第26話 水路修理は配信映えしない
翌朝。
赤猫亭の前に、五人と一人の職人が集まっていた。
アルト。
ミナ。
ガルム。
ミア。
ガルド。
そして、腕を組んだマルタ。
空は薄曇り。
奈落都市エルデンの朝は、いつも通り人の声と煙の匂いで始まっている。
だが、アルトの気分は少し重かった。
理由は簡単だ。
配信内容が、水路修理だからである。
『おはよう』
『今日は何するの?』
『東水路?』
『水路修理って何?』
『戦闘ある?』
「ないらしいぞ」
『え』
『ないの?』
『魔物出ないの?』
『水路修理配信?』
「そうだよ。配信映えしないだろ。俺もそう思う」
アルトがそう言うと、横からガルドが低く言った。
「映えに来たなら帰れ」
「俺に言うなよ」
「神にも言っている」
『すみません』
『静かに見ます』
『ガルドさん怖い』
ガルドは古びた工具箱を背負っていた。
鉄と革で補強された大きな箱。
ずしりと重そうだ。
アルトはそれを見て顔をしかめる。
「それ、重そうだな」
「重い」
「持とうか?」
「落とすからいい」
「信用がない」
「あると思ったのか」
「朝から辛辣だな」
ミナが小さく笑う。
彼女の杖には、昨日ガルドが巻き直した革紐がある。
握りやすくなったのか、指の位置が昨日より自然だった。
ミアは新しい靴底を確かめるように、その場で軽く跳ねている。
灰色の尻尾が揺れる。
「……悪くない」
ミアが小さく呟いた。
ガルドは顔も向けずに言う。
「当然だ」
「もう少し謙虚になれないの?」
「仕事に謙遜は不要だ」
「腹立つけど履きやすいのがもっと腹立つ」
『ミアちゃん、靴底気に入ってる』
『素直じゃない』
『猫足強化』
ミアの耳がぴくりと動く。
「また何か言われた気がする」
「だいたい褒めてる」
「顔じゃないなら許す」
アルトは少し笑った。
するとマルタが大きな包みを差し出してきた。
「昼飯だよ」
「用意してくれたのか」
「水路の中で腹を空かせたら、ろくなことにならないからね」
アルトは包みを受け取る。
ずしりと重い。
「重っ」
「五人分だよ。ガルドの分も入ってる」
「俺は要らん」
ガルドが言う。
マルタは即座に返した。
「食べな」
「……分かった」
『ガルドさん即落ち』
『マルタ女将つよい』
『この二人、昔からの知り合い感』
アルトは二人を見比べる。
「なあ、マルタとガルドって昔から――」
「行くぞ」
ガルドが遮った。
「早いな」
「水は待たん」
マルタはガルドの背中を見ながら、少しだけ表情を緩めた。
「気をつけな。東水路は古い。あの人の仕事がまだ残ってる場所だからね」
「あの人?」
アルトが聞き返す。
だが、マルタはそれ以上答えなかった。
「行けば分かるよ」
ガルドも振り返らなかった。
ただ、工具箱を背負った肩が、ほんの少しだけ固くなったように見えた。
◇
東水路は、奈落都市エルデンの東区にあった。
中央区の華やかさも、西市場の喧騒もない。
狭い路地。
低い建物。
洗濯物。
井戸端に集まる女たち。
水瓶を抱えた子ども。
薬湯屋の煙突。
小さな飯屋の朝支度。
ここは、生活の区画だった。
派手ではない。
だが、人が生きている匂いがある。
「……こういう場所もあるんだな」
アルトは呟いた。
『観光配信っぽい』
『東区、初めて見た』
『地味だけど雰囲気ある』
『同接ちょっと減ってる?』
視界の端に数字が浮かぶ。
【現在視聴中:512柱】
昨日より少ない。
朝の赤猫亭よりも少ない。
アルトは少しだけ眉を上げた。
「ほんとに減るんだな」
ガルムが横から言う。
