第21話 見られるのが怖かった理由
赤猫亭へ戻る途中、三人はほとんど話さなかった。
奈落都市エルデンは、いつも通り騒がしい。
屋台の呼び声。
荷車の車輪。
巨大スクリーンに流れる配信予定。
神界ランキングの速報。
通りを行き交う人々の声。
だが、アルトの耳には、ヘルメス・ネットワークで見た文字だけが残っていた。
【観測終了】
帰還ではなく。
観測終了。
帰還者二十三名。
以後の記録、閲覧不可。
そして。
【……ギ】
名前の最後に残っていた、たった一文字。
「……ギ、ね」
アルトは小さく呟いた。
『気になるな』
『誰なんだ』
『帰還者なのか?』
『ルナ様、黙ってるしな』
銀色のコメントは流れない。
ルナは、あれからずっと静かだった。
いつもなら、何かしら言ってくる。
心配したり、怒ったり、変なところで張り合ったりする。
それがない。
その沈黙が、何より不気味だった。
「アルトさん」
隣を歩くミナが、小さく声をかけてきた。
「大丈夫ですか?」
「大丈夫に見えるか?」
「……見えません」
「正直でよろしい」
『恒例になってきた』
『正直ミナちゃん』
『新人も大丈夫ではない』
ミナは少しだけ笑った。
でも、その笑みはすぐに消えた。
「帰還って……怖いですね」
「まあな」
「帰れるなら、良いことだと思ってました」
「俺もだ」
アルトは前を見る。
赤猫亭の看板が見えてきた。
赤い猫の絵。
その下で、女将のマルタが腕を組んで立っている。
まるで、最初から待っていたみたいだった。
「戻ったかい」
「戻った」
「顔が悪いね」
「元からだ」
「顔立ちの話じゃないよ。腹の中に変なもん抱えてる顔だ」
『マルタ女将、鋭い』
『さすが神貨拒否の女』
『見ただけで分かるのか』
アルトは苦笑する。
「あんた、配信見てないんじゃなかったのか」
「見てないよ」
マルタは即答した。
「でも、飯を食う前の顔と、厄介事を抱えた顔くらいは分かる」
「それはすごいな」
「長く飯屋をやってりゃ分かるさ」
マルタはちらりとミナを見る。
「そっちの嬢ちゃんも、顔が硬い」
「えっ」
「飯食いな。考え事は腹を温めてからにしな」
「朝も食ったんだけどな」
「あんたは黙って座る」
「はい」
『完全に支配されてる』
『マルタ女将、パーティの実質リーダー』
『赤猫亭、拠点化待ったなし』
ガルムが低く笑った。
「お前、女将には弱いな」
「お前もだろ」
「否定はしない」
マルタは店の扉を開ける。
「昼はまだ混む前だ。奥の席を使いな」
三人は言われるまま、赤猫亭の奥へ入った。
◇
昼前の赤猫亭は、朝より静かだった。
客は少ない。
それでも、完全な無人ではない。
隅の席で酒を飲む老人。
皿を拭く若い店員。
早めの昼飯を食べている配達人らしき男。
そして、やはりこちらを見る視線。
外ほどではない。
ヘルメス・ネットワークほどでもない。
だが、消えてはいない。
アルトは椅子に座るなり、小さく息を吐いた。
「……どこに行っても見られるな」
マルタが水を置きながら言う。
「街で四十二位なんかになれば、そうなるさ」
「なりたくてなったわけじゃない」
「でも、なったんだろ」
あっさり言われて、アルトは黙る。
マルタは続けた。
「見られるのが嫌なら、顔を伏せて飯を食いな。見られても腹は減る。嫌でも食え。倒れたら、もっと見られるよ」
「救いがない」
「飯屋に救いを求めるんじゃないよ。飯を求めな」
『名言っぽい』
『マルタ語録』
『飯屋に救いを求めるな』
「神々が妙に感心してるぞ」
「知らないよ。神様も腹が減ったら注文しな」
マルタは厨房へ戻っていく。
ガルムが水を飲みながら言った。
「あの人は昔からああだ」
「見てれば分かる」
「配信者が勝っても負けても、飯を出す。ランキングが上がっても下がっても、値段を変えない」
「いい人じゃねぇか」
「ああ。怖いけどな」
「それは分かる」
ミナは、目の前の水杯を両手で包み、黙っていた。
アルトはその様子に気づく。
「ミナ」
「はい」
「無理してるだろ」
ミナはびくりと肩を震わせた。
