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第29話 封鎖部屋の月

 翌朝。


 赤猫亭の食堂には、誰も軽口を叩かなかった。


 いや。


 軽口を叩こうとした者はいた。


「ねえ、今日は報酬――」


「後で」


 ミアの言葉を、アルトが即座に遮った。


「まだ最後まで言ってない」


「金の話だろ」


「正解」


「じゃあ後でいい」


「ひどい」


 それでも、いつものようには笑えなかった。


 テーブルの上には、布で包まれた古い宿泊台帳が置かれている。


 乾かしても、文字の滲みは完全には戻らなかった。


 それでも、一つだけ読めた名前。


【ナギ……】


 帰還者記録に一瞬だけ残った名前の欠片。


【……ギ】


 その正体に、限りなく近いもの。


 そして、昨日見つけた言葉。


【帰る前に、月を見ろ】


 アルトは黙って茶を飲んでいた。


 味は分からない。


 ミナは杖を両手で握り、少し緊張した顔をしている。


 ガルムは壁にもたれ、目を閉じていた。


 ミアは椅子の上で膝を抱え、尻尾を落ち着きなく揺らしている。


 ガルドは工具箱の中身を確認していた。


 マルタだけが、いつも通りだった。


 鍋を混ぜ、皿を置き、全員の顔を順に見て、ふんと鼻を鳴らす。


「食べな」


「今はちょっと」


 アルトが言うと、マルタの目が細くなった。


「今だから食べるんだよ」


「でも」


「封鎖部屋だか帰還だか知らないけどね。腹が空いたまま過去を開けると、ろくなものを持って帰らないよ」


 アルトは口を閉じた。


 マルタの言葉は、妙に重かった。


 知っているのか。


 あるいは、経験だけで言っているのか。


 聞こうとしたが、やめた。


 たぶん、今は違う。


『おはよう』

『今日、封鎖部屋か』

『ナギの部屋』

『ルナ様、話すって言ってたよな』

『同接すでに高い』


 視界の端に数字が出ている。


【現在視聴中:1,284柱】


 朝の赤猫亭としては異常な数だった。


 昨日、旧宿舎の片付け中には五百を切っていた。


 それが、封鎖部屋を開けるとなった瞬間、これだ。


 アルトは苦笑する。


「ほんと、分かりやすいな」


 ガルムが目を開ける。


「見る側は、秘密と破滅が好きだ」


「嫌な言い方だな」


「事実だ」


 ミアが小さく言う。


「危ない部屋なら、なおさらね」


 ミナは不安そうにアルトを見る。


「無理はしないでください。昨日の《残響読取》も、まだ完全には分かっていません」


「ああ」


 アルトは頷く。


 その時、銀色のコメントが流れた。


『無理はしないで』


 ルナだった。


 短い。


 けれど、昨日よりも近く感じた。


 アルトは空を見る。


「封鎖部屋の前で話すんだよな」


 少しだけ間があった。


『うん』


「逃げるなよ」


『逃げない』


 コメント欄が静かになる。


 ルナの一言に、神々も何かを察したらしい。


 アルトは皿のパンを掴む。


 無理やり口に入れた。


 味は、少しだけ分かった。


 マルタの飯は、やはりうまかった。


 ◇


 旧配信者宿舎・第三棟。


 昨日よりも、建物の前には多くの視線があった。


 地上の野次馬ではない。


 神々の視線だ。


 空気そのものがざわついている。


 宿舎の周囲に、何か透明なものが幾重にも重なっているような感覚があった。


『来た』

『封鎖部屋』

『三階奥』

『ナギって誰なんだ』

『ルナ様の反応が怖い』


【現在視聴中:1,903柱】


 さらに増えている。


 アルトは見ないようにした。


 それでも数字は目に入る。


 嫌なものだ。


 旧宿舎の管理人は入口で待っていた。


 昨日よりも顔色が悪い。


「本当に、開けるんですね」


「そのつもりだ」


「中に何があるか、私にも分かりません。管理記録にも、封鎖、とだけ」


「封鎖したのは誰だ」


 管理人は答えない。


 答えられないのだろう。


 ガルドが工具箱を下ろした。


「鍵と封印を見てからだ」


 ミアは建物を見上げ、耳を動かす。


