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第27話 仮パーティはまとまらない

 東水路の修理を終えて赤猫亭へ戻る頃には、全員が妙に疲れていた。


 戦闘らしい戦闘はなかった。


 魔物も出なかった。


 神々が大喜びするような大爆発もない。


 それでも、アルトの服は濡れていた。


 ミナは治療と補助で少し顔色が悪い。


 ガルムは子どもに「こわいお兄さん」と呼ばれた件をまだ引きずっている。


 ミアは尻尾の先を気にしながら歩いている。


 ガルドは工具箱を背負い、ひとりだけ平然としていた。


「……なんで水路修理でこんな疲れるんだ」


『お疲れ』

『地味に疲れる回だった』

『でも水の音よかった』

『ランキング変わらなかったな』


「言うな。俺も見た」


【神界ランキング】

《アルト:41位》


 変化なし。


 同接も、結局大きく戻ることはなかった。


 それでも東区では、水が流れた。


 子どもは家に帰った。


 薬湯屋は店を開けた。


 飯屋では湯気が上がった。


 それを思い出すと、不思議と負けた気はしなかった。


「数字って、ほんと面倒だな」


 アルトが呟くと、隣を歩いていたミアが干し果物をかじりながら言った。


「見なきゃいいじゃん」


「見えるんだよ」


「かわいそう」


「軽いな」


「重く言ったら治るの?」


「治らない」


「じゃあ軽く言う」


 ミアは残っていた干し果物を口に放り込んだ。


 その干し果物は、東区の老婆にもらったものだった。


 ミアは「あとで食べる」と言って懐にしまっていたが、結局、帰り道で少しずつ食べていた。


 盗んだものではない。


 もらったものだ。


 それが少しだけ珍しいように、彼女は一口ごとに確かめながら食べている。


 アルトはそれを見て、何も言わなかった。


『ミアちゃん、干し果物気に入ってる』

『かわいい』

『ちゃんと食べてる』


 ミアの耳がぴくりと動く。


「また顔の話?」


「今は食べ物の話だな」


「ならいい」


「いいのか」


「顔じゃないなら、まあ」


 ミナが小さく笑った。


 その手には、ガルドが調整した杖がある。


 水路での治療の後も、彼女は何度か握りを確かめていた。


「ミナ、疲れてないか」


 アルトが聞くと、ミナは少しだけ背筋を伸ばした。


「疲れてます」


「正直だな」


「でも、大丈夫です」


「無理はするなよ」


「はい」


 その返事は、以前より少しだけ強かった。


 ガルムが横から言う。


「今日の治療は落ち着いていた」


 ミナが少し驚いたように顔を上げる。


「……ありがとうございます」


「礼を言われることじゃない。事実だ」


 それだけ言うと、ガルムは視線を逸らした。


 ミナも、それ以上は踏み込まない。


 二人の間には、まだ少し距離がある。


 謝罪はされた。


 受け取った。


 でも、全部が終わったわけではない。


 アルトはそれを見て、口を挟まなかった。


 ミナが何を話したのか、ガルムは知らない。


 それでいい。


 話すなら、ミナ自身が決めるべきことだ。


 ◇


 赤猫亭の扉を開けると、マルタが厨房から顔を出した。


「戻ったね」


「戻った」


「水は?」


「流れた」


「そうかい」


 マルタはそれだけ言うと、少しだけ頷いた。


 派手に褒めることはない。


 だが、その顔には明らかに安堵があった。


「飯は?」


「ある」


「さすが」


「ただし、濡れ鼠は裏で拭いてから入りな」


 アルトは自分の服を見る。


 水路の水で濡れ、泥もついている。


「……俺か」


「他に誰がいるんだい」


「ミアの尻尾も濡れてるぞ」


「猫は自分で拭く」


「差別だ」


 ミアが露骨に嫌な顔をした。


「猫扱いしないで」


「お前が濡れた尻尾をずっと気にしてるからだろ」


「気にするよ。重いし、冷たいし、最悪」


 マルタは布を投げた。


 ミアが受け取る。


「拭きな」


「……ありがと」


「礼はちゃんと言えるんだね」


「言えるよ」


「盗るなよ」


「言わなくてもいいじゃん」


 ミアは布で尻尾を拭きながら、小さく口を尖らせた。


 ガルドは無言で店の隅へ工具箱を置く。


 マルタがそれを見る。


「壊したかい」


「直した」


