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第22話 女神ルナは何を知っている

 神界には、夜がない。


 正確には、夜という概念はある。


 月もある。


 星もある。


 だがそれは地上のように、眠るための暗さではない。


 演出だ。


 神々が眺めるための背景。


 退屈を紛らわせるために作られた、静かな飾り。


 その一角に、月の宮があった。


 白銀の柱。


 水面のように揺れる床。


 壁のない広間。


 空には大きな月が浮かび、その光がすべてを柔らかく照らしている。


 その中央で、女神ルナ=ミリスは黙っていた。


 目の前には、ひとつの配信画面が浮いている。


 赤猫亭の裏手。


 芋の皮を剥かされているアルト。


 隣でミナが笑っている。


 ガルムが不器用に皿を運び、マルタに怒鳴られている。


 何でもない光景だった。


 戦闘でもない。


 危機でもない。


 ランキングが上がるわけでもない。


 神々の多くにとっては、退屈な生活配信。


 けれどルナは、そこから目を離せなかった。


『芋、厚く剥きすぎ』


 思わずコメントを打ちかけて、やめる。


 アルトは疲れている。


 今日はもう、静かにしていた方がいい。


 そう思ったのに。


 画面の中のアルトが、雑に芋を剥く。


 皮というより、可食部をかなり持っていっている。


 ルナの指が震えた。


『違います。そこはもっと薄く――』


 打った。


 送信はしなかった。


「……何をしてるんでしょう、私は」


 ルナは小さく呟いた。


 その時、背後から声がした。


「本当に、何をしているのでしょうね」


 ルナは振り返らなかった。


 黒衣の神が、月光の床に音もなく立っていた。


 死神ネクロ。


 細い指。


 黒い長衣。


 冷たい微笑。


 彼はまるで葬列に花を添えるような優雅さで、ルナの近くへ歩いてくる。


「入室許可を出した覚えはありません」


「死は、いつも許可なく訪れるものです」


「ここは私の宮です」


「ええ。ですから、扉から入りました」


「扉などありません」


「では、礼儀正しく無断で」


 ルナはようやく振り向いた。


「帰ってください」


「おや。今日は『違います!!』ではないのですね」


「……帰ってください」


 ネクロは楽しそうに微笑んだ。


 彼の視線は、ルナの前に浮かぶ配信画面へ向く。


 そこではアルトが芋の皮を剥きすぎて、マルタに怒鳴られていた。


『あんた、それは芋を剥いてるんじゃない。削ってるんだよ!』


『うるせぇ! 俺は第二層主を倒したんだぞ!』


『芋には関係ないね!』


 ネクロは薄く笑う。


「平和ですね」


「そうですね」


「つまらないと言う神も多いでしょう」


「でしょうね」


「あなたは?」


 ルナは少し黙った。


 画面の中で、アルトが文句を言いながら芋を剥いている。


 ミナが笑っている。


 ガルムが少し呆れている。


 マルタが怒鳴っている。


 どこにでもありそうな、食堂の夕方。


 ルナは言った。


「……嫌いではありません」


「ずいぶん控えめな言い方を」


「うるさいです」


 ネクロは笑う。


「あなたがここまで一人の人間に肩入れするのは、久しぶりですね」


 ルナの指が止まる。


 月光が、わずかに冷えた。


「何を言いに来たのですか」


「忠告を」


「あなたが?」


「ええ。私は親切な死神ですので」


「初耳です」


 ネクロはまったく気にしなかった。


「観測神が、彼を見ています」


「知っています」


「ただ見ているだけではありません」


「それも、知っています」


「では、なぜ止めないのです」


 ルナは答えなかった。


 ネクロの声は、静かだった。


「ルナ様」


 その呼び方で、月の宮の空気が変わった。


 ふざけた調子が消える。


 死神が、月の女神に対して礼を取る時の声。


 それは、普段のコメント欄では決して見せない神界の序列だった。


「本来、あなたが新人配信を追いかける必要などありません」


 ルナは黙っている。


「あなたが神貨を投じるだけで、神界の相場が動きます。あなたがコメントを落とすだけで、界隈が揺れる。あなたが沈黙するだけで、他の神々が疑う」


「大げさです」


「いいえ」


 ネクロは静かに首を振った。


「あなたは、自分の重さを忘れている」


 ルナの銀色の瞳が、わずかに細くなる。


「忘れたことなどありません」


「ならば、なお悪い」


 ネクロは配信画面を見る。


「彼は、すでに観測神の関心を引いた。さらに、あなたの関心まで引いた。神界でこれ以上目立てば、他の主神も動きます」