「昨日より嫌な感じする」


「罠か?」


「罠っていうより……見られてる感じ」


「それはいつもだろ」


「違う。今日は、建物の中からも見られてる」


 ミナが小さく息を呑む。


 ガルムの表情が険しくなる。


「残響かもしれない」


「過去の視線ってことか」


「そうだ」


 アルトは宿舎の扉に手をかけた。


 古い木が軋む。


 中に入る。


 昨日片付けた一階は、少しだけ空気が変わっていた。


 散乱していた家具が減り、床が見えている。


 雨漏りも応急処置されている。


 ただの廃墟ではなく、誰かが手を入れた場所になっていた。


 それでも。


 三階へ続く階段だけは、暗かった。


『三階だ』

『行くぞ』

『怖い』

『ルナ様、無言』


 アルトは階段の前で立ち止まった。


「ルナ」


 返事はない。


「ここで話すって言ったよな」


 長い沈黙。


 やがて、銀色のコメントが流れる。


『三階の前で』


「ギリギリまで引っ張るな」


『ごめん』


「謝るな」


 アルトは階段を上がり始めた。


 古い木の段が鳴る。


 一段。


 また一段。


 三階へ近づくほど、空気が重くなる。


 視界の端に、通知が滲む。


【観測残滓濃度:上昇】


【《残響読取》微弱反応】


【警告:精神負荷に注意】


「また出た」


 ミナが不安そうに言う。


「触れないようにしてください」


「分かってる」


 ガルドが言う。


「古い場所は、壁も床も触るな。読む前に呑まれる」


「怖いこと言うな」


「怖いから言っている」


 三階の廊下は、ほとんど光が入らなかった。


 窓は板で塞がれている。


 埃が積もり、空気は重い。


 奥に、一つだけ扉があった。


 黒ずんだ木扉。


 他の部屋とは違い、扉の周囲に銀色の封印線が残っている。


 そして、中央に古い札。


【封鎖】


 ただ、それだけ。


 アルトは扉の前で止まった。


 誰も喋らない。


 コメント欄さえ、止まりかけていた。


【現在視聴中:2,417柱】


 その数字だけが、無情に増えていた。


「着いたぞ」


 アルトは空へ言った。


「話せ、ルナ」


 銀色のコメントは、すぐには流れなかった。


 長い沈黙。


 長すぎる沈黙。


 やがて。


『その部屋にいた人を、私は知ってる』


 コメント欄が揺れた。


『やっぱり』

『ルナ様が?』

『ナギのこと?』


 アルトは黙って続きを待つ。


 ルナの文字は、少しずつ流れた。


『名前は、ナギ』


 アルトの胸が冷える。


 確定した。


【……ギ】


 ナギ。


 帰還者記録の欠片。


 旧宿舎の名簿。


 封鎖部屋の住人。


 ルナが知っている人間。


「どういう関係だ」


 アルトは聞いた。


 少し間がある。


『昔、私が見ていた人』


 それだけだった。


 だが、その言葉は重かった。


 ミナが小さくルナの名を呟く。


「ルナ様……」


 ガルムの表情が険しくなる。


「推していた、という意味か」


 ルナは少しだけ沈黙した。


『今の言葉で言えば、そう』


 コメント欄がざわつく。


『ルナ様の昔の推し?』

『ナギって何者』

『帰還権取ったのか?』

『どうなった?』


 アルトは低く言う。


「神々、黙れ」


 コメント欄が少し止まる。


 ルナは続けた。


『ナギは、帰還を望んでいた』


 銀色の文字は、いつもより細く見えた。


『百位以内に入った』

『帰還権を得た』

『神々は祝福した』

『私も、祝福した』


「それで?」


 アルトの声は自分でも冷たく聞こえた。


 ルナは、なかなか答えなかった。


『その後の記録は、閉じられた』


「観測終了か」


 銀色の文字が止まる。


 そして。


『うん』


 ミナが口元を押さえる。


 ミアの尻尾が止まる。


 ガルムが低く息を吐いた。


 アルトは扉を見る。


「帰ったのか」


 長い沈黙。


『分からない』


「分からない?」


『見送った後、見えなくなった』


 アルトの目が細くなる。


『帰還したのだと、言われた』

