第28話 旧配信者宿舎
翌朝。
赤猫亭の食堂は、妙に静かだった。
いつもなら、マルタの怒鳴り声と、皿の音と、神界コメントのくだらない茶々で始まる。
だが今日だけは、空気が少し違った。
テーブルの上には、一枚の古い紙片が置かれている。
昨夜、旧配信者宿舎の管理人が持ってきたものだ。
滲んだ文字。
かすれた名簿。
その端に残っていた、二文字。
【……ギ】
アルトはそれを見つめていた。
見れば見るほど、胸の奥が冷える。
ヘルメス・ネットワークで見た帰還者記録。
【観測終了】
そして、一瞬だけ再表示された名前の欠片。
【……ギ】
同じだった。
偶然ではない。
たぶん。
『おはよう』
『今日は旧配信者宿舎?』
『昨日の紙、気になる』
『……ギ、また出たな』
コメント欄はいつもより静かだった。
冷やかす神もいる。
だが、いつものように完全な遊びにはなっていない。
何かを察しているのだろう。
あるいは、察したふりをして楽しんでいるだけかもしれない。
アルトには、まだ区別がつかない。
ミナが湯気の立つ茶を置いた。
「アルトさん、顔色が悪いです」
「元からだ」
「それは昨日も言ってました」
「じゃあ、悪化してる」
「認めるんですね」
ミナは少しだけ困ったように笑った。
その笑いに、アルトは少しだけ救われる。
向かいではガルムが腕を組んでいた。
その目は紙片を見ている。
「旧配信者宿舎か」
「知ってるのか」
「ああ。昔、何度か使った」
「お前が?」
「まだランキングを上げる前だ。あそこは、金のない配信者や、上位を目指す連中が一時的に泊まる場所だった」
ミアが椅子の上で膝を抱えながら言う。
「宿舎って、タダなの?」
「安いだけだ」
「じゃあ興味ない」
「お前は基準が金だけか」
「金は分かりやすいからね」
ミアは干し果物をかじる。
昨日、東区の老婆からもらったものの残りだった。
盗んだものではない。
もらったものを、まだ大事そうに食べている。
ガルドは食堂の隅で、工具箱を確認していた。
「雨漏りと倉庫整理だったな」
「ああ」
「なら工具はいる」
「お前も来るのか?」
アルトが聞くと、ガルドは顔を上げずに答えた。
「建物の修理なら俺の仕事だ」
「迷宮じゃないから?」
「そうだ」
ミアがにやっと笑う。
「ほら、結局来る」
「仕事だからだ」
「はいはい」
ガルドは睨んだが、ミアは慣れたように視線を逸らした。
マルタが厨房から顔を出す。
「朝飯を食ってから行きな」
「今日は急ぐ」
アルトが言うと、マルタが鋭く睨んだ。
「腹を空かせて過去をほじくるもんじゃないよ」
「過去をほじくるって」
「あんたら、そういう顔してる」
マルタは皿を並べる。
焼いたパン。
卵。
豆の煮込み。
少しだけ肉。
「食べな。答えが逃げるわけじゃない」
アルトは紙片を見た。
逃げるわけじゃない。
だが、消えることはある。
記録は消される。
閲覧不可になる。
観測終了という言葉で、何かが閉じられる。
だから急ぎたい。
けれど、マルタの飯を前にして逆らうほど、アルトはまだ強くない。
「……食う」
「よし」
『マルタ女将、今日も強い』
『飯は大事』
『旧宿舎探索前の朝食』
その時、銀色のコメントが流れた。
『気をつけて』
ルナだった。
短い。
昨日から、少し言葉が少ない。
アルトは空を見る。
「また芋の剥き方か?」
少し間があった。
『今日は違う』
冗談が返ってこなかった。
食堂の空気が、少しだけ重くなる。
「何を知ってる」
アルトは聞いた。
ルナは答えない。
代わりに、短く流れる。
『全部は言えない』
「そればっかりだな」
『ごめん』
「謝るな。余計気になる」
ルナは沈黙した。
アルトは息を吐く。