「戦闘も派手な依頼もない。水路修理なんか見たい神は少ない」
「お前は昔なら受けなかったか?」
「受けない」
即答だった。
ガルムは水路沿いの古い石壁を見る。
「昔の俺なら、報酬と同接を見て断っていた」
「今は?」
「皿運びの方がよほど映えない」
「比較対象が悲しいな」
ミナが小さく笑う。
ミアは足元の石畳を見ながら歩いていた。
「水路の匂い、嫌い」
「臭いか?」
「臭いというより、古い。湿った石と錆びた金具と、逃げ道が少ない匂い」
「逃げ道の匂いって何だ」
「分かるでしょ」
「分からん」
ガルドが短く言った。
「猫の勘は使える。水路内では前を歩け」
「え、嫌なんだけど」
「前払いをもらっただろう」
「靴底ひとつで酷使される」
「壊れたら直す」
「そういう問題じゃない」
東水路の入口には、木の柵が立てられていた。
その前に数人の住民が集まっている。
水瓶を抱えた老婆。
薬湯屋らしい中年男。
幼い子どもを連れた母親。
彼らはガルドを見ると、ほっとした顔をした。
「ガルドさん、来てくれたんですね」
「遅れて悪い」
「いえ、来てくれただけで助かります。朝から水の出が悪くて」
薬湯屋の男が言う。
「湯が作れないと、今日は店を閉めるしかない。怪我人もいるのに」
母親が子どもの肩を抱き寄せる。
「共同井戸も細くなっていて……」
アルトは水路の奥を見る。
暗い。
狭い。
湿っている。
そして、地味だ。
とことん地味だった。
『ほんとに水路修理だ』
『戦闘ないの?』
『この回、何を見る感じ?』
『でも住民は困ってるっぽい』
「その“見る感じ”ってやつが、もう腹立つな」
アルトがぼそりと言う。
ガルドが工具箱を下ろした。
「流量弁は奥だ。古い型だが、直せる」
「古い型?」
ミナが聞く。
ガルドは水路入口の石壁を指差した。
そこには、小さな刻印があった。
槌と水門を組み合わせたような印。
「師匠の仕事だ」
ガルドは短く言った。
アルトは昨日、工房の壁に飾られていた古い槌を思い出す。
「あの槌の?」
ガルドの目がわずかに動く。
「見ていたのか」
「目に入っただけだ」
「余計なところを見る」
「神様ほどじゃない」
ガルドは鼻を鳴らした。
「行くぞ」
それ以上は語らなかった。
◇
水路の中は、予想通り暗かった。
足元を細い水が流れている。
石壁には苔。
ところどころ金具が錆びている。
天井は低く、アルトは少し背を屈める必要があった。
「……これ、腰に来るな」
『地味にきつそう』
『腰痛配信』
『作業回だ』
「腰痛配信って何だよ」
ミアが先頭を歩く。
新しい靴底のおかげか、足音がほとんどしない。
彼女は壁や床を軽く触りながら進んでいた。
「この先、床が浮いてる。踏むと抜けるかも」
ガルドが頷く。
「避けろ」
ミアは少し驚いたように振り返る。
「疑わないの?」
「斥候の仕事だろう」
「……そうだけど」
「なら聞く」
ミアは何か言いかけて、やめた。
それから、少しだけ口元を緩める。
「変な職人」
「変な猫に言われたくない」
アルトは二人を見て、少しだけ笑った。
ミナは杖を握り、足元を慎重に進む。
ガルドが振り返った。
「握りはどうだ」
「安定しています」
「ならいい」
「はい」
ミナの声は少し明るい。
ほんの少しの道具の調整で、人の動きは変わる。
アルトはそれを見て、ガルドの仕事の意味を少し理解した気がした。
派手な加護ではない。
投げ銭で光るスキルでもない。
でも、確かに誰かの手を支えている。
『同接、また減った?』
『今482』