「ならいい」


「相変わらずだな」


「あんたもね」


 二人の会話は短い。


 けれど、長い時間を知っている者同士のそれだった。


 アルトは少し気になったが、聞かなかった。


 今はまだ、聞く時ではない気がした。


『マルタとガルド、何かあるな』

『あの人の話、気になる』

『師匠関連か?』


「お前らも詮索するな」


 アルトが小声で言う。


 マルタが睨む。


「誰に言ってるんだい」


「神様」


「神様にも言っときな。飯時に他人の過去をほじくるもんじゃないってね」


『すみません』

『女将に怒られた』

『静かにします』


 マルタは満足げに鼻を鳴らした。


「分かればいいんだよ」


「聞こえてんのか?」


「聞こえてないよ」


「絶対嘘だろ」


 マルタは答えず、料理を並べ始めた。


 肉と豆の煮込み。


 焼いたパン。


 芋。


 野菜の漬物。


 水路帰りにはありがたい温かさだった。


 アルトたちは奥の席に座る。


 ガルドも当然のように座らされている。


「俺は工房に戻る」


「食べてからにしな」


「……分かった」


『ガルドさん、マルタに弱い』

『即落ち二回目』

『古い関係だ』


 ガルドが空を睨んだ。


 コメント欄がまた少し静かになる。


 アルトは笑いをこらえながら、パンを千切った。


「で」


 マルタが全員を見渡す。


「水路修理の次は何をするんだい」


「いきなり本題か」


「飯屋は客の腹と顔を見る場所だよ。あんたら、何か決めなきゃいけない顔してる」


 アルトは黙る。


 たしかに、東水路の依頼は終わった。


 ガルドへの代金代わりの仕事は済んだ。


 だが、これで終わりではない。


 帰還。


 観測終了。


【……ギ】


 遊戯神トリックス。


 配信映えしない選択。


 どれも、まだ終わっていない。


 ただ、今はそれらを追う前に、足元を固める必要がある気がした。


 ひとりで走れば、また何かを見落とす。


 神々の票に従っても、見落とす。


 なら、まずは現場を見るための目と手を揃える。


 アルトは目の前の面々を見た。


 ミナ。


 ガルム。


 ミア。


 ガルド。


 マルタ。


 なんだこれは。


 いつの間にこうなった。


『パーティ会議?』

『役割整理回か』

『赤猫亭会議』

『仮パーティ名決める?』


「名前は決めない」


 アルトは即答した。


 ミアがパンを口に入れながら言う。


「なんで? 名前がある方が仕事取りやすいよ」


「変な名前にされる未来しか見えない」


「奈落新人と愉快な財布たち」


「絶対嫌だ」


『愉快な財布たち草』

『財布中心』

『ミア命名センス』


 アルトは胸元の財布を押さえる。


「俺の財布を中心にするな」


 ミナが控えめに手を上げた。


「あの……でも、役割は決めておいた方がいいかもしれません」


「役割?」


「はい。今日、水路で少し思いました。誰が前を見るか、誰が怪我を見つけるか、誰が支えるか、決めていた方が動きやすいです」


 アルトは少し驚いた。


 ミナが、自分からこういう話を出したことに。


「いいな」


 ガルムが頷く。


「即席にしては今日の動きは悪くなかった。だが、まだ無駄が多い」


「お前が言うと訓練っぽいな」


「元々そういうのは嫌いじゃない」


「炎上前は真面目だったのか?」


 ミアが茶化す。


 ガルムは少しだけ沈黙した。


「真面目だったかどうかは知らん。だが、勝ちたかった」


 場が少し静かになる。


 ミアは少しだけ気まずそうに干し果物を口に入れた。


 アルトは咳払いする。


「じゃあ、役割を決めるか」


 マルタが木板を持ってきた。


「書きな」


「用意いいな」


「会議っぽい顔をしてたからね」


 木板と炭筆がテーブルに置かれる。


 アルトは炭筆を持った。


「まずミア」


「なんで私から?」


「斥候。罠。偵察。財布抜き禁止」


「最後は役割じゃなくて制限じゃん」


「一番大事だ」


 木板に書く。


【ミア:斥候/罠確認/偵察/財布禁止】


 ミアが不満そうに見る。


「財布禁止って書く必要ある?」


「ある」


「じゃあ、アルトも書いてよ。財布管理担当」


「それ役割か?」


「一番大事なんでしょ」


『財布管理担当』

『主人公の役割』

『生活感』