「そ、そんなことは……」
「分かりやすいな、お前」
『分かりやすい』
『ミナちゃんは顔に出る』
『守りたいけど隠し事できなそう』
ミナは小さく俯いた。
「……少し、考えていました」
「帰還のことか?」
「それも、あります」
ミナはしばらく黙った。
指先が水杯の縁をなぞる。
言うか、言わないか。
迷っている。
ガルムが椅子を引いた。
「俺は外すか」
ミナが顔を上げる。
「い、いえ」
ガルムは目を細める。
「俺がいたら話しにくいだろ」
「……少しだけ」
「正直だな」
「す、すみません」
ガルムは立ち上がった。
「謝るな。俺は、謝られる立場じゃない」
それだけ言うと、ガルムは店の入口の方へ歩いていった。
途中でマルタに捕まる。
「どこ行くんだい」
「外で待つ」
「皿運び手伝ってからにしな」
「なぜ俺が」
「飯代、払えるのかい?」
「……手伝う」
『ガルム、労働開始』
『元ランキング勢、皿運びへ』
『再起の第一歩』
アルトは思わず吹き出した。
「何やってんだ、あいつ」
ミナも少しだけ笑った。
その笑いで、空気がわずかに柔らかくなる。
アルトは水を飲み、ミナを見る。
「で、何を考えてた」
ミナはしばらく黙っていた。
そして、ぽつりと言った。
「私、昔も配信に出たことがあるんです」
アルトは黙る。
コメント欄も、少し静かになった。
『ミナちゃんの過去か』
『聞いていいやつ?』
『静かにしよう』
珍しく、神々が空気を読んだ。
ミナは続ける。
「正式な配信者ではありませんでした。回復術師の見習いとして、知り合いの冒険者パーティに同行しただけです」
「何歳の時だ」
「十五です」
「若いな」
「はい」
ミナは水杯を見つめる。
「その時、私は……嬉しかったんです」
「嬉しかった?」
「はい。役に立てると思ったから」
ミナの声は小さい。
だが、途切れない。
「私は、回復魔法が得意ではありませんでした。威力も弱くて、発動も遅くて、教会でもよく言われました。『あなたは優しいけど、戦場向きじゃない』って」
「嫌な言い方だな」
「本当のことでしたから」
「本当でも言い方ってもんがある」
ミナは少しだけ笑った。
「アルトさんらしいですね」
「俺はだいたい怒るぞ」
『知ってる』
『理不尽に弱い新人』
『怒り方が生活者』
「褒めてんのか、それ」
ミナは少しだけ息を吐く。
「でも、そのパーティの人たちは、私に言ってくれたんです。『少しでも回復できるなら助かる』って。『一緒に来てほしい』って」
「いい人たちだったのか?」
「はい」
ミナは頷く。
「だから、頑張ろうと思いました」
その声が、少し震えた。
「でも、その配信は……少し注目されていました」
「なんで?」
「そのパーティの前衛が、若手で人気のある人だったんです。神様たちにも期待されていて、初めて中級迷宮に挑む配信で」
ミナは目を伏せる。
「私は、後ろにいるだけでよかった。怪我をしたら回復する。それだけの役目でした」
「それだけって言うなよ。大事だろ」
「……ありがとうございます」
ミナは小さく頷いた。
「でも、私は失敗しました」
店の奥で、皿の触れる音がした。
ガルムが遠くでマルタに怒られている。
「割るんじゃないよ!」
「割ってない!」
「割りそうな顔をしてる!」
「顔で決めるな!」
アルトはそちらを見そうになったが、やめた。
今はミナの話を聞くべきだった。
ガルムには聞こえていない。
たぶん、それでよかった。
これは、ミナが誰に話すかを自分で決めるべきことだ。
「何があった」
ミナは唇を噛む。
「魔物の攻撃が、思ったより速くて。前衛の人が大怪我をしました。私は回復しようとしました。でも、手が震えて……詠唱が詰まって……」
ミナの指先が、今もわずかに震えていた。
「コメントが聞こえたんです」
「聞こえた?」
「はい。私には、アルトさんみたいに文字は見えません。でも、あの時だけ、声がたくさん聞こえました」
アルトの表情が変わる。
普通の配信者はコメントを直接読めない。
だが、加護や状況次第で音声のように聞こえることがある。
そう聞いていた。
