第20話 帰還者の記録
翌朝。
アルトは、布団の中で目を覚ました。
天井があった。
地面ではない。
赤い空でもない。
獣の牙でもない。
ちゃんとした木の天井だった。
「…………」
アルトは、しばらく無言で天井を見つめた。
それから、ゆっくり呟く。
「……生きてる」
『おはよう』
『生存確認』
『寝起き配信助かる』
「朝からいるなよ、お前ら」
視界の端に、神界コメントが流れている。
昨日よりも、少し少ない。
それでも多い。
【現在視聴中:721柱】
「寝起きで七百は嫌すぎるだろ……」
『朝配信としては強い』
『布団から出るところ見たい』
『二度寝する?』
「しねぇよ」
そう言いながら、アルトは布団から出ようとした。
全身が悲鳴を上げた。
「っ、ぐ……!」
『したほうがいい』
『二度寝推奨』
『身体バキバキで草』
「草じゃねぇ……」
痛い。
昨日よりはマシだが、まだ痛い。
肩も脇腹も、ひきつるように痛む。
無理やり起き上がると、視界に小さな通知が浮かんだ。
【神界ランキング】
《アルト:42位》
その表示を見て、眠気が一気に引いた。
四十二位。
帰還圏内。
昨日から変わっていない。
喜ぶべき数字だった。
なのに、やはり胸の奥が少し冷える。
「……帰還、ね」
小さく呟いた、その時。
扉がノックされた。
「アルトさん、起きてますか?」
ミナの声だった。
「起きてる」
「入っても大丈夫ですか?」
「ちょっと待て。今、人として最低限の体裁を整える」
『人として最低限の体裁』
『寝癖すごいぞ』
『顔は死んでる』
「黙れ」
アルトは髪を適当に手ぐしで直し、上着を羽織った。
「いいぞ」
扉が開く。
ミナが入ってきた。
栗色の髪はきちんと整えられている。
昨日の泥だらけの姿とは違い、宿の簡素な服を借りているせいか、少しだけ年相応に見えた。
「おはようございます」
「ああ。おはよう」
『おはようございます』
『ミナちゃん朝からかわいい』
『生活感助かる』
ミナはコメントが見えないはずなのに、なぜか少し赤くなった。
「……なんだか、見られている気がします」
「気のせいじゃないな」
「やっぱり……」
ミナは肩を縮める。
だが、逃げ出すほどではない。
少し前なら、ここで固まっていたはずだ。
アルトはそれに気づいて、少しだけ笑った。
「慣れてきたな」
「慣れたくはないです」
「それは俺もだ」
その時、階下から怒鳴り声が響いた。
「起きてるなら降りてきな! 飯が冷めるよ!」
赤猫亭の女将、マルタだった。
アルトは反射的に背筋を伸ばす。
「……あの人、神より怖くないか?」
『分かる』
『マルタ女将は別格』
『神貨拒否の女』
「称号みたいに言うな」
ミナが小さく笑う。
「行きましょう。朝ご飯、用意してくれてるみたいです」
「ああ」
アルトは立ち上がる。
体は痛い。
だが、昨日よりは歩ける。
廊下に出ると、ガルムが壁にもたれて立っていた。
目の下に少し隈がある。
「お前、寝たのか?」
アルトが聞くと、ガルムは不機嫌そうに答えた。
「少しはな」
「一階の隅で?」
「落ち着くんだよ」
「犬か」
「殴るぞ」
『朝から仲良いな』
『ガルム、赤猫亭に馴染んでる』
『元炎上配信者、宿の隅で寝る』
「妙な肩書きを増やすな」
ガルムにはコメントが見えていない。
だが、アルトがまた空中にツッコんだので、眉をひそめる。
「お前、朝から忙しいな」
「好きで忙しくしてるんじゃねぇ」
三人で階下へ降りると、赤猫亭の食堂にはすでに朝の匂いが満ちていた。
焼いたパン。
温かいスープ。
軽く炙った肉。
果実を煮たもの。
昨日よりは簡素だが、腹には十分すぎる。
マルタは腕を組んで待っていた。
「ほら、座りな」
「おはよう、マルタ」
「おはようじゃないよ。怪我人が起きて歩くんじゃない」
「呼んだのそっちだろ」
「飯のためなら歩けるだろ」
「理不尽!」
『女将理論』
『飯の前では全員歩ける』
『正しい』