『観測は終了したのだと、言われた』

『そういうものだと、私は思った』


「思った?」


『信じたかった』


 その言葉で、空気が変わった。


 ルナは、知っていたわけではない。


 知らなかった。


 いや。


 知ろうとしなかったのかもしれない。


 アルトは拳を握る。


「だから、俺の時は止めようとしてたのか」


『……うん』


「帰還について聞いた時、黙ったのも?」


『うん』


「観測終了って言葉を聞いて、黙ったのも?」


『うん』


 ルナの返事は短かった。


 短いからこそ、痛かった。


 アルトはしばらく何も言えなかった。


 責めたい気持ちがある。


 なぜ言わなかった。


 もっと早く言え。


 そう思う。


 だが、同時に分かってしまう。


 彼女も、怖かったのだ。


 見送った者がどうなったのかを、確かめるのが。


 同じことを繰り返すかもしれないことが。


「……そのナギは、この部屋に何か残したのか」


『たぶん』


「たぶんかよ」


『私は、この部屋を見られなかった』


「なんで」


『封鎖されたから』


「誰に」


 その瞬間。


 黒いコメントが流れた。


【私です】


 オルフェウス。


 食堂ではない。


 神界でもない。


 この廊下の空気そのものに、黒い文字が刻まれたようだった。


 アルトは扉から視線を外さずに言う。


「出たな」


【ええ】


「なぜ封鎖した」


【観測終了後の記録は、閉じられるべきだからです】


「誰が決めた」


【世界が】


「便利な言葉だな」


【正確な言葉です】


 ガルムが低く言う。


「観測終了後の記録を見られると、何かまずいのか」


【記録は意味を持ちます】

【意味は選択を変えます】

【選択が変われば、観測も変わります】


 ミアが顔をしかめる。


「何言ってるか分かんない」


 ガルドが工具箱を開ける。


「分かる必要はない。開けるぞ」


 管理人が慌てる。


「で、でも、観測神が」


 ガルドは扉を見る。


「扉は開くためにある。封鎖は壊すためにある。仕事だ」


「雑だな」


 アルトが言うと、ガルドは短く返す。


「正確だ」


 オルフェウスの黒い文字が淡く揺れる。


【開けますか】


「ああ」


【見たものは、戻せません】


「だろうな」


【知れば、帰還への道が変わります】


「もう変わってる」


【ナギと同じ選択をするかもしれません】


 アルトはそこで初めて空を睨んだ。


「俺はナギじゃない」


 黒い文字が止まる。


「ナギが何を選んだのかは知らない。ルナが何を見送ったのかも知らない。でも、俺は俺の目で見る」


 ミナが杖を握る。


 ガルムが短剣に手を置く。


 ミアが扉の足元を見て、封印線の切れ目を探す。


 ガルドが工具を構える。


 ルナの銀色のコメントが、そっと流れる。


『ありがとう』


「まだ礼を言うな」


 アルトは扉を見る。


「開けてからだ」


 ガルドが封印線に工具を当てた。


 ミアが鍵穴を覗く。


「古い。けど、生きてる。変な魔力が絡んでる」


 ガルドが頷く。


「封印線を少しずつ剥がす。鍵は壊すな」


「分かってる」


「アルト」


「何だ」


「扉に触るな。お前が触れると読みに行く」


「分かった」


 作業が始まった。


 かり。


 かり。


 封印線を削る音。


 ミアの細い針金が鍵穴の中で動く音。


 ガルドの低い指示。


 誰も騒がない。


 コメント欄も、ほとんど流れない。


【現在視聴中:3,102柱】


 数字だけが増えていく。


 神々は黙って見ている。


 黙って、期待している。


 誰かの過去が開かれる瞬間を。


 アルトはそれが腹立たしかった。


 だが、今は止められない。


 自分も、その扉の向こうを見ようとしている。


 見る側にいる。


 その自覚が、胸に重かった。


 やがて、ミアが小さく言う。


「開く」


 ガルドが工具を引く。


「封印も外れた。記録は壊していない」


「さすがだな」


「当然だ」


 ミアが扉の取っ手に手をかけようとして、止まった。