「まあいい。現場を見る」
木板に書いた方針が、頭に残っている。
【票ではなく、現場を見る】
今日は、そのための日だ。
◇
旧配信者宿舎は、中央区の端にあった。
ヘルメス・ネットワークの華やかな建物から少し外れ、古い石畳の路地を進んだ先。
そこに、三階建ての古びた建物が立っていた。
外壁はくすみ、窓枠は歪み、看板は半分落ちかけている。
【配信者共同宿舎・第三棟】
かつては使われていたのだろう。
だが今は、人の気配が薄い。
建物そのものが、忘れられたように立っていた。
『古いな』
『廃墟っぽい』
『旧配信者宿舎』
『地味だけどちょっと怖い』
【現在視聴中:398柱】
同接は低い。
昨日の水路よりさらに低い。
アルトは表示を見て、思わず笑った。
「ほんとに人気ないな」
ガルムが言う。
「ここを見る神は少ない」
「なんでだ」
「夢破れた連中の場所だからだ」
その言葉は重かった。
ガルムは宿舎を見上げる。
「ランキングを目指して、届かずに消えた連中。百位以内に近づいて、折れた連中。上位に行って戻らなかった連中。そういう痕跡が残る場所だ」
「縁起悪いな」
「だから、今は誰も使わない」
ミナが小さく言う。
「でも、誰かがいた場所なんですよね」
「ああ」
ミアが建物の周りを見て、尻尾を揺らす。
「入口、二つ。正面と裏。二階の窓からも入れそう。中は湿ってる。床、抜けてる場所あるかも」
ガルドが頷く。
「前を歩け」
「また私?」
「斥候だろう」
「報酬は?」
「後で考える」
「一番信用できない返事」
アルトは胸元の財布を押さえる。
「俺の財布からは出さないぞ」
「まだ何も言ってないじゃん」
「目が言ってた」
「目が触ってた?」
「ガルドみたいに言うな」
宿舎の前には、昨夜の管理人が待っていた。
痩せた中年男。
古い管理服。
目の下に疲れがある。
「来てくださったんですね」
「依頼を受けるとは言ってないけどな」
アルトが言うと、管理人は申し訳なさそうに頭を下げた。
「見ていただくだけでも助かります。雨漏りがひどく、倉庫も崩れかけていて……」
ガルドが建物を見上げる。
「屋根の東側だな。梁も傷んでいる」
「外から分かるのか」
「見れば分かる」
「職人って怖いな」
管理人は古い鍵を取り出す。
「ただ、一つだけお願いがあります」
「何だ」
「三階の奥、封鎖部屋には勝手に入らないでください」
全員の視線が止まる。
アルトは紙片を思い出した。
「そこか?」
管理人は小さく頷く。
「名簿に残っていた部屋です。鍵も古く、開けられないままになっています。記録上は、帰還権を得た配信者が最後に使っていた部屋だと」
ミナが息を呑む。
ガルムの表情が険しくなる。
ミアの耳が立つ。
ガルドは無言で工具箱を下ろした。
「開けるなと言ったな」
「はい」
「開ける必要があるかもしれん」
管理人が青ざめる。
「でも、ヘルメスからは封鎖扱いで――」
アルトが低く言う。
「ヘルメスが封鎖したのか?」
「正式には、古い管理記録にそう残っているだけで」
「権限は?」
管理人は言葉に詰まる。
アルトは続きを言った。
「観測神か」
管理人は答えなかった。
それだけで十分だった。
『また観測神案件か』
『封鎖部屋』
『……ギの部屋?』
『怖くなってきた』
視聴者数が少しだけ増えた。
【現在視聴中:421柱】
現金な数字だった。
地味な片付けには興味がない。
でも、封鎖部屋には興味がある。
アルトはその数字を見て、少しだけ嫌な気持ちになった。
「……分かりやすいな」
ガルムが小さく言う。
「謎と危険には神が集まる」
「生活には集まらないのにか」
「そういうものだ」
「嫌なものだな」
