表示調整
閉じる
挿絵表示切替ボタン
▼配色
▼行間
▼文字サイズ
▼メニューバー
×閉じる

ブックマークに追加しました

設定
0/400
設定を保存しました
エラーが発生しました
※文字以内
ブックマークを解除しました。

エラーが発生しました。

エラーの原因がわからない場合はヘルプセンターをご確認ください。

ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
PR
20/105

第20話 帰還者の記録

 翌朝。


 アルトは、布団の中で目を覚ました。


 天井があった。


 地面ではない。


 赤い空でもない。


 獣の牙でもない。


 ちゃんとした木の天井だった。


「…………」


 アルトは、しばらく無言で天井を見つめた。


 それから、ゆっくり呟く。


「……生きてる」


『おはよう』

『生存確認』

『寝起き配信助かる』


「朝からいるなよ、お前ら」


 視界の端に、神界コメントが流れている。


 昨日よりも、少し少ない。


 それでも多い。


【現在視聴中:721柱】


「寝起きで七百は嫌すぎるだろ……」


『朝配信としては強い』

『布団から出るところ見たい』

『二度寝する?』


「しねぇよ」


 そう言いながら、アルトは布団から出ようとした。


 全身が悲鳴を上げた。


「っ、ぐ……!」


『したほうがいい』

『二度寝推奨』

『身体バキバキで草』


「草じゃねぇ……」


 痛い。


 昨日よりはマシだが、まだ痛い。


 肩も脇腹も、ひきつるように痛む。


 無理やり起き上がると、視界に小さな通知が浮かんだ。


【神界ランキング】

《アルト:42位》


 その表示を見て、眠気が一気に引いた。


 四十二位。


 帰還圏内。


 昨日から変わっていない。


 喜ぶべき数字だった。


 なのに、やはり胸の奥が少し冷える。


「……帰還、ね」


 小さく呟いた、その時。


 扉がノックされた。


「アルトさん、起きてますか?」


 ミナの声だった。


「起きてる」


「入っても大丈夫ですか?」


「ちょっと待て。今、人として最低限の体裁を整える」


『人として最低限の体裁』

『寝癖すごいぞ』

『顔は死んでる』


「黙れ」


 アルトは髪を適当に手ぐしで直し、上着を羽織った。


「いいぞ」


 扉が開く。


 ミナが入ってきた。


 栗色の髪はきちんと整えられている。


 昨日の泥だらけの姿とは違い、宿の簡素な服を借りているせいか、少しだけ年相応に見えた。


「おはようございます」


「ああ。おはよう」


『おはようございます』

『ミナちゃん朝からかわいい』

『生活感助かる』


 ミナはコメントが見えないはずなのに、なぜか少し赤くなった。


「……なんだか、見られている気がします」


「気のせいじゃないな」


「やっぱり……」


 ミナは肩を縮める。


 だが、逃げ出すほどではない。


 少し前なら、ここで固まっていたはずだ。


 アルトはそれに気づいて、少しだけ笑った。


「慣れてきたな」


「慣れたくはないです」


「それは俺もだ」


 その時、階下から怒鳴り声が響いた。


「起きてるなら降りてきな! 飯が冷めるよ!」


 赤猫亭の女将、マルタだった。


 アルトは反射的に背筋を伸ばす。


「……あの人、神より怖くないか?」


『分かる』

『マルタ女将は別格』

『神貨拒否の女』


「称号みたいに言うな」


 ミナが小さく笑う。


「行きましょう。朝ご飯、用意してくれてるみたいです」


「ああ」


 アルトは立ち上がる。


 体は痛い。


 だが、昨日よりは歩ける。


 廊下に出ると、ガルムが壁にもたれて立っていた。


 目の下に少し隈がある。


「お前、寝たのか?」


 アルトが聞くと、ガルムは不機嫌そうに答えた。


「少しはな」


「一階の隅で?」


「落ち着くんだよ」


「犬か」


「殴るぞ」


『朝から仲良いな』

『ガルム、赤猫亭に馴染んでる』

『元炎上配信者、宿の隅で寝る』


「妙な肩書きを増やすな」


 ガルムにはコメントが見えていない。


 だが、アルトがまた空中にツッコんだので、眉をひそめる。


「お前、朝から忙しいな」


「好きで忙しくしてるんじゃねぇ」


 三人で階下へ降りると、赤猫亭の食堂にはすでに朝の匂いが満ちていた。


 焼いたパン。


 温かいスープ。


 軽く炙った肉。


 果実を煮たもの。


 昨日よりは簡素だが、腹には十分すぎる。


 マルタは腕を組んで待っていた。


「ほら、座りな」