「アルト」


「何だ」


「開けるの、あんたでしょ」


「俺が?」


「だって、あんたが見るって決めたんだから」


 アルトは少しだけ黙った。


 それから頷く。


「分かった」


 ガルドが眉をひそめる。


「直接触るなと言った」


「布越しなら?」


「短時間ならいい」


 ミナが布を差し出す。


「使ってください」


「ありがと」


 アルトは布を手に巻き、扉に触れた。


 冷たい。


 古い木の感触。


 その奥に、何かが残っている。


 微かに、通知が揺れる。


【《残響読取》反応】


【読取率:12%】


【警告:接触時間を制限してください】


「うるせぇ」


 アルトは小さく呟く。


 そして、扉を開けた。


 ◇


 部屋の中は、思ったより綺麗だった。


 いや。


 正確には、時間が止まっていた。


 古い寝台。


 机。


 椅子。


 壁に貼られた手書きの地図。


 乾ききったインク壺。


 小さな鞄。


 窓際には、月を眺めるために置かれたような椅子。


 そして机の上に、一冊の手帳。


 埃は積もっている。


 だが、荒らされた形跡はない。


 誰かが出ていったまま、そのまま封じた部屋。


 そんな印象だった。


 ミナが小さく言う。


「ここに……いたんですね」


 ガルムは壁の地図を見る。


「迷宮の階層図だ。古いが、かなり正確だ」


 ミアは部屋の隅を見ている。


「隠し場所、多そう。けど、盗る気にならない」


「珍しいな」


 アルトが言うと、ミアは少しだけ肩をすくめた。


「なんか、盗ったら怒られそう。本人に」


 ガルドは机を見ていた。


「手帳は触るな。先に周囲を見る」


「分かった」


 アルトは部屋の中央に立つ。


 その瞬間。


 耳鳴りがした。


 視界が揺れる。


 誰かの声が、遠くから届いた。


 ――ここまで来た。


 ――百位以内。


 ――帰れる。


 アルトは歯を食いしばる。


 通知が浮かぶ。


【《残響読取》強制反応】


【読取率:21%】


【警告:精神負荷上昇】


 ミナが叫ぶ。


「アルトさん!」


「大丈夫だ」


 大丈夫ではない。


 だが、倒れるほどではない。


 声は続く。


 若い男の声。


 どこか疲れていて、けれど嬉しそうな声。


 ――ルナ様。


 ――見ていますか。


 ――俺、帰れます。


 ルナの銀色のコメントは流れない。


 部屋の空気が、震えている。


 アルトは机を見る。


 手帳。


 たぶん、そこにある。


 ナギの最後の記録。


 ガルドが低く言う。


「触るな。俺が開く」


「頼む」


 ガルドは手袋をはめ、慎重に手帳を開いた。


 紙は古い。


 だが、封鎖されていたためか、思ったより残っている。


 最初のページ。


 震えるような字。


【ナギ・シグレ】


 フルネーム。


 アルトは息を止めた。


「ナギ・シグレ」


 ガルムが呟く。


「聞いたことがない」


 ミアが首を傾げる。


「シグレ?」


 ミナが小さく言う。


「綺麗な名前ですね」


 その瞬間。


 銀色のコメントが、ひとつだけ流れた。


『……ナギ』


 初めて、ルナがその名を文字にした。


 それだけで、部屋の空気が変わった。


 アルトは手帳を見る。


 ガルドがページをめくる。


【百位以内に入った】

【帰還申請は受理された】

【神々は祝福してくれた】

【ルナ様も、笑ってくれた気がする】


 アルトの喉が鳴る。


 次のページ。


【でも、ヘルメスの職員が妙なことを言った】

【帰還後は観測できなくなる】

【だから祝福配信は最後になる、と】


 さらに次。


【帰還とは、どこへ戻ることなのか】

【俺は本当に元の世界へ戻るのか】

【それとも、観測の外へ出るだけなのか】


 アルトの背筋が冷えた。


 ナギも、気づいていた。


 帰還と観測終了の違和感に。


 次のページは少し滲んでいる。


【ルナ様に聞きたかった】

【でも、聞けなかった】

【あの人は優しいから】

【優しい神に、怖い顔をさせたくなかった】


