第19話 飯と風呂とランキング42位
英雄扱いというものは、思っていたよりずっと疲れる。
「奈落新人だ!」
「第二層主を倒した男だぞ!」
「ミナちゃん、こっち向いて!」
「ガルムもいるぞ!」
「え、ガルムも一緒なの?」
「炎上したのに?」
「やめろ、聞こえてる」
奈落都市エルデンの中央広場。
アルトは、歓声と好奇の視線に囲まれながら、死んだ魚のような目をしていた。
「……帰りたい」
『おめでとう、帰還圏内です』
『街に帰ってきたばかりでそれ言う?』
『新人、凱旋顔が死んでる』
「顔どころか全身死んでんだよ」
実際、身体は限界だった。
第二層主バルゴラを倒した直後。
ミナの回復で最低限は動けるようになったが、肩も脇腹も拳もまだ痛い。
歩くたびに、体のどこかが文句を言ってくる。
その横で、ミナは人々にぺこぺこと頭を下げていた。
「あ、あの、ありがとうございます……」
「ミナちゃんだ!」
「共鳴治癒の子だ!」
「泣きながら覚醒した子だ!」
「か、覚醒した子って呼ばないでください……!」
『かわいい』
『守りたい支援職』
『ミナちゃん、現地人気も出てる』
ミナは顔を真っ赤にして、アルトの背中に半分隠れた。
「アルトさん……人が多いです……」
「俺も多いと思う」
「どうしたらいいですか……?」
「俺に聞くな。俺も今、消えたい」
『42位の発言とは思えない』
『消えたいのに観測されてる男』
『言ってることが重い』
「うるせぇ」
その時、隣から低い声がした。
「お前、本当に変な奴だな」
ガルムだった。
元ランキング中堅配信者。
つい昨日までミナに危険配信を強要し、アルトに絡み、切り抜かれて炎上した男。
そのガルムが、なぜか今は少し気まずそうに並んで歩いている。
アルトは横目で見る。
「お前もな。普通、謝罪した直後に『組まないか』とか言わねぇよ」
「……タイミングは悪かった」
「脇腹裂けてる相手に勧誘すんな」
「それは本当に悪かった」
『ガルム、反省してる』
『炎上後の初コラボ』
『謝罪配信の空気になってきた』
ガルムのこめかみがぴくりと動く。
「俺は謝罪配信をしているわけじゃない」
『でも謝罪した』
『切り抜き済み』
『タイトル:《炎上配信者ガルム、奈落新人に頭を下げる》』
「消せ!!」
「無理だろ。神界記録に出たもんは消えない」
アルトが言うと、ガルムはさらに苦い顔をした。
「……経験者みたいな言い方をするな」
「地球にも似たようなのがあったんだよ」
その言葉が出た瞬間、アルトは少しだけ黙った。
地球。
コンビニの駐車場。
冷えた缶コーヒー。
通知が鳴り続けるスマホ。
誰にも見られないのに、監視だけはされているような毎日。
戻りたい。
戻りたいはずだ。
ランキング42位。
帰還圏内。
なのに。
オルフェウスの言葉が、まだ胸の奥に残っている。
【帰還とは、観測の終着点です】
祝福のはずの言葉が、冷たかった。
あの違和感は消えていない。
「……アルトさん?」
ミナが不安そうに顔を覗き込む。
アルトは、はっとして首を振った。
「いや。なんでもない」
『なんでもない顔じゃない』
『新人、考え込んでる』
『帰還の話か?』
「コメント欄まで勘が良くなるな」
その時、群衆の向こうから威勢のいい声が飛んできた。
「ほらほら、道を開けな! 怪我人を囲んでどうすんだい!」
人々がざわりと左右へ割れる。
その先から現れたのは、恰幅のいい赤毛の女将だった。
腕を組み、エプロン姿で、堂々と仁王立ちしている。
背後には木の看板。
赤い猫の絵が描かれていた。
「赤猫亭……」
アルトは看板を見上げる。
そういえば、街に入った時、コメント欄がやたら勧めてきた店だった。
『赤猫亭きた』
『女将だ』
『飯回確定』
『新人、ここは当たりだぞ』
女将はアルトを見るなり、眉を吊り上げた。
「あんたが奈落新人かい」
「その呼び方、定着してんのか……」
「生きて帰ってきたんだ。上等だよ。腹は?」
その瞬間。
グゥゥゥゥゥゥ。
広場に、アルトの腹の音が響いた。
沈黙。
『草』
『返事した』
『腹がコメントした』
「違う!!」
女将は豪快に笑った。
「決まりだね。うちに来な」
「いや、金が――」
「今日は店のおごりだよ」
「え」
「第二層主を倒した奴を空腹で歩かせたなんて言われたら、赤猫亭の名折れだ」
『女将かっこいい』
『これは推せる』