ミナは、その声を覚えている。
「『遅い』」
小さく言う。
「『何してる』」
もう一つ。
「『役立たず』」
アルトは黙った。
ミナの声は淡々としていた。
淡々としているからこそ、痛かった。
「その人は助かりました。死にはしませんでした。でも、腕に後遺症が残りました」
「……お前のせいじゃないだろ」
ミナは首を振る。
「分かりません」
「いや、分かるだろ」
「分かりません」
ミナは、少し強く言った。
そして、自分でも驚いたように目を伏せる。
「すみません」
「謝るな」
「……はい」
アルトは椅子に背中を預ける。
コメント欄は、驚くほど静かだった。
誰も茶化さない。
誰も笑わない。
少し前なら、そうではなかったかもしれない。
でも今は、少なくとも、黙っていた。
ミナは続ける。
「その配信の後、私は少しだけ有名になりました」
「悪い意味でか」
「はい」
ミナは苦笑する。
「『遅い回復術師』って呼ばれました」
アルトの奥歯が鳴った。
「……誰がそんな呼び方を」
「いろんな人です。神様も、街の人も、配信者さんたちも。たぶん、悪気がない人もいました。ただ、そういう名前で覚えられただけなんです」
それが一番きつい。
アルトはそう思った。
悪意だけなら、まだ怒れる。
でも、ただの記号として覚えられること。
失敗の一場面だけで、人間全部を名前にされること。
それは、たぶん、なかなか消えない。
「それから、私……人前で魔法を使うのが怖くなりました」
ミナは自分の手を見る。
「見られていると、手が震えるんです。失敗したら、またあの声が聞こえる気がして」
「だから、ガルムに言われても危険配信を嫌がってたのか」
ミナは頷く。
「ガルムさんが全部悪いわけじゃありません。私も、怖くて断れなかった。断ったら、また役に立たないと思われる気がして」
「それは違う」
アルトは即答した。
ミナが顔を上げる。
「怖いのに断れないようにしたやつが悪い」
アルトは言った。
「お前は悪くない」
ミナの瞳が揺れる。
「でも」
「でもじゃない」
「アルトさん」
「俺はそう思う」
短く言う。
ミナは何かを言いかけて、やめた。
代わりに、小さく息を吐く。
「……ありがとうございます」
少しの沈黙。
ミナはテーブルの上に置いた杖を見つめる。
「第二層で、アルトさんが言ってくれましたよね」
「何を?」
「俺を助けてくれ、って」
「ああ」
「嬉しかったんです」
ミナは微かに笑う。
「失敗したらどうしようって思いました。見られているのも怖かったです。でも、それより……頼られたのが嬉しかった」
アルトは黙った。
「私は、役に立ちたいんじゃなくて」
ミナは、言葉を探すようにゆっくり続ける。
「捨てられたくなかったんだと思います」
アルトは、ガルムの言葉を思い出した。
見られたかったんじゃない。
見捨てられたくなかっただけだ。
ミナも同じなのだ。
違う形で。
違う傷で。
同じ場所を怖がっている。
「見られるのが怖いのに」
ミナは言う。
「見られなくなったら、いなくなってしまうような気がしていました」
その言葉に、アルトの胸が少し冷える。
観測終了。
世界から忘れられていく者。
人気を失った冒険者。
ミナの個人的な恐怖と、この世界の仕組みが、どこかで繋がっている気がした。
「……嫌な世界だな」
アルトは呟く。
ミナは小さく頷いた。
「でも」
彼女は顔を上げる。
「今は、少し違います」
「何が」
「見られているから頑張るんじゃなくて」
ミナはまっすぐアルトを見る。
「助けたい人がいるから、頑張れるんだと思います」
アルトは一瞬、言葉を失った。
コメント欄も止まっていた。
本当に。
完全に。
やがて、ひとつだけ流れる。
『……良い子だ』
それだけだった。
アルトは鼻を鳴らした。
「神様に言われなくても分かる」
ミナが目を丸くする。
「え?」
「いや、なんでもない」
『照れた』
『新人、照れたぞ』
『今のは照れ』
「うるせぇ。せっかく黙ってたのに復活するな」
ミナは少しだけ笑った。
その笑顔は、昨日より柔らかかった。