『作業配信はやっぱり伸びないな』
『水路暗いし』
アルトは数字を見る。
【現在視聴中:482柱】
「減ってんな」
ガルムが言う。
「気にするな」
「気にしてねぇ」
「なら見るな」
「目に入るんだよ」
ミアが前から言う。
「気にしてるじゃん」
「うるせぇ」
「数字って嫌だよね。こっちが見たくなくても、向こうから顔を出す」
その言い方が妙に実感を帯びていた。
ガルムも黙った。
ミナも何も言わなかった。
ガルドだけが歩みを止めずに言う。
「数字は道具だ。使え。使われるな」
アルトは少しだけ目を細める。
「いいこと言うな」
「当たり前のことだ」
その時。
水路の奥から、かすかな声が聞こえた。
「……だれか」
ミナが顔を上げる。
「今、声が」
ミアが耳を立てる。
「子ども。奥。右側の排水枝路」
ガルドの表情が硬くなる。
「そっちは立入禁止のはずだ」
「行くぞ」
アルトが即答する。
ガルドは工具箱を下ろした。
「流量弁の前に枝路を確認する。ミア、前」
「分かってる」
ミアは駆け出した。
狭い水路を猫のように進む。
アルトたちも続く。
枝路の奥。
崩れた石材の間に、小さな男の子が座り込んでいた。
足首が石に挟まっている。
泣きすぎて声も弱い。
「いた!」
ミナが駆け寄ろうとする。
ガルドが止めた。
「待て。天井が緩い」
ミアが天井を見る。
「上、ひび。大声出したら落ちるかも」
男の子がアルトたちを見て、また泣き出しそうになる。
アルトはしゃがみ込み、声を落とした。
「大丈夫だ。助けに来た」
「……ほんと?」
「ああ。俺は財布は守れないが、子どもくらいは助ける」
『そこ比較する?』
『でも安心する』
『財布は守れない男』
「静かにしろ」
アルトが小声で言うと、コメント欄も少し大人しくなった。
ミナが杖を握る。
「足首が腫れています。先に痛みを抑えます」
「できるか」
「できます」
その声に震えはなかった。
ミナは男の子のそばに膝をつき、低く詠唱する。
「《ライトヒール》」
淡い光が足首を包む。
男の子の顔が少しだけ楽になる。
「痛いの、少し減った?」
「うん……」
ミナは微笑む。
「よかった」
アルトはその横顔を見た。
かつて「遅い回復術師」と呼ばれた少女が、今は誰かの痛みを静かに取っている。
誰も騒がない。
派手な光もない。
だが、ちゃんと届いている。
ガルドが石材を見る。
「挟まり方が悪い。無理に引けば骨をやる」
「どうする」
ガルドは工具箱を開けた。
「持ち上げる」
「できるのか?」
「そのための道具だ」
彼は小さな鉄の楔と薄い板を取り出した。
慎重に石材の隙間へ差し込む。
ガルムが支える。
「俺は?」
アルトが聞く。
「黙って支えろ」
「役割雑だな」
「雑用だと言った」
アルトは石を支えた。
肩に痛みが走る。
だが、押さえる。
ミアが天井を見上げる。
「揺れたら合図する」
「頼む」
ガルドの手は静かだった。
楔を打つ音も小さい。
かつん。
かつん。
水路に音が響く。
神界コメントは流れない。
誰も茶化さない。
いつの間にか、同接はさらに減っていた。
【現在視聴中:439柱】
それでも、残っている神々は黙って見ていた。
ガルドが言う。
「ガルム、少し上げろ」
「ああ」
「アルト、動くな」
「動いてねぇ」
「ミナ、足を引けるか」
「はい。ゆっくり」
ミナが男の子の足を支える。
「せーの」
石がわずかに浮く。
男の子の足が抜ける。
「抜けた!」
ミナが小さく言う。
その瞬間、天井から砂が落ちた。
ミアが叫ぶ。
「下がって!」
全員が一斉に退く。