ミアが肩をすくめる。
「見る側なんてそんなもんでしょ」
その言葉に、誰もすぐには返せなかった。
◇
旧宿舎の中は、湿った木と古い布の匂いがした。
入口のホールには、壊れた受付台。
壁には古い掲示板。
そこに、色褪せた紙が何枚も貼られている。
【今月のランキング上昇者】
【神界配信マナー講座】
【投げ銭記録申請について】
【帰還権獲得者へのご案内】
最後の紙に、アルトの目が止まる。
「帰還権獲得者へのご案内……」
触れようとした瞬間、紙が崩れた。
古すぎる。
文字のほとんどは読めない。
だが、一行だけ残っていた。
【承認後は、指定日時までに……】
その先は破れている。
アルトは舌打ちした。
「読めねぇ」
ガルドが紙片を見て言う。
「湿気でやられている。無理に触るな」
「復元できるか?」
「俺は紙職人ではない」
「そうか」
その時、視界の端に小さな通知が浮かんだ。
【条件を満たしました】
「……何だ?」
アルトが呟く。
全員がこちらを見る。
通知は続く。
【観測残滓に接触】
【記録系補助スキルの発現条件を一部確認】
《残響読取》
状態:未覚醒
「未覚醒?」
『新スキル?』
『残響読取?』
『記録読めるやつ?』
『来たか?』
コメント欄がざわつく。
アルトは眉をひそめた。
「いや、まだ使えないっぽいぞ」
通知は薄く揺れるだけで、何も起こらない。
ガルムが近づく。
「記録系か」
「分かるのか」
「昔、稀にいた。古い配信跡や、強い観測が残った場所で、断片を読む奴だ」
「便利そうだな」
「便利だが、危険だ」
「なんで」
ガルムは掲示板を見る。
「残っているものは、綺麗な記録だけじゃない。恐怖、後悔、死の瞬間、観測された痛み。そういうものまで拾う」
ミナが表情を硬くする。
ミアも少し黙った。
アルトは通知を見る。
《残響読取》
未覚醒。
今はまだ、名前だけ。
だが、この宿舎に入ったことで反応した。
それはつまり、この場所に何かが残っているということだ。
「……嫌なスキルだな」
銀色のコメントが流れる。
『無理に使わないで』
ルナ。
アルトは空を見る。
「知ってるのか」
『少し』
「便利な言い方だな」
『ごめん』
「謝るなって」
ルナはそれ以上何も言わない。
代わりに、黒いコメントが一瞬だけ流れた。
【記録は、観測の影です】
オルフェウス。
アルトは顔をしかめる。
「呼んでねぇ」
【影を読むなら、光も見ることになる】
「謎かけして消えるな」
返事はない。
アルトは息を吐いた。
「とにかく、進むぞ」
ミアが前へ出る。
「一階から?」
「まず依頼通り、雨漏りと倉庫整理だ」
ミアが意外そうに振り返る。
「封鎖部屋に行かないの?」
「行く。けど、まず現場を見る」
「真面目」
「昨日決めただろ」
アルトは言った。
「票じゃなく、現場を見る」
ミアは少しだけ笑った。
「変なの」
「よく言われる」
◇
一階の倉庫は、思った以上にひどかった。
壊れた椅子。
古い寝台。
錆びたランプ。
破れた配信者用の腕章。
使われなくなった簡易魔道具。
誰かが残していった靴。
空になった薬瓶。
それらが乱雑に積まれている。
『片付け配信』
『地味だ』
『本当に片付けてる』
『封鎖部屋は?』
「うるせぇ。依頼は片付けだ」
アルトは壊れた椅子をどかす。
ミナは薬瓶を分ける。
ガルムは重い寝台を運ぶ。
ミアは棚の奥や床下を確認している。
ガルドは雨漏り箇所を調べていた。
「屋根は後で応急処置する。先に床を空けろ」
「雑用が多いな」
「片付けは雑用の集合だ」
「この前も似たようなこと言ってたな」
ミアが棚の奥から何かを見つけた。
「これ、いる?」
古い木札だった。
名前がいくつか刻まれている。