アルトは椅子に座る。
店内の客たちは、昨夜より少ない。
だが、やはりこちらを見ている。
ひそひそ声。
好奇心。
尊敬。
少しの警戒。
朝になっても、視線は消えなかった。
マルタが客席へ向けて怒鳴る。
「見るなら注文しな! 目だけ動かしても店は回らないよ!」
慌てて注文の声が上がる。
アルトはスープをすすりながら、呟いた。
「本当に強いな、あの人」
「昔からだ」
ガルムが言う。
「配信者も、神も、客も、関係なく怒鳴る」
「神にも?」
「ああ」
マルタが厨房から声を飛ばす。
「神様だろうが、飯を残す奴は許さないよ!」
『マルタ女将、神界に喧嘩売ってる』
『商業神マルクトに見つかりそう』
『いや、むしろ気に入りそう』
アルトはパンをかじる。
温かい。
それだけで昨日より世界が少しマシに思える。
だが、食事の途中、視界に浮かぶランキング表示がどうしても気になった。
【アルト:42位】
帰還圏内。
その言葉が、朝の空気の中でも重い。
アルトはパンを置いた。
「なあ」
ミナとガルムが同時に顔を上げる。
「帰還権って、どこで確認できるんだ」
ミナの表情が少し硬くなる。
「配信者ギルド……だと思います」
「ヘルメス・ネットワークか」
ミナが頷く。
「ランキングや配信者登録は、あそこで管理されています」
ガルムがスープを飲みながら言った。
「行くのか」
「ああ」
「まだ休んだ方がいい」
「俺もそう思う」
「じゃあ休め」
「でも気になる」
ガルムは深いため息をついた。
「お前、面倒な奴だな」
「知ってる」
『帰還確認か』
『行くのか』
『ちょっと怖いな』
「コメント欄まで怖がるな」
ミナが不安そうに言う。
「あの……私も行きます」
「無理しなくていいぞ」
「行きます」
即答だった。
アルトは少し驚く。
ミナはスープの器を両手で包みながら、小さく言った。
「私も、知りたいです。帰還のこと」
その声は弱かった。
だが、逃げてはいなかった。
ガルムも渋い顔をして立ち上がる。
「俺も行く」
「なんで」
「ヘルメスの窓口には顔が利く」
「ああ、元ランキング勢だもんな」
「元って言うな」
『元ランキング勢』
『便利なガルム』
『一時加入感ある』
ガルムは何も知らずに眉間に皺を寄せた。
「今、なんとなく腹が立った」
「だいたい合ってる」
マルタが三人を見て、ふんと鼻を鳴らした。
「行くなら食ってから行きな」
「分かってる」
「それと」
マルタはアルトを見た。
「帰る場所を探すのは勝手だけどね。腹が減ったら戻ってきな」
アルトは少しだけ黙る。
そして、頷いた。
「……ああ」
マルタはそれ以上何も言わず、厨房へ戻っていった。
◇
ヘルメス・ネットワークの建物は、街の中央区にあった。
白い石造りの大きな建物。
正面には翼の意匠。
入口の上には、半透明の文字が浮いている。
【奈落迷宮公認配信者ギルド】
《ヘルメス・ネットワーク》
「……でかいな」
『配信者の総本山』
『登録、ランキング、スポンサー管理』
『帰還権の窓口もここ』
「全部ここでやってんのか」
建物の中に入ると、広いホールがあった。
受付窓口。
配信者用掲示板。
巨大なランキングボード。
あちこちに冒険者や配信者らしい人間がいる。
だが、アルトたちが入った瞬間、ざわめきが広がった。
「奈落新人だ」
「四十二位の」
「本当に来た」
「ガルムもいるぞ」
また視線。
また囁き。
アルトは額を押さえる。
「……飯屋より見られるな」
『ここは配信者だらけだからな』
『視線のプロたち』
『観測者の巣』
「嫌な巣だな」
受付の奥から、眼鏡をかけた若い職員が慌てて出てきた。
「ア、アルト様ですね!」
「様はやめろ」
「失礼しました。ランキング四十二位、第二層主撃破者、神界特別配信対象者のアルト様ですね!」
「肩書き増やして様つけるな」
職員は書類を抱えたまま、深く頭を下げる。
「本日はどのようなご用件でしょうか」