「もう動いています」


「ええ。戦神は笑い、私は投げ、商業神は数字を見ている。愛神は騒ぎ、知識神は記録を集めている。遊戯神は賭けの準備を始めた」


「……トリックスが?」


「ええ。つまらない平穏を壊すのが彼の趣味ですから」


 ルナの表情が硬くなった。


 画面の中では、アルトがミナに芋の剥き方を教わっている。


 本人は真剣だ。


 神界のどこかで、新しい遊びの対象にされていることなど知らない。


「やめさせます」


「どうやって?」


 ネクロの問いは鋭かった。


「あなたが命じますか? 十二主神の一柱として」


 ルナは沈黙する。


「それとも、ただの推し神として?」


 月の宮に、沈黙が落ちた。


 ルナは何も言わなかった。


 ネクロは、少しだけ目を伏せる。


「どちらの顔で彼を見るのか、そろそろ決めた方がよいかもしれません」


「……あなたに言われることではありません」


「ええ。私もそう思います」


 ネクロは微笑む。


「ですが、言う神が少なくなりましたので」


 その言葉は、妙に重かった。


 ルナは配信画面を見る。


 アルトが芋を落とした。


 マルタに怒鳴られた。


 ミナが笑った。


 ガルムが拾った。


 ただの夕方。


 ただの生活。


 ただ、誰かが生きているだけの時間。


 ルナは小さく呟いた。


「……あの人は、物語になりたがっていません」


「そうですね」


「観測神は、そこを面白がっています」


「そうですね」


「最低です」


「神とは、だいたい最低なものです」


「一緒にしないでください」


「違いますか?」


 ルナは答えなかった。


 ネクロは少しだけ笑う。


「その沈黙は、肯定に近い」


「違います」


「おや、出ましたね」


「違います」


 今度は、声が弱かった。


 ネクロはその弱さを見逃さない。


「ルナ様。前にも、同じような顔をしていました」


 ルナの周囲の月光が、ぴたりと止まった。


「……その話はしないで」


「では、あえて名は出しません」


「ネクロ」


「ただ、事実だけを」


 死神は、静かに言う。


「帰還を望んだ者がいた。観測神は微笑んだ。神々は祝福した。あなたは、見送った」


 ルナは何も言わない。


「そして、その後の記録は閉じられた」


 月の宮の光が、わずかに揺れた。


 ルナの手が、膝の上で握られている。


「私は、止められなかったわけではありません」


「ええ」


「知らなかっただけです」


「ええ」


「だから、私のせいでは――」


 言いかけて、ルナは止まった。


 ネクロは何も言わない。


 ルナも、それ以上続けなかった。


 画面の中で、アルトがふと空を見た。


 何かに気づいたわけではない。


 ただ、少しだけ顔を上げただけ。


 その視線が、偶然こちらを向いたように見えた。


 ルナは息を呑む。


「……また、同じことになると思いますか」


 ネクロは答えない。


 代わりに、静かに言った。


「彼は、似ていません」


 ルナが振り向く。


「え?」


「あの時の者とは、似ていません」


 ネクロは配信画面を見る。


「恐れ方も、怒り方も、笑い方も違う。何より、彼は観客を疑っている」


「それは良いことですか」


「生存には役立ちます」


「死神らしい答えですね」


「ええ」


 ネクロは少しだけ楽しそうだった。


「それに、彼はあなたを名前で呼ぶ」


 ルナの肩が小さく跳ねた。


「そこは関係ありません」


「あります」


「ありません」


「何度も見返していましたね」


「見ていません」


「月の記録が震えていました」


「見ていません」


「配信画面を拡大していました」


「見ていません!」


 ようやく声が大きくなる。


 ネクロは満足そうに微笑んだ。


「少し戻りましたね」


「あなた、本当に性格が悪いです」


「死神ですので」


「理由になっていません」


 その時、月の宮の上空に別の画面が開いた。


 金色の数字が流れている。


 収益。


 同接。


 ランキング推移。


 クリップ再生数。


 そして、細い声。


『失礼するよ、ルナ様』


 商業神マルクトの声だった。


 姿はない。


 声と数字だけがある。


 ルナの表情がさらに険しくなる。


「今度は何ですか」


『アルト・ヴェインの今後について、収益予測を持ってきた』


「いりません」


『いる。彼は今、神界で非常に効率の良い感情資産だ』


「その言い方をやめなさい」


『事実だ。第二層主撃破後、戦闘配信よりも生活配信での継続率が高い。珍しいタイプだよ。悲鳴、怒り、ツッコミ、食事、睡眠、すべてに視聴価値がある』


