第18話 祝福の声が、冷たかった
勝った。
たぶん。
アルトは赤黒い地面に仰向けになったまま、ぼんやりと天井を見上げていた。
第二層の空は、相変わらず気味が悪い。
赤く濁っていて、血を薄めたみたいな色をしている。
その空に、神界のコメント欄が流れていた。
『うおおおおおおお!!』
『第二層主撃破!!』
『新人、マジでやった!!』
『ミナちゃんも生きてる!!』
『群星加護やばかった』
『これは歴史に残る』
「……声でけぇ……」
アルトは小さく呻いた。
全身が痛い。
肩も痛い。
脇腹も痛い。
拳も痛い。
痛くない場所を探す方が難しかった。
横では、ミナが泣きながら回復魔法をかけている。
「動かないでください……!」
「動けねぇんだよ……」
『草』
『瀕死ツッコミ』
『安心したわ』
「安心する要素あるか?」
アルトが言うと、ミナが涙目で睨んできた。
「あります! 生きてます!」
「……それは、まあ」
アルトは息を吐いた。
生きている。
本当に。
あの化け物を倒して、まだ息をしている。
それだけで奇跡みたいだった。
【奈落三頭獣バルゴラ 討伐成功】
【第二層主撃破】
【特別配信:第一条件達成】
【神界ランキング更新】
《アルト》
《圏外 → 42位》
その表示を見て、ミナの顔がぱっと明るくなった。
「四十二位……!」
「ああ」
「すごいです、アルトさん! 帰還圏内ですよ!」
帰還圏内。
その言葉が、胸に落ちた。
普通なら、喜ぶべきだった。
あれだけ帰りたかった。
帰るためにランキングを上げると決めた。
そのために、死にかけながら戦った。
だから四十二位は、明らかに大きな前進だった。
なのに。
なぜか、胸の奥が冷えていた。
【おめでとうございます】
【帰還に一歩、近づきましたね】
オルフェウスの言葉が、まだ耳の奥に残っている。
祝福の言葉のはずだった。
なのに、あの仮面の神がそう言った瞬間、アルトは嫌なものを感じた。
まるで。
罠に近づいた獲物を眺める声だった。
「……なあ」
アルトは、ぼそりと呟いた。
『ん?』
『どうした新人』
『余韻タイムか?』
コメント欄が反応する。
アルトは少し黙ってから、空を見た。
「帰還って、本当にできるのか?」
その瞬間。
コメント欄の流れが、少しだけ鈍った。
『え』
『制度上は』
『ランキング百位以内で帰還権』
『そう聞いてる』
「“聞いてる”?」
『実際見たことはない』
『帰った配信者は配信終了するからな』
『だから確認しようがない』
アルトの眉が動く。
やっぱりだ。
どこかおかしい。
ミナが不安そうにアルトを見る。
「アルトさん……?」
「いや」
アルトは首を振った。
「なんでもない」
なんでもないわけがなかった。
でも、今ここで考えても答えは出ない。
そう思った時。
銀色のコメントが、そっと流れた。
『今は、休んで』
ルナだった。
いつもなら、もっと騒ぐ。
名前で呼ばれたことをまた蒸し返すか、勝手に心配して投げ銭するか、コメント欄と喧嘩するか。
なのに、今はそれだけだった。
アルトは空を見上げた。
「ルナ」
『……なに』
「帰還って、本当に――」
そこまで言いかけた瞬間。
ルナのコメントが止まった。
長い沈黙。
それが、何よりの答えに思えた。
『今は、休んで』
二度目。
同じ言葉。
アルトは目を細める。
「……お前、何か知ってるな」
コメント欄がざわつく。
『え』
『ルナ様?』
『帰還の話?』
『何かあるのか?』
だが、ルナは答えなかった。
代わりに、黒いコメントが流れる。
【帰還とは、観測の終着点です】
オルフェウス。
一行だけ。
それ以上は何も言わない。
「……意味分かんねぇこと言ってんじゃねぇよ」
【いずれ分かります】
「そういう台詞、だいたい嫌なことの前振りなんだよ」
『それはそう』
『新人、物語慣れしてるな』
『でも嫌な予感する』
「お前らも分かってんじゃねぇか」
アルトは大きく息を吐いた。
身体を起こそうとして、脇腹の痛みに顔を歪める。
「ぐっ……!」
「動かないでくださいって言いました!」
ミナが慌てて肩を押さえる。
「はい……」