『スポンサー候補』
アルトは少しだけ困った顔をした。
「……いいのか?」
女将は鼻で笑った。
「いいから来な。ついでに風呂も沸かしてある」
「風呂!?」
アルトの目が、明らかに変わった。
『食いついた』
『風呂に反応する英雄』
『第二層主より風呂』
「うるせぇ! 風呂は偉大なんだよ!」
ミナも小さく手を上げた。
「あの……私も、できれば……」
「もちろんだよ。あんたも泥だらけだからね」
「ありがとうございます……!」
ミナの顔がぱっと明るくなる。
ガルムは無言で立っていた。
女将はちらりとガルムを見る。
「あんたは?」
「……俺は」
ガルムが言いかける。
アルトはため息をついた。
「来いよ」
ガルムが目を細める。
「いいのか」
「飯くらい一緒に食ってもバチは当たらねぇだろ」
「……俺はお前に迷惑を」
「そういう重い話は飯の後にしろ。空腹時に反省会なんかするもんじゃない」
『真理』
『空腹反省会は危険』
『新人、人生経験がにじむ』
「ブラック会社で学んだ数少ない教訓だ」
ガルムは少しだけ黙ったあと、小さく息を吐いた。
「……分かった」
赤猫亭の女将は満足そうに頷いた。
「よし。まとめて面倒見てやるよ」
「あんた、名前は?」
アルトが聞くと、女将は片眉を上げた。
「マルタだよ。赤猫亭の女将、マルタ」
「マルタさんか」
「さんはいらない。飯が冷める前に来な」
『マルタ女将』
『強キャラ感ある』
『神貨払い拒否のマルタさんだ』
「神貨払い拒否?」
アルトが首を傾げると、マルタはふんと鼻を鳴らした。
「先に言っとくけどね。うちは神貨払いは受けてないよ」
「神貨払いって、神様の投げ銭で払うやつか?」
「そうさ」
マルタは空中のコメントなど見えていないはずなのに、どこか不機嫌そうに言った。
「神様が気まぐれに投げた金で飯を食われちゃ、こっちの味が安くなるんだよ」
「……かっこいいこと言ってる」
「飯代はね、食った本人が払うもんだ。腹を満たした奴が、自分の手で払う。そういうもんだよ」
ガルムが、少しだけ目を伏せた。
「相変わらずだな、マルタ」
「相変わらずなのはあんただよ」
マルタはガルムをじろりと見る。
「昔っから、飯を食う時だけ葬式みたいな顔して」
「……覚えてたのか」
「あんたが勝ってた時も、負け始めた時も、皿の上の芋ばっかり突いてたからね。忘れる方が難しいよ」
ガルムは何も言わなかった。
ただ、少しだけ肩の力が抜けたように見えた。
『女将、昔から見てたのか』
『マルタさん、実質古参』
『神貨拒否、かっこいいな』
アルトはマルタを見る。
神々の投げ銭で世界が動く場所で、神貨を受け取らない店。
変な女将だ。
けれど、少しだけ信用できる気がした。
こうして、アルトたちは歓声に追われるように赤猫亭へ入った。
◇
赤猫亭の中は、暖かかった。
木の床。
丸いテーブル。
壁に吊るされたランプ。
焼いた肉と香草の匂い。
外の騒がしさとは違う、人の暮らしの音があった。
それでも、視線が消えたわけではなかった。
店内の客たちは、表立って騒ぎはしない。
だが、完全に見ていないわけでもない。
酒杯を傾けるふりをしながら、ちらりとこちらを見る男。
スープを飲む手を止めて、ミナを確認する女。
隣の席で小声に落ちる会話。
「本当に第二層から……」
「生きて戻ったんだな」
「ガルムもいるぞ」
外より静かだった。
けれど、視線が薄くなっただけだ。
消えてはいない。
アルトは水を飲みながら、小さく息を吐いた。
「……どこ行っても見られるな」
『人気者だからな』
『観測社会へようこそ』
『休息中も配信中』
「休ませろ」
その時、マルタの声が店内に響いた。
「見るなら飯も頼みな! うちは見物料じゃなく飯代で回ってんだよ!」
客たちが慌てて注文を始める。
『強い』
『視線を売上に変えた』
『マルタ女将、商業神より商売上手』
「本人の前で言ったら怒られそうだな」
アルトは椅子に座った瞬間、魂が抜けたような顔になる。
「……椅子ってすごいな」
『椅子で感動する男』
『第二層では座れなかったからな』
『新人、文明に帰還』
「これが本当の帰還だわ」
そう言った瞬間、自分で少し引っかかった。
帰還。
言葉が妙に重い。
アルトはそれを誤魔化すように、水を飲んだ。
ミナは向かいに座り、きょろきょろと店内を見ている。
