ける。
ガルムが黙って食べる。
ミアは芋をつつきながら、ぽつりと言った。
「こういう時でも、お腹は減るんだね」
「減るよ」
マルタが答える。
「泣いても、怒っても、怖くても、腹は減る。だから飯屋があるんだよ」
ミアは何も言わなかった。
ただ、芋を口に入れた。
『飯回』
『でも空気重い』
『マルタ女将、強い』
『こういう日常いいな』
アルトはそのコメントを見て、少しだけ思う。
いいな、ではない。
これは、誰かが作っている日常だ。
マルタが飯を作る。
ガルドが道具を直す。
東区の水路が流れる。
誰かが薬湯を沸かす。
誰かが洗濯をする。
そうやって日常は続いている。
神々が見ていなくても。
ランキングが上がらなくても。
観測されなくても。
続いている。
「……ナギにも、こういう場所があったのかな」
アルトが呟くと、食卓が静かになった。
ミナが目を伏せる。
ガルムが手を止める。
ミアの耳が少し伏せる。
ガルドは何も言わない。
マルタだけが、鍋の蓋を閉めた。
「なかったとは限らない」
短い言葉だった。
アルトはマルタを見る。
「知ってるのか?」
「知らないよ」
「じゃあ」
「知らないから、なかったとは言わない」
マルタは布巾で手を拭く。
「人ひとりの人生を、最後の記録だけで決めるもんじゃないよ」
アルトは息を止めた。
ナギ・シグレ。
帰還権を得た配信者。
ルナがかつて見ていた人。
観測終了した者。
それだけではない。
彼も飯を食べただろう。
眠っただろう。
誰かと話しただろう。
笑ったかもしれない。
怖がったかもしれない。
ルナを気遣った。
月を見た。
そして、帰る前に言葉を残した。
その全部が、ナギだった。
アルトは保護箱を見る。
「……そうだな」
小さく答えた。
◇
食後。
赤猫亭の奥の席に、保護箱が置かれた。
神々のコメントはまだ多い。
だが、アルトはあえて箱を開けなかった。
『手帳、もう一回見よう』
『新しいページない?』
『帰還門の声を調べよう』
『残響読取、使えないの?』
『ナギの続き読みたい』
アルトは黙って聞いていた。
そして、言った。
「今日は開けない」
コメント欄がざわつく。
『え?』
『なんで?』
『今が一番同接あるのに』
『情報出せばもっと伸びるぞ』
『40位からさらに上がれるかも』
アルトは保護箱に手を置いた。
「記録を見世物にするために持って帰ったんじゃない」
コメント欄が止まる。
「今日は、手帳を乾かす。壊れないように保管する。読めるところと読めないところを分ける。必要なら紙職人を探す」
『地味』
『保管作業?』
『今それやる?』
『もっと核心行こうよ』
「核心だよ」
アルトは低く言った。
「壊さないことも、残すことも、核心だ」
ガルドが小さく頷いた。
「正しい」
ミナも頷く。
「無理に読めば、手帳が壊れるかもしれません」
ガルムが続ける。
「それに、アルトの《残響読取》も危険だ。今日また使うべきじゃない」
ミアが保護箱を見た。
「盗る気もしないしね」
「それは役に立つ意見なのか?」
「立つでしょ。私が盗る気にならないものは、だいたい大事」
「基準が独特すぎる」
少しだけ笑いが起きた。
しかし、神界コメントは不満げだった。
『同接落ちるぞ』
『ここで保管作業はもったいない』
『ランキング上げる気ある?』
『帰還したいんじゃないのか?』
その最後のコメントに、アルトは目を細めた。
帰還したいんじゃないのか。
少し前なら、即答できた。
帰りたい。
こんな世界は嫌だ。
神々に見られるのも嫌だ。
死にかけるのも嫌だ。
だから帰る。
でも今は、少し違う。
帰還が何か分からない。
戻ることなのか。
消えることなのか。
観測の外に出ることなのか。
そして、自分が本当に帰りたいのかも、もう簡単には言えない。
アルトはゆっくり言った。
「帰るかどうかを決めるために、調べてる」
『帰るためじゃないの?』
「違う」
食堂が静かになる。
アルトは自分でも、その言葉の重さに気づいた。
「帰るためじゃない。帰るかどうかを、自分で決めるためだ」
ミナがアルトを見る。
ガルムが目を細める。
ミアが尻尾を止める。
ガルドが工具を拭く手を止める。
マルタが、少しだけ笑ったように見えた。
「だから、今は手帳を壊さない。ナギの記録を見世物にしない。ランキングが上がるからって、無理に読まない」
アルトは空を見た。
「それが今日の選択だ」
沈黙。
長い沈黙。
それから、視界の端で数字が動いた。
【現在視聴中:5,102柱 → 4,621柱】
減った。
目に見えて。
さらに減る。
【4,211柱】
【3,884柱】