「帰還権について確認したい」
その瞬間。
職員の表情が、ほんの少しだけ変わった。
本当に一瞬だった。
だが、アルトは見逃さなかった。
「……何か問題でも?」
「い、いえ。制度上は確認可能です」
「制度上は?」
職員は笑顔を作った。
「こちらへどうぞ」
案内されたのは、奥の個室だった。
壁には古い配信者たちの記録板が並んでいる。
名前。
順位。
主な功績。
配信終了日。
アルトはその最後の項目に目を止めた。
「配信終了日……?」
職員が手元の石板を操作する。
半透明の画面が浮かび上がった。
【神界ランキング管理台帳】
【配信者名:アルト】
【現在順位:42位】
【帰還権:暫定発生】
【正式承認:ランキング維持七日後】
「七日?」
アルトは眉をひそめる。
「百位以内に入ったらすぐ帰れるんじゃないのか?」
職員は少し言葉に詰まった。
「正確には、百位以内の順位を七日間維持した時点で、正式な権利が発生します」
『あー』
『維持条件あったのか』
『知らなかった』
『地味にきついな』
「後出し感すごいな」
ガルムが低い声で言う。
「昔からある条件だ。上位に入ってすぐ落ちる奴もいるからな」
「そういうもんか」
「そういうもんだ」
アルトは画面を見る。
七日間維持。
簡単ではない。
でも、不可能でもない。
問題はそこではなかった。
「正式承認されたら、どうなる」
職員は答えた。
「帰還申請が可能になります」
「申請?」
「はい。申請後、神界側の承認を経て、帰還処理が行われます」
「神界側の承認って、誰がする」
職員の手が止まった。
ミナが不安そうにアルトを見る。
ガルムも眉をひそめる。
職員は、ゆっくりと言った。
「……観測神オルフェウス様です」
部屋の空気が冷えた。
『あ』
『やっぱり』
『観測神管理か』
『嫌な予感しかしない』
アルトは舌打ちした。
「出たよ、あの仮面」
職員が慌てる。
「こ、言葉にはお気をつけください。ここは公認ギルドですので」
「知るか。で、帰った奴はいるのか」
職員は固まった。
「過去に、正式承認された配信者はおります」
「何人」
「記録上は、二十三名」
「その二十三名は地球に戻ったのか?」
「地球……というのが、アルト様の出身世界を指すのであれば、そこまではこちらでは確認できません」
アルトの目が細くなる。
「確認できない?」
職員の声が少し小さくなる。
「帰還処理後は、配信対象から外れますので」
「配信が終わるから分からないってことか」
「はい」
「じゃあ、その後の生存確認は?」
沈黙。
職員は答えなかった。
アルトの胸の奥が、冷たくなる。
「ログは?」
「え?」
「帰還した奴らの配信記録。最後にどんな処理をされたか、ログが残ってるだろ」
職員は石板を操作した。
画面が切り替わる。
【過去承認者一覧】
名前が並ぶ。
順位。
承認日。
最後の欄。
アルトは、その文字を見た。
【観測終了】
「……観測終了?」
ミナが小さく呟く。
「帰還、ではないんですか?」
職員は困ったように笑った。
「正式な管理用語では、観測終了と記録されます。一般向けには帰還と呼ばれていますが」
「なんで言い方が違う」
「それは……」
職員は口を閉じた。
アルトはさらに画面を見る。
ある名前を選ぶ。
【配信者:レイ・クライス】
【最高順位:31位】
【承認状態:帰還権承認済】
【最終処理:観測終了】
【以後の記録:閲覧不可】
「閲覧不可?」
アルトの声が低くなった。
「誰が制限してる」
職員は答えない。
代わりに、画面が自動で切り替わった。
【管理権限:観測神】
部屋が静まり返る。
『……』
『やっぱり』
『帰還って、本当に帰還なのか?』
アルトは拳を握る。
「帰還者のログが消える理由は?」
職員は唇を噛んだ。
「消えているわけではありません」
「じゃあ見せろ」
「権限がありません」
「誰にある」
職員は視線を落とした。
答えは聞くまでもなかった。