「赤猫亭、初めてです……」
「有名なのか?」
「はい。配信者さんたちの間では、よく名前が出ます」
ガルムがぼそりと言う。
「飯がうまい。あと女将が怖い」
「聞こえてるよ」
厨房からマルタの声が飛ぶ。
ガルムが黙った。
『ガルムが黙った』
『女将、強い』
『ランキング何位?』
「女将を配信者扱いするな」
その時。
テーブルいっぱいに料理が並べられた。
焼きたての肉。
豆のスープ。
黒パン。
香草をまぶした魚。
山盛りの芋。
湯気。
匂い。
圧倒的な飯。
「…………」
アルトは無言で固まった。
『お?』
『泣く?』
『新人、泣くか?』
「泣かねぇよ」
そう言いながら、アルトは肉を一切れ口に入れた。
噛む。
肉汁。
塩。
香草。
熱。
「…………」
アルトは目を閉じた。
「……うま」
その一言だけだった。
だが、コメント欄が爆発した。
『食レポ短っ』
『でも伝わる』
『いい顔した』
『切り抜き決定』
【神界クリップ急上昇】
《第二層主撃破者、肉で陥落》
「やめろぉぉぉ!!」
ミナはスープを飲んで、小さく息を吐いた。
「おいしい……」
『ミナちゃん癒し』
『スープの宣伝来るぞ』
『守りたい食事風景』
ガルムは黒パンをかじりながら、気まずそうにしていた。
アルトはそれを見て、眉をひそめる。
「食えよ」
「食ってる」
「葬式みたいな顔で?」
「……癖だ」
「嫌な癖だな」
ガルムは黙ってスープを飲んだ。
そして、小さく呟く。
「久しぶりだ」
「あ?」
「誰かと飯を食うのが」
少しだけ、空気が止まる。
ガルムは苦笑した。
「ランキングが落ち始めてから、周りにいた奴が少しずつ消えた。スポンサー神も、仲間も、客もな」
ミナが目を伏せる。
アルトは黙って聞いた。
「俺は見られたかったんじゃない。見捨てられたくなかっただけだ」
さっき広場で聞いた時には、まだ硬く尖っていた言葉だった。
けれど今は、少しだけ違って聞こえた。
ガルムはアルトを見る。
「だから、お前が言ったことが刺さった」
「何を言ったっけ」
「嫌がってる奴を巻き込むな、だ」
「ああ」
「正論すぎてムカついた」
「謝罪中にムカつくな」
『ガルム、素直じゃない』
『こじらせ配信者』
『でも嫌いじゃない』
ガルムはコメント欄が見えない。
だから、アルトだけが少し笑った。
ガルムは怪訝な顔をする。
「何笑ってる」
「いや。お前、意外と人気戻るかもな」
「馬鹿にしてるのか」
「してない。たぶん」
「たぶんって何だ」
そこで、ミナが小さく口を開いた。
「あの……ガルムさん」
ガルムの肩がわずかに強張る。
ミナは少し震えながら、それでも顔を上げた。
「私、まだ怖いです」
「……ああ」
「ガルムさんのことも、全部許せたわけじゃないです」
「分かってる」
「でも」
ミナはスープの器を両手で包みながら言った。
「謝ってくれたことは、ちゃんと受け取りたいです」
ガルムは目を見開いた。
「……すまなかった」
二度目の謝罪。
今度は、広場でのものよりずっと小さかった。
だが、たぶん本物だった。
ミナは小さく頷く。
「はい」
アルトは黙って肉を噛んだ。
『いい空気』
『飯なのに沁みる』
『ガルム、再起あるな』
そこへ、銀色のコメントが流れる。
『肉、おいしそう』
アルトは空を見た。
「お前、神様だろ。飯食うのか?」
『食べます』
「食うんだ」
『味の概念はあります』
「面倒くさい言い方するな」
『その肉、もう少し塩があっても良いと思います』
「食レポし始めた!?」
『あとスープは香草の使い方が良いです』
「見てるだけでよくそこまで言えるな!」
厨房からマルタの声が飛ぶ。
「神様に味を褒められるなら悪くないね!」
「聞こえてるんですか!?」
「あんたが全部声に出してるんだよ!」
『草』
『リアルコメント読み上げ男』
『声に出すから全部バレる』
『神界向きなのか向いてないのか分からん』
「俺は配信者じゃねぇ!」
店内の客たちが笑う。
ミナも笑った。
ガルムも、ほんの少しだけ口元を緩めた。
アルトは肉を口に運びながら、ふと妙な感覚になった。
うるさい。
騒がしい。
視線はある。
コメントもある。
でも、今は嫌なだけじゃない。
誰かと飯を食っている。
誰かが笑っている。
それだけのことが、妙に身体の奥に染みた。
地球では、いつも一人だった。
コンビニ飯を車の中で食べた。