『素直』
『ミナちゃんに怒られる新人』
『これは良いパーティ』
「良くねぇ。めちゃくちゃ痛ぇ」
ミナは泣きそうな顔で、それでも真剣に魔法をかけ続けている。
「《ヒール》……《ヒール》……」
「ミナ、無理するな」
「無理します」
「いや、そこは聞けよ」
「今は聞きません」
ミナはきっぱり言った。
アルトは少し驚いて、彼女を見る。
さっきまで震えていた少女が、今は泣きながらも手を止めない。
弱い。
怖がり。
でも、逃げない。
「……強くなったな」
アルトが言うと、ミナは耳まで赤くなった。
「な、なってません」
「なっただろ」
「なってません。今も怖いですし、足も震えてますし、正直もう帰りたいです」
「それは俺もだ」
『似た者同士』
『弱音コンビ』
『でも勝ったんだよな』
ミナは少しだけ笑った。
「でも……アルトさんが頼んでくれたので」
「頼んだ?」
「俺を助けてくれ、って」
アルトは少し気まずくなった。
「……あれは、その、必死だったからな」
「はい」
ミナは頷く。
「だから、嬉しかったです」
アルトは黙った。
妙な沈黙。
コメント欄も、なぜか静かになる。
『あ』
『空気』
『ルナ様見てる?』
『見ています』
「即答すんな!」
いつもの調子が少しだけ戻って、アルトは苦笑した。
だが、その笑いは長く続かなかった。
【特別配信:帰還処理を開始します】
「帰還処理?」
『あ』
『街に戻るやつ』
『第二層からの帰還転送だな』
「最初からやってくれよ、それ……」
【帰還地点:奈落都市エルデン】
【転送まで:00:03:00】
表示が浮かぶ。
どうやら本当に街へ戻れるらしい。
アルトは地面に座り込んだまま、ぼんやりと空を見上げた。
帰れる。
街に。
そして、いつか地球に。
そう考えた瞬間、胸の奥にまた冷たいものが走った。
帰れるはずなのに。
近づいたはずなのに。
なぜ、こんなに引っかかるのか。
「……地球、か」
口から勝手に漏れた。
コンビニの駐車場。
冷えた缶コーヒー。
深夜の道路。
眠気で霞んだ信号。
鳴り続ける仕事の通知。
誰にも見られず、誰にも心配されず、ただ消耗していた日々。
戻りたい。
そう思っていた。
今でも思っている。
でも。
ミナが隣にいる。
空の向こうには、うるさい女神がいる。
さっき、小さな神貨を投げてくれた名も知らない神々がいる。
見られている。
うるさいほどに。
鬱陶しいほどに。
けれど、誰かが確かに見ていた。
「……めんどくせぇな」
アルトは呟いた。
ミナが首を傾げる。
「何がですか?」
「色々」
『雑』
『説明しろ新人』
『感情回の顔してるぞ』
「顔で判断すんな」
その時。
通知が流れた。
【神界クリップ急上昇】
1位
《見てるだけなら、観客だ。でも賭けるなら、共犯だろ!!》
2位
《私は、この人を死なせません》
3位
《これが俺の人生だ》
アルトは顔を覆った。
「やめろぉぉぉ……」
『名場面集』
『もう神界中に回ってる』
『新人、完全に見つかったな』
「見つかりたくなかった……!」
ミナも真っ赤になっていた。
「わ、私のもあるんですか!?」
『ミナちゃん、今ファン急増中』
『守りたい支援職』
『泣きながら覚醒する子は強い』
「ひぃ……」
ミナが杖で顔を隠す。
アルトは思わず笑った。
「見られるの、まだ怖いか?」
ミナは少し考えた。
そして、小さく頷く。
「怖いです」
「そっか」
「でも……」
ミナは顔を上げる。
「前よりは、少しだけ」
照れたように笑う。
「嫌じゃないです」
アルトは少しだけ目を細めた。
「なら、良かった」
その瞬間。
【転送まで:00:00:10】
カウントが始まる。
コメント欄がまた騒がしくなる。
『帰還だ』
『街戻りきた』
『新人、休め』
『ミナちゃんも休め』
『ガルムどうしてるかな』
「ガルム?」
アルトは眉をひそめた。
そういえば、あいつのこともあった。
DMが来ていた。
ムカつくけど、少しだけ分かった気がする、と。
あれからどうなったのか。
『あいつ今たぶん街で見てる』
『炎上中だけどな』
『戻ったら絡まれるぞ』
「絡まれる前提やめろ」