小さな石が崩れ落ちる。
大崩落ではない。
だが、一歩遅れれば危なかった。
男の子が震えている。
ミナが抱きしめる。
「大丈夫。もう大丈夫です」
アルトは息を吐く。
「……心臓に悪い」
『助かった』
『地味だけど怖かった』
『ミナちゃん、落ち着いてた』
『ガルドさんの作業すごい』
ガルドは道具をしまう。
「騒ぐほどのことじゃない」
「いや、助かっただろ」
「助けるために来たわけではない。見つけたから助けた。それだけだ」
男の子が泣きながら言う。
「ありがとう……」
ガルドは目を逸らした。
「礼は足が治ってから言え」
ミナが少し笑った。
「同じことを言うんですね」
「仕事の礼は、仕事が終わってからでいい」
男の子はミナの肩に掴まりながら、水路の外へ戻ることになった。
ガルムが抱き上げる。
「軽いな」
「……おじさん、だれ?」
ガルムが固まった。
『おじさん』
『刺さった』
『元炎上おじさん』
「俺はまだおじさんではない」
男の子は首を傾げる。
「じゃあ、こわいお兄さん?」
「そっちの方が傷つく」
アルトは笑いをこらえた。
◇
男の子を水路の入口まで送り届けると、母親が泣きながら駆け寄ってきた。
「リオ!」
「お母さん……」
母親は男の子を抱きしめ、何度も頭を下げた。
「ありがとうございます、本当に……!」
ミナが慌てる。
「い、いえ、私は応急処置をしただけで」
「それでも、ありがとうございます」
アルトは少し離れて見ていた。
派手な歓声はない。
神界トレンドも出ない。
投げ銭もほとんど飛ばない。
ただ、母親が泣いている。
子どもが助かった。
それだけだった。
『……よかった』
『こういうのもいいな』
『でも同接は落ちてる』
『今421』
数字は正直だった。
誰かを助けても、派手でなければ神々は離れる。
アルトはそれを見て、少しだけ胸の奥が冷える。
ガルドが横に立った。
「戻るぞ。流量弁はまだ直っていない」
「今ので終わりじゃないのか」
「水路修理に来た」
「そうだった」
「人助けをしたからといって、水は流れん」
「正論がきつい」
ガルドは再び水路へ戻る。
アルトたちも続いた。
◇
流量弁は、水路の最奥にあった。
巨大ではない。
だが、古い。
丸い鉄の弁。
石壁に埋め込まれた水門装置。
周囲には錆びた金具と、何度も補修された跡がある。
ガルドはその前に立つと、しばらく黙った。
アルトは尋ねる。
「これも師匠の仕事か」
「ああ」
ガルドは手を伸ばし、古い金具を撫でた。
「四十年前の仕事だ」
「そんなに持つのか」
「持たせたんだ」
ガルドは工具箱を開ける。
その動きは、さっきまでより少しだけ丁寧だった。
アルトは黙って見ていた。
だが、神界コメントは少しずつ流れる。
『流量弁修理か』
『地味だな』
『職人作業は好きだけど長い』
『戦闘まだ?』
『トリックス様、何かしてくれないかな』
その最後のコメントで、空気が少し変わった。
アルトの目が細くなる。
ガルドの手も止まった。
「今、何と言った」
「戦闘まだ、とか、トリックスが何かしてくれないかな、とか」
アルトは正直に言った。
ガルドは静かに息を吐いた。
「そうか」
それだけ言って、作業を再開する。
かつん。
かつん。
ねじを緩める。
古い金具を外す。
錆を落とす。
革の封を取り替える。
魔石の流路を確認する。
地味だ。
とても地味だ。
だが、ガルドの手は迷わない。
ミアが水路の壁にもたれて言う。
「よくそんな地味な仕事、続けられるね」
ガルドは答えない。
ミアは続ける。