「おはよう、マルタ」


「おはようじゃないよ。怪我人が起きて歩くんじゃない」


「呼んだのそっちだろ」


「飯のためなら歩けるだろ」


「理不尽!」


『女将理論』

『飯の前では全員歩ける』

『正しい』


 アルトは椅子に座る。


 店内の客たちは、昨夜より少ない。


 だが、やはりこちらを見ている。


 ひそひそ声。


 好奇心。


 尊敬。


 少しの警戒。


 朝になっても、視線は消えなかった。


 マルタが客席へ向けて怒鳴る。


「見るなら注文しな! 目だけ動かしても店は回らないよ!」


 慌てて注文の声が上がる。


 アルトはスープをすすりながら、呟いた。


「本当に強いな、あの人」


「昔からだ」


 ガルムが言う。


「配信者も、神も、客も、関係なく怒鳴る」


「神にも?」


「ああ」


 マルタが厨房から声を飛ばす。


「神様だろうが、飯を残す奴は許さないよ!」


『マルタ女将、神界に喧嘩売ってる』

『商業神マルクトに見つかりそう』

『いや、むしろ気に入りそう』


 アルトはパンをかじる。


 温かい。


 それだけで昨日より世界が少しマシに思える。


 だが、食事の途中、視界に浮かぶランキング表示がどうしても気になった。


【アルト:42位】


 帰還圏内。


 その言葉が、朝の空気の中でも重い。


 アルトはパンを置いた。


「なあ」


 ミナとガルムが同時に顔を上げる。


「帰還権って、どこで確認できるんだ」


 ミナの表情が少し硬くなる。


「配信者ギルド……だと思います」


「ヘルメス・ネットワークか」


 ミナが頷く。


「ランキングや配信者登録は、あそこで管理されています」


 ガルムがスープを飲みながら言った。


「行くのか」


「ああ」


「まだ休んだ方がいい」


「俺もそう思う」


「じゃあ休め」


「でも気になる」


 ガルムは深いため息をついた。


「お前、面倒な奴だな」


「知ってる」


『帰還確認か』

『行くのか』

『ちょっと怖いな』


「コメント欄まで怖がるな」


 ミナが不安そうに言う。


「あの……私も行きます」


「無理しなくていいぞ」


「行きます」


 即答だった。


 アルトは少し驚く。


 ミナはスープの器を両手で包みながら、小さく言った。


「私も、知りたいです。帰還のこと」


 その声は弱かった。


 だが、逃げてはいなかった。


 ガルムも渋い顔をして立ち上がる。


「俺も行く」


「なんで」


「ヘルメスの窓口には顔が利く」


「ああ、元ランキング勢だもんな」


「元って言うな」


『元ランキング勢』

『便利なガルム』

『一時加入感ある』


 ガルムは何も知らずに眉間に皺を寄せた。


「今、なんとなく腹が立った」


「だいたい合ってる」


 マルタが三人を見て、ふんと鼻を鳴らした。


「行くなら食ってから行きな」


「分かってる」


「それと」


 マルタはアルトを見た。


「帰る場所を探すのは勝手だけどね。腹が減ったら戻ってきな」


 アルトは少しだけ黙る。


 そして、頷いた。


「……ああ」


 マルタはそれ以上何も言わず、厨房へ戻っていった。


 ◇


 ヘルメス・ネットワークの建物は、街の中央区にあった。


 白い石造りの大きな建物。


 正面には翼の意匠。


 入口の上には、半透明の文字が浮いている。


【奈落迷宮公認配信者ギルド】

《ヘルメス・ネットワーク》


「……でかいな」


『配信者の総本山』

『登録、ランキング、スポンサー管理』

『帰還権の窓口もここ』


「全部ここでやってんのか」


 建物の中に入ると、広いホールがあった。


 受付窓口。


 配信者用掲示板。


 巨大なランキングボード。


 あちこちに冒険者や配信者らしい人間がいる。


 だが、アルトたちが入った瞬間、ざわめきが広がった。


「奈落新人だ」


「四十二位の」


「本当に来た」


「ガルムもいるぞ」


 また視線。


 また囁き。


 アルトは額を押さえる。


「……飯屋より見られるな」


『ここは配信者だらけだからな』

『視線のプロたち』

『観測者の巣』


「嫌な巣だな」


 受付の奥から、眼鏡をかけた若い職員が慌てて出てきた。


「ア、アルト様ですね!」


「様はやめろ」


「失礼しました。ランキング四十二位、第二層主撃破者、神界特別配信対象者のアルト様ですね!」


「肩書き増やして様つけるな」


 職員は書類を抱えたまま、深く頭を下げる。


「本日はどのようなご用件でしょうか」


「帰還権について確認したい」