 アルトは渋々書いた。


【アルト:前衛/判断/財布管理】


「なんか弱そうだな」


 ミアが笑う。


「財布管理って入ってるからね」


「お前のせいだろ」


 ミナが少し笑いながら言う。


「アルトさんは、判断役だと思います」


「俺が?」


「はい。誰を助けるか、どこへ行くか、神様の投票に従うかどうか。そういうところを決める人です」


 アルトは炭筆を止めた。


 ミナの言葉は、思ったより重かった。


 誰を助けるかは、俺が決める。


 そう言ったのは自分だ。


 それを役割にされると、少しだけ背筋が冷える。


「……責任重いな」


 ガルムが言う。


「重いから判断だ」


「お前は?」


「遊撃だ。前にも後ろにも動く。敵が出れば止める。人が崩れれば支える」


「便利だな」


「便利に使うな」


 書く。


【ガルム:遊撃/護衛/危険察知】


 ガルムは少し眉をひそめた。


「危険察知はミアの役割だろう」


 ミアが言う。


「あたしは物理的な罠と逃げ道。ガルムは人の視線と嫌な空気。違うでしょ」


 ガルムは黙った。


 それから、小さく頷く。


「……そうだな」


 ミアは得意げに尻尾を揺らした。


「ほら、あたし役に立つ」


「調子に乗るな」


「乗るために褒められてるんだよ」


「誰も褒めてない」


 ミナが続ける。


「私は回復と補助です。あと、怪我人の確認をします」


 アルトは書いた。


【ミナ:回復/補助/負傷者確認】


 ミナは木板を見つめ、少しだけ頷いた。


 その表情に、不安だけではないものがあった。


 自分の役割がある。


 それは、彼女にとって大きいのだろう。


 ガルドが煮込みを食べながら言う。


「俺は同行しない」


「え」


 全員が見る。


 ガルドは平然としている。


「俺は職人だ。探索者ではない。必要な時だけ呼べ」


「でも水路では結構頼れたぞ」


「水路は仕事場だ。迷宮は違う」


「じゃあ役割は?」


 ガルドは少し考えた。


「整備」


 アルトは書く。


【ガルド:整備/修理/装備調整】


「後方支援か」


「必要な時だけだ」


 ミアがにやにやする。


「でも結局来そう」


「来ない」


「来そう」


「来ない」


「賭ける?」


「賭けない」


『ガルドさん準レギュラー』

『絶対来る』

『後方支援枠』


 ガルドは空を睨む。


「勝手に決めるな」


 マルタが皿を置きながら言う。


「あたしは?」


 アルトは顔を上げる。


「あんたも入るのか?」


「飯を出してるだろ」


「確かに」


 ミアが言う。


「拠点担当」


 マルタがにやりと笑う。


「悪くないね」


 アルトは書いた。


【マルタ:飯/拠点/説教】


「最後」


「必要だろ」


「まあね」


『説教担当』

『重要』

『パーティの精神的支柱』


 マルタは満足そうに腕を組んだ。


「よし。じゃあ飯を食いな」


「会議の締めが雑だな」


「腹が減ったら判断も鈍る」


 ガルドが小さく頷いた。


「それは正しい」


「そこは同意するのか」


 少しだけ、食堂に笑いが起きた。


 ◇


 食事が落ち着いた頃、ガルムがふと口を開いた。


「ミナ」


 ミナの手が止まる。


「はい」


 ガルムはしばらく黙っていた。


 何かを言おうとして、選んでいる。


 アルトはそれに気づき、黙った。


 ミアも珍しく口を挟まない。


 マルタは厨房へ戻ったふりをしているが、たぶん聞いている。


「今日、水路でお前は落ち着いていた」


「……ありがとうございます」


「前にも言ったが、事実だ」


「はい」


 ガルムは視線を伏せる。


「俺は、お前が何を怖がっていたのか、まだ知らない」


 ミナの表情が少し変わった。


 アルトは息を止める。


 ガルムは続けた。


「知る資格があるとも思っていない。だが、知らないまま謝ったことは分かっている」


 ミナは何も言わない。


 ガルムは静かに頭を下げた。


「だから、今は聞かない。お前が話したくなった時に聞く」


 ミナの指が、杖の革紐を握った。


 少しだけ震えている。


 でも、逃げてはいない。


「……はい」


 その返事は小さかった。


 だが、確かに届いた。


「いつか、話せると思います」


「ああ」


「でも、今はまだ」


「分かっている」