「あたしなら無理。誰にも見られないなら、やってる意味があるのか分からなくなる」
ガルドはしばらく黙っていた。
それから、低く言った。
「昔、よく見られる職人がいた」
全員が黙る。
ガルドは作業の手を止めずに続けた。
「火花を派手に散らし、刃に無駄な紋を刻み、神々が喜ぶように大げさな音を立てる。剣は光り、槍は鳴り、盾は派手に割れた」
『ショー職人?』
『映えそう』
『人気出るのは分かる』
ガルドは空を見なかった。
「人気だった。神貨も飛んだ。工房には客が並んだ。名前も売れた」
彼は錆びた弁を外す。
「俺の師匠は、その隣で水門を直していた」
水の音がする。
細く、詰まったような音。
「誰も見なかった。神も見なかった。人も見なかった。見たのは、水が出なくなった時だけだ」
アルトは、工房の壁に飾られていた古い槌を思い出す。
傷だらけで、磨かれていない槌。
「師匠は言った。見られない仕事ほど、失敗した時だけ気づかれる、と」
ガルドの声は変わらない。
だが、重かった。
「それでも直した。水門、橋、靴底、荷車の軸、鍋の取っ手。壊れたものを直した。誰も拍手しなかった。だが、街は動いた」
ミナが小さく言う。
「すごい人だったんですね」
「すごくはない」
ガルドは即答した。
「必要な人だった」
その一言に、アルトは黙った。
すごい人。
人気者。
選ばれる者。
見られる者。
そういう言葉とは違う。
必要な人。
それは、かなり強い言葉だった。
ガルドは古い金具を交換する。
「師匠が死んだ時、神界には何も流れなかった」
かつん。
「だが、その翌日も水は出た」
かつん。
「それでいい、と師匠は言っていた」
ミアは何も言わなかった。
ガルムも黙っていた。
アルトは聞いた。
「お前は、それでいいのか」
ガルドは手を止めた。
「分からん」
少し意外な答えだった。
「俺は師匠ほど出来た人間ではない。見られないことに腹が立つ時もある。派手なだけの仕事が褒められると、工具を投げたくなる」
「投げるのか?」
「一度だけ投げた」
「投げたんだ」
「師匠に殴られた」
アルトは少し笑った。
ガルドの口元もわずかに動く。
「だが、最後には手元に戻る。壊れたものを見ると、直さずにいられん」
「職人だな」
「呪いだ」
「かっこよく言ったのに」
「かっこよくするな」
『ガルドさん……』
『必要な人、いいな』
『水路修理、思ったより沁みる』
『同接戻ってきた?』
数字が少しだけ動いた。
【現在視聴中:458柱】
わずかに増えた。
アルトはそれを見た。
そして、少しだけ複雑な顔をする。
ガルドはその顔を見る。
「数字を気にするな」
「見えたんだよ」
「なら、見えても手を止めるな」
ガルドは新しい金具を締める。
「見られても、見られなくても、仕事は同じだ」
その言葉の直後。
水路の奥で、ごぼりと音がした。
詰まっていた水が動き出す。
ガルドが低く言う。
「来るぞ」
「何が?」
「水だ」
次の瞬間。
奥から勢いよく水が押し寄せてきた。
「うおっ!?」
アルトが足を取られそうになる。
ガルムが腕を掴む。
ミアが壁を蹴って高い位置へ避難する。
ミナが杖を握る。
「《フェザー・ステップ》!」
足元が軽くなる。
アルトは踏ん張った。
「水路修理って、こんな危険なのかよ!」
ガルドは平然としている。
「水はいつも危険だ」
「先に言え!」
「言ったら来なかっただろう」
「たしかに!」
『地味に危ない』
『水流イベント』
『戦闘じゃないけど緊張感ある』
ガルドは流量弁に手をかけ、ゆっくり回す。