コメント欄がざわめく。
『落ちてる』
『まあ保管作業じゃな』
『解散』
『また進展あったら来る』
『でも俺は見る』
アルトは数字を見た。
胸が痛まないわけではない。
ランキングも、帰還も、まだ頭にある。
でも、手は保護箱から離さなかった。
ガルドが言う。
「数字を見るな」
「見えた」
「なら、見えたまま手を止めるな」
「お前、それ好きだな」
「正しいからな」
アルトは少し笑った。
その時、神界ランキング通知が浮かんだ。
【神界ランキング速報】
《アルト》
《40位 → 41位》
食堂の空気が止まった。
ミナが息を呑む。
ミアが小さく舌打ちする。
ガルムが目を伏せる。
ガルドは無言だった。
コメント欄が揺れる。
『落ちた』
『え、もう?』
『やっぱ地味行動は弱いな』
『40位維持できなかったか』
『もったいない』
アルトは表示を見た。
40位から41位。
帰還から、少し遠ざかった。
たった一つ。
でも、確かに遠ざかった。
不思議と、崩れるほどの痛みはなかった。
ただ、腹の奥が静かになった。
アルトは言った。
「落ちたな」
ミナが心配そうに見る。
「アルトさん……」
「大丈夫だ」
「本当に?」
「大丈夫ではないけど、大丈夫だ」
ミアが少し笑った。
「どっち?」
「両方」
アルトは保護箱を見た。
「でも、手帳は壊れてない」
ガルドが頷く。
「その方が大事だ」
ガルムが低く言う。
「順位は戻せる。失われた記録は戻らない」
ミナも頷く。
「はい」
ミアがぼそりと言う。
「盗った金は返せるけど、壊した信用は戻らないしね」
アルトはミアを見る。
「急にまともなこと言うな」
「自分で言って傷ついた」
「だろうな」
少しだけ、笑いが戻った。
その時だった。
銀色のコメントが流れた。
『私は』
ルナだった。
コメント欄が静かになる。
『今のあなたの方が好き』
時間が止まった。
アルトは空を見上げる。
ミナが口元を押さえた。
ミアが目を丸くした。
ガルムが少し眉を上げる。
ガルドは小さく鼻を鳴らした。
マルタはにやりと笑った。
コメント欄が爆発しかける。
『え』
『ルナ様!?』
『告白?』
『今の聞いた?』
『好きって言ったぞ』
しかし、銀色の文字が続いた。
『ランキングを上げるために進むあなたより』
『誰かの記録を壊さないために止まるあなたの方が』
『私は、好き』
アルトは何も言えなかった。
顔が熱い。
腹が立つ。
何に腹が立つのか分からない。
「……そういう言い方をするな」
『どういう言い方?』
「分かってて聞くな」
銀色の文字が少しだけ揺れた。
笑っているようだった。
『違います』
「何がだよ」
『今のは、そういう意味だけではありません』
「だけでは、って言ったな」
『違います!!』
食堂に、久しぶりに笑いが起きた。
重かった空気が、ほんの少しだけほどける。
ミナが笑い、ミアがにやにやし、ガルムが呆れ、ガルドが目を逸らし、マルタが腹を抱えて笑った。
アルトは顔を手で覆った。
「最悪だ……」
『最高』
『ルナ様かわいい』
『違います!!出た』
『でも今の、いいな』
同接は、また少しだけ戻った。
けれど、ランキングは戻らなかった。
それでいい。
少なくとも今は、そう思えた。
◇
夕方。
ナギの手帳は、赤猫亭の一番奥、マルタの倉庫に置かれることになった。
ただし、鍵は三重。
ひとつはマルタ。
ひとつはガルド。
ひとつはアルト。
ミアが不満そうに言った。
「私には?」
「渡すわけないだろ」
「信用ないなぁ」
「鍵に関してはない」
「正直すぎる」
ガルドが保護箱の周囲に簡単な封を施す。
「これで湿気はある程度防げる。次に開ける時は、紙職人を呼べ」
「紙職人なんているのか?」
「いる。地味だから配信者は知らん」
「また地味か」
「必要な仕事はだいたい地味だ」
アルトは頷いた。
その言葉は、もう少し分かるようになっていた。
ガルムは倉庫の入口で立っている。
「次はどうする」
「ナギの記録を調べる。帰還門についても調べる。ヘルメスにも行く」
「ランキングは?」
「上げる」
アルトは即答した。
ミナが少し驚く。
「上げるんですか?」
「上げる」
アルトは保護箱を見た。
「上に行かないと、見えない情報がある。帰還権に近づかないと、分からないものがある」
ガルムが頷く。
「だが、上げるために何でもするわけではない」
「ああ」
アルトは木板を持ってきた。
そこには、以前書いた方針が残っている。
【票ではなく、現場を見る】
アルトはその下に、新しい一行を書き足した。
【帰るためではなく、選ぶために進む】
ミナがその文字を見つめる。