 その瞬間。


 職員の表情が、ほんの少しだけ変わった。


 本当に一瞬だった。


 だが、アルトは見逃さなかった。


「……何か問題でも?」


「い、いえ。制度上は確認可能です」


「制度上は?」


 職員は笑顔を作った。


「こちらへどうぞ」


 案内されたのは、奥の個室だった。


 壁には古い配信者たちの記録板が並んでいる。


 名前。


 順位。


 主な功績。


 配信終了日。


 アルトはその最後の項目に目を止めた。


「配信終了日……?」


 職員が手元の石板を操作する。


 半透明の画面が浮かび上がった。


【神界ランキング管理台帳】


【配信者名:アルト】

【現在順位:42位】

【帰還権:暫定発生】

【正式承認:ランキング維持七日後】


「七日?」


 アルトは眉をひそめる。


「百位以内に入ったらすぐ帰れるんじゃないのか?」


 職員は少し言葉に詰まった。


「正確には、百位以内の順位を七日間維持した時点で、正式な権利が発生します」


『あー』

『維持条件あったのか』

『知らなかった』

『地味にきついな』


「後出し感すごいな」


 ガルムが低い声で言う。


「昔からある条件だ。上位に入ってすぐ落ちる奴もいるからな」


「そういうもんか」


「そういうもんだ」


 アルトは画面を見る。


 七日間維持。


 簡単ではない。


 でも、不可能でもない。


 問題はそこではなかった。


「正式承認されたら、どうなる」


 職員は答えた。


「帰還申請が可能になります」


「申請?」


「はい。申請後、神界側の承認を経て、帰還処理が行われます」


「神界側の承認って、誰がする」


 職員の手が止まった。


 ミナが不安そうにアルトを見る。


 ガルムも眉をひそめる。


 職員は、ゆっくりと言った。


「……観測神オルフェウス様です」


 部屋の空気が冷えた。


『あ』

『やっぱり』

『観測神管理か』

『嫌な予感しかしない』


 アルトは舌打ちした。


「出たよ、あの仮面」


 職員が慌てる。


「こ、言葉にはお気をつけください。ここは公認ギルドですので」


「知るか。で、帰った奴はいるのか」


 職員は固まった。


「過去に、正式承認された配信者はおります」


「何人」


「記録上は、二十三名」


「その二十三名は地球に戻ったのか?」


「地球……というのが、アルト様の出身世界を指すのであれば、そこまではこちらでは確認できません」


 アルトの目が細くなる。


「確認できない?」


 職員の声が少し小さくなる。


「帰還処理後は、配信対象から外れますので」


「配信が終わるから分からないってことか」


「はい」


「じゃあ、その後の生存確認は?」


 沈黙。


 職員は答えなかった。


 アルトの胸の奥が、冷たくなる。


「ログは?」


「え?」


「帰還した奴らの配信記録。最後にどんな処理をされたか、ログが残ってるだろ」


 職員は石板を操作した。


 画面が切り替わる。


【過去承認者一覧】


 名前が並ぶ。


 順位。


 承認日。


 最後の欄。


 アルトは、その文字を見た。


【観測終了】


「……観測終了?」


 ミナが小さく呟く。


「帰還、ではないんですか?」


 職員は困ったように笑った。


「正式な管理用語では、観測終了と記録されます。一般向けには帰還と呼ばれていますが」


「なんで言い方が違う」


「それは……」


 職員は口を閉じた。


 アルトはさらに画面を見る。


 ある名前を選ぶ。


【配信者:レイ・クライス】

【最高順位:31位】

【承認状態:帰還権承認済】

【最終処理:観測終了】

【以後の記録:閲覧不可】


「閲覧不可?」


 アルトの声が低くなった。


「誰が制限してる」


 職員は答えない。


 代わりに、画面が自動で切り替わった。


【管理権限:観測神】


 部屋が静まり返る。


『……』

『やっぱり』

『帰還って、本当に帰還なのか?』


 アルトは拳を握る。


「帰還者のログが消える理由は?」


 職員は唇を噛んだ。


「消えているわけではありません」


「じゃあ見せろ」


「権限がありません」


「誰にある」


 職員は視線を落とした。


 答えは聞くまでもなかった。


 オルフェウス。


 あの仮面の神。


 アルトは奥歯を噛む。


 その時、銀色のコメントが流れた。


『アルト』


 ルナだった。


 ただ、それだけ。


 止めるような声だった。


 アルトは空を見た。


「ルナ」