【レイ・クライス】
【ファナ】
【ドルト】
【ナ……】
最後の名前は削れている。
アルトは札を受け取った。
「ナ?」
文字の続きは読めない。
だが、胸の奥が少しだけざわついた。
【……ギ】
ナ。
ギ。
まだ繋がらない。
だが、近づいた気がした。
『ナ?』
『ナギ?』
『いや分からん』
『名前の一部か?』
その瞬間、木札が淡く光った。
アルトの視界が少し揺れる。
「っ……」
「アルトさん?」
ミナが気づく。
耳鳴り。
湿った木の匂い。
遠い歓声。
誰かの声。
――百位以内に入った。
――これで帰れる。
――ルナ様、見てますか。
アルトは目を見開いた。
今のは、声か。
記録か。
幻か。
通知が浮かぶ。
【《残響読取》が微弱反応しました】
【読取率:3%】
【警告:継続接触は精神負荷を伴います】
アルトは木札を手放した。
呼吸が荒い。
ミナが駆け寄る。
「大丈夫ですか?」
「……声がした」
ガルムの表情が変わる。
「読んだのか」
「分からん。百位以内に入った、これで帰れる、って」
ルナのコメントは流れない。
銀色の沈黙が、逆に重かった。
ガルドが木札を布で包む。
「直接触るな」
「分かった」
ミアは床下を覗き込みながら言う。
「ねぇ、これ」
「今度は何だ」
「床板の下に、変な箱がある」
全員が集まる。
床板の一部が浮いている。
ミアが細い指で隙間を探る。
「罠はない。鍵は古い。開けられる」
「盗賊の出番か」
「斥候と言って」
「財布抜き禁止の斥候」
「しつこい」
ミアは小さな針金を取り出し、箱の鍵を開けた。
かちり。
中には、数枚の紙と、小さな金属片が入っていた。
金属片には、古い配信者徽章。
そして紙には、かすれた文字。
【帰還申請前夜】
【第三棟 三階奥】
【ナ――】
続きは滲んでいる。
アルトは息を止めた。
「三階奥……封鎖部屋か」
ガルムが低く言う。
「繋がったな」
管理人が青ざめる。
「やはり、あの部屋は……」
その時、神界コメントが一気に増えた。
『封鎖部屋!』
『行こう』
『三階奥だろ』
『これは見るしかない』
『同接増えてる』
【現在視聴中:682柱】
急増。
露骨すぎるほどに。
アルトは数字を見た。
片付けでは減った。
子どもの救助でも大きく増えなかった。
水路修理でも上がらなかった。
だが、封鎖部屋の匂いがしただけで、神々は戻ってきた。
「……ほんと、分かりやすいな」
ミアが小さく言う。
「危ないものほど見たいんだよ」
「お前もそう思うか」
「うん。あたしも昔、危ない時だけ見られた」
それは軽い言葉ではなかった。
アルトは木箱を見る。
ここで封鎖部屋へ行けば、同接は増える。
ランキングも動くかもしれない。
帰還の謎にも近づける。
だが。
床の奥には、まだ片付けられていない荷物がある。
雨漏りも直していない。
管理人は不安そうにしている。
依頼は終わっていない。
アルトは深く息を吸った。
「先に片付けを終わらせる」
コメント欄がざわつく。
『え?』
『封鎖部屋行かないの?』
『今行こうよ』
『同接増えてるのに』
『帰還の手がかりだぞ』
「分かってる」
アルトは言った。
「でも、依頼は片付けと雨漏り修理だ」
『いやでも』
『封鎖部屋が先でしょ』
『謎の方が大事』
アルトは空を睨む。
「大事かどうかは、俺が決める」
ミナが小さく頷いた。
ガルムも黙って荷物を持ち上げる。
ミアは少し呆れたように笑った。
「ほんと、変な人」
ガルドは屋根の方を見ながら言った。
「正しい」
それだけだった。
同接は少し落ちた。
【現在視聴中:611柱】
アルトはその数字を見て、少しだけ笑った。
「落ちたな」
ルナの銀色のコメントが流れる。