ミアが小さく言う。
「真面目」
「悪いか」
「悪くない」
ガルムが頷く。
「悪くないな」
ガルドは短く言う。
「当たり前だ」
マルタは厨房から顔を出した。
「なら、明日も飯がいるね」
アルトは笑った。
「ああ。たぶんいる」
「たぶんじゃない。いるんだよ」
「はい」
なぜか素直に返事をしてしまった。
マルタは満足げに頷く。
その時、黒いコメントが流れた。
【第一の選択は終わりました】
オルフェウス。
食堂の空気が少し冷える。
アルトは空を見上げた。
「勝手に区切るな」
【区切りは必要です】
【物語にも、観測にも】
「俺はお前の物語じゃない」
【だからこそ、観測しています】
「話が通じねぇな」
【次は、人気の階段です】
黒い文字が続く。
【第40位付近から上は、見られる者の世界】
【同じ配信者たちが、あなたを見ます】
【神々だけではなく、人も、敵も、味方も】
ガルムの表情が変わる。
ミアの耳が立つ。
ミナが杖を握る。
オルフェウスの文字は、最後にこう告げた。
【見られる覚悟を】
黒い文字は消えた。
沈黙。
やがて、アルトは鼻で笑った。
「覚悟ねぇ」
マルタが言う。
「あるのかい」
「ない」
「だろうね」
「でも、逃げる気もない」
アルトは木板を見る。
票ではなく、現場を見る。
帰るためではなく、選ぶために進む。
それが今の答えだった。
◇
夜。
赤猫亭の外に出ると、空には月が出ていた。
昨日よりも、少しだけはっきりしている。
アルトは壁にもたれ、夜風を浴びた。
店の中からは、ミアとマルタの言い合いが聞こえる。
ガルムが皿を落としかけた音。
ミナの小さな笑い声。
ガルドが「道具に触るな」と怒る声。
騒がしい。
面倒だ。
でも、悪くない。
アルトは月を見上げる。
「ルナ」
銀色のコメントが、静かに流れた。
『はい』
「ナギのことは、まだ終わってない」
『うん』
「帰還のことも、終わってない」
『うん』
「俺が帰るかどうかも、まだ決めない」
『うん』
「でも、ひとつ決めた」
『なに?』
アルトは少し黙った。
夜の空気を吸う。
赤猫亭の匂い。
飯の匂い。
人の声。
遠くの市場のざわめき。
水路を流れる水の音が、かすかに聞こえた気がした。
「帰るために進むんじゃない」
アルトは言った。
「帰るかどうかを、自分で決めるために進む」
銀色の文字は、すぐには流れなかった。
やがて。
『うん』
短い返事。
だが、優しかった。
アルトは月を見る。
「それまで、ちゃんと見てろ」
『見てる』
「見送るためじゃなくて」
少しだけ、月の光が揺れた気がした。
『うん』
銀色の文字が、静かに続く。
『今度は、見送るためじゃない』
アルトは目を閉じた。
胸の奥に、ナギの言葉が残っている。
【帰る前に、月を見ろ】
彼が見た月は、どんな月だったのだろう。
彼が聞いた「おかえりなさい」は、どこへ繋がっていたのだろう。
今はまだ分からない。
だが、いつか見る。
自分の目で。
神々の票ではなく。
ランキングの数字でもなく。
現場を見る。
人を見る。
記録を見る。
そして、自分で選ぶ。
赤猫亭の扉が開いた。
ミアが顔を出す。
「アルト、マルタが呼んでる」
「何で」
「芋の皮むき」
「なんで俺が!」
「修行だって」
「何の!?」
店内からマルタの声が飛ぶ。
「人間の修行だよ!」
『芋再び』
『第一部、芋で締まるのか』
『奈落新人VS芋、再戦』
「締めるな!」
アルトは叫びながら店に戻る。
ミアが笑う。
ミナも笑っている。
ガルムは皿を持ったまま肩を震わせている。
ガルドは呆れた顔で工具を拭いている。
マルタは芋の山を指差している。
そして、ルナの銀色のコメントが流れた。
『今日は、薄く剥いてください』
「うるせぇ!」
笑い声が赤猫亭に広がった。
ランキングは落ちた。
帰還の謎は深まった。
ナギの行方は分からない。
観測神はまだ見ている。
遊戯神も、他の神々も、これからさらに干渉してくるだろう。
それでも。
今夜、アルトはここにいた。
赤猫亭の灯りの下。
面倒な仲間たちと。
見送るだけではない女神に見られながら。
芋を前にして、心底嫌そうな顔をしていた。
悪くない。
そう思った。
今度は、ちゃんと口に出した。
「……悪くないな」
直後、コメント欄が一斉に流れる。
『言った』
『第一部完』
『悪くない、いただきました』
『芋エンド』
「だから勝手に締めるな!」
アルトの声に、赤猫亭がまた笑った。
月は、静かにその灯りを見ていた。
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