味なんて覚えていない。
腹に入ればいいと思っていた。
今は、肉がうまい。
スープが温かい。
ミナが隣で笑っている。
ガルムが気まずそうにパンをかじっている。
マルタが厨房で客を怒鳴っている。
ルナがなぜか食レポしている。
コメント欄がうるさい。
めんどくさい。
本当にめんどくさい。
でも。
「……悪くねぇな」
アルトは小さく呟いた。
『え』
『今なんて?』
『もう一回』
「二度と言わねぇ」
『照れてる』
『新人がデレた』
『切り抜け』
「切り抜くな!」
その直後、視界に新しい通知が出た。
【神界配信タグ更新】
《奈落新人》
《第二層主撃破者》
《ランキング42位》
《食事配信適性あり》
「最後いらねぇぇぇぇ!!」
店中がまた笑った。
◇
飯の後。
アルトは風呂に入った。
正確には、赤猫亭の裏手にある小さな湯場だった。
石造りの浴槽。
湯気。
湯。
それだけで、アルトはしばらく動けなかった。
「……文明」
『風呂配信?』
『入浴シーン?』
『センシティブ判定か?』
「見るな!!」
【神界配信UI:入浴保護モードに切り替わります】
「あるんだ!?」
『昔いろいろあった』
『神界コンプラ』
『ルナ様が荒れるからな』
『荒れません!!』
「嘘つけ!」
画面が薄く曇る。
コメント欄も一部制限された。
アルトは肩まで湯に浸かる。
「……はぁ」
息が漏れた。
身体の奥に溜まっていた痛みと疲れが、少しずつ溶けていく。
傷はまだ痛い。
だが、温かい。
生きている。
その実感がある。
湯気の向こうで、アルトはぼんやりと天井を見る。
ランキング42位。
帰還圏内。
赤猫亭の飯。
ミナ。
ガルム。
マルタ。
ルナ。
帰りたい。
それは本当だ。
でも、今日の飯を「悪くない」と思ったのも本当だった。
「……面倒くせぇ」
湯に沈みながら呟く。
その時、銀色のコメントが一つだけ流れた。
『怪我、痛む?』
「まあな」
『ごめん』
「なんでお前が謝るんだよ」
少し沈黙。
ルナのコメントが流れる。
『もっと、うまく助けられたらよかった』
アルトは目を閉じた。
「助かったよ」
『でも』
「助かった」
短く言う。
それ以上、何も言わせないように。
しばらくコメントは流れなかった。
やがて。
『……うん』
それだけ返ってきた。
いつもの『違います!!』もない。
茶化しもない。
アルトは湯気の向こうを見た。
「ルナ」
『なに』
「帰還のこと、いつか話せ」
銀色のコメントが止まる。
長い沈黙。
湯の音だけが聞こえる。
『……いつか』
「ああ」
『でも、今は』
「休め、だろ」
『うん』
アルトは小さく笑った。
「分かったよ」
湯に沈む。
目を閉じる。
眠気が来た。
久しぶりに、まともに眠れるかもしれない。
その直前。
黒いコメントが一瞬だけ流れた気がした。
【休息もまた、物語です】
アルトは目を開けた。
だが、もうコメントは消えていた。
「……見てんじゃねぇよ」
小さく呟いた。
返事はなかった。
◇
その夜。
赤猫亭の二階。
小さな客室で、アルトは布団に倒れ込んだ。
布団。
清潔な布。
柔らかい枕。
それだけで泣きそうになる。
「……勝ったな」
『何に?』
『第二層主より布団?』
『布団ランキング1位』
「今なら布団に投げ銭する」
『疲れすぎだろ』
ミナは隣室。
ガルムはなぜか一階の隅で寝るらしい。
「部屋あるのに」と言ったら、「落ち着かない」と返された。
面倒な男だった。
だが、少しだけ分かる気もした。
アルトは横になったまま、視界の端に浮かぶランキング表示を見る。
【神界ランキング】
《アルト:42位》
帰還圏内。
それはまだ変わらない。
嬉しいはずだった。
目標に近づいたはずだった。
けれど、胸の奥の冷たさもまだ消えていない。
帰れるのか。
本当に。
帰った先は、どこなのか。
観測の終着点とは何なのか。
考えようとして、眠気に負けた。
意識が落ちる直前。
コメント欄が静かに暗くなる。
最後に、銀色の文字が一つだけ流れた。
『おやすみ、アルト』
アルトは半分眠りながら、ぼそりと返した。
「……おやすみ、ルナ」
コメント欄が一瞬だけ震えた気がした。
だが、アルトはもう眠っていた。
だから知らない。
神界の片隅で、月の女神がその一言を何度も見返していたことを。
そして。
白い仮面の神が、静かにその様子を観測していたことを。