 ルナのコメント欄は止まった。


 完全に。


 月の光が凍ったような沈黙だった。


 アルトは奥歯を噛む。


 次のページ。


【帰る前に、月を見ろ】

【そう書いておく】

【誰かがここに来るかもしれない】

【帰還を望む誰かが】

【もし迷ったなら、月を見ろ】


 最後のページ。


 文字は震えていた。


【月は、見送るだけじゃない】

【たぶん、泣いていた】


 ミナが息を呑んだ。


 ミアの耳が伏せる。


 ガルムは目を閉じた。


 アルトは、しばらく何も言えなかった。


 ルナは、何も言わなかった。


 だが、その沈黙の意味は、もう少しだけ分かる気がした。


 ナギは、帰還した。


 少なくとも、そう処理された。


 観測終了した。


 でも、その直前に疑っていた。


 帰還とは何かを。


 そして、ルナを気遣っていた。


 アルトは低く言う。


「ルナ」


 銀色のコメントは、なかなか流れなかった。


 やがて。


『知らなかった』


 それだけ。


『ナギが、こんなふうに思っていたなんて』

『知らなかった』


 アルトは何も言えない。


 責める言葉が、喉まで来て止まる。


 知らなかった。


 それは免罪符ではない。


 でも、傷ではある。


 ガルドが手帳を閉じようとした時、最後の紙片が一枚落ちた。


 ミアが素早く拾う。


「これ、裏に何かある」


 ガルドが受け取り、慎重に広げる。


 小さな紙片。


 そこには、短い文字があった。


【帰還門の向こうで、声を聞いた】


 アルトは身を乗り出す。


「声?」


 続きがある。


【“おかえりなさい”】

【でも、それは帰る者に向けた声ではなかった】


 全員が凍りついた。


 その言葉だけが、部屋の中に残った。


 おかえりなさい。


 本来なら、帰る者を迎える言葉。


 けれどナギは、そう感じなかった。


 ならば、あの声は誰を迎えたのか。


 何を、どこへ、迎え入れたのか。


 アルトの頭の中で、第17話の後の感覚が蘇る。


 ランキング42位。


 祝福。


 そして、どこか冷たく聞こえた声。


【おかえりなさい】


 あれだ。


 あの違和感と同じだ。


 アルトは紙片を見つめる。


「帰る者に向けた声じゃないなら、誰に向けた声だ」


 誰も答えない。


 ルナも。


 オルフェウスも。


 コメント欄も。


 答えない。


 だが、黒い文字が一瞬だけ流れた。


【よく届きましたね】


 アルトは顔を上げる。


「知ってたな」


【観測していました】


「何を」


【帰還の瞬間を】


「ナギは帰ったのか」


 黒い文字は、すぐには返らない。


 そして。


【観測は終了しました】


「聞いてねぇ!」


 アルトの声が部屋に響いた。


 ミナがびくりとする。


 ガルムが一歩前に出る。


 ミアが尻尾を立てる。


 ガルドが手帳を守るように持つ。


 アルトは空を睨む。


「ナギは帰ったのか、消えたのか、どっちだ」


【その問いには、まだ答えられません】


「便利だな、神様ってのは」


【不便ですよ】


「黙れ」


 黒い文字は消えた。


 部屋には、また古い空気だけが残った。


 ◇


 旧宿舎を出た時、同接はさらに増えていた。


【現在視聴中:4,870柱】


 異常な数字だった。


 コメント欄は騒然としている。


『ナギ・シグレ』

『帰還門?』

『おかえりなさいって何』

『観測終了ってやばくない?』

『ルナ様……』

『これ配信していい内容なのか?』


 アルトは何も言わなかった。


 言う気になれなかった。


 宿舎の前で、管理人が手帳を見て震えている。


「こんなものが……」


 ガルドが言う。


「保管しろ。だが、直接触るな」


「はい」


 ミナはアルトの顔を見る。


「大丈夫ですか?」


「大丈夫ではない」


「正直ですね」


「今日はな」


 ミアが小さく言う。


「帰還って、ほんとに帰れるの?」


 誰も答えない。


 それが答えに近かった。


 ガルムは低く言う。


「少なくとも、俺たちが思っていた帰還とは違う可能性が高い」