オルフェウス。
あの仮面の神。
アルトは奥歯を噛む。
その時、銀色のコメントが流れた。
『アルト』
ルナだった。
ただ、それだけ。
止めるような声だった。
アルトは空を見た。
「ルナ」
『今は、そこまで』
「やっぱり知ってるんだな」
ルナは答えない。
それが答えだった。
ガルムが低く言う。
「……俺も、帰還者のその後を見たことはない」
アルトが振り返る。
ガルムは壁の記録板を見ていた。
「昔は、百位以内に入る奴を何人も見た。上位連中は帰還権を目標にしてた。だが、帰った後の話を聞いたことはない」
「誰も?」
「ああ」
「誰も疑わなかったのか」
ガルムは苦い顔をした。
「疑う余裕がある奴は、百位以内まで行けない。みんな、帰ることだけを考えて走ってる」
ミナが小さく言う。
「帰りたいから……」
アルトは黙る。
分かる。
その気持ちは、分かってしまう。
帰りたい。
帰れると言われたら、信じたくなる。
それ以外を考えたくなくなる。
けれど。
オルフェウスの声が蘇る。
【帰還とは、観測の終着点です】
観測終了。
閲覧不可。
管理権限、観測神。
綺麗に、嫌な線で繋がっていく。
「……帰還って言葉、誰が最初に使ったんだ」
職員は怯えたようにアルトを見る。
「それは……古くから、そう呼ばれております」
「正式名称は観測終了なのに?」
「はい」
「気持ち悪いな」
その瞬間。
部屋の空気が、ぴたりと止まった。
黒いコメントが流れる。
【言葉は、希望を保存する器です】
オルフェウス。
職員が青ざめる。
ミナが肩を震わせる。
ガルムが一歩前に出た。
アルトは空を睨む。
「出てくんな」
【帰還と呼ぶことで、人は前へ進める】
【観測終了と呼べば、人は立ち止まる】
「つまり、都合が悪いから言い換えてるってことか」
【解釈は自由です】
「殴りてぇ」
その瞬間。
コメント欄が止まった。
さっきまで流れていた神々の声が、嘘のように消える。
誰も笑わない。
誰も茶化さない。
ただ、黒い文字だけがそこに残っていた。
【それもまた、良い感情です】
アルトは奥歯を噛んだ。
「……だから、そういうところだよ」
オルフェウスの文字は、それ以上流れなかった。
ただ、最後に一行だけ残す。
【それでも、あなたは帰還を望みますか】
アルトは答えなかった。
答えられなかった。
帰りたい。
それは本当だ。
だが、目の前の文字が頭から離れない。
観測終了。
帰還ではなく。
観測終了。
ミナが不安そうにアルトを見る。
「アルトさん……」
アルトは深く息を吸った。
そして、職員に言う。
「この記録、写しは取れるか」
「い、一部なら可能です。ただし閲覧不可部分は……」
「見えるところだけでいい」
職員は震える手で石板を操作した。
薄い記録紙に、過去承認者一覧が転写される。
アルトはそれを受け取った。
名前が並んでいる。
二十三人。
帰還権を得た者たち。
そして、全員の末尾に同じ文字。
【観測終了】
アルトはその紙を折りたたむ。
「帰るか」
ミナが頷く。
ガルムも黙ってついてくる。
部屋を出る直前、職員が小さく言った。
「あの」
アルトが振り返る。
職員はすぐには続けなかった。
廊下の方を見る。
扉の向こうに人影がないことを確かめる。
それから、石板を胸に抱くようにして、視線を落とした。
「……いえ」
「言え」
アルトは短く言った。
職員の肩が小さく跳ねる。
「でも、これは……」
「言えないなら聞かなかったことにする。でも、言うなら今だ」
沈黙。
ミナも、ガルムも、息を止めていた。
職員は唇を噛み、それから声を落とした。
「……ここだけの話にしてください」
「内容による」
「二十三人のうち、一人だけ」
職員は震える声で言った。
「観測終了後に、名前が一瞬だけ再表示された配信者がいます」
アルトの息が止まった。
「誰だ」
職員は石板に指を走らせる。
だが、画面は黒く塗りつぶされていた。
【閲覧不可】