 ガルムは顔を上げた。


「その時まで、俺は皿でも運んでおく」


 アルトは思わず吹き出した。


 ミナも少しだけ笑った。


 ミアが呟く。


「重い話から皿に戻るんだ」


「今の俺にできる贖罪がそれしかない」


「皿、重いね」


「お前は財布を返せ」


「返したじゃん」


「減っていた」


「みんな根に持つなぁ」


 重くなりかけた空気が、少しだけ柔らかくなる。


 コメント欄も、珍しく静かだった。


 やがて、ひとつだけ流れる。


『いいと思う』


 ルナだった。


 アルトは空を見上げる。


「何が」


『待つこと』


 それだけだった。


 アルトは少し黙る。


 そして、小さく言った。


「……そうだな」


 待つこと。


 見せろと迫らないこと。


 語れと急かさないこと。


 それも、ちゃんと見ることの一つなのかもしれない。


 ◇


 夜。


 赤猫亭の食堂は、いつもより静かだった。


 客が減り、ランプの光が丸いテーブルを照らしている。


 ミアは椅子の上で膝を抱え、干し果物の残りを転がしていた。


 ガルムは本当に皿を運んでいた。


 ミナはマルタに頼まれて布巾を畳んでいる。


 ガルドは帰ると言いながら、結局まだ隅で工具の手入れをしている。


 アルトは木板に書いた役割表を眺めていた。


【アルト:前衛/判断/財布管理】

【ミナ:回復/補助/負傷者確認】

【ガルム:遊撃/護衛/危険察知】

【ミア:斥候/罠確認/偵察/財布禁止】

【ガルド:整備/修理/装備調整】

【マルタ:飯/拠点/説教】


「……なんだこれ」


『いいチームだ』

『財布管理がじわじわ来る』

『説教担当つよい』

『仮パーティ結成回』


「だから名前はつけない」


『奈落新人隊』

『赤猫亭組』

『財布防衛隊』

『観測拒否同盟』


「最後ちょっとかっこいいのやめろ」


 ミアが耳を動かす。


「何か変な名前つけられてる?」


「財布防衛隊」


「私は好き」


「お前だけだ」


 ミナがくすっと笑う。


「でも、仮の集まりとしては、良いかもしれませんね」


「ミナまで」


「名前ではなく、集まりが」


 ミナは布巾を畳みながら言った。


「今日、少し動きやすかったです。誰が何をするか分かっていると、怖さが少し減ります」


 ガルムが皿を置く。


「即席にしては悪くない」


 ミアが干し果物を口に入れる。


「報酬が出るならね」


 ガルドが工具を拭きながら言う。


「道具を壊さないならな」


 マルタが厨房から言う。


「飯を残さないならね」


 アルトは全員を見る。


 まとまっているのか、いないのか分からない。


 だが、誰も席を立っていない。


 それだけで、少し不思議だった。


 少し前まで、自分は一人だった。


 神々に見られ、逃げ惑い、死にかけ、ツッコんでいた。


 今は、面倒な連中が周りにいる。


 怖がりの回復術師。


 元炎上配信者。


 手癖の悪い猫。


 神に媚びない職人。


 神貨を受け取らない女将。


 そして画面の向こうの、月の女神。


 面倒だ。


 本当に面倒だ。


 でも。


「……悪くないな」


 アルトが小さく呟いた瞬間、コメント欄が動いた。


『言った』

『また言った』

『悪くない、いただきました』


「拾うな!」


 ミアがにやにやする。


「何? 照れたの?」


「照れてねぇ」


「顔がそう」


「お前に顔の話されると複雑だな」


「今のは許す」


「基準が分からん」


 その時、視界の端に黒いコメントが流れた。


【まとまり始めましたね】


 オルフェウス。


 食堂の空気が、ほんの少し冷える。


 アルトは空を睨む。


「出てくんな」


【集団は、個人よりも面白い】

【選択肢が増える】

【喪失の形も増える】


 ミナが小さく息を呑んだ。


 ガルムの目が細くなる。


 ミアの尻尾が止まる。


 ガルドの手が止まる。


 マルタが厨房から顔を出した。


 アルトは低く言う。


「脅しか?」


【観測です】


「便利な言葉だな」


【事実です】


 黒い文字は、それだけ残して消えた。


 しばらく、食堂には沈黙が落ちた。


 最初に破ったのはマルタだった。


「飯時に縁起でもないこと言う神だね」


 ガルドが短く言う。


「最低だな」


 ミアが干し果物を噛む。