その時、厨房からマルタの声が飛んできた。
「話が終わったなら食べな! 冷めたスープほど情けないものはないよ!」
アルトは振り返る。
「聞こえてたのか!?」
「聞こえないふりはしてたよ!」
「それ聞こえてるって言うんだよ!」
ガルムが皿を持ちながら通りかかった。
「お前、女将に勝とうとするな。無駄だ」
「皿運び似合ってるぞ」
「黙れ」
『ガルム店員化』
『赤猫亭に就職か?』
『炎上配信者から皿運びへ』
ガルムはなぜか背筋をぞわっとさせた。
「また何か言われてるな」
「まあな」
「悪口か」
「半分くらい」
「半分は?」
「応援」
ガルムは少しだけ黙った。
「……そうか」
その横顔は、少しだけ穏やかだった。
◇
夕方。
赤猫亭の外は、橙色に染まっていた。
アルトは店の裏手にある小さな木箱に腰掛けて、空を見ていた。
ミナの話は、まだ胸に残っている。
遅い回復術師。
役立たず。
そう呼ばれて、手が震えるようになった少女。
それでも、第二層では立った。
自分の意思で。
「……みんな、何かしら抱えてんな」
『新人もな』
『社畜時代の話、もっと聞きたい』
『聞くな。たぶん重い』
「勝手に想像するな」
アルトは空を見上げる。
そこに銀色のコメントが、そっと流れた。
『ミナは、強いね』
「ああ」
『あなたも』
「俺は違う」
『違わない』
「違う」
『頑固』
「お前に言われたくない」
少しの沈黙。
ルナは珍しく、それ以上からかわなかった。
ただ、静かにコメントを流す。
『見られるのが怖い子が、それでも誰かを助けるのは、とても強いこと』
「神様らしいこと言うじゃねぇか」
『神様です』
「そうだったな」
アルトは少し笑う。
だが、その笑いはすぐに薄れる。
「なあ、ルナ」
『なに』
「お前も、見られるのが怖かったことあるのか?」
銀色のコメントが止まった。
長い沈黙。
風が吹く。
赤猫亭の裏口から、皿を洗う音が聞こえる。
やがて。
『昔は、見られる側じゃなかった』
それだけ流れた。
アルトは目を細める。
「今は?」
返事はすぐには来なかった。
『今も、違うと思ってた』
曖昧な言葉だった。
だが、アルトには妙に引っかかった。
ルナは、観る側だ。
神であり、視聴者であり、投げ銭する側。
そのはずだ。
なのに。
今の言い方は、まるで。
「……お前、何を怖がってるんだ」
答えはなかった。
代わりに、銀色の文字が小さく流れる。
『まだ、言えない』
「そればっかりだな」
『ごめん』
「謝るな。気になるだろ」
『気にして』
「開き直るな」
その時、店の中からミナの声がした。
「アルトさん、マルタさんが夕食の準備を手伝えって……」
「俺、怪我人なんだけど」
「軽いものだけでいいそうです」
「軽いものって?」
「芋の皮むきです」
「それ本当に軽いのか?」
『芋回』
『食事配信適性がまた上がる』
『奈落新人、芋を剥く』
「切り抜くなよ。絶対切り抜くなよ」
アルトは立ち上がる。
身体はまだ痛い。
でも、昼より少しだけ軽かった。
ミナが裏口に立っている。
少し前より、背筋が伸びている。
まだ怖がり。
まだ震える。
でも、逃げない。
アルトはその姿を見て、小さく笑った。
「行くか」
「はい」
店の中へ戻ろうとした時。
黒いコメントが、一瞬だけ流れた。
【恐怖を抱えたまま進む者は、美しい】
オルフェウス。
アルトは足を止めた。
ミナは気づいていない。
アルトだけが空を睨む。
「……黙って見てろ」
黒い文字は消えた。
それでも、見られている感覚は残った。
アルトは息を吐く。
それから、赤猫亭の中へ入った。
そこには、湯気と、皿の音と、マルタの怒鳴り声があった。
「遅いよ! 芋が待ってる!」
「芋は待たねぇだろ!」
「待たせるんじゃない!」
「理不尽!」
ミナが笑う。
ガルムが呆れる。
マルタが怒鳴る。
コメント欄が騒ぐ。
ルナが、たぶん少し笑っている。
見られている。
相変わらず、逃げ場はない。
でも。
その中で誰かと笑えるなら。
ほんの少しだけ。
その視線も、悪くないのかもしれない。