「だから、やめなさい」


 声が冷えた。


 マルクトの数字が一瞬止まる。


『……失礼。だが、他の主神も同じものを見ている』


 画面に新しい項目が浮かぶ。


【アルト・ヴェイン】

【スポンサー候補:増加中】

【干渉希望神:十二主神内、複数確認】


 ルナは目を細める。


「誰です」


『開示権限がない』


「マルクト」


『その声で呼ばないでほしい。数字が乱れる』


 ネクロが笑った。


「さすがですね。商業神が怯えている」


『怯えていない。損失を避けているだけだ』


 ルナは金色の画面を見る。


「アルトに、余計な契約を持ち込まないで」


『それは難しい。彼はもう四十二位だ。しかも観測終了に疑問を持った。上位神にとっては、かなり面白い素材になっている』


「素材ではありません」


『では、何だと?』


 ルナは答えなかった。


 ネクロが面白そうにルナを見る。


 マルクトの数字が沈黙する。


 月の宮に、静かな空白が生まれる。


 ルナは配信画面を見る。


 アルトが芋を剥いている。


 下手だ。


 不器用だ。


 文句ばかり言っている。


 それでも、そこにいる。


 ミナが笑っている。


 ガルムが皿を運んでいる。


 マルタが怒鳴っている。


 彼らは、数字ではない。


 素材でもない。


 神々の暇潰しのために生きているわけではない。


 ルナは、ゆっくりと言った。


「……私が見たい人です」


 ネクロの目が細くなる。


 マルクトの数字が、一瞬乱れた。


『なるほど』


 商業神は、短く言った。


『それは高くつく』


「構いません」


『本当に?』


「構いません」


 ルナの声は静かだった。


 だが、月の宮全体がその言葉に従うように、銀の光を強めた。


 ネクロは小さく笑った。


「その言葉、観測神が聞けば喜ぶでしょう」


「勝手に喜ばせておきなさい」


「彼は、あなたの感情も観測します」


「知っています」


「神であるあなたが、観られる側に近づいている」


 ルナは少しだけ目を伏せた。


 そして、言った。


「……知っています」


 その言葉は、ひどく小さかった。


 マルクトの画面が少し暗くなる。


『では警告だけ残しておく。アルト・ヴェインに対する次の干渉は、観測神だけでは済まない』


「誰が動くのですか」


『遊戯神トリックスが、投票型干渉を申請している』


 ネクロが眉を上げる。


「早いですね」


『早い。退屈した神々に選択肢を与え、多数派の票で地上の状況を動かす。トリックス好みの、悪趣味な遊びだ』


 ルナは唇を引き結ぶ。


「却下しなさい」


『私にはできない。十二主神間の干渉申請は、一定の支持が集まれば通る』


「支持?」


『退屈している神々の支持だ』


 ルナの目が冷える。


「退屈」


 その言葉に、ネクロも黙った。


 マルクトも何も言わない。


 ルナは画面の中のアルトを見る。


 彼は芋の皮を剥きながら、何か文句を言っている。


 たぶん、また切り抜くなと言っているのだろう。


 その何でもない顔を見て、ルナは思う。


 退屈。


 その言葉で、誰かの人生を動かすな。


 だが、声には出さなかった。


 出せば、神界の空気が変わる。


 今のルナは、それほど軽く言葉を使えない。


『では、私は失礼する。収益予測は月宮に送っておく』


「いりません」


『送る』


「いりません」


『記録上は送ったことにする』


「マルクト」


『失礼する』


 金色の画面は消えた。


 月の宮に残ったのは、ルナとネクロ。


 そして、赤猫亭の夕暮れを映す画面だけ。


 ネクロは静かに言う。


「忙しくなりますね」


「あなたは楽しそうですね」


「ええ。美しい死の気配が遠のき、美しい混乱の気配が近づいている」


「最低です」


「よく言われます」


 ルナは溜息をついた。


「ネクロ」


「はい」


「もし、あの人が本当に帰還を望んだら」


 声が少しだけ揺れる。


「私は、止めるべきでしょうか」


 死神は、しばらく黙っていた。


 月光が、静かに流れる。


 やがて、ネクロは言った。


「それを決めるのは、あなたではありません」


 ルナは顔を上げる。


「彼です」


 ネクロは続ける。


「あなたがすべきことは、帰還を選ばせることでも、諦めさせることでもない」


「では、何を」


「彼が、自分で選べるところまで生かすことです」


 ルナは黙った。


 その言葉は、死神のものにしては優しかった。


 だから余計に、痛かった。


「……あなた、本当に死神ですか」


「失礼ですね」


「たまにまともなことを言うので」


「死が近い場所では、真実がよく見えるのです」