重い音。
鉄が軋む。
水の勢いが少しずつ整っていく。
「アルト、左の補助弁を押さえろ」
「どれだよ!」
「赤錆のやつだ」
「全部錆びてる!」
「一番嫌な音を出しているやつだ」
「分かるか!」
ミアが上から叫ぶ。
「左下! 水が噴いてるとこ!」
「最初からそう言え!」
アルトは補助弁に飛びつく。
冷たい水が顔にかかる。
「冷たっ!」
『水も滴る奈落新人』
『絵面はちょっといい』
『やっぱり作業回も悪くない』
「いいから黙って見てろ!」
ミナが男の子の治療で消耗しているにもかかわらず、足元の補助を続ける。
ガルムが流木のように流れてきた破片を短剣で弾く。
ミアは上から詰まりの原因を見つける。
「右奥! 古い布が絡んでる!」
「取れるか!」
「行ける!」
ミアが壁を蹴る。
新しい靴底が石壁を捉えた。
滑らない。
一瞬、ミア自身が驚いた顔をする。
そして笑った。
「……ほんとに、悪くない」
彼女は細い腕を伸ばし、詰まっていた布を掴んだ。
「取った!」
布が抜けた瞬間、水の流れが変わる。
詰まっていた水が一気に抜けて、流路が整う。
ガルドが弁を締める。
最後に、重い音が鳴った。
がこん。
水音が落ち着いた。
静かに、一定の流れになる。
ガルドはしばらく耳を澄ませる。
それから言った。
「直った」
誰もすぐには喋らなかった。
ただ、水が流れている。
細く、正しく、静かに。
その音が、水路の奥へ続いていく。
アルトは水浸しのまま息を吐いた。
「……地味に疲れた」
『お疲れ』
『ちゃんと直った』
『水が流れる音、いいな』
『意外と見入った』
ガルドは工具をしまう。
「地味な仕事は疲れる」
「知ったよ」
「なら、覚えろ」
ミナが水の流れを見て微笑む。
「これで、東区の人たちが困らないんですね」
「ああ」
ガルドは短く答えた。
ミアが濡れた尻尾を嫌そうに振る。
「臭い。暗い。濡れた。最悪」
「来たこと後悔してるか?」
アルトが聞く。
ミアは少し黙った。
それから、靴底を見た。
「……半分」
「残り半分は?」
「言わない」
「そうかよ」
ガルムが水路の壁に寄りかかる。
「こういう依頼も、悪くないな」
「昔なら断ったんだろ」
「ああ」
「今は?」
ガルムは少しだけ笑った。
「皿運びよりは向いている」
「比較がまた悲しい」
その時。
水路の外から歓声が聞こえた。
「水が出た!」
「出たぞ!」
「薬湯屋、湯が使える!」
「洗い場も戻った!」
派手な歓声ではない。
だが、確かに喜んでいる声だった。
ミナの顔が明るくなる。
アルトは水路の出口を見た。
誰かの生活が、少しだけ戻った。
神界ランキングは動かない。
大きな投げ銭もない。
それでも、何かがちゃんと変わった。
アルトは小さく呟く。
「……悪くないな」
銀色のコメントが流れる。
『うん』
ルナだった。
『悪くない』
アルトは少し笑った。
◇
水路の外に出ると、東区の住民たちが集まっていた。
男の子リオは、母親に抱えられながら手を振っている。
「ありがとう!」
ミナが手を振り返す。
薬湯屋の男がガルドに頭を下げる。
「助かりました。これで今日は店を開けられます」
「礼は職人組合に言え。俺は依頼を受けただけだ」
「それでも、ありがとうございます」
ガルドは目を逸らした。
「……道具を乾かす場所を借りる」
「もちろんです」
老婆がアルトに小さな包みを渡した。
「これ、よかったら」
「何だ?」
「干し果物です。大したものではないけれど」
「いや、助かる」
アルトが受け取ると、ミアが横から覗く。
「干し果物?」