『今は、そこまで』


「やっぱり知ってるんだな」


 ルナは答えない。


 それが答えだった。


 ガルムが低く言う。


「……俺も、帰還者のその後を見たことはない」


 アルトが振り返る。


 ガルムは壁の記録板を見ていた。


「昔は、百位以内に入る奴を何人も見た。上位連中は帰還権を目標にしてた。だが、帰った後の話を聞いたことはない」


「誰も?」


「ああ」


「誰も疑わなかったのか」


 ガルムは苦い顔をした。


「疑う余裕がある奴は、百位以内まで行けない。みんな、帰ることだけを考えて走ってる」


 ミナが小さく言う。


「帰りたいから……」


 アルトは黙る。


 分かる。


 その気持ちは、分かってしまう。


 帰りたい。


 帰れると言われたら、信じたくなる。


 それ以外を考えたくなくなる。


 けれど。


 オルフェウスの声が蘇る。


【帰還とは、観測の終着点です】


 観測終了。


 閲覧不可。


 管理権限、観測神。


 綺麗に、嫌な線で繋がっていく。


「……帰還って言葉、誰が最初に使ったんだ」


 職員は怯えたようにアルトを見る。


「それは……古くから、そう呼ばれております」


「正式名称は観測終了なのに?」


「はい」


「気持ち悪いな」


 その瞬間。


 部屋の空気が、ぴたりと止まった。


 黒いコメントが流れる。


【言葉は、希望を保存する器です】


 オルフェウス。


 職員が青ざめる。


 ミナが肩を震わせる。


 ガルムが一歩前に出た。


 アルトは空を睨む。


「出てくんな」


【帰還と呼ぶことで、人は前へ進める】

【観測終了と呼べば、人は立ち止まる】


「つまり、都合が悪いから言い換えてるってことか」


【解釈は自由です】


「殴りてぇ」


 その瞬間。


 コメント欄が止まった。


 さっきまで流れていた神々の声が、嘘のように消える。


 誰も笑わない。


 誰も茶化さない。


 ただ、黒い文字だけがそこに残っていた。


【それもまた、良い感情です】


 アルトは奥歯を噛んだ。


「……だから、そういうところだよ」


 オルフェウスの文字は、それ以上流れなかった。


 ただ、最後に一行だけ残す。


【それでも、あなたは帰還を望みますか】


 アルトは答えなかった。


 答えられなかった。


 帰りたい。


 それは本当だ。


 だが、目の前の文字が頭から離れない。


 観測終了。


 帰還ではなく。


 観測終了。


 ミナが不安そうにアルトを見る。


「アルトさん……」


 アルトは深く息を吸った。


 そして、職員に言う。


「この記録、写しは取れるか」


「い、一部なら可能です。ただし閲覧不可部分は……」


「見えるところだけでいい」


 職員は震える手で石板を操作した。


 薄い記録紙に、過去承認者一覧が転写される。


 アルトはそれを受け取った。


 名前が並んでいる。


 二十三人。


 帰還権を得た者たち。


 そして、全員の末尾に同じ文字。


【観測終了】


 アルトはその紙を折りたたむ。


「帰るか」


 ミナが頷く。


 ガルムも黙ってついてくる。


 部屋を出る直前、職員が小さく言った。


「あの」


 アルトが振り返る。


 職員はすぐには続けなかった。


 廊下の方を見る。


 扉の向こうに人影がないことを確かめる。


 それから、石板を胸に抱くようにして、視線を落とした。


「……いえ」


「言え」


 アルトは短く言った。


 職員の肩が小さく跳ねる。


「でも、これは……」


「言えないなら聞かなかったことにする。でも、言うなら今だ」


 沈黙。


 ミナも、ガルムも、息を止めていた。


 職員は唇を噛み、それから声を落とした。


「……ここだけの話にしてください」


「内容による」


「二十三人のうち、一人だけ」


 職員は震える声で言った。


「観測終了後に、名前が一瞬だけ再表示された配信者がいます」


 アルトの息が止まった。


「誰だ」


 職員は石板に指を走らせる。


 だが、画面は黒く塗りつぶされていた。


【閲覧不可】


 それでも、端に一文字だけ残っている。


 名前の最後。


 かすれたような文字。


【……ギ】


「……ギ?」


 職員は首を振る。


「分かりません。記録はすぐに消されました。でも、完全な帰還なら、再表示されるはずがないんです」


 アルトの胸の奥が、さらに冷えた。


 帰還者は、どこへ行ったのか。


 観測が終わった者は、本当に元の世界へ戻ったのか。


 それとも。