「神様って暇なの?」


 ガルムが皿を持つ。


「暇だから見てるんだろう」


 ミナが杖を握る。


「でも、私たちは……」


 彼女は少し言葉を探した。


「見られるためだけに、ここにいるわけじゃないです」


 アルトはミナを見る。


 それから、笑った。


「ああ」


 そうだ。


 見られている。


 投票される。


 評価される。


 切り抜かれる。


 順位がつく。


 それでも。


 それだけではない。


 アルトは木板を裏返し、炭筆で一行だけ書き足した。


【方針:票ではなく、現場を見る】


 ミアが覗き込む。


「真面目」


「悪いか」


「悪くない」


 ガルムが頷く。


「悪くないな」


 ミナも頷く。


「はい」


 ガルドは小さく鼻を鳴らす。


「当たり前だ」


 マルタは笑った。


「なら、明日も飯がいるね」


 ルナの銀色のコメントが、そっと流れた。


『いい方針だと思う』


 アルトは空を見上げる。


「そっちもちゃんと見てろよ」


『見てる』


「投票じゃなくて」


 少し間があった。


 そして。


『うん。ちゃんと見る』


 アルトは小さく息を吐いた。


 赤猫亭のランプが揺れる。


 外では、奈落都市の夜がざわめいている。


 神々はまだ見ている。


 観測神も、遊戯神も、たぶん他の上位神も。


 これから先、何を選ばされるのかは分からない。


 誰を失うかもしれないのかも、分からない。


 けれど、少なくとも今夜。


 この赤猫亭の奥の席には、役割の書かれた木板と、温かい飯と、面倒な仲間たちがいた。


 アルトはそれを見て、もう一度だけ思った。


 悪くない。


 今度は、口には出さなかった。


 ◇


 閉店後。


 マルタがテーブルを拭いていると、店の扉が控えめに叩かれた。


「もう終わりだよ」


 マルタが言う。


 だが、扉の向こうから返ってきた声は、少し慌てていた。


「すみません。赤猫亭なら、話を聞いてくれるかもしれないって」


 アルトが顔を上げる。


 ガルムも皿を置いた。


 マルタは少しだけ目を細め、扉を開ける。


 そこに立っていたのは、痩せた中年の男だった。


 古びた管理服。


 胸元には、薄れかけたヘルメス・ネットワークの古い徽章。


 現役の職員というより、どこかの施設管理人に見える。


「何の用だい」


「旧配信者宿舎の管理をしている者です」


 その言葉で、ガルムの表情がわずかに変わった。


「旧宿舎……まだ残っていたのか」


 男は頷く。


「ええ。ほとんど使われていませんが。雨漏りと倉庫整理の依頼を出しているのですが、誰も受けてくれなくて」


『旧配信者宿舎?』

『何それ』

『地味依頼の匂い』

『また掃除?』


 アルトは少しだけ嫌な予感がした。


「配信映えしなさそうだな」


 管理人は申し訳なさそうに頭を下げる。


「はい。報酬も安いです。ただ……」


「ただ?」


「昔、帰還権を得た配信者も、あそこを使っていたそうです」


 食堂の空気が止まった。


 アルトの胸の奥で、あの文字が蘇る。


【観測終了】


【……ギ】


 ガルムが低く言う。


「誰が使っていた」


「名簿は古くて、ほとんど読めません。ですが、一室だけ、封鎖されたままの部屋があります」


「封鎖?」


「ええ。管理台帳には、名前の一部だけが残っていました」


 アルトはゆっくり立ち上がる。


「何て」


 管理人は古い紙片を取り出した。


 滲んだ文字。


 かすれた名前。


 読めるのは、最後の二文字だけだった。


【……ギ】


 誰も喋らなかった。


 コメント欄も止まった。


 やがて、銀色のコメントが一つだけ流れる。


『アルト』


 ルナの声だった。


 短く。


 少しだけ、震えているように見えた。


 アルトは紙片を見つめる。


 ランキング。


 帰還権。


 観測終了。


 配信映えしない依頼。


 それらが、ひとつの線で繋がる音がした。


 アルトは息を吐く。


「……明日の仕事、決まったな」


 黒いコメントが、遠くで笑うように流れた。


【良い現場です】


 アルトは空を睨んだ。


「黙ってろ」


 赤猫亭の灯りが、小さく揺れた。


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