「お前、見るな」
「見るだけ」
「見るだけで終わるか?」
「半分」
「半分盗る気じゃねぇか」
老婆が笑った。
「猫の子にもあげるよ」
ミアの耳が立つ。
「……猫の子じゃない」
「じゃあ、ミアちゃん」
「ちゃんも違う」
「では、ミア」
老婆は干し果物を一つ差し出す。
ミアは少し迷ってから受け取った。
「……ありがと」
その声は小さかった。
現地の誰かに、顔や盗みではなく、ただ名前で呼ばれた。
それだけのことなのに、ミアの表情は少しだけ変わっていた。
アルトはそれを見て、何も言わないことにした。
その時、視界にランキング表示が浮かぶ。
【神界ランキング】
《アルト:41位》
変化なし。
同接も大きく増えていない。
【現在視聴中:463柱】
『ランキング変わらず』
『まあ水路修理だし』
『でも悪くなかった』
『こういう配信もたまにはいい』
アルトはその表示を見て、なぜか少し安心した。
上がらなかった。
でも、嫌ではなかった。
「数字にならないこともあるんだな」
そう呟くと、ガルドが横で言った。
「数字にならんから残るものもある」
「またいいこと言う」
「当たり前のことだ」
その時。
黒いコメントが一瞬だけ流れた。
【観測されにくい選択ほど、後に意味を持つ】
オルフェウスだった。
アルトは顔をしかめる。
「お前が言うと全部不穏になる」
返事はない。
ただ、水路の水音だけが聞こえていた。
ガルドは工具箱を背負い直す。
「帰るぞ」
「もう?」
「仕事は終わった」
「昼飯は?」
マルタの包みを掲げると、ガルドは少しだけ足を止めた。
「……食ってから帰る」
『食うんだ』
『マルタ弁当強い』
『水路修理飯』
アルトは笑った。
「よし。じゃあ食うか」
東区の水路脇。
濡れた石段。
派手さのない場所。
そこで五人は包みを広げた。
パン。
肉。
芋。
干し果物。
少し冷めていたが、うまかった。
ミアは干し果物をひとつ残して、懐にしまった。
アルトはそれを見たが、何も言わなかった。
ガルムは皿運びよりは水路の方がましだとぼやいた。
ミナは、杖の握りが本当に楽だと何度も言った。
ガルドは無言で食べた。
ルナは一度だけ、
『芋、今日は上手に剥けています』
とコメントした。
「俺が剥いたんじゃねぇよ」
『知っています』
「じゃあ言うな」
笑いが少しだけ起きる。
同接は少ない。
ランキングも上がらない。
トレンドにもならない。
それでも。
水は流れている。
誰かの飯屋が開く。
誰かの薬湯が作れる。
誰かの洗濯物が洗える。
誰かの子どもが家に帰れる。
アルトはパンをかじりながら、静かに思った。
配信映えしない。
でも。
たぶん、こういうことのために動く日があってもいい。
その時、ガルドがぽつりと言った。
「師匠なら、今日の仕事を見て怒る」
「なんでだよ。直しただろ」
「段取りが悪い。補助弁の確認が遅い。工具の置き方が甘い。あと、お前がうるさい」
「俺まで怒られるのか」
「当然だ」
アルトは苦笑する。
「厳しい師匠だな」
「そうだ」
ガルドは水路を見る。
流れる水を。
誰にも注目されない水を。
「だが、必要な人だった」
アルトは何も言わなかった。
その言葉だけで、十分だった。
やがて、遠くで鐘が鳴る。
昼を告げる音。
配信映えしない水路修理は、静かに終わった。
だが、アルトの中に、ひとつだけ残ったものがある。
見られなくても、残る仕事がある。
見られなくても、助かる人がいる。
それを知ったことは、たぶん。
ランキングより、少しだけ重かった。