それでも、端に一文字だけ残っている。
名前の最後。
かすれたような文字。
【……ギ】
「……ギ?」
職員は首を振る。
「分かりません。記録はすぐに消されました。でも、完全な帰還なら、再表示されるはずがないんです」
アルトの胸の奥が、さらに冷えた。
帰還者は、どこへ行ったのか。
観測が終わった者は、本当に元の世界へ戻ったのか。
それとも。
アルトは記録紙を握りしめる。
「……ありがとな」
職員は小さく頭を下げた。
「どうか、お気をつけください」
その言葉は、祝福ではなかった。
警告だった。
◇
ヘルメス・ネットワークを出ると、昼の光がまぶしかった。
街は相変わらず騒がしい。
巨大スクリーンには、朝の配信クリップが流れている。
【奈落新人、寝起きで生存確認】
「そこ切り抜くなよ……」
だが、アルトの声にいつもの勢いはなかった。
ミナも黙っている。
ガルムも何も言わない。
コメント欄だけが、少しざわついていた。
『観測終了』
『帰還じゃないのか?』
『でも今までそう聞いてた』
『ルナ様、何か言って』
銀色のコメントは流れない。
ルナは沈黙していた。
アルトは空を見る。
「ルナ」
返事はない。
「今は答えなくていい」
それでも返事はない。
「でも、いつか聞く」
少しだけ間があった。
そして、銀色の文字が一つだけ流れた。
『……うん』
アルトは目を伏せた。
その返事だけで十分だった。
彼女は知っている。
少なくとも、何かを。
ガルムが低く言う。
「どうする」
「どうするって?」
「帰還権を諦めるのか」
アルトは記録紙を見た。
二十三人。
観測終了。
閲覧不可。
最後に一瞬だけ再表示された、名前の欠片。
【……ギ】
アルトは紙を握りしめる。
「諦めるわけじゃない」
帰りたい。
それは変わらない。
でも。
「知らないまま帰るのは、やめる」
ミナがアルトを見る。
ガルムも少しだけ目を細めた。
アルトは空を睨む。
「帰還ってやつの正体を調べる」
コメント欄が静かになる。
「その上で帰るかどうかは、俺が決める」
その時。
黒いコメントが、静かに流れた。
【良い選択です】
アルトは即座に言った。
「お前に褒められると不安になる」
【あなたは、また一つ良い物語になりました】
「だから俺を物語にすんな」
黒い文字は消えた。
昼の街のざわめきが戻ってくる。
ミナが小さく言う。
「アルトさん」
「ん?」
「私も、手伝います」
「危ないぞ」
「分かってます」
ミナは少しだけ震えていた。
でも、目を逸らさなかった。
「怖いですけど、知らないまま見送る方がもっと怖いです」
アルトは少しだけ笑った。
「……強くなったな」
「まだ怖いです」
「俺もだ」
ガルムがため息をつく。
「俺も手を貸す」
「いいのか?」
「俺も知りたくなった」
ガルムは巨大スクリーンを見る。
そこにはランキング上位者たちの配信予定が流れていた。
剣聖レオン。
聖女セシリア。
知らない名前がいくつも並ぶ。
「百位以内に入った奴らが、本当にどこへ行ったのか」
ガルムの声は低かった。
「俺は今まで、一度も考えなかった」
アルトは頷く。
「じゃあ、まず飯屋に戻るか」
「なぜだ」
「考えるには飯がいる」
「食ったばかりだろ」
「糖分がいる」
『ただの飯好きになってきた』
『食事配信適性あり』
『マルタ女将に相談だな』
アルトは軽く息を吐く。
笑いは戻っていた。
ほんの少しだけ。
けれど、胸の奥の冷たさは消えていない。
帰還。
観測終了。
その二つの言葉が、同じものとは思えなかった。
アルトは空を見上げる。
神々が見ている。
オルフェウスも。
ルナも。
たぶん、他の誰かも。
「見てろよ」
アルトは小さく呟いた。
「俺は、勝手に終わらねぇからな」
コメント欄が、少しだけ静かになった。
その静けさの中で。
銀色の文字が、そっと流れた。
『……うん』
それは、祝福ではなかった。
祈りに近かった。