「やっぱり死神でした」


 ネクロは一礼する。


「では、私も失礼します。次に彼が死に近づいた時には、また投げましょう」


「できれば近づけないでください」


「それは彼次第です」


「本当に最低」


「よく言われます」


 黒衣の死神は、月光の中に溶けるように消えた。


 月の宮に、ルナ一人が残る。


 彼女はしばらく動かなかった。


 それから、配信画面へ向き直る。


 アルトは、ようやく芋を剥き終えたらしい。


 剥いたというより、かなり小さくなっている。


 マルタが怒鳴っている。


 ミナが笑っている。


 ガルムが呆れている。


 ルナは、今度こそコメントを送った。


『小さくなりすぎ』


 画面の中で、アルトが空を見上げた。


「うるせぇ! 芋くらい好きに剥かせろ!」


『食べる部分が減っています』


「俺の芋だ!」


『もったいないです』


「神様に生活指導される覚えはねぇ!」


 ルナは少しだけ笑った。


 それから、誰にも見えない場所で、そっと呟く。


「……今度は」


 声は月光に溶けた。


「見送るだけには、しない」


 その時。


 白い仮面の神が、月の宮の外縁に立っていた。


 いつからそこにいたのか。


 気配はなかった。


 観測神オルフェウス。


 彼は拍手もしない。


 笑いもしない。


 ただ、静かに言った。


【良い決意です】


 ルナは振り返らない。


「覗き見とは、趣味が悪いですね」


【観測です】


「同じです」


【いいえ。覗き見は隠れて見ること。観測は、世界に記録すること】


「最低です」


【よく言われます】


 ルナの声が冷える。


「アルトに何をするつもりですか」


【私は何もしません】


「嘘」


【試すだけです】


「同じです」


【いいえ】


 オルフェウスは、配信画面を見る。


 赤猫亭。


 芋。


 笑い声。


 小さな生活。


【彼が帰還を望むのか】

【観測終了を拒むのか】

【それとも、別の答えを出すのか】


 白い仮面が、わずかに傾く。


【とても興味深い】


 ルナは銀色の瞳で、オルフェウスを睨む。


「彼は、あなたの物語ではありません」


【ええ】


 オルフェウスは即答した。


【だからこそ、物語になる】


 ルナは何も言わない。


 言えば、それすら観測される。


 だから黙った。


 オルフェウスは、静かに告げる。


【遊戯神の申請は通ります】


 ルナの表情が変わる。


「あなたが通したのですか」


【退屈している神々が望みました】


「あなたも望んだ」


【ええ】


 隠さなかった。


 オルフェウスは続ける。


【平穏は美しい。ですが、長く続けば観測価値を失う】


「黙りなさい」


【次の配信では、選択が起こります】


「何の」


【誰を助けるか】


 月の宮の空気が凍った。


 ルナは立ち上がる。


「やめなさい」


【やめません】


「オルフェウス」


【ルナ=ミリス】


 初めて、観測神が名を呼んだ。


 いつもの平坦な声ではない。


 少しだけ、古い響きがあった。


【あなたは、まだ神です】


 ルナは何も言わない。


【神であるなら、見届けなさい】


「……私は」


 ルナは、配信画面を見る。


 アルトが、空に向かって何か文句を言っている。


 たぶん、またルナに言い返している。


 それだけで、胸が少し痛む。


「私は、ただ見ているだけの神ではいたくない」


 オルフェウスは沈黙した。


 そして、言った。


【それもまた、良い変化です】


 白い仮面の神は消えた。


 月の宮に、静けさが戻る。


 ルナはしばらく立ち尽くしていた。


 それから、配信画面に向かって、そっとコメントを打つ。


『アルト』


 画面の中で、アルトが顔を上げた。


「今度はなんだよ」


 ルナは少し迷った。


 言えることは少ない。


 言えないことは多い。


 それでも、何かを伝えたかった。


『明日は、気をつけて』


 アルトは眉をひそめる。


「何にだよ」


 ルナは答えられない。


 だから、いつものように誤魔化した。


『芋の剥き方』


「そこかよ!!」


 赤猫亭に笑い声が広がる。


 ルナも少し笑った。


 けれど、その指は震えていた。


 明日。


 遊戯神が動く。


 観測神が見ている。


 そしてアルトは、まだ何も知らない。


 月の女神は、画面の向こうの青年を見つめる。


 見ているだけでは、もう足りない。


 でも。


 何ができるのかは、まだ分からなかった。


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