 アルトは記録紙を握りしめる。


「……ありがとな」


 職員は小さく頭を下げた。


「どうか、お気をつけください」


 その言葉は、祝福ではなかった。


 警告だった。


 ◇


 ヘルメス・ネットワークを出ると、昼の光がまぶしかった。


 街は相変わらず騒がしい。


 巨大スクリーンには、朝の配信クリップが流れている。


【奈落新人、寝起きで生存確認】


「そこ切り抜くなよ……」


 だが、アルトの声にいつもの勢いはなかった。


 ミナも黙っている。


 ガルムも何も言わない。


 コメント欄だけが、少しざわついていた。


『観測終了』

『帰還じゃないのか?』

『でも今までそう聞いてた』

『ルナ様、何か言って』


 銀色のコメントは流れない。


 ルナは沈黙していた。


 アルトは空を見る。


「ルナ」


 返事はない。


「今は答えなくていい」


 それでも返事はない。


「でも、いつか聞く」


 少しだけ間があった。


 そして、銀色の文字が一つだけ流れた。


『……うん』


 アルトは目を伏せた。


 その返事だけで十分だった。


 彼女は知っている。


 少なくとも、何かを。


 ガルムが低く言う。


「どうする」


「どうするって?」


「帰還権を諦めるのか」


 アルトは記録紙を見た。


 二十三人。


 観測終了。


 閲覧不可。


 最後に一瞬だけ再表示された、名前の欠片。


【……ギ】


 アルトは紙を握りしめる。


「諦めるわけじゃない」


 帰りたい。


 それは変わらない。


 でも。


「知らないまま帰るのは、やめる」


 ミナがアルトを見る。


 ガルムも少しだけ目を細めた。


 アルトは空を睨む。


「帰還ってやつの正体を調べる」


 コメント欄が静かになる。


「その上で帰るかどうかは、俺が決める」


 その時。


 黒いコメントが、静かに流れた。


【良い選択です】


 アルトは即座に言った。


「お前に褒められると不安になる」


【あなたは、また一つ良い物語になりました】


「だから俺を物語にすんな」


 黒い文字は消えた。


 昼の街のざわめきが戻ってくる。


 ミナが小さく言う。


「アルトさん」


「ん?」


「私も、手伝います」


「危ないぞ」


「分かってます」


 ミナは少しだけ震えていた。


 でも、目を逸らさなかった。


「怖いですけど、知らないまま見送る方がもっと怖いです」


 アルトは少しだけ笑った。


「……強くなったな」


「まだ怖いです」


「俺もだ」


 ガルムがため息をつく。


「俺も手を貸す」


「いいのか?」


「俺も知りたくなった」


 ガルムは巨大スクリーンを見る。


 そこにはランキング上位者たちの配信予定が流れていた。


 剣聖レオン。


 聖女セシリア。


 知らない名前がいくつも並ぶ。


「百位以内に入った奴らが、本当にどこへ行ったのか」


 ガルムの声は低かった。


「俺は今まで、一度も考えなかった」


 アルトは頷く。


「じゃあ、まず飯屋に戻るか」


「なぜだ」


「考えるには飯がいる」


「食ったばかりだろ」


「糖分がいる」


『ただの飯好きになってきた』

『食事配信適性あり』

『マルタ女将に相談だな』


 アルトは軽く息を吐く。


 笑いは戻っていた。


 ほんの少しだけ。


 けれど、胸の奥の冷たさは消えていない。


 帰還。


 観測終了。


 その二つの言葉が、同じものとは思えなかった。


 アルトは空を見上げる。


 神々が見ている。


 オルフェウスも。


 ルナも。


 たぶん、他の誰かも。


「見てろよ」


 アルトは小さく呟いた。


「俺は、勝手に終わらねぇからな」


 コメント欄が、少しだけ静かになった。


 その静けさの中で。


 銀色の文字が、そっと流れた。


『……うん』


 それは、祝福ではなかった。


 祈りに近かった。


評価をするにはログインしてください。
ブックマークに追加
ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
― 新着の感想 ―
このエピソードに感想はまだ書かれていません。
感想一覧
+注意+

特に記載なき場合、掲載されている作品はすべてフィクションであり実在の人物・団体等とは一切関係ありません。
特に記載なき場合、掲載されている作品の著作権は作者にあります(一部作品除く)。
作者以外の方による作品の引用を超える無断転載は禁止しており、行った場合、著作権法の違反となります。

↑ページトップへ