【転送開始】
視界が白く染まった。
身体が浮く。
第二層の赤い空が遠ざかる。
最後に、黒いコメントが一つだけ流れた。
【おかえりなさい】
その言葉も。
なぜか、少しだけ冷たかった。
◇
次に足が地面へ触れた時。
そこは奈落都市エルデンの中央広場だった。
夜の街。
石造りの建物。
空中に浮かぶ巨大スクリーン。
そして。
人、人、人。
「…………」
アルトは硬直した。
広場を埋め尽くすほどの人々が、こちらを見ていた。
「え」
次の瞬間。
歓声が爆発した。
「奈落新人だ!!」
「帰ってきたぞ!!」
「第二層主を倒したって本当か!?」
「ミナちゃんもいる!」
「すげぇ、本物だ!」
「うるっっっさ!?」
『現地民にもバズってる』
『凱旋配信』
『新人、街デビュー』
「聞いてない!!」
巨大スクリーンには、アルトとミナの姿が映っていた。
【神界特別配信】
【第二層主撃破者、帰還】
その下に。
【神界ランキング42位】
アルトは顔を引きつらせる。
「これ、晒し者じゃねぇか」
『今さら』
『ずっとそう』
『でも今日は英雄扱い』
「英雄って顔してねぇだろ俺!」
ミナは隣で真っ赤になりながら、ぺこぺこと頭を下げていた。
「ど、どうも……」
『ミナちゃんかわいい』
『現地人気出るぞ』
『ルナ様、曇る?』
『曇りません!!』
「通常運転に戻ったな」
アルトが呟いた、その時。
群衆の奥から、一人の男が歩いてきた。
銀色の髪を後ろで束ねた、鋭い目の男。
見覚えがある。
疾風のガルム。
前より少し顔色が悪い。
だが、その目は逃げていなかった。
周囲がざわつく。
「ガルムだ……」
「炎上してたやつ」
「来たのかよ」
ガルムはアルトの前で立ち止まった。
しばらく黙っていた。
アルトも黙る。
コメント欄だけが騒がしい。
『来た』
『ガルム再登場』
『殴る?』
『謝る?』
『どっちだ』
ガルムは拳を握った。
そして。
深く頭を下げた。
「……悪かった」
広場が静まり返る。
アルトは目を瞬かせた。
「……え?」
「お前にも、その子にも」
ガルムはミナを見る。
「俺は、数字しか見えてなかった」
ミナが少しだけ身を固くする。
ガルムは続けた。
「でも、さっきの配信を見て分かった」
悔しそうに。
それでも、絞り出すように言う。
「俺は、見られたかったんじゃない」
その声は小さかった。
「誰かに、見捨てられたくなかっただけだ」
アルトは何も言わなかった。
ガルムは顔を上げる。
「お前が気に入らねぇのは変わらない」
「そこは変わらないのかよ」
「でも」
ガルムはまっすぐアルトを見た。
「少しだけ、組まないか」
広場がざわめく。
コメント欄も爆発した。
『うおおお!?』
『ライバル加入!?』
『ガルム、マジか』
『これは熱い』
アルトはしばらくガルムを見た。
それから、疲れ切った顔で言った。
「今言うことか?」
「今じゃなきゃ言えねぇ」
「俺、脇腹裂けてんだけど」
「……それはすまん」
『草』
『タイミング最悪』
『でも嫌いじゃない』
アルトはため息をついた。
「保留」
「は?」
「保留だ。まず飯。風呂。布団。それから考える」
ガルムが呆れたように目を細める。
「お前、本当に締まらねぇな」
「締まる余裕があるように見えるか?」
「見えねぇ」
「なら黙れ」
ミナが小さく笑った。
ガルムも、ほんの少しだけ口元を緩めた。
その瞬間。
空にまた通知が浮かぶ。
【特別配信:一時終了】
【次回配信条件を調整中】
「次回いらねぇぇぇぇ!!」
広場にアルトの叫びが響く。
人々が笑う。
コメント欄も笑う。
ルナも、たぶん笑っている。
けれど。
アルトの胸の奥には、まだ冷たいものが残っていた。
四十二位。
帰還圏内。
祝福。
おかえりなさい。
その全部が、どこか薄い氷の上に乗っているように感じた。
アルトは空を見上げる。
巨大スクリーンの向こう。
神界のどこかで、あの仮面の神が見ている。
そんな気がした。
「……帰還、ね」
小さく呟く。
その言葉は、歓声に紛れて誰にも届かなかった。
ただ一柱。
銀色の女神だけが、何も言わずにその呟きを見ていた。