『でも、見てる』
「知ってる」
アルトは壊れた椅子を持ち上げた。
旧配信者宿舎の片付けは、まだ終わっていない。
◇
作業は地味だった。
ひたすらに地味だった。
雨漏りの受け皿を置く。
壊れた家具を運ぶ。
使える寝具と捨てる布を分ける。
薬瓶を確認する。
床板を補強する。
ミアが罠や隠し場所を見つけ、ガルドが必要な修理を判断する。
ミナは古い薬瓶の中身を分け、危険なものを避ける。
ガルムは力仕事を黙々とこなす。
アルトはひたすら運ぶ。
地味。
地味。
地味。
『本当に片付けてる』
『封鎖部屋まだ?』
『でもちょっと気になる』
『この宿舎、昔の匂いがするな』
【現在視聴中:587柱】
減っている。
だが、完全には消えない。
何かを期待して残っている神々。
あるいは、地味な作業をなぜか見続けている神々。
アルトには分からない。
ただ、手は止めない。
途中、ミアが一冊の古い帳面を見つけた。
「これ、名簿っぽい」
管理人が慌てて受け取る。
「それです。探していた古い宿泊台帳……!」
アルトも覗き込む。
文字はかなり滲んでいた。
だが、いくつか読める。
【レイ・クライス】
【ファナ・リード】
【ドルト・ハイン】
【ナギ……】
アルトの指が止まる。
「ナギ」
ついに、読めた。
その瞬間、銀色のコメント欄が完全に止まった。
ただの沈黙ではない。
まるで、月の光そのものが息を止めたような沈黙だった。
完全ではない。
だが、名前の頭と末尾が繋がった。
【ナギ……】
ヘルメスの記録にあった【……ギ】。
同じ可能性は高い。
いや。
ほぼ、同じだ。
アルトの喉が鳴る。
ルナのコメントは流れない。
流れないことが、答えのようだった。
「ナギ、って誰だ」
管理人は首を振る。
「分かりません。宿泊台帳の古い記録です。姓か、称号か、続きがあったはずですが……」
ガルムが台帳を見る。
「聞いたことはない。少なくとも俺の時代には有名な配信者じゃなかった」
「帰還権を得たのに?」
「有名だったとは限らない。記録が消えたなら、なおさらだ」
アルトは台帳に触れようとして、手を止めた。
さっきの《残響読取》の負荷が頭に残っている。
声。
百位以内に入った。
これで帰れる。
そして、ルナ様。
アルトは深く息を吸った。
「触るなよ」
ガルドが言う。
「分かってる」
「分かっている顔じゃない」
「よく見てるな」
「道具も人間も、無理する前に音が変わる」
「俺、音してる?」
「している」
ミナが心配そうに見る。
「今日は無理しない方がいいです」
「ああ」
アルトは頷いた。
「封鎖部屋は、準備してから行く」
『ええ!?』
『今じゃないの?』
『ここまで来て!?』
『焦らすなぁ』
アルトは空を見上げる。
「焦って開けて、何か壊したら意味ないだろ」
ガルドが頷く。
「正しい。古い鍵と封印は、乱暴に扱うと中の記録ごと壊れる」
ミアが言う。
「あたしなら開けられるかもよ」
「記録ごと壊さずに?」
「……たぶん」
「たぶんじゃダメだ」
ミアは口を尖らせた。
「信用ないなぁ」
「信用はしてる。だから、準備して開ける」
その言葉に、ミアは少しだけ黙った。
「……そういう言い方、ずるい」
「何が」
「別に」
ミアはぷいと横を向いた。
アルトは台帳を布で包む。
管理人に確認し、赤猫亭へ一度持ち帰って乾かすことになった。
封鎖部屋は、明日。
そう決まった。
同接はさらに落ちた。
【現在視聴中:541柱】
それでも、アルトは焦らなかった。
焦らないようにした。
目の前の現場を見る。
それが昨日決めた方針だ。
◇
夕方。
旧宿舎の一階は、少しだけ片付いていた。
雨漏りには応急処置がされ、床板には補強が入った。