 アルトは空を見た。


 昼なのに、月が薄く見えている。


 ルナのコメントはまだ流れない。


「ルナ」


 返事はない。


「責めたいわけじゃない」


 沈黙。


「いや、少しは責めたい」


 ミナが小さく目を伏せる。


 アルトは続けた。


「でも、今はそれより聞きたい」


 銀色の文字が、ゆっくり流れる。


『なに』


「ナギを、助けたいと思ったか」


 長い沈黙。


 長い。


 本当に長い沈黙。


 そして。


『思った』


 アルトは目を閉じる。


『でも、神は見届けるものだと言われた』

『見送ることが、祝福だと信じた』

『だから、私は見送った』


 アルトは拳を握る。


『それが、間違いだったのかもしれない』


「かもしれない、じゃ弱いな」


『うん』


 その返事は、少し震えていた。


『間違いだった』


 コメント欄が止まった。


 神々のざわめきが消えた。


 ルナが、自分の過去を間違いだと言った。


 それは神にとって、どれほど重い言葉なのか。


 アルトには分からない。


 でも、痛いことだけは分かった。


 アルトは言った。


「じゃあ、俺の時は見送るな」


 銀色の文字が止まる。


「俺が帰るかどうかは、俺が決める。でも、俺が分からないまま何かに呑まれそうになったら」


 アルトは空を見た。


「見送るんじゃなくて、止めろ」


 ルナのコメントは、すぐには流れなかった。


 やがて。


『うん』


 短い。


 でも、はっきりしていた。


『今度は、見送るだけにはしない』


 アルトは少しだけ笑った。


「ならいい」


 その時。


 視界に通知が浮かんだ。


【神界ランキング更新】


《アルト》

《41位 → 40位》


 コメント欄が沸いた。


『上がった!』

『40位!』

『大台!』

『封鎖部屋効果すげぇ』

『ナギの記録で上がったのか』


 アルトは表示を見た。


 40位。


 帰還に近づいた。


 謎に近づいたことで。


 誰かの古い傷を開いたことで。


 数字が上がった。


 最悪だと思った。


「……気分悪いな」


 ミアが小さく頷く。


「分かる」


 ガルムも言う。


「ああ」


 ミナは杖を握ったまま、何も言わない。


 ガルドが低く言う。


「数字は道具だ。使え。使われるな」


 アルトは苦笑する。


「難しいな」


「簡単なら言わん」


 その時、黒いコメントが流れた。


【おめでとうございます】

【帰還に近づきました】


 アルトは空を睨む。


「黙れ」


【あなたは、知るほど近づく】

【近づくほど、選ぶことになります】


「選ばせたいんだろ」


【ええ】


 隠さなかった。


【第40位】

【良い位置です】

【ここから先、帰還は夢ではなく、選択になります】


 黒い文字は消えた。


 アルトはしばらく空を見ていた。


 薄い月。


 昼の空に浮かぶ、消えそうな月。


 そこに、銀色のコメントが一つだけ流れる。


『アルト』


「何だ」


『ごめん』


「謝るなって言ってるだろ」


『でも、ごめん』


 アルトは息を吐いた。


「じゃあ、次からは謝るより手伝え」


『うん』


 それで十分だった。


 旧配信者宿舎の前に、風が吹いた。


 古い看板が軋む。


 誰かの残した記録が、ようやく開かれた。


 ナギ・シグレ。


 帰還権を得た配信者。


 ルナがかつて見送った人。


 観測終了した者。


 彼が本当に帰ったのか、消えたのかはまだ分からない。


 だが、一つだけ分かった。


 帰還は、ただの報酬ではない。


 たどり着けば終わる場所ではない。


 たぶん。


 そこには、誰かが隠した何かがある。


 アルトは拳を握った。


「帰るかどうかは、俺が決める」


 小さく言った。


 誰に向けた言葉でもなかった。


 だが、神々は聞いていた。


 ルナも。


 オルフェウスも。


 そしてたぶん。


 観測の外に消えた、ナギ・シグレも。


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