壊れた家具は外へ運び出され、使えるものはまとめられた。
管理人は何度も頭を下げた。
「ありがとうございます。こんなに進むとは思いませんでした」
「まだ終わってない」
ガルドが言う。
「屋根は仮だ。三日以内に本修理がいる」
「はい」
ミナは危険な薬瓶を袋にまとめていた。
「これは薬湯屋さんに見てもらった方がいいと思います」
「分かりました」
ガルムは最後の寝台を運び出す。
「重いな」
ミアが横から言う。
「こわいお兄さん、力持ち」
「その呼び方を定着させるな」
「じゃあ、皿運びお兄さん」
「どちらも嫌だ」
アルトは入口の古い掲示板を見ていた。
【帰還権獲得者へのご案内】
破れて読めない紙。
だが、その下に別の小さな文字があるのに気づいた。
誰かが、木の壁に小さく刻んだ跡。
薄く、ほとんど消えかけている。
アルトは指で埃を払った。
【帰る前に、月を見ろ】
それだけだった。
アルトの背筋が冷える。
「……月」
ミナが近づく。
「どうしました?」
「これ」
ミナが文字を見る。
「帰る前に、月を見ろ……?」
ガルムも見る。
ミアも。
ガルドも。
誰もすぐには言わなかった。
月。
ルナ。
帰還。
ナギ。
繋がりすぎている。
あるいは、繋がっているように見えているだけかもしれない。
だが、ルナのコメントは流れない。
完全な沈黙。
アルトは空を見る。
「ルナ」
返事はない。
「知ってるなら、何か言え」
沈黙。
やがて、銀色の文字が一つだけ流れた。
『明日、話す』
それだけだった。
アルトは息を止める。
「明日?」
『封鎖部屋の前で』
コメント欄がざわつく。
『ルナ様が話す?』
『ついに?』
『月とナギ?』
『やばい』
視聴者数がまた増え始めた。
【現在視聴中:733柱】
アルトはその数字を見て、苦笑した。
「ほんと、分かりやすい」
でも今度は、少し違った。
数字が増えていることよりも、ルナが話すと言ったことの方が重かった。
ガルムが低く言う。
「明日、封鎖部屋か」
「ああ」
ミアが尻尾を揺らす。
「準備して開けるんでしょ」
「そうだ」
ガルドが工具箱を閉める。
「封印を壊さず開けるには道具がいる。工房に戻って準備する」
ミナが杖を握る。
「私も行きます」
「当然」
アルトが言う。
ミナは少しだけ驚き、それから頷いた。
管理人は不安そうにしている。
「あの、本当に大丈夫でしょうか」
「分からん」
アルトは正直に答えた。
「でも、見ないままにはしない」
木板に書いた言葉を思い出す。
票ではなく、現場を見る。
現場が、ここにある。
配信映えしない片付けの先に、封鎖された部屋がある。
帰還の手がかりがある。
そして、たぶん。
ルナが言えなかった何かがある。
その時、黒いコメントが静かに流れた。
【明日は、良い観測になります】
アルトは空を睨む。
「お前にとってはな」
【あなたにとっても】
「勝手に決めるな」
【では、選びなさい】
オルフェウスの文字は消えた。
夕暮れの旧宿舎に、古い木の匂いだけが残る。
アルトは掲示板の文字をもう一度見た。
【帰る前に、月を見ろ】
その言葉は、ただの落書きではなかった。
誰かが、帰還の前に残した最後の助言。
あるいは、警告。
アルトは拳を握る。
「……明日だ」
同接は増えている。
期待も、興味も、好奇心も、神々の視線も膨らんでいる。
だが、今日はここまでだ。
封鎖部屋は開けない。
開けるための準備をする。
目の前の依頼を終わらせる。
それが、アルトたちの選択だった。
旧配信者宿舎の外に出ると、夕方の空に薄い月が出ていた。
アルトはそれを見上げる。
月は何も言わない。
ただ、こちらを見ているようだった。




